「なんで……俺……忘れて……」
俺は首を振ってエスを見上げた。
『エス』はバルドだった。
からかうようにそのミドルネームを呼ぶのは俺だけの特権だった。
何度も忘れ、探し、思い出してはまた忘れるその名前。

日記に書いたあの気持ちを思い出す。
それは今朝俺がバルドの事を書かなかったのと同じ理由だった。
エスが誰だか探り、バルドだと知る自分を想像した過去の俺は、その痕跡を消そうとした。
もし知ってしまえばバルドを――エスを悲しませる。
俺が自分の気持ちに気がつくまで、エスはいい友人、護衛として接しなければならない。
恋人という記憶を忘れた俺がそれほどエスを愛していると知ってしまったら、
名乗り出られないエスの辛さは倍になる。

だから俺は『大嫌い』と書いた。
それでも新しい記憶でまたエスを愛し、別れの辛さに『死んだ』と書いた。
――もう『エス』を探さないように。

それでも、俺は……

震える息を吐くと、きらきらとした記憶の光と共に『亀裂』に吸い込まれていった。
俺はもう知っていた。
『亀裂』が塞がる時が近いのだと。
「エス……」
俺は泣き笑いのような表情になった。
体から光の膜が剥がれ、どんどん『亀裂』に流れていく。

エスもその時が来たのに気付いていた。
見守る兵士の中、護衛の顔を崩さないよう静かに悲しい目で笑っていた。
「くそ……思い出したのに……」
光はどんどん亀裂へ流れていく。
――怖い。
『亀裂』を塞ぐと決心したばかりなのに、全てを思い出してしまった今エスを失うのが怖い。


「エス……」
音を立ててまた消えていくいくつもの記憶に抗うように俺は腕に爪を立てた。
今やっと腕の傷口が新しかった訳を知る。
あの時の俺もこうして名前の上を引っかいた。
――忘れたくない『エス』の名前を未来の自分に伝えたい。

「エス……」
飛びそうな記憶を抑えようと自分の体を抱きしめた。
エスは大きく頷いた。
「待ってます……僕が覚えています、全部……」
エスは想いが通じ全てを思い出すこの一瞬の為に、また俺を覚えていると誓った。

俺は安心して震える息を吐く。
言わないと決めていた言葉を、エスに託してもいいと思った。
俺の甘えになると思っていたが、きっとその言葉はエスの支えになる。

俺は顔を上げた。
もう、記憶の殆どは『亀裂』に吸い込まれた。
俺たちの幸せな記憶は、大きかった『亀裂』を徐々に狭めていく。
自分の名前さえ思い出せない。
ここがどこなのか、何のためにいるのか、頭の中が真っ白になっていく。

目の前にいる男、さっきまで覚えていたはずなのにもう名前が出てこない。
大切なはずなのに誰だかわからない。
俺はその悲しげに笑う瞳に、最後まで手放さなかった言葉を投げた。
俺の最後の記憶。最後の願い。――最後の、希望。

「俺を……忘れないでくれ……」






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






――ああ、またやっちまったんだ……――


何を「やっちまった」のかはわからない。
俺は呆けたように地面に座り込む。
深い喪失感。
だが、何を失ったのかははっきり思い出せない。

なぜか涙を流し、震えている自分の腕を抱きしめる。
痛みを感じふと血の流れている左腕に気がつく。

『エス』

その言葉はなぜか俺の心を締め付けた。
……これが俺の名前なんだろうか。

「大丈夫ですか? 」
優しい声と共に俺に腕が伸ばされる。
鎧を身に付け、武器を下げた男がそこにいた。

「あんたは誰だ? 」
俺は聞いた。
見知らぬ男だったが、悪い人間ではなさそうだ、と本能的に感じる。
男は少し悲しげな目で笑い口を開いた。


「……僕はバルドです。あなたの護衛をやってるんです、フェン」


end

 

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