俺達はまだ太陽が昇りきる前に村を後にした。
『亀裂』の場所は山の深い所で、そこまでたどり着くのに時間がかかるらしい。
迎えに来た兵士の話では、この『亀裂』の規模は大きいようだった。
あのクモのような怪物はその『亀裂』からこの世界へ侵食し続けている。
俺をそこへ届けるだけの安全確保もなかなかできないらしい。

「申し訳ありませんが、今回は強行突破です」
兵士は厳しい顔で言った。
「あなたは我々が守ります、ご安心ください」
その言葉に俺はぼんやりと頷いた。
狭い馬車の中で行われたブリーフィングは俺に向けてのものとは言えなかった。
俺を囲んで一個小隊が動くようだが、結局俺は何もする事がないらしい。
そんな軍事作戦に参加した記憶もない俺には、どこか現実味が感じられない。

「もうすぐ着きますが……大丈夫ですか」
気の抜けたような俺の様子を心配したのかリーダーらしき年嵩の兵士が声をかけた。
俺は無言で頷いた。
村の誰にも別れの挨拶はしてこなかった。
俺はまたあの家へ戻ってくる。これが別れだなんて考えたくない。
思ったより心の中は静かだった。
隣に座っているバルドの表情もいつもと変わらなかった。
あの苦しげで刹那的な熱情が夢のようにも思える。

視線に気付いたのかバルドが俺に目を向けた。
何も言わずバルドは微かに笑った。
もうバルドも覚悟しているんだろう――また記憶を失くした俺との一からの生活を。
体を繋いだあの時間を覚え、好きだと告げた俺の声を覚え、全て俺に忘れられる。
この残酷なループ。
俺にできたのは溢れる愛おしさを何も書かず日記をしまい込むことだけだった。
どうか、せめてバルドに感じた直感的な好意だけは消えないで欲しい。
それができないのなら、バルドが俺を見捨てるぐらいまで堕ちてしまいたかった。


「着きました……ここからは徒歩で登ります」
兵士の声に俺は馬車が止まったのに気付いた。
降りた先には既に戦闘の痕の残る武具を身につけた兵士が三十人ほど集まっていた。
これだけの人数が俺一人を守るために集まっていると思うと身震いがした。
俺一人の感傷に浸っていられる余裕はなさそうだった。
今から俺が向かうのは戦場。
両親や城下街、そしてあの村のみんなを守る戦いだった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「下がって! 」
兵士の声に俺は身を硬くする。
腕を引かれ地面に押し付けられ、樹上から飛び掛ってきた化け物の一撃をなんとか避ける。
すぐに近くにいた数人が巨大なクモのような生き物へ刃を向けた。
「進んでください! 」
引き起こされたと思ったらまた別の兵士に押され俺はバルドについて山を登る。
「――大丈夫ですか? 」
バルドが周囲を警戒しながら振り返った。
抜き身の剣を持っているがバルドはずっと俺の側から離れなかった。

「ああ」
俺は答えて木々の中で散発的に続く戦闘に目を向けた。
クモのような化け物は敏捷で、地を行くしかない兵士に対し木々の上から身軽に降りてくる。
外骨格を持つこの化け物に攻撃はなかなか通らず、その硬い脚の先は槍のように尖りバラバラに動き続ける。
戦闘は凄まじかった。
兵士達は化け物を食い止め、俺を『亀裂』へ届ける為に身も竦むような醜悪な化け物の前に立ちふさがる。
明らかに死んでいる兵士の姿も何人か見かけた。
それでも俺を囲み兵士達は前進し続ける。

俺だけが辛い役目を背負わされていたと思っていた自分が恥ずかしくなる。
誰もが大事な何かを守るため必死に戦っている。
「――あの先です!見えますか?」
先頭を行く兵士が大きなコブのような斜面の下を指差す。
その声に俺はその兵士に並び尾根の間の谷間のような場所を見下ろした。


紫。
ピンク。
ライムグリーン。

「な……」
俺がそこに見たのは湯を張った鍋に落としたバターのような極彩色の皮膜だった。
それはこの季節にいやというほど見たウスバカゲロウにも似ている。
薄く透けた膜は教会のステンドグラスのような巨大なものから
貯水樽に張った氷のような大きさまでさまざまだった。
「見えるんですね? 」
バルドが確認する。
俺は声も出せずに頷き、その不思議な光景に吸い寄せられるように進み始めた。

その薄い膜のような光が『壁』の残骸だった。
光にその『壁』は透け、触ったら崩れそうなほど薄く脆く見える。
だがそこで戦う化け物と兵士がもつれたまま転がってもその壁をすり抜ける。
視線の小さな揺らぎにも色を変えるその『壁』は谷の中心に向かって数が飛躍的に増える。
「なんなんだ……これが『壁』……? 」
呆然と進む俺を囲んで兵士の輪が動く。
「ええ、そうです」
バルドは答え、また俺の前に立った。
「見えるのは『オブリビオン』だけです。僕達に見えるのは……」
バルドは谷の中央を指差した。


そこにあったのは『亀裂』だった。

『亀裂』としか言いようがない。
極彩色の薄い『壁』が巨大な割れたガラスのように広がる中心にぽっかり開いた大きな穴。
何もない空間に俺の背の高さほどの真っ黒な穴が開いている。
そこから赤い目が覗き、また一匹ぞろりとクモの化け物が這い出した。
すぐに待ちかねていた兵士がそれを攻撃する。
「なんとか、『亀裂』を抑えることはできているようです」
バルドの言葉に俺は頷いた。
この『亀裂』までたどり着いた兵士たちはこれ以上の化け物の増殖を食い止めていた。
後はすでに這い出した化け物を倒し、この『亀裂』を防げば危機は去る。
「あれを……塞ぐんだな」
俺は呟いて歩き出した。どうやれば塞げるのかはわからない。
ただ、命を懸けて大事な物を守ろうとする兵士達を見ると動かずに入られない。


一歩踏み出すと、沈み込んだ草の間から細かい光の粒子が飛ぶ。
それは『壁』の欠片だった。
「わ……」
驚いて出した左足が少し大きな破片を踏み割る。


よく焼けた大きなケーキ。
レンゲの匂いのする蜂蜜。
抱きしめてくれるママ。
大好き。
大好き。


――突然脳裏に流れ込んで来た匂いと感触に俺は固まった。
一瞬の出来事だったが、それは白昼夢とは思えない圧倒的な現実感を持っていた。
ショックにぐらり、と揺れる体を支えきれず地面に手をつく。
その下にも、黄金色の麦穂のような小さな破片。
割れた破片がちくりと手のひらを刺し、痛みの代わりに震えるような想いに包まれる。


腕に抱いた甘い匂いのする生き物。
真っ赤で、温かくて、火のついたように泣き叫ぶ小さな命。
愛しい、愛しい、愛しい……
絶対におれはこの瞬間を忘れない。


「あ……ああ……」
俺は口元を押さえてへたりこんだ。
――俺の中に今ベオリーがいた。
これはベオリーの記憶、最初の子供を初めて抱いた瞬間の記憶だった。
妻を愛し、難産に祈り続け、『オブリビオン』という仕事を恐れながら掴んだ幸福な記憶。
失ったベオリーの記憶の一部に俺は触れたのだ。


「大丈夫ですか、フェン! 」
慌てて駆け寄ったバルドに助け起こされ俺は頷いた。
「バル……これ、この『壁』……」
バルドは何も言わなかった。

――この『壁』は『オブリビオン』の記憶で作られている……――

バルドや他の兵士達に言ってもきっとこの感覚はわからない。
俺は恐る恐る次の一歩を踏み出す。

大好物の温かいシチュー

―― 一歩。

ユリの花束を持ってプロポーズした瞬間

――もう一歩。

弟と手のひらを真っ赤にしながら作った大きな雪だるま

――さらに一歩。

届かないと思っていた相手と背中合わせに戦えるようになった自分の成長

それは全て幸せな記憶だった。
俺の前にこれを作った誰かの、失くしたくないと祈った大事な思い出。

「これ……ずりぃよ……」
俺は小さく首を振って歩き続けた。
足の踏み場もないくらい散らばった破片に、拒むことすらできずに記憶を流され続ける。
俺はその度に見知らぬ男になり、子供になり、甘い幸せな記憶を味わう。
その記憶を投げ出して作った『壁』。
幸せな記憶を感じながら、絶対に失敗できないと追い込まれる。
この想いを裏切ることはできない。
この想いを捨ててまで守りたかった世界を俺も守らないわけにはいかなかった。

「――行きましょう、フェン」
バルドが小さな声で言った。
俺はその背中だけを見て、記憶の海の中を歩き続ける。


「フェン、お酒は飲んじゃダメよ」
アイナが姉ぶって指を立てる。
「誰に似たんだか、酒が飲めないとはな」
笑うのは父。
「……休みには必ず戻ってらっしゃい?キドニーパイ作っておくから」
いつまでも握った手を離さないのは母。
「わかってるよ、城勤が終わったらファルシン勤務を願い出るから」
平静を装いつつ離れがたいのは他の誰でもない、俺。


踏み割った記憶に俺は一気に家族の記憶を取り戻す。
今になってあのぎこちない会食をしたみんなの気持ちが痛いくらいにわかる。
父は、母は、姉は想像していた以上に俺の事を想っていてくれた。
今すぐ帰って思い出したと伝えたい。愛してると、本当に愛してると。
――それでも俺は歩き続けた。
もう少しであの『亀裂』に辿りつく。あれを封じ、俺は家族と見知らぬ誰かの愛しい者を守る。


『亀裂』の側には『壁』の大きな破片が散乱していた。
俺は歩き続け、見知らぬ誰かの記憶を受け取る。
徐々に体が熱くなってきた。
気がつけば俺の体はあの『壁』の破片のように淡く光り始めている。
その光は周囲の破片や粒子を巻き込み、俺に記憶を流し込み続けた。
兵士やバルドにはこの光は見えないのだろう。
俺はパンクしそうな記憶の波にもまれ、幸福感と恐怖を味わう。
幸せで、怖くて、思わずバルドの名を呼ぶ。

「バルド……」
『亀裂』からまた現れた化け物に、バルドは俺の声に気がつかないようだった。
踏み出してまた記憶の欠片を踏む。


雪を被った庭の木を見て、コブシがもう咲いたようだと笑う俺。
寒いからもう入れと言いながらオレンジ色のマグを差し出す手。
カモミールのお茶。
バルド。

――バルド。
俺の中で全ての記憶が甦った。

――バルド-クアンベリ

――バルド-エス-クアンベリ


「エス! 」

俺は叫んだ。
思わず振り返ったバルドは――『エス』は泣き出しそうな目で微笑んだ。
「思い出したんですね……」
エスは呟いた。

 

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