夕闇が迫る頃、軍のワゴンで運ばれていく異臭のする死骸を俺達は見送った。
昨日の晩に村を震撼させた化け物騒ぎはこれでやっとカタがついた。
ミトは相変わらず仲間達にこの異界の生物の恐ろしさを誇張しながら語り続け
まだ疲労の色の濃いマルゴとミトの父親は労うように仲間に代わる代わる肩を叩かれた。
何もできなかった俺はその様子をただ眺めているだけだった。
「これで終わるといいですね」
バルドの声に俺は小さく頷いた。
ワゴンとは逆に、昼前から水車小屋から続く山道には武装した一団がすでに向かっていた。
あの化け物が昔の戦闘の生き残りだったならこれで終わるはずだった。
これで新たな『亀裂』が見つかったら……考えるだけで何か塊を飲み込んだように胃が重くなる。
バルドはまだ前回の仕事から二ヶ月も経っていない俺に順番が回ってくるはずがないと言ったが
それでも楽観視することはできなかった。
「しばらくは畑に出るのも控えたほうがいいでしょう」
そう言ってバルドは俺の肩を押した。
散会し始めた村人に目で挨拶して、俺は素直に従い家へ入る。
夏の一番暑いこの時期は、外にいるより家の中の方が涼しかった。
オレンジに燃える夕日に焼けた目が室内に慣れるまで入り口に立ち尽くす。
入り口から続く大きな水瓶と竈のある土間は料理好きなバルドの台所。
一段高くなった板張りの床に置かれたテーブルは食事の場所であり、子供達の工作場所でもあり、
植物図鑑を読む俺の向かいでバルドが武具の手入れをする場所でもあった。
その奥に並んだ二つのドアは俺とバルドの私室。
たったそれだけの狭い家だが俺の全てだった。
「大丈夫ですか? 」
バルドは立ち止まった俺を心配そうに見た。
「ああ」
頷いてくすんだ緑色のクッションが置かれた椅子に座る。
バルドも指定席の俺の向かいに座り、黄色っぽい保革油を海綿に取った。
いつもの着古した作業用の服で、昨日汚れた革鎧の手入れの続きを黙々と続ける。
夜になるといつも武器や鎧の手入れをしていたが、バルドがそれを使う日が来るとは考えていなかった。
長閑なこの村はいつも平和で、俺とバルドはそこに住む村人と同じだけ日焼けをして同じように生きていく。
心のどこかでそんな日々がずっと続くと思っていた。
だがバルドは有事の際には矢面に立つ軍人で、俺はその日まで真綿で包まれ護られる
『オブリビオン』だった。
「マルゴ達も怪我なくて良かったよな」
ぼんやりとバルドのよく動く手を見ながら俺は呟いた。
「……マルゴさんは多分僕より全然強いです。行ったらビルフックで対峙してましたからね」
バルドは右手で内側に反った草刈り鎌のシルエットを示し肩を竦める。
「さすがだな」
俺もその様子を思い浮かべて口角が緩む。
あの丸太のような腕を考えると、自分より強いというバルドの言葉は謙遜ではないようだった。
「止め刺したのもマルゴさんですからねぇ」
蝋と羊の脂肪で作った保革油が摩擦とバルドの体温で徐々に溶け、独特の匂いが漂い始めた。
「あんたが行く必要なかったかもな」
「――まったくです」
バルドは俺の言葉に笑って同意した。
「じゃ、辞めちゃおうぜ」
冗談の続きに聞こえるように俺はさらりと言った。
「え? 」
バルドの手が止まる。
「もうさ、俺達ここで畑仕事するのが合ってるんじゃないかと思い始めたよ」
「フェン……」
「だってよ、あんたは腕に自信がねぇし、俺は野良仕事大好きだし……」
俺は笑いながら顔を上げた。バルドの目はもう笑っていなかった。
ここで引っ込むわけにもいかず、俺は話し続ける。
「土が強くなったし来年はきっと豆の総高も上がる。俺達なら倍の広さの畑でもやっていけるだろ? 」
他意がないというように穏やかに俺はバルドを見た。
バルドは俺の目を見、一瞬考えるように手元に目を戻す。
困らせる気はなかったが、俺の不用意な一言はバルドにも影を落としてしまった。
「……冗談だぜ? 」
笑い飛ばそうと思ったが乾いた声しか出なかった。
バルドはしばらく鎧に油を擦り込んでいたが、やがて顔を上げた。
「……あなたが望むなら」
バルドの目は悲しく、そして穏やかだった。
胸の奥がぐっと痛くなる。
バルドの言葉は実現できない絵空事だとわかっていても嬉しかった。
この時間を失うことがどれほど怖いか吐き出したくてたまらない。
だが、それを口に出すと抑えていた恐怖が止まらなくなりそうで声が出なかった。
ぎゅっと握り締めた拳をバルドが掴んだ。
「フェン、僕は……」
そこまで言ってバルドも言葉を失くす。
俺にはバルドの言いたいことはわかっていた。
――その言葉が本心だと。
その時戸口が乱暴に叩かれた。
バルドは弾かれたように俺の手を離し立ち上がった。
「――はい、なんでしょう? 」
問いかけながらドアを開く。
部屋の奥にいた俺にも暗闇に立つ男の姿はすぐにわかった。
軽装の鎧の上に翼を持つ蛇をかたどったサーコート。――伝令だ。
それがいいニュースではないことはすぐにわかる。
伝令の表情は硬かった。
「『亀裂』が発見されました」
その言葉で俺は全てを理解する。
バルドと伝令は何か言葉を交わしているが、俺の耳には入らなかった。
耳の奥でザーッと血が流れるような音がする。
一瞬目の前が暗くなり何も見えなくなる。
「バ……ルド……」
戸口が閉まる音を聞いた瞬間俺は護衛の名を呼んだ。
すぐにバルドの手が両肩を包んだが、俺の体は歯の根が合わないほど震えていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
温かいワインの湯気を吸い込み、俺は呆けたようにベッドに座っていた。
バルドは椅子に座り心配そうに俺を見ている。
温めてスパイスを効かせた甘いワインは俺の思考スピードを抑えている。
怖くて寒くて叫びだしたいが、すでに三杯目のホットワインが体をオナモミのように
ベッドに縛り付けていた。
死ぬわけじゃないし痛みもないと自分を鼓舞するが、上っ面を撫でるだけで
恐怖を鎮める事ができない。
「フェン……」
バルドの声にどろりと重い視線を向ける。
俺の護衛は伝令から渡された書簡を俺に見せ、後は多くを語らなかった。
『亀裂』を見付けたと伝えに来た伝令の目的は俺の予想通りだった。
そこから湧き出る化け物を制圧し、閉じる準備ができたら俺を召喚するという通達。
バルドの言葉によると恐らく明日の昼頃になるらしい。
なぜ俺が選ばれたのかは明記されていない。
『亀裂』の場所はこの村の裏にある山ではなくもっと城寄りのようだった。
両親の住むファルシンに程近いとは言え、別に俺ではなく城下に住んでいる『オブリビオン』の
力を借りればいいはずだった。
バルドは何も言わないが、そこには実験的な意味合いもあるのだろう。
――驚異的なスピードで立ち直った『オブリビオン』がどこまでやれるのか。
俺はワインを飲み干し、ほとんど勢いだけで立ち上がった。
ぐらりと揺れる体を慌ててバルドの手が支える。
「どこへ行くんですか……」
「……外だ」
短く言ってバルドにマグを押し付け歩き出す。
途中挽きたての麦粉の入った袋や椅子に躓いたがそんなものに注意は向かなかった。
ドアを開け、真っ暗な空にぼんやりとシルエットが浮かぶ木々や草花を見る。
――俺の大好きな光景。
酔っていても位置を覚えているベンチに崩れるように座り、まだ熱の残る夏の匂いを吸い込んだ。
つい数日前まで、心地良い疲れを感じながらこんな夜にちびちびと酒を飲むのが楽しみだった。
バルドと予想以上に良くできたソラマメについて喜び合い、秋蒔きの種の仕入れを検討し
釣れた魚の大きさについてどちらが上だと馬鹿みたいな言い合いをした。
珍しくバルドがやらかした珍妙な創作料理の話は何度話題に出ても涙が出るほど笑えたし
明日は何の作業があるか、来週は何をやりたいか、散々語り合った。
そこには紡いできた記憶があり、絶対に訪れる明日への夢があった。
今の俺には、この大切な記憶を失うという恐怖しか残っていない。
「……さっきの話、僕は本気ですよ」
バルドは猫のように音を立てず俺の隣に座った。
黙ってその横顔を見る俺に、バルドは小さな笑みを浮かべる。
「あなたが望むなら、僕は……」
「――できるわけ……ねーじゃんよ」
俺は首を振った。
強がりではなく『オブリビオン』を投げ出すなど俺には考えられなかった。
「この村もファルシンも守りたい……当たり前だろ? 」
俺が言うとバルドは小さく頷いて黙り込んだ。
綺麗な川と美しい麦畑。
腕っ節の強いマルゴにどこか憎めないシェリー。
一緒に鎌を握り金色の穂波の中笑いあった村の住人。
毎日手伝いに来るのか邪魔しにくるのかわからないミトや子供達。
胸が痛くなるほど悲しげで愛情の篭った目をしている家族。
小さくても安心して眠れる我が家。
花の匂いに包まれる手入れの行き届いた庭。
まだ手のかかる作業が山となっている小さな畑。
それが全部あのクモのような化け物に蹂躙されるなんて耐えられない。
――俺には守りたい物がたくさんありすぎた。
「記憶を失うのは怖いけどよ、それより守りたいものがある」
俺はカッコつけて言ったつもりだったが、情けない事に声は震え裏返った。
「フェン……」
「――またシェリーは怒るだろうな。あんたはもう一度説明しなおさないといけないし……」
今夜も熱帯夜のはずなのに、寒気を感じて自分の腕を抱きしめる。
「あぁ……すっげー怖いよ、バルド」
俺は鼻水をすすりながらバルドを見た。
「…………」
「なぁ、いつも仕事に出る前の晩俺どうしてた? 」
バルドは黙っていた。
恐怖に怯える俺の姿を何度も見るのはバルドも辛いのかもしれない。
俺は立ち上がって戸口に向かった。どんなに怯え、考えても明日はやってくる。
それならば、せめて辛さを感じないよう酒を飲んで寝てしまうがいいのかもしれない。
「あのトニックワインどこだっけ? 」
戸口で立ち止まり振りかえる。
「フェン……! 」
瞬間、立ち上がったバルドが俺の両肩を痛いほどきつく掴んだ。
その目には俺より早く涙が浮かんでいた。
「先に泣くなよ」
俺は言いながらバルドの肩に額を押し付けた。
怖くて、寒くて、人の温もりが恋しい。
「すみません……」
バルドの手が背中に回った。馬車で打ちのめされ崩れた時と同じ温かい腕。
「……あんたにこんなに世話になったのに忘れちゃうんだな、ごめんな」
そのままの姿勢で俺が呟くとバルドは小さく首を振った。
「いいえ……僕は……」
「それが仕事だなんて言うなよな、頼むから」
バルドの機先を制して俺は笑うような息を吐いた。
「仕事じゃありません、僕は……」
バルドはあの悲しい笑みのまま言葉を詰まらせた。
「あんたに会えて良かったよ。……あんたの事すげー好きだ、俺」
俺は潤んだ目元を隠れて拭うとバルドから離れた。
いつもバルドがこんな笑みを浮かべるのは、必ず来る別れを覚えているからなんだろう。
何も覚えていないより、全て覚えている方が残酷なのかもしれない。
「バル……」
言いかけた俺の声をバルドが遮った。
俺を遮ったのは悲しげな視線でも温かい腕でもなかった。
もっと物理的なもの――それはバルドの唇だった。
軽く触れただけでバルドは離れ、またいつもの悲しい目をして笑った。
「僕もですよ……ありがとうございます」
心から俺に触れたいと思ったバルドの行動は不思議と嫌ではなかった。
酔いに混乱しているからだとは思えない。
俺も、心からこの痛みを分かち合ってくれたという印が欲しかったのかもしれない。
もう何も言う事がなくなった俺達は一緒に家に入り、散らかったままの机を見る。
「……俺がここ片付けるよ。何もしないよりは気がまぎれるしな」
俺は努めて明るく言い、汚れたマグやグラスを洗い桶へ運ぶ。
バルドは何も言わず俺の動きを見ていた。
「あんたに何のお礼もできないしな。……もっと早くわかってたら何かしたんだけどよ」
「……フェン」
小さくバルドは俺を呼んだ。
言葉の語尾に俺の名前をつけるいつもの癖でも、気遣う呟きでもなかった。
――バルドが、俺を呼んでいる。
俺はその声にいつもと違う響きを感じた。
小さなパズルのピースが、また頭の中でカチリとはまる。
「――フェン、お礼なら欲しいものがあります」
俺はこの切実な声を聞いたことがあるような気がした。
恐怖と悲しさに押しつぶされそうなざらついた声。
きっと俺の声もこんな感じなのかもしれない。
パズルのピースは、次にバルドが言う言葉が何か知っていた。
「あなたの最後の夜を僕に……フェン、あなたをください」