それからの一ヶ月はあっという間に過ぎた。
村総出で行われる麦の収穫に俺達も駆り出され、朝から晩まで鎌を手に畑に立った。
その後は緩んできた藁屋根の修理、共有水路の掃除、豆の収穫……やることは際限なくあった。
その慌しくも充実した日常のせいか、二度目の軍への顔出しは更に高評価を得た。
俺はすぐにでも力を発揮できる状態にあるらしい。
その日が来ることは考えたくないが、帰りに寄ったベオリーの家が無人だった事を考えると
どっちが幸せなのかはわからなかった。
そしてこの一ヶ月で、俺は村の住人の名前と顔を覚えた。
ほとんどの大人はにこやかで好意的だが、俺達に一定の距離を置いて接していた。
余所者の俺達を心のどこかで認めていないのか、また忘れられるのを恐れているのかはわからない。
それでも道で会えば挨拶を交わし、釣りをしながら世間話をするぐらいの付き合いはあった。
その反面俺達は子供には大人気だった。
田舎の子供達にとって軍人の俺達は憧れらしく、周りに自然と集まってきた。
半分はバルドの作るコケモモのジャムがたっぷり乗ったパンが目当てに見えるが、
記憶を失くす俺に気を使うのではなく面白がる小さな視線は、少しくすぐったいが嫌ではなかった。
「どうしたんですか、フェン? 」
声を掛けられ俺は振り返った。
盛夏にしては涼しい夕暮れだった。
俺は小さな庭に置いたベンチに座り、ぼんやりと収穫の終わった遠い畑に落ちる夕日を見ていた。
「ん、なんかだいぶ落ち着いたなと思ってさ」
「……そうですね。暑くなる前に刈り込み済ませて正解でしたね」
バルドはそう言って金色に透ける飲み物をベンチの脇に置いた。
「――庭の話じゃなくてよ」
相変わらず頓珍漢なバルドの相槌に俺は笑った。
まだ日の浅いリンゴ酒を水で割り、蜂蜜を加えたバルド特製のこのジュースも俺の好物だった。
冷えた甘いジュースを半分近く一気に飲み、底で揺れる溶け残った蜂蜜のゆらゆらした流れを見る。
バルドも俺の横に座りジュースを一口飲んだ。
見かけに似合わず酒はかなり強いバルドのグラスには蜂蜜も水も入っていないようだった。
「……美味いのか、それ?」
俺が聞くとバルドはグラスを差し出した。
一口飲み、俺は酸味とまだ硬いアルコールの匂いに眉を寄せた。
「あなたにはちょっと合わないと思いますよ」
「……だな。また悪酔いするのはゴメンだ」
俺はそう言ってちらっとバルドの様子を伺った。
あの日。
家族に会いに行った俺はベオリーの嘆きを実感し、帰りの馬車でバルドに弱音を吐いた。
バルドは崩れる俺の体を抱き抱えるようにして格好悪い泣き言をずっと聞いていてくれた。
そのまま寝入ってしまったらしく、俺はいつベッドに戻ったのか覚えていない。
翌日もバルドは何もなかったように俺に接し、そのままあの件に触れてはこなかった。
きっとバルドは俺がああなる事を予想していたんだろう。
そして前にも同じ泣き言を聞きながら俺を宥めた事があるに違いない。
バルドは俺の言葉の意味に気付かないような顔で夕日に目を眇めていた。
友人の顔と護衛の顔を使い分けるのが得意な同居人に俺も騙されそうになる。
今、俺にとって大事なのはこの男だけだった。
「家族」「親友」「恋人」……名前のある関係は俺達『オブリビオン』を悩ませる。
愛しているからこそ、大事だからこそ埋まらない溝に悩み、足掻き、そして疲れ果て諦める。
それでも見捨てることはできないから、冷えた自分の心を責め続ける。
バルドの立っているのは、名前のある関係の一歩手前の安心できる場所だった。
「あん時なんか滅茶苦茶な事言っててごめんな」
俺が言うとバルドは夕日を見たまま軽く肩を竦めた。
「……滅茶苦茶なんかじゃないですよ」
やっぱり俺があの夜の事を考えているのがわかっているようだった。
「そうか? 」
「あなたもそうですが……『オブリビオン』は優しすぎるんです」
バルドはもう一口酒を飲むと貯水樽の脇に生えたミズハッカを軽く揉みグラスに入れた。
「優しいから辛いんですよ。覚えていないのわかってても、思い出そうとする……」
でしょう?とバルドは俺に同意を求めた。
「思い出せたらいいんだけどな」
「そうですね……」
バルドはまたあの悲しげな笑みを浮かべた。
「なぁ、忘れる前の俺ってどうだったんだ? 」
「どうって……」
そう言ってから考えるようにバルドはグラスに沈むミズハッカを見る。
「性格はほとんど変わりませんよ。子供に人気あったし、シェリーとはケンカ友達という感じで」
「あんたとは? 」
「……こんな感じです。並んで夕日見るのも恒例でした」
「へぇ……」
以前もこんな穏やかな時間を過ごしていたと考えると少し嬉しかった。
記憶のない自分に悩むことはあっても、幸せだったと信じたい。
バルドがじっと俺の顔を見ている。
視線に気付いたが、俺はもう何も言う事がないから夕日を見ていた。
なぜか何かを言葉にしようと思うと照れくさく、バルドに感謝を伝えられない。
「僕は、あなたの事が好きですよ」
バルドは小さく呟いた。
その声に胸が痛くなるような温かさを感じて俺は頷いた。
俺もこのお人好しが好きだ。
この細切れの人生を幸せな時間に変えてくれる男に出会えてよかった。
「――バル兄!フェン兄! 」
埃舞う一本道を走ってくる子供の声に俺達は同時に立ち上がった。
いつも遊びに来る共有窯の管理人の息子だった。
その声に切羽詰ったものを感じバルドが外まで迎えに出る。
「どうしたの、ミト? 」
バルドの声に子供は金切り声で叫んだ。
「化け物が!水車の向こう! 」
「――化け物? 」
ミトは何度も頷いて乾いた喉を潤そうと唾をのんだ。
「お父さんとマルゴおじさんがバル兄を呼んでって……でかいんだ!オレ、見た! 」
「……それはクモみたいなやつ? 」
しゃがみこんで少年の肩に優しく手を置いたバルドの声は冷静だった。
「そう!足がいっぱいで黒いの……早く助けて!お父さんが死んじゃう! 」
俺は呆然と二人の声を聞くしかできなかった。
ミトが言っているのは、俺の最初の記憶にあるあのクモの化け物のような生き物。
それはどこかで『亀裂』ができたという証拠だった。
「ミト、すぐに僕が行くから落ち着いてみんな家の中に隠れるんだ、いいね? 」
少年は大きく頷くがその顔は不安と恐怖にくしゃくしゃに歪んでいる。
「――大丈夫。そのために僕がいるんだから」
その声はいつもの優しいが押しの弱い男のものではなかった。
「うん……わかった! 」
ミトは唇を引き結んで両手を握り締めた。
「よし、さぁみんなに伝えるんだ! 」
バルドが少年の強張った体を振り返らせ背を叩いた。
弾かれるようにミトは村の中心に向かって走り出す。
「バルド……」
立ち上がったバルドを見ると、俺の問いに答えるように頷いた。
「以前の掃討で漏れたはぐれ物かもしれません……あるいはどこかに『亀裂』ができたのかも」
言いながらバルドはきびきびとした動きで家に入っていく。
「……倒せるのか? 」
その後をついてバルドの私室の前で俺は立ち止まる。
「―― 一匹だといいんですが」
バルドは着ていた藍色のゆったりしたブルーズを脱いだ。
「俺にも何か武器を……」
「――あなたはここにいてください、フェン」
バルドは最初に会ったときのように固く綿の入った長袖のシャツを着ながら首を振った。
「え? 」
「一番守らなければいけないのはあなたです」
そう言ったバルドの目はいつになく真剣だった。
手早くなめし革の細身のズボンを履き、腿まで来るブーツに足を入れる。
「何かあったら逃げてください」
バルドはもう俺に目を向けていなかった。
胸を大きく覆う革鎧を身に付け、手入れが済んでいるいつもの武器を身につける。
「村に危険が迫ったら軍へ知らせる馬車があなたを拾って行くようになっています」
「俺も手伝う」
バルドがそれを許すはずがないとわかっていてもじっとしていられなかった。
「――だめです、あなたの仕事はこれじゃない」
すっかり戦支度を整えたバルドが首元の窮屈な最後のボタンを留めた。
「あんただって」
俺は言い返した。
バルドは一瞬笑ったが、すぐに真面目な顔に戻る。
「……そうですが、僕は一応この村唯一の軍人でもあるんです」
トン、とバルドは俺の肩を叩いた。
「バルド……」
「……お互い自分の仕事をしましょう」
そう言ってバルドは小走りに家を出て行った。
振り返りもせず。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
真っ暗な部屋の中で蝋燭のほのかな明かりだけが揺れていた。
まだバルドは帰ってこない。
馬車が迎えに来ない所を見ると最悪の状況ではないのだろうが、何もわからないのは不安だった。
もう一度虫の音しか聞こえない窓の外に耳を澄まし、諦めて日記に戻る。
『
エスの事はもう忘れたい。
あれはただの悪夢だった。
大嫌いだ。
』
一人でいる不安を紛らわそうと俺は日記の続きを読んでいた。
幸せだが忙しい日常に、部屋に戻ればすぐに熟睡してしまい最後までまだ読んでいなかった。
大嫌い。
それまで穏やかな日常と記憶を失う恐怖が書かれていた日記に突然書かれていた言葉。
何があったのかはわからないが、『エス』に対する嫌悪が書かれていた。
――俺と『エス』の間に何があった?――
そのページの先を見るのが怖いが、それもきっと俺の大事な記憶のはずだった。
小さく息を吐きページを繰る。
白紙。
「え? 」
思わず呟き次のページを見るが、そこにも何も書かれていなかった。
ぱらぱらと余白の続く日記をめくる。
やっとみつけた記述は日付がずいぶん飛んでいた。
『
一番会いたくないのはエス。
エスを憎んでいる。
嫌いという言葉では語りつくせない。
』
俺は無言で次の記述を探す。
見付けた言葉は全て『エス』を憎み嫌う言葉。
穏やかだった文字も震え、俺が激しく動揺していたのは手に取るようにわかった。
『
エスはもう死んだ。
どこにもいない。
ようやく忘れられる。
』
それが日記の最後の記述だった。
日付はちょうど俺が最後に『亀裂』を封じた前日。
俺にとって『エス』は忘れたい記憶のようだった。
ようやくバルドが『エス』を知らないと言っていた意味がわかる。
あの優しい男は俺が忘れたがっていた記憶を守っていてくれたのだろう。
――バルド。
軍人とは思えない間の抜けた受け答えや悲しそうな笑みが側にいないと不安になる。
俺は立ち上がると玄関に向かった。
あのクモのような怪物は死ぬほど怖い。だが、バルドを失うのはそれ以上に怖かった。
何もない俺と過去を繋ぎとめ、新しい記憶を与えてくれるただ一人の人間。
真っ暗な暑い空気の中蝋燭片手に裏庭に回り、壁に立てかけておいたピッチフォークを握る。
剣や槍はないが、これならしばらくの間ぐらいは武器の代わりにはなるだろう。
勇気を振り絞るように大きく頷き、庭先へ出る。
「――フェン! 」
その時真っ暗な道の先から声がした。
蝋燭を向けるとぼんやりと薄汚れたベージュのキルトのシャツが見えた。
「バルド! 」
俺は駆け出した。
蝋燭の明かりにようやく汗と泥に汚れたバルドの顔が見えてくる。
バルドはピッチフォークと蝋燭片手に飛び出してきた俺に心底驚いているようだった。
革の鎧はべったりと嫌な匂いのする化け物の体液で汚れていたが、俺は構わずその体に触った。
「ど……どうしたんです? 」
バルドは後ろに回って蝋燭をかざす俺を不審そうな目で見た。
俺は確かめずにいられなかった。
胸、腕、足、背中……バルドは無事だった。
「あんまり遅いから……まさかと思ってよ」
安堵の息を吐きながら言うと、バルドは首を振った。
「家の中にいてくれとあれほど言ったじゃないですか! 」
俺は頷き、急にピッチフォークを抱えている滑稽な姿が恥ずかしくなった。
「……ごめん」
「ごめんじゃないですよ、フェン」
バルドは釘を刺すようにもう一度抗議し、それからため息をついた。
「……一匹だけでした。マルゴさん達も手伝ってくれたのでなんとか仕留めました」
「そうか」
俺が息を吐いて笑ったのを見てバルドも一瞬笑顔になりかけ、謹厳な表情を作る。
「どうか僕の指示に従ってください――ご心配おかけしたのは申し訳ないですけどね」
「ほんとだよ」
俺は肩を竦め何気ない振りを装おうとしたが、無理だった。
この気持ちを伝える前にバルドが命を落とす事があるのかもしれないし、
また俺が記憶を失うかもしれない。
俺はせめて軽口に見えるようバルドの背中を思いっきり叩く。
「俺もな、あんたの事が好きだ」
今度はバルドも笑った。