「『亀裂』を封じて三日目? 」
医者のような風体の男が書類と俺の顔を見比べて眼鏡をかけ直した。
「ええ、そうです」
目の前の男が何を驚いているのかわからない俺を差し置きバルドが答える。
多分男が見ているのはさっきやった一風変わったテストのようなものだろう。

『好きな食べ物は?』
『隣人の家族構成は?』
『最近読んだ本は?』
『今興味のあるものは?』

こんなばかばかしい問題が延々と続いていた。
中には王の名前や最近流行った病気みたいな全く覚えていない問題もいくつかあったが
そのほとんどが俺個人の考えや生活の様子を問うもので、だいたい空欄を埋めることができた。

「……何かマズい事でも書きました?俺」
男に問うと笑って首を振った。
「いや、素晴らしいよ。君はほとんど混乱していないし立場を理解している。
 それに一番すごいのは既に自分の生活を築きつつあるということだ」
俺にはそれがどのくらい素晴らしいことなのか全く見当もつかなかった。
それが伝わったのか男は一度頷いて俺の目を覗き込む。
「――通常、任務を果した『オブリビオン』の回復のプロセスはもっと遅い。
 混乱……悲憤……拒絶……虚脱……それからようやく受諾。君はもう受諾の段階を迎えているんだ。」
「……はぁ」
指折り数えて解説され仕方なしに頷いたが、その意味はよくわからなかった。

「――君は優秀な『オブリビオン』だ」
男は言って書類を机に置いた。面談終了の合図だった。
俺は軽く会釈をして立ち上がったが、バルドはそのまま残るようだった。
「……手続きしてから行きますので、外で待っていてもらえますか? 」
「わかった」
俺はバルドを残し石造りの建物を出る。
『オブリビオン』の事務所は、今は軍の宿舎として使われている古城のベイリーにあった。
街から続く橋を渡りこの場所に来る人間は軍人だけで、俺のように農夫のような軽装の男は浮いていた。
元は井戸があったらしい草だらけの広場にぶらぶらと向かい、石のベンチに腰掛ける。
密生するアスチルベの珊瑚色の花穂が風に揺れしゃらしゃらと鳴った。
俺は早くもあの村へ帰りたくなった。
俺は軍人ではなく畑仕事を愛する農夫で、間の抜けた男と暮らし、少女と軽口を叩きあい、子供と泳ぐ。
それが俺の望む生き方だった。


「フェン?……フェン-エクサだろ? 」
ぼんやりとアスチルベの揺れる様を見ていると一人の男が近づいてきた。
年の頃は40代、無精ひげを伸ばしよれよれのシャツを着ている男に当たり前だが見覚えはなかった。
頭の中で日記にあった知人の風貌と照らし合わせたが合致する人物もいない。
俺が曖昧な笑いを浮かべているのに気付いたのか、男は眉を寄せた。
「記憶……ないのか、おれの」
「すいません、三日前に……」
俺が頷くと男は首を振った。
「いや、謝るのはおれだ。……あんたは多分おれの代わりに仕事を受けたんだ」
「え? 」
俺が聞き返すとその男は隣に勝手に腰を下ろす。口を開いた男の息は酒臭かった。

「おれがまた『亀裂』塞ぐのに失敗したんだ……代わりに誰かが行くと聞いたが、あんただったんだな」
「……って事はあなたも『オブリビオン』? 」
男は肩を竦めた。
「――どうだかな。あのクソ兵士達の会議で今日にも罷免されるんじゃないか? 」
男は事務所を苦々しい目で見て、やっと思い出したように手を差し伸べた。
「ベオリーだ。あんたがここに来るたび飲んだ仲だ……あんたは飲めないけどな」
俺は笑ってベオリーの手を握り、その手が小さく震えているのに気がついた。
「おれの方は飲みすぎだ……わかっちゃいるんだけどな」
ベオリーは笑った。
「『亀裂』を塞ぐのに失敗する事もあるんですか? 」
「俺はここ一年で三回失敗した。もうお払い箱だろうよ」
自嘲するように鼻で息を吐き、ベオリーは乾いた両手をこすり合わせた。

「おれはな、あんたが羨ましいよ」
ベオリーは自分の震える手を見た。
「……何もかもうまく行かねぇ。こんな記憶消しちまいたいよ」
「俺は……自分で消したいとは思わないけど」
それは本心だった。記憶を消したいと思う人間がいるなんて俺には想像もつかない。
「――おれには妻と子供が三人いるんだとよ」
突然そんな事を言い出してベオリーは俺に笑いかけた。
「そのおれの妻って女は昔は美人だったらしいが今じゃ見る影もなくてな、おれを
 他人を見るような目で見やがる」
「…………」
「子供も訳がわからねぇ。遊んでやった記憶もねぇし、向こうも余所余所しい男を
 父親だと思ってねぇみたいだ」
そこまで言ってベオリーは顔をごしごしと拭った。

「おれだってさ、なんとなくそいつらには愛情はあるんだぜ、記憶にはないけどよ。
 ……でもダメだ。他人なんだよ、俺とあいつらは」
ベオリーの言う事が俺にはなんとなくわかる。
家族が記憶の中のベオリーに愛情を持ち続けてたとしても、ベオリーにとっては
初対面の他人だった。
妻と言われ、子供と言われてもすぐに認められるものではない。
それでもきっと家族はベオリーの失われた記憶を埋めようとして、愛情を求めて……そして疲れた。
――シェリーのように。

「でも金だけはいくらでもあるだろ?……おれは酒に逃げちまった。できるならもう一度
 記憶を消してやり直してぇ」
ベオリーの言葉は俺にも刺さった。
だけど、それだけで解決しないという事にもすぐに気がついた。
見ると、ベオリーもわかっていると言うように小さく頷いた。
「でも……あいつらの記憶は消えねぇ。この無様なおれを覚えてるんだ。おれが忘れても、ずっと……」
ベオリーは事務所の入り口から出てきた男の一人に目を留めると唾を吐いた。
「湿っぽい話でごめんな。俺の監視人が出てきたよ」
俺もその視線を追い、バルドが見知らぬ男と話しながら歩いてくるのに気がついた。
「……おれの首が繋がってて、あんたが覚えてたらまた会おう」
ベオリーは少し悲しげな笑みを浮かべて立ち上がった。
「じゃあな」
そう言って振り向かずにバルドと一緒にいる男の方へ向かっていった。


「お待たせしました」
バルドは俺に駆け寄り、去っていくベオリー達を目で追った。
「ベオリーさんです。何度か一緒に食事をした事もあるんですよ」
「ああ、俺と同じ『オブリビオン』なんだろ」
バルドは頷いた。
「ええ、ベオリーさんの護衛とは僕も結構親しいんですよ」
「……で、クビなのか? 」
「クビ? 」
立ち上がった俺を見てバルドは軽く首を傾げる。
笑ってはいても悲しげな目は何かを誤魔化そうとしているようにも見えた。
「『亀裂』を塞ぐのに何度も失敗してるって。どうすんのか話し合いあったんだろ? 」

バルドは一瞬戸惑って、それから頷いた。
「僕は意見を求められただけですけど……もう少し様子を見ることになりました」
「――この仕事はクビになる事もあるのか? 」
俺は街へ向かって歩くバルドの背中に問いかけた。
「引退、はあります」
「いつだ? 」
バルドは困ったような顔をして並びかけた俺を見る。
「……『亀裂』を塞ぐことができなくなったらです」
「だから、いつ?回数?年齢? 」
矢継ぎ早の質問にバルドはじっと俺を見た。

「――それはわかりません。ただ、自分を取り戻せなくなった人は失敗する事が多くなります」
「ベオリーみたいに? 」
バルドは頷いた。
「それじゃ俺は優秀だな、さっき言われたみたいに」
自分で言ってから初めて軍の偉い奴の言葉の意味に気付き、背筋が冷たくなった。
一年で三度失敗したベオリー、二年で八回も『亀裂』を塞いだ俺。
記憶を失った事に押し潰された男はその記憶を忘れられず、
失くすことを恐れるほど愛おしい生活と思い出を持った男は仕事に向かい、また記憶を失う。

――幸せであればあるほど、『オブリビオン』はその記憶を失くす――


立ち止まった俺の顔は強張っていたんだろう。
バルドも俯き、掛ける声を失っているようだった。
「そういう事だったのか、バルド」
「黙っていてすみません。でも、あなたを仕事に向かわせる為じゃなくて、本当に……! 」
「――わかってるよ」
俺は息を吐いた。
バルドがすぐに次の仕事をさせる為に俺の環境を整えているとは思えなかった。
それでも常に遠慮したような丁寧な物腰なのは、このジレンマに引け目を感じているからなんだろう。
「……あんたは俺の味方で友達なんだろ? 」
俺はバルドの背中を叩いた。
「――あなたでもたまにクサイ事言うんですね」
生意気にも言い返したバルドの目には本当に安堵したような笑みが浮かんでいた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


城下を出た俺達は行きと同じように公用の馬車に揺られ帰りにファルシンの街に寄った。
俺の生まれ故郷、家族の住む街。
バルドは意外にも俺が家族に会うことに難色を示していた。

『今日伺うって連絡もしていませんし……』
『十五で軍に入って城下に住んでたんですから、元々疎遠でしたし……』

俺はベオリーの話でどうしても家族に会ってみたくなっていた。
バルドやマルゴ一家のような友達ではなく、血の繋がりのある家族と会いたかった。
幼い頃から産み育て、一緒に過ごしてきた家族は俺の事をどう思っているんだろう。
――まだ、俺の事を愛していてくれるだろうか。



だが、二時間後俺はバルドの言葉に従っていればよかったと感じていた。


俺の家はファルシンの街の役人をしているらしくそこそこ裕福なようだった。
スタッコで白く塗られた家の周りにはレンガを巡らせた門があり、小さいながら中庭もあった。
父は――驚きながらも俺の肩を抱いた。
母は頬にキスをし、夕食の席に食べきれないほどの料理を並べてくれた。
街の名士に嫁いだ姉はわざわざ知らせを聞いて帰ってきて俺を抱きしめた。

――誰もが俺を歓迎し笑顔だった。
だが一旦再会の熱が引き、食事になると気の詰まる沈黙がテーブルを支配する事が何度もあった。
俺と家族を繋ぐバルドだけがその場の空気を変えようとしていたが、それも虚しい試みだった。
俺も苦手な酒を飲み田舎暮らしの楽しさを明るく話したが、貼り付いた笑顔は隠せなかった。
帰り際に泊まって行けと何度も引き止められたが、馬車が屋敷から見えなくなると安堵したのは
父達も同じだっただろう。

「……大丈夫ですか? 」
バルドの声に俺は車内に目を戻した。
「おう」
短く答えてまた俺は黙り込む。

――両親は俺をまだ愛してくれていた。
それは確認するまでもなく俺の胸に響いてきた。
だが記憶のない俺の扱いに戸惑っているのは隠せなかった。
両親の知る『オブリビオン』の能力が目覚める前の俺はもうどこにもいない。
俺という存在を作る大事な記憶が抜けた心と体は家族に違和感しか与えないのだろう。
それでも俺を案じ、愛していてくれている。
だが、俺にはこの老境にさしかかった夫婦が自分の親だという実感は湧いてこなかった。
どこにもいない息子の影を忘れることができない親と、家族に対し何の感慨も持てない息子。
その決定的な溝は繋がりが深いからこそ埋まることがなかった。
ベオリーの感じた絶望が、俺にも痛みとして襲ってくる。


「……本当に大丈夫ですか? 」
バルドは俺の肩にそっと触れた。
「――俺よ」
口を開いて、それからなんて言ったらいいのか俺はわからずに黙りこくった。
バルドは黙って俺が話し出すのを待っていた。
忠犬のような男の姿にふと力を抜く。
「俺……家族を見ても特に何も感じなかった」
絶対に言ってはならない禁忌を吐き出した俺は震える息を吐く。
「……みんなそうですよ」
バルドはそう言って肩に触れた手を背中に回した。
その優しさが逆に俺の痛みを強く実感させる。

「――あの人らはさ」
そう切り出して、家族を突き放した目で見ている自分が嫌になる。
「あの人らは……本当に俺の事息子だと思ってくれてる」
「ええ」
バルドは小さく相槌を打った。
「でも俺はダメだ……本当に何も覚えていないんだよ」
「フェン……」
バルドが俺を引き寄せた。
並んで座る暗い車内、泣き出しそうな顔を見られないのがありがたかった。

「あの人らも戸惑って居心地悪さを感じてるのがわかるんだ。それを悪いことだ自分を責めているのも」
「ええ」
「……あの人たちは悪くないんだ」
「ええ」
「それがすっげぇ……すげぇ悲しい」
「……ええ」
バルドは頷くだけで余計な口を挟まなかった。

「あんたは……あんたとあの人らとは何が違うんだ? 」
俺は半分バルドに凭れた格好で問いかけた。
無理に飲んだ酒と胸の痛みで体が地の底に沈む込む程重い。
スプリングの弱い馬車のガタガタいう揺れとぼんやり眺める真っ暗な窓の外に
どこか光の見えない暗い淵へと引き摺り込まれるような錯覚を感じた。


「僕は……」
バルドが口を開いたのはだいぶ後だった。
「僕はご両親やシェリーのように、疲れるほど真剣にあなたを想っていないんじゃないでしょうか」
俺はぼんやりした頭でバルドの言葉を反芻する。
「……そうなのか? 」
顔を上げるのも億劫でバルドの顔を見ることはできなかった。
笑うような息遣いが聞こえたのは、きっとあの悲しそうな笑みを浮かべているからだろう。
「僕はあなたの護衛です。……友達だけど、あなたがまた記憶を失うあの力を使えるように
 お膳立てする役人なんです」

俺はその声色をもう知っていた。
――それは優しい嘘や誤魔化しを吐くときのバルドの癖だ。

 

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