「なぁ、エスって誰なんだ? 」
泥と汗に汚れた腕を水に浸しながら聞くとバルドはちらっと俺の腕を見た。
畑仕事を終えた午後。
俺とバルドは夕方からの釣りの下見を兼ねて村の近くを流れる川へ水浴びに来ている。
バルドはその質問が意外だったのかブーツの足で不安定な川石を踏みバランスを崩した。
じゃぼっと音を立てて水流に手を突っ込み、変な姿勢で転びそうな体を支える。
「……大丈夫か? 」
「……はい」
肩口まで服を濡らしたバルドは苦笑いをして立ち上がった。
確かに軍人にしては恐ろしく運動神経は鈍そうだ。

「ま、どうせ洗うんだし」
俺は川面を照りつける太陽のまぶしさに目を細めシャツを脱いだ。
べとつくシャツを川の水で洗い流し白い岩の上に広げておく。
この暑さでは夕方前にはすっかり乾いてしまうだろう。
ズボンも同じように洗って下着一枚で緩い川の流れに飛び込む。
流れる川の水は刺すように冷たいが、野良仕事で火照った体には気持ちよかった。
「奥は急に深くなってるんで気をつけてくださいよ」
バルドは深い緑に緩む対岸の淵を指した。
「俺、もしかして泳げないのか? 」
「……いえ、僕が泳げないんです」
情けない声に俺は声を上げて笑った。

「笑わないでください、フェン。何かあったら助けに行けないと困るんです」
俺の笑いの発作が治まるまで服を洗いながら俺の護衛はため息をついた。
几帳面で穏やかだが、とことん軍人には向いていない優男。
早くも俺はこの男を好きになっていた。友人でいてくれて嬉しい。
バルドはまだニヤニヤ笑う俺を見て肩を竦めると川に入ってくる。
「まだ冷たいですね」
腰まで入った所で両手で水をすくいバルドは顔を洗った。
「ああ」
俺も冷たい流れに体をこすり、左腕の傷に触れた。
『エス』の文字は古いもののようでもう滑らかな白い痕になっているが
そこに注意を向けるようにつけられた傷はまだ赤く盛り上がっている。

「『エス』ですか……」
バルドも俺の傷に目を留め、口を開いた。
「……僕に心当たりはありません」
「あんたでも知らないのか? 」
俺の言葉にバルドは頷いた。
「あなたも全てを話してくれる訳ではありませんから……」
俺ももう一度腕の傷を見た。
ほんの数ヶ月分しかない記憶を失くすのを恐れるほどの大切な何か。
大事だからこそバルドに話せない事もあったのかもしれない――例えば、恋人とか。


だいぶ体も冷えた俺達は川原の岩の上に並んで座った。
水温は低いが太陽に晒された岩は温かく心地いい。
下流の浅瀬で子供たちが遊んでいるのが見える。
「俺、彼女とかいなかったのか? 」
あまりの冷たさに白くなったつま先がじんわりと温かさを取り戻すのを感じながら俺は聞いた。
「多分、いなかったと思います」
あっさり返され苦笑いする。――田舎の村で男二人で畑仕事をして暮らす日々。
「……寂しい生活だな」
「僕は楽しいですよ」
バルドは穏やかに笑った。
俺はその顔をまじまじと見つめ、そんな生活も悪くないと思う自分に気付いた。

「どうしました? 」
俺がじっと見ているのに気付きバルドは首を傾げた。
俺は気になっていた言葉を口に出す。
「……仲良くなっても何度も忘れられるって虚しくねーか? 」
「最初はそうでしたけどね」
バルドは何かを思い出したように目を伏せた。
それから顔をあげ、俺の腕を軽く叩いた。
温かい手のひらの感触が俺に俺の体を実感させる。
俺がここにいること、居場所があると安心させる術をバルドは心得ているのかもしれない。
「もう慣れましたよ。……大丈夫、いつも通りにちゃんと友達になれますから」
「それは別に心配してねーよ」
俺はバルドの言葉に呆れながら笑った。この男とならうまくやれる。

「――それじゃ、釣竿取ってきます」
バルドは生乾きの服を裏返し、武器だけ持って立ち上がった。
「おう」
家に近いとはいえ子供のように下着一枚で歩き出すバルドを俺は黙って見送った。
几帳面に裸の腰に剣帯を下げようとするシュールな姿に笑いより幸福感が先に立つ。
――この村は平和だ。
その平和を守ったのは俺で、その為なら記憶が消えてもよかったとさえ思える。
それは記憶を失くす直前の恐怖を覚えていないからなのだろうが、今の俺にはその恐怖がわからない。
この村や人間は温かいが、まだそれを失う事を恐れるまでの思い出はできていない。


「……あんたヒマでいいわねー」
閉じた瞼の裏に太陽を感じ、岩に寝そべっていると背後から少女の声がした。
振り向くと少女が洗濯の山を抱えて器用に石を渡り川原に降りてくる。
「シェリー」
思わず声に出すとシェリーは俺を軽く睨みつけた。
「なによ、もう呼び捨て? 」
「……そっちだってあんた呼ばわりじゃねーかよ」
「あたしはあんたの事覚えてるからいいのよ」
でしょ?と勝気な目をしてシェリーは洗濯を始めた。
ストレートな物言いに俺は黙り込んだ。

「……ほんとにまたあたしの事忘れたの? 」
暫く無言で洗濯物を岩の上で捏ねていたシェリーが口を開いた。
「ああ」
そう言うとシェリーは大きくため息をついた。
「だからヤなのよあんたは……」
「俺だって好きでこうなった訳じゃねーよ」
この話しぶりからするとどうも俺はシェリーとかなり親しかったようだ。
洗いざらしのワンピースに朽葉色のエプロンをつけた少女は色気のかけらもなかったが
直感的に感じた好意は、小さなパズルのピースなのかもしれない。
「――なぁ、シェリーが『エス』なのか? 」
俺が問いかけるとシェリーは振り返って手を休める。
「またそれ? 」
「また? 」
問い返しにシェリーは気を悪くしたのか、手に持った濡れた布で俺の脛を打った。

「もう何度目よ。あたしは『エス』じゃないし、この村に『エス』なんて女はいない」
シェリーの返事に俺は驚いた。
「前にも……聞いたのか、俺」
「毎回だよ。この村に来る前か城下で知り合った人でしょ、きっと」
「そっか」
俺は腕の文字をもう一度見、ゆっくり撫でた。
シェリーが『エス』だったとしても日記にあったような情熱で愛せるかわからない。
この少女の事は確かに好きだが、好意を超える感情は今のところなかった。
「あんたって残酷よ」
俺が腕の傷を触るのが気に入らないのかシェリーは向き直り俺の手を掴んだ。
「もう疲れたから先に言うけどね、あたしあんたの事好きだったのよ」

「え? 」

突然の告白に俺は馬鹿みたいに口を開けてシェリーを見た。
「そんぐらい覚えておきなさいよ……だから嫌なのよ」
「……ごめん」
思わず謝って、俺はそれがさらに少女を傷つける事に気付いた。
シェリーは睨むような目で俺を見たが、怒る価値もないと言うように視線を川面に移した。
「三回も告ったのよ、あんたは毎回考えさせてくれって言って……それでまた全部忘れて戻ってくる」
「…………」
黙り込んだ俺に言うというより、シェリーは文句をゆるやかな川へただ吐き出しているように見えた。
「あたしの中のあんたは変わらないのに、あんたは化け物退治するたびあたしを忘れちゃうんだもん。
 あたしは忘れらんないのに……もうね、疲れちゃったよ」

シェリーは吐き出した言葉を水に溶かし流してしまおうとするように、洗濯物を乱暴に水で濯いだ。
「――だからね」
勢いよく振り返って俺に突きつけた指先から冷たい水が飛んだ。
「あんたの事もう好きになんないからね!秋の収穫が終わったら城下でお針子の奉公に出るんだから! 」
俺は何も言えなかった。
強気な声とは裏腹に、そばかすの浮いた頬は小さく震え蜂蜜色の瞳は揺れていた。
「…………」
初めて胸が痛くなった。
記憶がなくなるのは怖くない。ただ、俺を覚えていてくれる人を忘れてしまうという事実が怖かった。
あと何人、俺は誰かをこんな気持ちにさせてるのだろうか?
――俺の記憶は俺だけのものじゃない。


シェリーは一気に言ってしまったのが恥ずかしくなったのか洗濯物をまとめ立ち上がった。
顔を真っ赤にして俺を睨み――そして綺麗な裸足の先で俺を蹴った。
「ばーか!」
叫ぶように言ってシェリーは道に向かって走り出した。
ゴロゴロ転がる岩を飛ぶように渡り、乾いた道に出た瞬間前のめりに転ぶ。
「シェリー! 」
思わず立ち上がった俺を睨みながら汚れた洗濯物を拾い上げ、もう一度叫ぶ。
「フェンのばーーーか!」
そして振り返りもせず走り去った。


「――どうしたんですか? 」

バルドが釣竿を持って戻って来るまで、俺は立ったまま呆然としていたようだった。
「……告白されて……振られた」
俺は呟いて座り込んだ。
その言葉にシェリーを思い浮かべたのかそれ以上バルドは何も聞かなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「明日は軍の方に報告にいかなければなりません」
食事の片付けが終わるとバルドは静かに言った。
「なんかやることがあるのか? 」
手にしっくりくるマグを置き、立ち上がりながら俺が聞くとバルドは頷いた。
「軽い面接のようなものがあるだけです。後は生活費の精算……こっちは僕がやります」
「いろいろ悪いな」
「それが仕事ですし」
笑って答えたバルドに思わず俺は問いかけた。
「――なぁ、俺の世話するの疲れないか? 」
「どういう意味です? 」
シェリーと同じ光が宿っていないか確かめるようにバルドの目を見る。
「俺を覚えてる人になんだか悪い気がしてきてさ……」

「フェン」

バルドはテーブルを回り込み俺の腕を掴んだ。
「あなたを忘れたくないから覚えてるんです。僕も、シェリーも、みんな」
「バルド……」
「あなたは選ぶことができないけれど、僕達はあなたを忘れた振りする事ができるんですよ。
 ――でも、忘れたくないからもう一度最初から出会うんです」
「……シェリーは辛そうだった」
「あなたが好きだからですよ、フェン」
「あんたも辛いか? 」
俺が聞くとバルドの手に力が入るのがわかった。
「僕は……」
バルドは一瞬ためらい、それから俺をいきなり抱きしめた。
「あまり考え込まないで下さい。みんなあなたの味方です」

驚いて声も出せない俺の体を離し、バルドはいつもの笑みを見せた。
「――すみません、ちょっと慣れ慣れしいですね」
「驚かせるなよ……あんたはいちいち言う事がクサイ」
謝るバルドを小突き俺は笑った。
確かに言う事はクサイし大げさだが、俺はその体温に安心感を覚えていた。
バルドの抱擁はシェリーの蹴りと同じものだった。
言葉だけではなく、繋がっていると感じさせてくれる体の接触が嬉しい。
「おやすみ」
俺はバルドに言って部屋に戻った。
「――おやすみなさい、フェン」
その柔らかな言葉が仕事の義務からくるものではないと、俺は信じることができた。

 

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