空がまだ薄明るくなる前に俺は畑に出た。
あれからすぐに眠りに落ちたが、夢も見ない深い眠りは数時間あれば事足りた。
そもそも記憶のない俺が見ることのできる夢なんて昨日一日の焼き直しでしかない。
あの恐ろしいクモの怪物とハーブティーで乾杯なんて夢を見るぐらいなら
暗いうちに畑仕事をする方が百倍マシだ。
「ふうっ」
俺は息を吐き、腰を伸ばして立ち上がった。
冷たく強張った指先から泥をこすり落とし早朝の空気を吸い込む。
初夏とはいえ夜露にしっとりと濡れた土は重く冷たい。
畝や畑の周囲に生えた雑草を抜いていると、記憶のない自分の不確かさを一瞬忘れる。
地面を感じ、土の重さや温度を感じる自分は確かにここにある。
そして何種類もの作物が植えられた小さな畑や手入れの行き届いた庭は
それを育ててきた俺が過去にいたという証明になっていた。
俺が畑仕事が好きだというのは、もしかしたら足りない記憶を五感と植物の成長に見出そうと
しているからなのかもしれない。
――本当の理由は、記憶を失くした今では想像するしかないのだけれど。
「――早いですね、フェン。よく眠れましたか? 」
戸口が空いてバルドが顔を出したのは抜いた雑草を肥料用の穴にちょうど落とした時だった。
「ああ」
頷きながら俺は振り返った。
バルドは最初に会ったときと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。
「朝食にしましょう。終わったら僕も手伝います」
戸口から漂うのは濃いバターとクルミの香り。
どんな料理かはわからないが、これもきっと俺の好物なのだろう。
存在を確かめる畑に人の良さそうな護衛の男、美味しそうな匂い。
今までの人生全てを失くしたはずなのに居心地の良さを感じ俺は立ち尽くした。
また、小さなパズルのピースが頭の中ではまる。
――きっと俺は幸せだった――
「どうしました? 」
動かない俺を不審に思ったのかバルドが首を傾げた。
「……いや、ピッチフォークがあれば便利だなと思って」
そんな感慨をまだバルドに話す気になれず俺は適当に誤魔化す。
「ピッチフォークならもうあなたが注文に出してます。後で散歩がてら取りに行きましょう」
バルドは言うと片手を促すように振り家に入っていった。
「……覚えてなくても考えることは変わらないんだな」
俺の言葉はバルドにも届いたようだった。
「そりゃ、あなたはあなたですから」
その声は俺に一番の安堵をもたらした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
裏の畑の土寄せ作業は思ったより時間がかかった。
芋の表面が隠れればいいと思っていたが、意外にもバルドの方が俺より几帳面なようで
俺がかぶせた土をあちこちいじり倒し、結局家を出たのは午後遅くになってしまった。
この家はどうやら小さな村のはずれにあるようで、家畜の姿は見かけても周囲に人影は見えなかった。
「みんなあなたの事情は知っています。気のいい方ばかりなのですぐに慣れますよ」
畑仕事と暑さのせいか、バルドは薄茶色のシャツの袖を肩までめくりあげていた。
手には職人への手土産のつもりか大きなカボチャとマルベリーの実の入ったバスケットを抱えている。
申し訳程度に腰に剣をぶら下げているが、それがなければとても軍人には見えない姿だった。
――ま、俺も人の事言えないか――
自分の姿を見て小さく肩を竦める。
『オブリビオン』は修行してなるものではなく先天的な能力だけが必要らしく、俺は丸腰だった。
そもそも自分達の住む世界を守る『オブリビオン』に危害を加える人間はいないようで
俺もつばの大きな麦藁帽子に膝まで折ったズボンを履いている。
こんな姿で歩いている男二人連れは近所の集会にでも出る農夫以外に見えないだろう。
「……何笑ってるんですか? 」
考えが顔に出たのかバルドの言葉で自分がニヤけている事に気づいた。
「いや、平和だなと思ってさ」
俺はぐるりと視線を周囲に巡らせた。
温かい初夏の日差しと土埃舞うのどかな田舎道。
道端に群生するラベンダーが風に乗って匂いを運び、遠くではサンザシの生垣の奥で家畜が鳴く。
「あなたが守った平和ですよ、フェン」
バルドは俺の目を見て笑った。
正面からそんな事を言う男にこっちの方が気恥ずかしくなって俺は目を逸らせた。
「覚えてないと思いますが……」
そう前置きしてバルドは続ける。
「あなたは二年前ほど前にこの近くにできた『亀裂』を封じてるんです。もしあなたが閉じなかったら
この村どころかこの辺り一帯は家畜も含めて全滅していました」
「へぇ」
俺は目を瞬いた。
「……あなたの下について最初の仕事でした」
バルドはややトーンを落として付け加えた。
「そん時もあんたの事きれいさっぱり忘れちまったのか」
俺が聞くとバルドはまた悲しげに笑う。
「はい、そりゃもうきれいに。最初はこんな穏やかに話すまでに十日はかかりましたよ」
「そうなのか? 」
それは意外だった。
「まだ家もないし、あなたが自分を取り戻す物が何もなかったんです。
僕もあなたの事をあまり知らなくて……」
俺は黙ってその先を促した。
「あなたは荒れていました。前任者から引き継いだあなたの情報を教えても何も変わらないし……」
「…………」
「だから次の仕事が回ってきたのは半年後です。その間にここに住み、いろいろ整えました」
「――多分だけどさ」
俺が話し始めるとバルドはまた俺の目を見た。
「自分の名前とか年齢とか教えられてもそれには何も意味がないんだよ」
「はい」
バルドは頷いた。
俺の言おうとしている事は既に知っているのだろう。――きっと、俺が前に話している。
「大事なのはそんな情報じゃなくて……なんて言うかな」
うまく言葉が見つからず俺はバルドを見た。
肩を並べて歩く男の目には、あの悲しげで優しい光が揺れていた。
「……わかります、フェン。だから僕はあなたの友達になったんです」
「友達? 」
バルドは頷きバスケットを抱えなおした。
「あなたの事を記録して生活を補助するだけじゃダメなんです。『オブリビオン』の望みはそうじゃない」
バルドの柔らかい声色が一瞬硬くなった。この男も護衛なりに悩んで答えを見出したんだろう。
「……僕はあなたの事を覚える生きた記憶になります」
そう言ったバルドの声はまたいつもの柔らかさを取り戻した。
「大事な記憶は消えてしまっても、日常のちょっとした事はどこかに残ってるんです。
畑仕事の手順とか、お気に入りの場所とか。僕がそういう事を一緒に体験して覚えておきます。
……あなたが僕の事を忘れても、僕はあなたの友達です、フェン」
「クサいセリフだな」
聞いている俺の耳の方が熱くなってきた。
麦わらのつばを深く下ろし、俺は安堵に緩む口元を影にした。
「その言葉、毎回聞きます」
バルドは笑った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「毎度すまんね」
バルドからカボチャとマルベリーを受け取った男はバルドの肩を叩いた。
「いえ、お世話になってますから」
にこやかに答えたバルドに男はジグから外したフォークを渡す。
トネリコでできた三つ又のピッチフォークは抜いた草や剪定した枝を運ぶのに丁度いい大きさだった。
「フェンはまた仕事だったんだって?おれはマルゴだ、また覚えてくれ」
男は俺の肩に手を置いて軽く笑った。
確か昨日、日記でその名前を読んだ。樵のマルゴ、村唯一の木工。娘の名は……
「シェリー! 」
マルゴが大きな声で娘を呼んだ。
「バルドとフェンが来たぞ、挨拶はどうした! 」
その声に作業場の奥から一人の少女が顔を出す。
「バルド!今日は何持ってきてくれたの? 」
少女はバスケットを覗き込み、黒く艶のある実を口に運んだ。
「まったく行儀悪い……」
父親の言葉を聞き流し、少女は俺をじっと見た。
「あんた、また忘れたのね」
背の小さな飴色の髪を持つ少女は子供を叱るような調子で俺の腹を軽く叩いた。
15、6だろうか、健康的に日焼けした頬に浮かぶそばかすが結構可愛い。
多分この少女がシェリーなんだろう。
「……ああ、忘れたみたいだ」
謝るのもおかしい気がして俺は頷いた。
「まったく……少し落ち着いたと思ったらまた最初っからじゃない」
もう一度俺の体を叩き、シェリーはバスケットを持って奥へ引っ込んだ。
マルゴはばつの悪そうな顔をして俺を見た。
「すまんな、フェン……あんたにはいつもああなんだよ」
俺は少し肩を竦め笑ってみせた。あの少女に怒る気にはなれない。
マルゴのような気遣いは快いが、事実から目を逸らさない少女の行動も嬉しかった。
「……シェリーはあなたの事が好きですからね」
バルドも笑った。
俺はこの親子が、この村が好きになれそうだと思った。
――少しずつまた、ここの住人になっていこう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「おやすみなさい、フェン」
バルドは軽く手を振って部屋から出て行った。
「おやすみ」
俺も軽く手を上げて返しドアが閉じるのを確認し、日記を取り出した。
『
エスの事をまた忘れてしまうのか。
』
作物の成長や日々の出来事を淡々と綴った日記の中にそんな言葉が出てきたのは
半ばを過ぎてからだった。
俺はドキリとしてページをめくる手を休める。
『
エスの事をまた忘れてしまうのか。
もうこの仕事をするのが怖い。
記憶が戻らないのは諦めたが、やっと作った新しい記憶が
消えるのは我慢できない。
なぜ俺は何度もこの仕事を受けるのだろう?
』
「エス……」
俺はまだ傷の残る腕を触り、その名前をそっと唇に乗せた。
『
この生活がいつか壊れるのが怖い。
俺はまた『亀裂』が現れたらそれを塞がなければならない。
みんなの生活は守りたい。
――それじゃ、俺の生活は?
――エスは?
』
「エス……」
もう一度その名前を小さく呼び、俺はその小さなピースがパズルのどこかにはまるのを待つ。
――自分のものではない名前
――きっと、大事な人の名前
――何もない人生で見つけた、ただ一つ失くしたくない記憶
だが、今の俺にその名前は何の記憶も呼び覚まさなかった。