「それじゃ、おやすみなさい」
バルドが部屋のドアを閉じると、俺は改めて周囲を見回した。
きれいに整えられたベッドにかかる綿の布団はタンジーで染めた柔らかい黄。
足元のマットは目の詰まった古い毛織物でボリジの紫の花が織り込まれている。
窓際に置かれた机には甘い匂いのする蝋燭と使い込まれた芯切り鋏が置かれ
その横には植物図鑑や農業用の百年暦が積まれていた。
ここが俺の部屋、と言われてもすぐにピンとはこないが落ち着く匂いがする。
軍人、魔の者の進入を防ぐ『壁』を作る能力を持つと言われたがこれはまるで農夫の部屋だった。
部屋だけ見ても俺がどんな人間だったのか見当もつかない。
とりあえず俺はランプを机に置き、蜜蝋の蝋燭に火を移した。
自然の柔らかい炎に見とれ、ランプの方を消す。
ゆらゆらと揺れる明かりに陰影を濃くする狭い部屋に、また頭の中のパズルのピースがはまる。
確かにこの光景に何か懐かしいものを感じる。それは一瞬胸の深い場所をちりちりと焦がした。
痛いような甘いようなそれは記憶と呼ばれるものなのかもしれない。
「あれ……? 」
何気なく机の引き出しをあけようとして、俺はそこに鍵が掛かっていることに気がついた。
――鍵。
無意識に首元に触れ、そこに掛かっている真鍮の小さな鍵を思い出す。
なぜかバルドに気付かれるのを恐れるように俺は一度振り返った。
まだ食事の片付けがあるのか、台所の方で何か小さな音がするがこちらに注意を払っている感じはしなかった。
俺は音を立てずに首から鍵をはずし、そっと鍵穴に差し込んだ。
カチリ
小さな音を立てて鍵が回る。
息を殺して開いた引き出しの中にあったのは分厚い日記帳だった。
椅子に座るのももどかしく、俺は机にもたれそのページを開く。
『
俺の名前はフェン-エクサ。21歳。ファルシンに両親と姉がいる。
父の名はユロン。母の名はリラ。姉の名はアイナ。
オブリビオンという仕事をしている。
世話をしてくれる男の名はバルド。
』
最初のページに書かれていたのはただの覚え書きのような言葉だった。
何度目なのかはわからないが、多分これは記憶を失くした直後に書いたものなのだろう。
文字が乱れている所を見ると混乱しているのかもしれない。
記憶のない自分をどこかに書き残しておかなければという強迫観念的な思いが伝わってきた。
俺はパラパラとページをめくった。
かかった病気や怪我、世話になっている人間の名前と特徴。
好きな食べ物、苦手な物、生活に必要な資金の受け取り方法。
最初の十ページほどまでは自分に関する知識の羅列ばかりだった。
『
俺の性格は厭世的?と言われた。
城下に住まずこんな所を選んだのは俺本人らしい。
元々人付き合いが苦手だったのかどうかはバルドも知らないらしい。
でも、今更昔の知り合いという人と会っても何も感じない。
見ず知らずの人に自分を知られているというのは気持ちが悪い。
哀れむような気遣うような目で見られるのも嫌だ。
俺本人は何も感じていないのに。
』
初めてそんな日記らしい記述が出てきたのは二週間目あたりからだった。
そこに書かれている言葉は今の俺にも理解できる。
この家に帰るまで何人もの兵士に話しかけられたが、覚えのない賞賛と距離のない軽口は
どこか内輪話を延々聞かされる余所者のようで、俺の気持ちは冷える一方だった。
そこまで読んで不規則に揺れる黄色い光に疲れがじわじわと体を包んでいるのに気付いた。
日記はどうやらこの先もみっちりと書かれている。
俺は日記を元通りに引き出しに収め鍵をかけた。
記憶はないが、何も持っていないだけ時間はたっぷりある。
俺はベッドに入り蝋燭の火を消した。
目を瞑り外の虫の声や木々を渡る風に耳を澄ます。
体は疲れているが眠気はやってこない。
ベッドに入り目を閉じると、人はぼんやりとした思考の波に抱かれる。
その断片的な記憶はまどろみとなって眠りに誘うが、俺にはその波は訪れない。
ただ何もない冷えた真っ暗な空間に身を委ねるようで、眠りに落ちることができない。
ため息をつき俺は起き上がった。眠りに落ちるまでの短い空白が怖い。
そっとベッドから起き上がり小さな台所に通じる扉を開く。
小さな明かりの下、バルドは武器の手入れをしていた。
「眠れないんですか? 」
「ああ」
俺が頷くと微笑んでバルドは立ち上がった。
水瓶の脇の小さな戸棚から酒瓶を出し、小さなグラスと共に俺の前へ運ぶ。
細いギザギザした葉の入った瓶を眺めると、自然に言葉が出てくる。
小さなピンク色の花をつけるあの薬草だ。
「……ウッドベトニー」
「これも庭であなたが育ててます。効能は覚えていますよね? 」
俺は肩を竦め、そのトニックワインをグラスに注ぐ。
――ウッドベトニーは鎮静薬、頭痛や緊張を和らげる――
「俺忘れてないんだな、こういう事だけ」
俺の言葉を聞きながらバルドはまた武器へと目を戻した。
「……いつも仕事の後あなたは眠れずにこのお酒を飲むんですよ、フェン」
「あんたはそれで俺を待ってたのか? 」
「いいえ、武器の手入れをしておこうと思ったので」
曇り一つない剣身をランプにかざし、バルドは答える。
その何もかも知っているような取り澄ました態度は俺をいらつかせた。
俺の知らない俺を知っている奴がいるというのはどうも落ち着かない。
「あんたの事を教えてくれよ」
甘いような苦いような独特の薬酒を飲みながら俺が言うと、バルドはまたあの悲しげな笑みを浮かべた。
「――やっぱり僕の事も何も覚えてないんですか」
「親兄弟の事も覚えてないぐらいだからな」
当然護衛の人間の事まで覚えているわけがない、と俺は言外に匂わせる。
俺に記憶がない事や俺を知っている事はバルドの責任じゃない。
わかっちゃいるがついきつい言葉を投げてしまった。
「……ですよね」
バルドは馬鹿な事を言ったというような顔で笑った。
「――軍に入って四年です。あなたの護衛に就くまでは主計部にいました」
「主計? 」
武器と顔を交互に見る俺の視線に気付き、バルドはばつが悪そうな顔をする。
「非戦闘員です……武術は苦手なんです」
確かにこの男には剣よりフライ返しやチーズナイフの方が似合いそうだ。
酒を注ぎ足しながら口角を緩めた俺に気付き、バルドは眉をしかめた。
「あまりこの仕事では武術は重要じゃありませんから……。仕事はあなたを補助する為の記録をつけるぐらいです。
いつもは畑仕事をして日が暮れたら釣りに行って……のどかな生活です」
「俺とあんたは本当に毎日そんな生活してるのか? 」
「はい」
「その『亀裂』を封じる修行とかそういうのはないのか? 」
「ありません」
あっさり言われて俺は何か可笑しくなった。
人々の生活を脅かす異界の者を封じ込める戦いをする軍人と聞いたばかりなのに
その実隠居した年寄りのような生活をしているとは。
俺が薬酒を飲み干すとバルドは立ち上がった。
「明日は芋畑の土寄せの予定です。涼しいうちにやってしまいましょう」
「……その予定、俺が立てたのか? 」
俺が問いかけるとバルドは酒瓶を戸棚に戻しながら答えた。
「出動がかかる前に話してたんです。……昨日の事なのにな」
言葉の最後は半分消えかけていたが、ちくりと俺の胸を刺した。
――俺だけじゃなく、忘れられる方も辛いのか――
「なんか……ごめんな」
「はい? 」
突然の俺の言葉にバルドが驚いたように振り返った。
「あんたの事も予定も全部忘れちまってさ」
「いえ、いえそんな事……」
両手を滑稽なほど胸の前で振ってバルドは否定した。
本当に軍人なんかに見えない優男だが、悪い奴ではないと俺の直感が言っていた。
記憶が頼りにならない以上、俺は直感を信じるしかない。
「……明日、もっといろいろ話を聞かせてくれよな」
俺はそう言って立ち上がった。
大した量じゃないはずなのに足元がふらつく。
「あれ……? 」
椅子に手をつき体を支え、説明を求めるようにバルドを振り返った。
「あ、言い忘れてましたがフェン、あなたはお酒が弱いんです」
「……そういう事は次から早めに言ってくれ」
そう言いながらも、酒の勢いを借りて眠れそうだと心のどこかで安心する。
「了解しました」
バルドは笑って敬礼の姿勢を取り、部屋に戻る俺を見送る。
俺は明かりも点さずベッドに倒れこむ。
記憶という形を取らない潜在的な部分でいろいろ覚えている事があるのかもしれない。
呼吸や言葉、草花の名前……
全て失ってしまったわけではないという感覚にようやく人並みのまどろみが降りてくる。
あのオレンジ色のマグを掴んだ瞬間のように、蝋燭に揺れる部屋の影を見たときのように、
記憶という枠の外で俺を繋ぎとめるものが他にもきっとある。
――あの人の良さそうな護衛の事も少しは覚えていればよかったのに、と考えて少し胸が痛む。
テンポが俺とは合わなそうだが二年間、じっと空気のように世話をしていてくれたんだろう。
――俺が記憶を失くす度に悲しんでくれたんだろうか?――
とろとろと深い眠りに落ちる直前、ふと俺はそんなことを考えた。