――ああ、またやっちまったんだ……――
何を「やっちまった」のかはわからないが、俺は心臓がきゅっと竦むような痛みと共に
猛烈な後悔を感じた。
カタカタと鳴る歯と知らぬ間に流れた涙にその場に立ち尽くす。
周囲には男たちの怒号が響いていた。
「な……んだ? 」
瞬間的に自分の置かれた状況が理解できず、不安に胸の辺りで手を握り締めて顔を上げる。
俺の目に飛び込んできたのは戦場だった。
鎧に身を包んだ屈強な男たちが相手するのは巨大なクモみたいな生き物。
硬い鱗のような肌が赤黒く光って、傷口から黄色っぽい体液をダラダラと垂らしている。
その酷い匂いに思わず走り出す。
――なんだ、あれ……どうなってんだ!?――
自分がどうしてここにいるかわからない。
というか、『ここ』がどこなのかも全然思い出せない。
「わあああっ」
パニックに大声を上げ俺は走り出した。
行くあてなんてハナっからない。
とにかく本能的に感じた命の危険から離れる所まで全速力で駆け抜けた。
あんなモノの側には居たくない。
どのくらい走ったのか、気がつくと戦場から離れ小さな街道に抜けていた。
振り返っても遠くに声が聞こえるだけで、あのクモみたいな生き物は見えない。
「はぁっ……」
俺は息をついて道の上にへたりこんだ。いつの間にか痛みと後悔は消えている。
――その代わりに感じるのは不安。
俺は自分の両手を見た。
太くも細くもなく、傷もない男の手。
他人の手を見ているような不思議な感覚にしばし考え込む。
次にその両手を肩に繋いでいる腕。
袖をめくり上げてみても右腕はなんともない。
左腕をめくり上げ、俺はそこに引っかいたような傷があることに気付いた。
傷自体は古いものの、その上をつい最近また傷つけたような痕がある。
「『エス』……?」
その傷が形作っている文字を思わず口に出す。
見覚えのないその文字より、聞き覚えのない自分の声に驚く。
「あー……」
小さく声を出し、自分の手や声にさっきから感じてた違和感の正体に気付く。
――俺は……誰だ?――
慌てて顔に触る。骨格は――人間だ。髭は生えていないし眼鏡もかけていない。
引っ張って見えた髪の色は赤毛。後ろで好き勝手に跳ねているのを触った感じでは
多分癖はかなり強い。
半袖の色あせた藍色のシャツに同じようなズボン、泥に汚れたブーツを履いている。
シャツの上には心臓を守るような革の胸当てをしているが、戦闘に参加したような傷はない。
そもそも、武器のようなものを持っていないし、戦っていた記憶もない。
――そう、記憶がない。
手がかりを求めてズボンを探っても何も出てこない。
期待を込めてきつい胸当てをはずし、胸ポケットを探したがやっぱり何もない。
不安に胸に当てた手になにか冷たいものが触ったのに気付き俺は指先で手繰った。
――ネックレス?――
外してみるとそれは小さな鍵を鎖で吊るしただけのようだった。
特に装飾的な価値や手がかりはなさそうで、俺はもう一度腕を見た。
『エス』、手がかりはこの文字だけ。
俺の名前だろうか?
何か思い出そうとしても、はっきりした事は何も思い出せない。
自分が男で、そんなに年はとっていないと直感的に感じるがわかるのはそれだけだった。
――これからどうすればいいんだろう――
俺はぼんやりと背後を振り返る。
さっきまで聞こえてきた怒号はもう収まり、走り抜けてきた雑木林は梢が風に揺れるだけだった。
あれはプルブレア。銀の葉が美しく茂り、風の匂いから考えると季節は初夏。
その足元にはまだ若いジュニパー。
自分の名前すら覚えていないのに木々の名前だけ覚えている自分が可笑しかった。
「フェン!ここにいたんですか」
背後で誰かの声が突然聞こえ、俺は振り返った拍子に尻餅をついた。
「あ、すみません、脅かして」
その声の主はぺこっと頭を下げて俺に手を伸ばす。
腰には武器を下げ、身につけた革鎧は本格的で、俺のとは比べ物にならないくらい汚れている。
「あんたは誰だ? 」
俺はその手を見るだけで掴まろうとはしなかった。
男は軽く首を傾げ、穏やかで少し寂しげな笑みを見せた。
「あなたの護衛のバルドです」
「俺の? 」
「はい」
「俺はそんなの……」
知らない、と言いかけて俺は口ごもる。
「記憶がないんですね? 」
バルドと名乗った男に聞かれ俺は小さく頷いた。
「『壁』を張った証拠です、フェン。あなたが皆を救いました」
「救った? 」
全く話が見えない俺の手を強引に掴んでバルドは俺を立ち上がらせた。
「わからないのも無理はありません。まずは一度戻りましょう」
「戻るってどこへ? 」
オウム返しに聞き返すだけの俺に慣れているのか、バルドは慌てる素振りを全く見せない。
「あなたと――僕の家です、フェン」
俺はもう一度腕の傷を見た。
「俺の名前はエス、じゃないのか? 」
「いいえ」
バルドはその傷をちらりと見て首を振った。
「――とにかく、一度戻りましょう。もう日が暮れます」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さっき見たとおりの赤毛。
かなり癖は強く、うねった髪が耳を隠すぐらいまで伸びている。
大きくも小さくもなく特に特徴のない瞳は茶色。
見た目では多分、二十代。
背はさっきのバルドという男より少し低いが、途中まで同行した兵士を見渡す限り
特別低いというわけではないらしい。
俺は鏡を持ったまま眉をしかめたり口を開けたりしてそれが自分だと確認したが
特別な感慨は湧かなかった。
「フェン-エクサ、22歳、出身はファルシン。あなたは軍人で、『オブリビオン』です」
俺の前にカモミールの香りのするお茶を置き、バルドは向かいに座った。
「ありがとう」
俺はその落ち着く香りに誘われマグを手に取る。
明るいオレンジ色の大きめのマグの感触は、穴だらけの頭の隙間にぴたっと収まった。
「あなたのカップです、フェン。オレンジ色が好きだった」
無言で頷いて色の薄いハーブティーを飲む。
「……それから、カモミールのお茶も好きだった」
バルドは柔らかい笑みを浮かべた。
「軍人、って言ったよな」
俺がその目を見るとバルドは頷いた。
「あなたは『壁』を張れる特殊な力の持ち主です」
バルドは言って横においてある革で裏打ちされた書類を読むように勧めた。
流麗な文字で書かれたその書類には「フェン-エクサ」の署名と小指の印があった。
読み進める俺に説明するようにバルドが語りかける。
「――魔の者を防ぐ『壁』を張れるのはあなたや一部の限られた人間だけです。
ほとんどの場所に防壁は築かれていますがそこに亀裂が入ると
今日のように魔の者がこの世界に入り込みます」
バルドの言葉はこの書類をわかりやすく噛み砕いた内容だった。
その『壁』の亀裂を直せるのは俺のような特殊な人間で、その代償に記憶をなくすらしい。
国はその能力を持つ人間――『オブリビオン』を軍人として登用し、バルドのような護衛兼副官を
つけてくれるようだ。
「で、俺はどうすればいいんだ」
書類を机にぞんざいに戻し俺は頬杖をついた。
「どう……って? 」
「これからどうやって生きていけばいいんだ? 」
バルドはやっと意味がわかったように頷いた。
「月に一度軍部に行くだけであなたの生活は保障されてます。働く必要もありません」
その言葉に俺は目を見開いた。
「……ただし、亀裂を封じる必要があれば出動しなければなりません」
「またそこまでの記憶をなくすのか? 」
俺の声にバルドはうつむいた。
「忘れてしまうのは悲しいかもしれませんが……」
「悲しくなんてない」
俺はバルドの言葉を遮って立ち上がった。
『悲しい』なんて感情は覚えていない記憶に対して感じていなかった。
何もわからない世界にいる不安と自分が何者かわからない苛立ちがあるだけだった。
俺の護衛だと言うこの大人しい男に当たっても仕方がなかった。
腹立ち紛れに壁を殴り、窓の外に目を移す。
「――その庭、あなたが造ったんですよ、フェン」
背後でバルドが立ち上がった気配がした。
「あなたは木や植物を育てるのが好きだった。裏には立派な畑もあります」
その言葉に薄暗い庭に目を凝らす。
とうに日が暮れて薄闇が迫っていたが、そこに植えられた植物の名を俺は全て知っていた。
何もわからない世界で覚えているのが植物だけ、というのは馬鹿馬鹿しいが
それだけでも俺には嬉しい発見だった。
「……木や草の名前は思い出せる」
「そうでしょう? 」
俺の言葉にバルドは嬉しそうに笑った。
「どんな大きな亀裂を塞いでも、あなたは花や畑の事は一度も忘れた事がなかった」
「家族とか……友達の事は?」
バルドは首を振った。
「……大事な事ほど忘れると言います」
俺はため息をついた。
「――でも、僕が覚えています」
バルドは俺を元気付けるようにわざとらしく笑い、椅子の背にかけてあったエプロンを手に取った。
「明日から少しずつ今までの事を話します。……今日は一つだけ覚えてください」
俺が視線を向けると慣れた手つきでエプロンを着ける。
ついさっきまで戦場で汚れた鎧を着ていたと思えない姿だった。
「……僕は料理が趣味で、あなたは僕の豆のシチューが大好物なんです」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「おかわりしますよね? 」
「……ああ」
バルドの言葉に俺はスープボウルを差し出した。
確かにこの男の作る料理は絶品だった。俺の好物をいろいろと作ったらしい。
「はい、まだありますよ」
湯気の立つボウルを渡し微笑む男はおよそ軍人に似つかわしくない。
バルド-クアンベリ。それがこの男の名前らしい。
俺より一つ年上で二年ほど前から俺の護衛任務についたと本人は言っている。
俺は全く覚えていない。
護衛といっても武力が必要なのは魔の者があふれ出した戦場で『亀裂』の場所へ
俺を届けるぐらいで、実際の任務はオブリビオンと共に生活し、失くした記憶を補完し
元の生活に戻す事のようだった。
俺が忘れた日々の日課や趣味、人間関係を記憶し、次の仕事まで滞りない生活を送らせる。
バルドの話によると俺が『亀裂』を塞いだのはこの二年で八回。
今回のようにほとんどの記憶を失ってしまうような大きな仕事は五回目だという。
俺とバルドの仲は良好で、俺の育てた野菜をバルドが料理し穏やかに暮らしていたらしい。
物腰の柔らかいこの男の話に嘘っぽさはないが、全く軍人らしくない生活だったようだ。
「どうしたんですか?フェン」
バルドは食べ終えた後もスプーンを持ったままじっと見つめる俺を不思議に思っているようだった。
「あんたは俺の事を色々知ってるみたいだが、悪いけど正直初対面としか思えない」
「……すみません、少し馴れ馴れしい態度でした」
「ちがう、そうじゃないって」
俺は慌てて顔の前で手を振った。
「何かをした記憶もないのにあんたに世話してもらうのは悪い気がしてるんだ」
「あなたはあの区域の住民を救いました」
「……と、言われても実感がわかない」
「それに、僕はあなたの部下です」
「それも実感が湧かないよ」
いろいろと気を使うバルドには悪いが、それが正直な感想だった。
なまじ向こうが俺の知らない俺を知っているだけに薄気味悪い部分もある。
「……もう一度最初から友達になりましょう」
静かにバルドが言った。
そんなセリフを正面から二十歳を超えた男が言うのは奇妙だが、バルドは照れもないようで
俺も毒気を抜かれてしまった。
「ああ……」
「ではよろしく、フェン」
出された手を俺は今度は躊躇わず握った。
「よろしく……バルド」