僕はイケハヤのブログを読むと、いつもエミリー・ブロンテという作家に思いを馳せずにはいられない。
エミリー・ブロンテという人は大変人見知りが激しい女性だったらしく、その人生のほとんどの時間をヒースの原野の中にある自宅で過ごしたと言われている。
イケハヤのように似非コミュ障ではなく、生粋のコミュ障として「嵐が丘」というただ一編の物語を想像力のみによって書き上げたが、当時は全く評価されず、失意の中その短い生涯を終えた。
だが、そのたった一つの「嵐が丘」は今もなお人々に読まれ続けている。物書きにとって「救い」とは何だろうか。それは自分が死んだ後も人々に読まれ、それが誰かの心の中で生き続けることではないだろうか。
そう考えたとき、イケハヤの書いた数多の記事に時代の風雪に耐えることができるものがどれほどあるだろう?広告収入目的で人を煽るような記事、マーケティングを凝らした記事、記事のほとんどが引用で構成されているような記事、そんなのばかりじゃないか。そんなものを千、一万と積み上げたところで何一つ救われない。所詮誰の心にも残らず消えていく存在でしかない。
イケハヤはいつも言う。明日死ぬかもしれないから会社でやりがいのない仕事なんてしている暇はないのだと。自分が1年後生きているかどうかも分からないのだから、少しでも「多く」記事を書きたいのだ、と。
だが、そうした主張を見るたびに僕はいつも彼の言うことは詭弁だと感じる。なぜなら本当に自分の命が残り僅かで、死と隣り合わせに生きている人間は、何本書いたとか、どれだけ書いたとか、そんなくだらない数などにこだわらず、本当に自分が残したいものだけを書きたいと思うものだからだ。
明日死ぬことが確定した人間が、ページビューや広告収入を報告する記事なんか書くと思うか?そんなもの書いてなんになる?つまり心の奥底では近いうちに自分が死ぬかもしれないだなんて思ってないってこと。
そのことに死ぬまで気づかないであろうイケハヤには心底絶望しか感じない。
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