「裁判所の決定には信じられない思いでいっぱいです。私たちの主張をまったく汲み取ってもらえませんでした。このままでは終われません」

 神奈川県在住のアキさん(仮名33才)はそう語る。小柄な体にまっすぐな瞳。真摯で丁寧な口調から、過酷な生い立ちに負けない意志の強さを感じさせる。彼女は生まれてから今年6月までの33年間、戸籍がないまま生きてきた。

 8月7日、藤沢簡易裁判所は、アキさんの出生届を提出しなかった母親に対し、「戸籍法違反」と認定。過料5万円を科す決定を下した。異議申立ては認められず、母親は横浜地裁に即時抗告した。

「血の通った判断ではない」

 アキさんのこの言葉には、国と闘う覚悟と司法の無理解への絶望が同時に滲む。アキさんが生まれたのは1982年2月。母親と交際男性の間に生まれた子だった。アキさんの生まれる前、母親は九州地方で前夫と結婚生活を送っていた。しかし、前夫から日常的に激しい暴力を受けるようになり、1980年、逃げるように家を出て神奈川県に移住。アキさんの父親となる男性と同居を始めた。

 アキさんが生まれ、役所に出生届を提出しに行った母親は、窓口でこんな事実を告げられた。

「離婚が成立していないので、生まれた子供は前夫の戸籍に入ることになります」

 背景にあるのは民法772条。

《婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定する》

 法律の壁に立ちすくむ母親に、役所はさらに恐ろしい事実をつきつける。

「出生届を提出すると、私の存在と居所が母の前夫に知られることになると言われたそうです。

 酒乱で酒を飲んでは母に暴力をふるい、時には包丁を持って追いかけたり、斧を投げつけることもあったと聞きました。母が家を飛び出した時も、あらゆる所に電話をかけ、しつこく探したといいます。そのため母は息を潜めて暮らしてきました。

 もし居場所が見つかってしまったら自分だけでなく娘の私まで命の危険にさらされる。やっとの思いで手に入れた平穏が、私の出生届によって壊れてしまう可能性があったんです」(アキさん)

 前夫に知られず出生届を出す方法はないか。アキさんの両親は家庭裁判所に足を運んで相談したが、「前夫への連絡は避けられない」と突き放された。母親は出生届の提出を断念せざるを得なかった。こうしてアキさんは無戸籍になった。

 法務省の調べでは、現在、無戸籍の人は全国に少なくとも665人いる。アキさんの代理人を務める南裕史弁護士によれば、この数字は氷山の一角だという。

「665人というのは、あくまで行政に相談に来た件数です。アキさんの母親のように、夫のDVのために隠れて暮らすしかない人々は、相談にも行けない。そうしたケースは人数にカウントされません」(南弁護士)

 支援団体「民法772条による無戸籍児家族の会」(井戸正枝代表)によれば、全国に1万人以上の無戸籍者がいると推定している。過去にNHKが全国の県庁所在地など主要自治体118か所から回答を得たアンケートでは、9割を超える自治体に無戸籍者が存在した。法務省で確認された665人のうちおよそ7%は、アキさんの母親と同じように、配偶者のDVにより出生届が出せなかったケースだという。

 2014年度のDV認知件数は過去最高の5万9072件(警察庁調べ)。配偶者の暴力等を原因とする離婚は増加の一途を辿っており、それに伴い、社会の目が届かない無戸籍の子供も増えていることが懸念されている。

 昨年、義務教育年齢にもかかわらず学校に通っていない居所不明児童、いわゆる「消えた子供」が全国で3000人に上ることが発覚し、社会問題となった。だが、無戸籍者は消えたのではなく、“最初からいない”ところに問題の根深さがある。南弁護士が語る。

「彼らは一切の身分証明がないんです。自動車の運転免許も取れないし、銀行口座を作ることも、携帯電話の契約をすることもできません。パスポートも作れず、選挙権もない」

 アパートやマンションの賃貸契約は結べず、前述のように、健康保険に加入しないと病気になったら高額の医療費を全額自己負担しなければならない。今話題のマイナンバーも無戸籍者には届かない。

※女性セブン2015年11月12日号

全文を表示