過去ログ移転作業の続き。
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フィリピン
投稿番号:18747 (2003/08/14 03:49)
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1512年、世界一周航海中のマゼランがセブ島に上陸しました。これがヨーロッパ人に大小7100もの美しい島々からなるフィリピン諸島の存在を知らしめることになります。(マゼラン自身はセブ島対岸の「マクタン島」の「ラプラプ王」との戦いに敗れて命を落とします)
16世紀後半からスペインのフィリピン侵略は本格化し、1571年にはマニラを植民地経営の根拠地と定めました。こうしてフィリピンの民衆は以後400年近く、列強からの植民地支配を受けることになります。
そもそも「フィリピン」という言葉自体スペイン語です。1543年、「ビリャロボス」遠征隊がサマル島とレイテ島に到着した際、これらの島々はスペイン王子フェリペ(のちの国王フェリペ二世)にちなんで、「フェリペナス」と名づけられ、その後全諸島の名称として用いられるようになりました。以降この諸島の人々は元々自分たちとは無縁だった名称で呼ばれることになります。
スペインによる植民地支配は苛烈なものでした。「エンコミエンダ」という地方統治制度が設けられ、フィリピン制圧に功のあった軍人にこの座が報償として与えられ、彼ら「エンコメンデーロ」は私腹を肥やして民衆を苦しめました。成人男子は年間40日以上の強制労働を課せられ、また教会制度の確立によって民衆は二重に搾取されました。
多くの農民は小作農や農奴に転落する一方、カトリック修道会や、スペイン人、華僑、メスティーソ(混血)の大地主が土地を独占し、フィリピンの社会はごく一部の富裕層と大多数の貧困層に二分されたのです。
ところがこういった社会構造が、ごく一部ながらフィリピン人「イルストラド」という有産知識階級(その多くがメスティーソ)を生み出します。彼らの中から有名なホセ・リサールのように、民族意識に目覚めスペインによる支配を批判する者が現れます。
しかしスペインは、1872年の「ゴンブルサ事件」(強制労働や人頭税を抗議してフィリピン人兵士・労働者が蜂起するも即座に鎮圧され、思想的な指導者と見られたフィリピン人神父が惨殺された)など、激しい弾圧を行います。ホセ・リサールも流刑の後あらぬ罪を着せられて処刑されました。(ちなみにホセ・リサールは1888年日本を訪れたところすっかり日本贔屓になってしまい、「日本はすっかり私を魅了してしまった」と日記に記しました。日比谷公園の片隅には「リサール博士投宿記念碑」が建っています)
しかしフィリピン民衆の抵抗は止まず、1896年に秘密結社「カティプーナン」の蜂起を機にして独立戦争が勃発し、各地の農民は山刀や竹槍など粗末な武器で立ち上がりました。
(フィリピン革命政府が、日本政府からの軍需品の購入するためと日本政府のフィリピン独立の支援を取り付けるために使者を送ったところ、宮崎虎蔵(滔天)らアジアの現状を憂う思想家は大いにフィリピン独立戦争に共鳴し、陸軍に働きかけて村田銃を払い下げてもらうなど協力し、一部の有志は独立戦争への参加を希望しました。1899年、一行は「布引丸」という老朽船で陸軍から払い下げられた武器弾薬を携えフィリピンを目指しましたが、途中暴風雨のため沈没したそうです)
ちょうどそのころ、アメリカはキューバ独立戦争の支援というお決まりの能書きを掲げてスペインに宣戦し、フィリピンにも戦線を拡大させました。日本軍がアジアを解放するという口実で侵略を行なったように、アメリカはキューバやフィリピンを助けるという口実で侵略を開始したのです。アメリカの参戦によって戦局は一変しましたが、革命軍とアメリカ軍によってマニラに追い詰められたスペイン軍はアメリカとの申し合わせによって戦火を交えることなく降伏しました。フィリピン領有を巡る両国の交渉が進んでいたのです。
1898年のパリ条約によって、スペインは2000千万ドルでフィリピンをアメリカに売り渡しました。こうしてアメリカはフィリピンを植民地としたのです。
しかし革命政府は1899年1月「マロロス憲法」を公布しフィリピン共和国の誕生を宣言し、アメリカ軍との緊張が高まります。そしてアメリカは新政府に対して攻撃を開始し(これもトンキン湾事件や柳条湖事件のような侵略する側の陰謀でした)、以降約10年間のフィリピン・アメリカ戦争が始まりました。
元々独立運動の指導的立場にあった「アギナルド」は、アメリカの手引きによって亡命先の香港から帰国し、革命政府の大統領に就任しましたが、アメリカの真意が明らかになると狼狽し、結局は寝返ります。まるで口先では国民に徹底抗日を呼びかけながらも度々国共合作を蔑ろにした蒋介石みたいなゲス野郎でした。
フィリピン人がこういう腑抜けばかりだったならば、アメリカ軍はスペインとの戦争のように簡単に勝利を収めたことでしょう。しかし民衆は祖国を守るために立ち上がり、ゲリラ化してアメリカ軍を大いに苦しめました。
そしてまるでこの少し以前までのインディアン大量虐殺のように、半世紀以上後のベトナム戦争のように、アメリカ軍は民衆に対して憎悪をたぎらせ、殺戮しまくるのです。(アメリカ合衆国という国家は、北アメリカ大陸の本来の住人であったネイティブ・アメリカンを虐殺することで成立しました。その後もフィリピンで、日本で、朝鮮で、ベトナムで、アフガニスタンやイラクで、他民族の民間人を虐殺し続けている国家なのです)
サマル島の第九歩兵師団・司令官ジェイコブ・スミス准将はゲリラ戦に悩まされた挙句に、
「私は彼らを牢獄につなぐことなどを欲してはいない。私が欲しているのは彼らを皆殺しにして、焼き尽くすことだ。君たちが彼らをたくさん殺せば殺すほど、焼けば焼くほど、私を喜ばすことになる」(明石ライブラリー38・萩野芳夫「フィリピンの社会・歴史・政治制度」)
「捕虜はいらないぞ。おまえたちは、殺して焼けばよいのだ。一人でも多く殺して焼けばそれだけ私も嬉しく思うだろう」(青木書店・歴史教育者協議会/編「知っておきたいフィリピンと太平洋の国々」より)
と宣言しました。
(一時的に指揮下にあった)海兵隊旅団長L・ウェラー少佐が、
「何歳が限度ですか」
と訊ねると、
「10歳以上の住民全てにこの命令を適用せよ」(同上)
と答えたそうです。
そしてこの命令は忠実に実行されたようです。
「ニューヨーク・イブニング・ジャーナル」の1902年5月5日号には、
“KILL EVERY ONE OVER TEN”と題されたイラストが掲載されました。数人の目隠しされた子供が並ばされ、背後から何名もの兵が銃の狙いを定め、士官らしき者が号令する瞬間が描き出されています(中公新書1367 鈴木静夫・著「物語 フィリピンの歴史『盗まれた楽園』と抵抗の500年」P-151)
「フィラデルフィア・レジャ」紙のルポは、
「米軍部隊は非情で容赦なかった。男女を問わず、囚人・捕虜はもちろん、明らかな反乱分子であれ容疑者であれ、10歳以上なら片端から殺しつくした」「手をあげておとなしく降伏してきた捕虜たちは、暴徒であることを示す一片の証拠もないまま、一時間後には橋の上の立たされ、次々と銃殺されて川面を流されていった。弾丸で蜂の巣にされた死体を、川下にいるであろう連中への見せしめにするためだ」
このようにアメリカ軍の行状を赤裸々に報じました。しかしこういった残虐行為を正当であるかのように述べています。
「これは文明人相手の戦争ではない。相手は、力・暴虐・残忍しか通じない連中なのだ。われわれはだから、通じるべき手段で実行しているのである」(本多勝一「殺される側の論理」より)
後に第26代大統領となったセオドア・ルーズベルトも、このような残虐行為は「対インディアン戦争では何百回となくおこった」のであって、「付随的に残虐行為があったという理由で、文明のための闘争から身を退くことは、偉大な国民にとって全く価値のないことだ」「道徳的な理由でフィリピン群島を放棄しなければならないとすればアリゾナ州もアパッチ族に引き渡さなければならなくなる」(「知っておきたい・・・」より)と発言しました。フィリピンを支配するためにはどんなに虐殺を重ねても構わないと開き直ったのです。
(ところで1901年11月には「暴動教唆法」という、独立を主張した者を死刑または長期刑に処すというメチャクチャな法律が制定されています。これはアメリカ兵にとって民間人を殺すことに対しての抵抗感を薄めることになったでしょう)
約10年間続いた抵抗戦争によって革命軍は約1万6千人死亡し、戦乱による飢餓や疫病で民間人は約20万人死亡したと言われています。またルソン島南部の司令官ベル准将は戦争開始から約2年間でルソン島の人口の6分の1が殺されるか、戦乱による飢餓により発生したデング熱によって死亡し、農家の家畜だった水牛の9割以上が死亡し、米の収穫量が平年の4分の1に減少したと報告しました(「知っておきたい・・・」より)。
このような惨禍を通してフィリピン民衆の抵抗はほぼ制圧され、アメリカの工業製品の市場であり原料供給地でもある、完全なるアメリカの植民地になったのです。またアメリカが押し付ける自国の文化がフィリピンを侵食していきました。スペイン語とともに英語が公用語とされ、富裕階級は英語教育によってエリート層を構成し、フィリピン社会の二極構造は進行していきました。大多数の貧困な大衆の不満は増大し、労働争議や農民の蜂起は絶えませんでした。
ところで共産主義運動は一時的な弾圧の期間を経て合法的な活動を認められ、これは日本占領期のゲリラ組織「フクバラハップ」(抗日人民軍)の形成につながっていきます。
2011年06月30日
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