2011年06月30日

過去ログ移転:朝鮮人独立運動への弾圧に伴う住民虐殺

 過去ログ移転作業の続き。

(この投稿も「現代史資料(28) 朝鮮(四) 独立運動(二)」(みすず書房)より引用させていただきます)
「行軍部隊に随行せる派遣員の情報送付の件 第三信 大正9年10月30日」(P-470)による「不逞鮮人捜査に関して」の条件によると、
「不逞鮮人家屋にして支那人家屋と隔離せるものは之を焼却す」
「不逞鮮人家屋にして支那人家屋と密接せるものは之を破毀す」
このように焼き払い作戦が必要とされていたことを報告しています。

そして「間島事件鮮支人焼却家屋調 第十九師団司令部 大正十年三月一日」(P-545〜571)によると、
日本軍が焼き払った無数の家屋の所在地、家主の氏名、焼却した「事由」が記録されています。以下数例を示します。

「間島事件鮮支人焼却家屋調  第十九師団司令部(大正十年三月一日調)
焼却家屋一覧表(朝鮮人)  歩兵第七十三連隊」
★大正九年十一月二日
事由・・・・・・・・・・支会長住宅にして独立宣伝所
持主住所・・・・・・天宝山土門子
氏名・・・・・・・・・・汝南徳

このように独立運動に係わっているだけでその者の家屋は焼却される運命にあったようです。
また以下の事例によると、一つの集落で一度に20軒の家屋を焼却したそうですが、
それらは全て、

★大正九年十月十一日
事由・・・・・・・・・・不逞鮮人の根拠地にして戦后変装して我軍に抗するため使用す
持主住所・・・・・・和龍県青山里奥地部落
氏名・・・・・・・・・・不明

このように家主の氏名さえ不明だったのです。要するにゲリラがウロウロしているような場所では手当たり次第に焼き払いを行なったのでしょう。
そして同時に独立運動家を次々と拘束し、或はその場で殺害しました。

「不逞鮮人に対する陸軍の西間島示威行軍随行復命書  三、処分方法及結果」(P-472)
「・・・・逮捕取調の結果最寄領事館に引渡すべく軍隊側が支那官憲と協同して押送途中、抵抗して遁走を企たる為已むを得ず臨機の処分をなしたるもの別表の通り八十一名にして、熟れも不逞行動事実顕著にして到底改悛の見込なく之を放置するときは一層該地方の悪化を来し・・・・」

そして、「韓族会区正検察長」「同区正検督」「同決死隊員」「軍政部連絡員」「韓族会員」「韓族会青年団員」・・・・などを「処分」したそうです。
しかしこういった「不逞鮮人」の「処分」は、西洋人宣教師らの告発によると、ジェノサイドの様相を呈すものだったようです。

「日本軍の指揮官および兵卒はある場所に行き、住民とは何ら言葉を交わすことなく、その悪魔のような行為をなしてから通過するのを例としていました。
例えば『ノーベイ』(獐岩洞)村では教会堂の正面に来るや、騎乗の将校が放火に都合のいい距離に更新している軍隊を止め、教会および学校に火を放って通過していきました。
この種の行為に対する理由が村民に明示されたのは『クセイトン』に限られました。つまり軍隊に従軍する一朝鮮人が村民に告げたのですが、ある家屋の所有者が朝鮮に対する盲目的目的のため金員を募ったという事実を、日本軍将校がつかんだ旨言明したというのです。
もし犯人だけが処罰されるのなら朝鮮人といえども反対しないでしょうが、事実はこれに反し、真に無実の民が何ら刑を受ける理由がないということを弁明する機会もあたえられず、処刑されたのです。『カンチャンアム』においては寒い冬がくるというのに、自分や子供を養う何物もなく残された憐れな婦人たちがいます。家族のうちの男子は射殺され、家屋、家財は没収され、家近くに積んでおいた収穫すら灰塵にされてしまったのです。はく靴さえない女子供もいます。
日が昇るとすぐ兵士たちは隣村から6名の男子を連れてきて、その6名と、『カンチャンアム』村の若者とは一朝鮮人家屋の前に一列に並べられ、尋問の形式さえ取ることなく射殺されたのです」(P-671)
(1920年10月20日、間島在住カナダキリスト教長老派の首席、「W・R・フート」が、東京在住の神学博士「A・オルトマン」に宛てた書簡)

「獐岩洞虐殺事件
左に記述する事実は、中国吉林省南部の間島全体を通じて妥当な例証です。
日本は、中国の極めて強行な抗議に耳をかすことなく、できうれば全キリスト教徒、特に全青年を掃滅しようとの企図を以て、本地方に1万5千の兵を出しました。村落は次から次へと毎日組織的に焼却され、青年は射殺されたのです。そのため現に私の住む町は、その周囲に焼却または全員虐殺された村落、しかも通常両方の災難をうけた村落にかもまれているといっても過言ではありません。以下に記述する事項は間違いなく真実で、現に筆者自身が英人の友人と共に目撃したものです。
私どもは10月31日(日)夜明けと共に北京馬車に乗って龍井村を出発し、同地から十二哩の小さな谷底にある獐岩洞部落に向いました。当日は日本の天長節だったため途中日本の兵卒警官等に煩わされることなく、ちょうど狩りにでもでかけるような気分でした。本道から離れて間もなく遠い丘に煙が深く重なり合っているのを望見し、これが即ち我々の目的地であることを示していました。以下、10月30日にその村で実際に起こった事柄を多数目撃者の見聞通りに記述することにします。
夜明けと共に武装した日本歩兵の一隊はキリスト教村をもれなく包囲し、谷の奥の方に高く積まれたわらや穀物に放火し、村民一同に外に出るよう命じました。村民が外に出るや、父といわず子といわず目にふれるものはこれを射撃し、その半死のまま、打ち倒れるものには乾草を覆いかぶせ、識別できない程まで焼いてしまいました。この間母も妻も子女も村内青年男子全部の処刑を強制的に目撃させられたのです。家屋は全部焼き払われて町中が煙と化し、その煙は当市(龍井村)からも望見することができました。日本兵はそれから谷地と本街道間にある村落に散っていき、キリスト教徒の家屋を全部焼き払ったのち天長節祝賀の為帰途についたのです」(P-676)・・・・・長いので後略。
(龍井村のカナダ長老派宣教団所属「済昌病院」院長「S・H・マーチン」の告発。以上二人のカナダ人の文書の邦訳は「現代史資料」編者による)

こうしてこの村落では3ヵ年分の貯蔵食糧と多くの家屋が焼却され、「マーチン」が目撃しただけでも36名の遺体が無残な姿を晒していたそうです。

間島の日本領事館も当然こうした事態を耳に入れていました。「在間島 総領事代理領事堺与三吉」は、各方面からの日本軍の暴虐に関する情報を集め、「間島出動事件資料蒐集の件」としてまとめあげた書簡を1921年6月30日、「朝鮮軍参謀長大野豊四」宛てに送付しました(P-485〜491)。
「龍井村 杢茂一郎」という人は、
「日本軍は規律正しく上官の指揮命令に服し行動終始一貫文明的なり、不法徴発もなく掠奪もなし、婦女子又は無辜の住民には努めて危害なき様注意せり・・・・・」
と、一面では日本軍を評価しながらも、その本当の姿について厳しく告発しています。

「我軍の非難せられたる事例
イ.昨年十月下旬竜井村の近村鮮人部落“水七溝”の鮮人六名を不逞鮮人として検挙し“大教洞”に拉致して惨殺したるが、右六名は何等取調も受けず又事実全然不逞団に関係せざる無辜の良民なり。
当時日本軍の気勢は討伐の矢先に於ける血祭に供したるに過ぎず、即ち指揮将校の気紛の結果なり
ロ.昨年十月下旬獐岩洞襲撃事件の際も何等取調べも無く突然該部落を襲撃し三十余人を殺害し多数の家屋を灰燼に付せり。
然るに不逞に参加したる首魁は日本軍の出動せる前に逃亡し、残余の部落民は不逞者の威嚇強制に余儀なくされ、自己の生命財産の安全を保たんが為に盲従せる次第にて犯罪を構成せざる可憐の村民なりき。
若し彼等を逮捕して充分慎重に訊問したらんには刑に付せらるべき者は恐らく一人も無かりしならん」
(中略)
ニ.討伐軍に堅苦しき正義人道論を強要するは随分困難なる問題なりしも、今度の間島事件は良民の居住部落に不逞団出没し良民を威嚇して強制的に自党に引入れ金品を徴発して軍資金に充てたる次第にて、一概に不逞団と云ふも真に不逞行動の首謀者たりし者は十中一、二に過ぎず、斯くの如き情勢なるが故に討伐としても玉石混淆せば甚だ不幸なる犠牲者を出す筈なり。
因て先ず軍隊の力を以て各部落を検挙し疑はしき者を逮捕し出来得る丈慎重に取調べ、主として主謀犯人を処罰し犯罪の意思なく脅迫の結果独立軍に参加したる輩は訓戒を加へて免除釈放し、日本軍の武士的精神及人道尊重の誠意を示すは朝鮮人懐柔策の見地より必要なりき。
然るに日本軍の行動は全然之に反したり、日本軍の蛮行は軽率気紛れなる青年士官の意思を以て人命を児戯と為し日本軍の名誉を汚損したるは甚だ遺憾とす、日本軍人の上下に今一層人道的精神を養われ度し」(以下略)

「龍井村朝鮮人居留民会長代理」の「姜龍煕」という朝鮮人も、総領事代理領事・堺与三吉宛に日本軍の行状を告発しています(P-489〜490)。
「軍紀正々堂々として人民に害を与ふることなく、戦時状態たりしにも不拘避難するもの殆んど之無く軍隊に信頼すること少からざりしなり、是は実に日本軍隊の称揚すべき点にして・・・・」と、「竜井村 杢茂一郎」という人と同様に日本軍には評価に値する面があるかのように述べていますが、しかしそれは「幾分惨害事項の怨声を緩和せしもの」に過ぎなかったそうです。そしてその「惨害事項」とは極めて残忍無残なものだったそうです。

「家屋及穀類焼失  罪は家屋及穀物にあるものに非ずして人其のものにあるにも不拘此れを全部焼失したるは宜しからず、且つ罪のあるものの家屋、穀物は勿論衣類をも焼失したるは亦止むを得ざる場合ありと雖も全然罪なきものに此の惨害に遇はしめたるは不当と思ふ故に、今後に於ては可成之れが詳細なる調査を為して累を罪なきものに及ぼさざるやう特に取計はれんことを希望して止まず」
「二道溝忠信場平壌村に於ては女子を除く外筍も男子たるものは其の年齢の高下の如何に論なく全部之を殺害したり。殊に何等の知覚なき四、五才の幼児さへ之を共に殺害したるに於ては民心少なからず不平を鳴らし影響多し・・・・」
「武器を持つて抵抗するものは当然之を処置すべきも武器を持たざるものにして何等抵抗せざるのみか表面罪あるが如き様子なきもの(即ち穏順なる農民にして風貌より察するも此にも不穏なきものと認めらるるもの)をすら充分なる調査を遂げずして銃殺したること少なからず・・・・」

(ちなみに、ご多分に漏れず日本兵による略奪行為も行なわれたそうです。
「兵卒にして時に不正行為をなしたることありと聞く、例を挙げれば或るものの家宅捜索を行ふ時贓物の無くなりしことあり、之れを或るものは混雑中軍隊以外のものに窃取せられたりと云ふも、右家宅捜索を行ふ時分は厳重にして他のもの猥りに出入りすること事実上不可能なるを以て此点如何はしと思ふあり。
且つ頭道溝より当龍井村に向け通過中のものに身体検査を行ふ時分、若干の金品を取られたるものありとのことあり・・・・」
まるで現在のイラクに於けるアメリカ兵の如き所業であります・・・)


以上に挙げたような実情は日本軍内部の報告書にも窺えます。
「間島事件鮮支人死傷者調   第十九師団司令部  大正十年二月二十五日調製」(P-520〜544)
では、日本軍による数限りない朝鮮人殺傷の日時、殺害した理由、被害者の住所氏名年齢・職業が一件ずつ記入されていますので数例を紹介します。

「死傷者人名一覧表(朝鮮人)  歩兵第七十六連隊」(P-533〜540)
★大正九年十一月三日  芍開洞に於て銃殺
事由・・・・大韓独立を専ら宣伝したるため
住所・・・・琿春芍開洞
職業・・・・農業
姓名・・・・金明珍
年齢・・・・五十二歳

このように、軍事的行為の有無に関わらず独立運動に携わっただけでも、日本軍にとっては殺害の理由となったようです。

★大正九年十一月四日
事由・・・・多額の金員を醸出し不逞団に与えし不穏行為の跡歴然たるに依り射殺
住所・・・・延吉県依蘭溝西部太陽村
職業・・・・農業
姓名・・・・李明始
年齢・・・・不明

この後、李周香さん、李日在さん、李錫蘭さん・・・・と、「李」姓が11人続きます。いずれも年齢は「不明」。
どうも李さん一家を皆殺しにしてしまったようです。この一家は全員、「不穏行為の跡歴然」だったのでしょうか???


「死傷者人名一覧表(朝鮮人)  歩兵第七十三連隊」(P-520〜523)
★大正九年十月廿四日
事由・・・・不逞鮮人として取調中抵抗したるに付銃殺す
住所・・・・不明
職業・・・・不明
姓名・・・・不明
年齢・・・・不明

以下、住所氏名・職業・年齢・電話番号(?)不明のまま、6人を同じ「事由」で銃殺したそうです。
つまり、朝鮮人らしき人々を連行しようとしたら騒がれたため殺してしまっただけではないでしょうか?

★大正九年十月廿一日
事由・・・・戦闘中及戦闘後変装して隠匿せるもの射殺刺殺
住所・・・・不明
職業・・・・不明
姓名・・・・四九名何れも不明

殺害された49名のうち「戦闘中」の犠牲者はそのうち何名だったのでしょうか?
つーかゲリラを追いつつ、村人を集団虐殺したのが真相ではないでしょうか?

★大正九年十月25日 和龍県城岩に於て銃剣にて突殺す
事由・・・・独立団に加入し不逞鮮人なること確実
住所・・・・不明
職業・・・・不明
姓名・・・・不明
年齢・・・・不明

こうした「事由」で、住所氏名・職業・年齢・学歴(?)全て不明のまま、4名を殺害したそうです。
職業どころか名前すら分からないのに、どうして「不逞鮮人なること」が「確実」だと、断定できるのでしょうか?
以上の事例は、日本軍の行なった「不逞鮮人の剿討」とはヤケのヤンパチの無差別殺人だったことを如実に示していると言えるでしょう。
ちなみに上記の「獐岩洞虐殺事件」は、「間島全体を通じて妥当な例証」だと喝破したカナダ人「S・H・マーチン」からの告発に対し、日本軍は苦しい反論を試みています。

「丁に対する弁駁資料  獐巌洞事件」(P-680〜681)
「『マーチン』氏は誇大感情的に記載されある本文の冒頭に於て、獐巌洞事件を以て間島全地区を通じて適応の例証たりと称せるも、斯くの如きは誇大も甚しき言辞にして、我軍にして若し同氏の言の如く日々焼却を事としたらんには、間島一帯は数日にして焼土と化し老幼の外何者をも認むる能はざりしに至りしならん。然れ共此の言の無稽なる一度足を北朝鮮より間島に入るるもの誰人も明言して憚らざる所なり」

・・・・この文章を作成した奴はアホでしょうか?
ベトナム戦争に於いてソンミ村事件のような行為がベトナム全土で行なわれれば、ベトナム人は絶滅したでしょう。「満州国」に於いて平頂山虐殺村事件のような行為が全土で行なわれれば、あの疑似国家には中国人は存在しなくなったでしょう。同じように間島全土で“獐岩洞”虐殺事件のような行為が行なわれたわけではありません。なんで当たり前のことをわざわざ言うのでしょうか?
しかし「マーチン」は、日本軍の間島侵攻は、朝鮮人に対しての無差別殺戮に至らざるを得ないものだったことを簡潔に言い表しています。このような、民族を抑圧する帝国主義国の本質が最も明確に現れたのが、間島に於いては獐岩洞事件であり、ベトナムに於いてはソンミ村事件だったのです。

(上の続き)「獐巌洞に於ける出来事は其家族に対しては同情禁ずる能はざるものありと雖、彼等不逞行動を敢てせる鮮人団討伐に伴う自然の結果にして避くべからざるものとす。其詳細は別冊を参照せられたし」

結局、獐岩洞虐殺事件の事実については認めていますが、「不逞鮮人」の行動が原因だと、一種の責任転嫁をしています。このスレの上の方で紹介した、ソンミ村事件についてのアメリカ人の言い訳と同様です。
アメリカがベトナム統一を妨げるために介入しなければ、ソンミ村事件は起きませんでした。同じように日本が朝鮮を植民地化しなければ、独立運動など発生するわけがなく、獐岩洞事件など起きるわけがなかったのです。こういう子供でも分かる単純なことを、当時の日本人やアメリカ人は理解できなかったようです。


・・・・以上のように日本軍は中国領間島地方を荒らしまわり、朝鮮人を無差別に虐殺し、間島に於ける朝鮮人独立運動に大打撃を与えました。同時に、独立を願う朝鮮人を徹底的に押さえつけ、また懐柔しようと画策しました。時の朝鮮総督斉藤実は1920年11月13日、外務大臣内田康哉宛てに「帰順者の取扱に関する件」という文書を送付しています(P-645)。

「帰順者の取扱は大体左記標準により取扱はれ度。
(一)、帰順者に対しては従来の行動を具体的に記述せる自首申告書を提出せしむること
(二)、其の罪状重くして後害を生ずる虞ある者は帰順を許さず、直ちに処断すること。但し不逞団の掃蕩又は特別功労を立つる見込みある者に対しては此の限りにあらず
(三)、帰順を許したるときは相当信用ある者の保証書又は部落民一同の保証書を提出せしむること
(四)、帰順者には帰順票を附与し仮良民として注意し住所移転等の場合は総て所轄警察署に届出しめ其の行動を監視し改悛の情顕著なるもの又は功績あるものに対しては監視を免除し良民として処遇す」

この施行により多くの間島在住朝鮮人が、
「自大正九年十一月十六日、至大正十年一月六日  基準申告者名簿(在間島日本領事館局子街分館)」
に名を連ねています(P-651〜660)。

しかしそれでも、間島に於ける朝鮮人独立運動が消滅したわけではありませんでした。この時代の全世界的なマルクス・レーニン主義の興隆によって1925年に朝鮮人共産党が結成され、日本の激しい弾圧を避けてシベリアや中国東北部で分裂・合体を繰り返しながら活動を続け、1930年には中国共産党と合流し、「間島5.30蜂起」を起こし日本の領事館や官公庁などを破壊しました。その2年後には間島地方も「満州国」という名の日本の植民地になってしまいましたが、中国共産党指導下の「東北人民革命軍」との同盟関係の下に金日成(あの独裁者とは別人)らが率いる抗日パルチザンの活動が本格化しました。1920年の日本軍侵攻の後も、間島地方は朝鮮人独立運動の一大策源地であり続けたのです。

ましてや朝鮮半島に住む民衆は、いかに激しい弾圧が加えられようとも独立への望みを捨てることはありませんでした。日本は朝鮮人の心まで武力で従えることは出来なかったのです。
もし仮に・・・・日本が太平洋戦争を起こさなければ、1945年に日本の朝鮮支配が終結することは無かったかもしれません。しかしそれでも朝鮮人による独立運動は年々激化していったでしょう。そして日本は激しい弾圧を行ない、凄まじい三光作戦を展開したことでしょう。しかしそれは朝鮮人全てを殺し尽くすまで決して完了することはない、虚しい足掻きに過ぎないのです。
結局、日本は朝鮮半島を完全に支配することなど出来なかったのです。朝鮮半島を完全に自国の領土と化すことも、朝鮮民族を完全に日本人にすることも、全く叶わぬ願いだったのです。
完璧なる「日韓併合」とは、すなわち朝鮮民族を絶滅させることだったのです。



以下は余談ですが・・・・
私は「シベリア出兵 革命と干渉1917-1922」という本を読むまで、日本軍がシベリア出兵によって多くのロシア民衆を殺し、朝鮮人独立運動を弾圧したことを知りませんでした。つーかシベリアや中国領間島地方にて、朝鮮人の独立運動が行なわれていたことすら知りませんでした。そもそも、恥ずかしながら間島出兵自体、インターネットで遊び始めてから知ったことなのです。これでも一応高校までは出ているんですけどね(^ ^;)

自国が行なったこれらの恐るべき残虐行為が学校教育の場で全く触れられていないこの現状は、この国の教育の至らざる点だと言えます。自国の歴史について正しく教え、正しく学ぶことは国民にとって当然のはずです。
(規模はともかく)南京大虐殺よりも遥かに悪質で、侵略軍の本質が露わになった事例であるシベリア出兵や間島出兵での蛮行について無視するわけにはいきません。
扶桑社教科書のようなエロ本について云々するよりも、このような歴史教育の不備が本当の「教科書問題」と言えるでしょう。

ちなみに・・・・間島出兵についてのネット上での情報量は極めて貧弱なものです。中でも最も有名な虐殺事件である獐岩洞事件について、Googleで“獐岩洞”というキーワードで検索してみたところ、

******************************
獐岩洞に該当するページが見つかりませんでした。
"獐岩洞"を含むページは見つかりませんでした。
検索のヒント
- キーワードに誤字・脱字がないか確かめてください。
- 違うキーワードを使ってみてください。
- より一般的な言葉を使ってみてください。
******************************

という検索結果が返ってきました!
“獐巌洞”で検索しても同じです。(“獐巖洞”で検索したらやっとハングル語のページが二件出てきました。無論内容はサッパリ分かりませんので、“間島”や“吉林”などの地名とANDで再検索してみたところ結果はゼロ件になってしまいました。どうやらこの二件は間島出兵についてのページではないようです)。
驚くべきことですが、現在のところweb上には、この残虐行為についての記述は存在しないようです。
インターネットというメディアが一般化してまだ10年と経ちません。もしかしたらこの投稿が、初めてweb上に登場する「獐岩洞事件」についての記述かも、しれません。だとしたらこの事件を起こした民族の末裔の一人として実に嘆かわしいことであります・・・・・。
posted by 鷹嘴 at 21:24 | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/253151782
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック