2011年06月30日

過去ログ移転:「琿春事件」という陰謀

 過去ログ移転作業の続き。


日韓併合の3年前の1907年に調印された「第三次日韓協約」は、朝鮮の独立を形骸化するものでした。
政府内の主要ポストに日本人を据えることが規定され、これによって立法・行政・司法を日本が牛耳ることになりました。さらに「整理」という名目で実質上の軍隊解散を要求したのです。
しかし各地の朝鮮軍は武装解除に応じず逃走しゲリラ化し、以後激しい「義兵闘争」が始まります。圧倒的に優勢な兵力の日本軍も、民衆の中に溶け込んだ「義兵」による神出鬼没なゲリラ戦によって、困難な戦いを強いられます。
朝鮮駐箚軍司令部の「朝鮮駐箚軍歴史」は、ゲリラと戦うことの困難さを次のように記しています。
「暴徒討伐は尋常の戦闘と其の軌を同うせず。毫も抵抗力なきと同時に、之を殲滅すること亦容易ならず。蓋し彼等暴徒は其の服装の良民と異らざるのみならず、時、利ならざれば直ちに武器を投じて良民に互し、偏に我鋭鋒を避けんとす。其の隠現出没の巧妙なる、討伐隊をして殆ど奔命に疲れしむの結果に出でしは遺憾に堪えざる所なり」(「韓国併合」より)

このように民間人と戦闘員の区別のつかない状況に苦しんだ朝鮮駐箚軍司令官は1907年9月、「匪徒にして帰順するものは敢えて其罪を問はず・・・・・・若し頑陋悟らず或は匪徒に与し或は之を隠避せしめ或は凶器を蔵匿する者に至りては 厳罰毫も仮す所なきのみならず 責を現犯の村邑に帰しめ部落を挙げて厳重の処置に出づべきを暁諭」しました。(朝鮮駐箚軍歴史・・・・「シベリア出兵」より)

ここでいう「厳重の措置」とは、具体的には「誅戮を加へ若くは全村を焼夷する等の処置」でした。つまりは義兵が潜伏していると見られる村落を焼却し、ゲリラ戦の根源を立つことを思いついたのです。こうして併合直前の朝鮮半島に於いて、後年の侵略戦争に於ける行為と同等の三光作戦を始めてしまうのです。日本軍による三光作戦は20世紀に入ったばかりの1907年に於いて、既に実行されていたのです。

この作戦に従って怪しいと見られた農村は丸ごと焼き払われました。義兵の根拠地だった忠清北道堤川では、討伐に向った部隊は「将来の禍根を解除する為、村落の大部分を焼夷」(「韓国併合」より)しました。イギリスの「デイリー・メール」の記者のマッケンジーという人は焦土と化した現場を取材し、そのあまりの惨状に「堤川は地図の上から消え去った」(同上より)と記したそうです。
「コリア・デイリー・ニュース」などを発行して日本の朝鮮侵略を抗議していたイギリス人のベセルというジャーナリストは、日本軍の義兵鎮圧を「文明の方式によらず、残忍野蛮の挙措」(同上より)と非難しました(その後彼は日本政府の依頼を受けたイギリス政府に禁固刑を受けます)。このような、朝鮮を「保護国」にするはずなのに逆にこの国を破壊しつくすが如き暴挙について、朝鮮統監・伊藤博文さえ「苛酷に失する軍事命令あり」(同上より)と懸念を表明しています。
こうして日本は三光作戦を実施することによって義兵を鎮圧し、朝鮮半島を植民地化しました。日韓併合とは三光作戦の賜物だったのです。


・・・・・さて、シベリア出兵に於いて民衆を虐殺していた日本軍は、前回示したように当地での朝鮮人独立運動も弾圧し、これに大きな打撃を与えました。しかし朝鮮人が国外で独立運動を行なっていたのはシベリアだけではありませんでした。
ウラジオストック「新韓村」での独立運動家一掃の報を受けた斉藤実・朝鮮総督は、「不逞輩の一策源地」を潰してくれたことはありがたい、「望らくは烟秋より琿春方面に渉る露領も一掃相成様なれば」、間島方面における「蠢動」を討伐できるから、吉報を「鶴首」してますよ、と述べています(「シベリア出兵」より)。

朝鮮と中国の境界は、(金日成の生誕地だとされる)白頭山を主峰に頂く長白山脈を水源に東西に流れ出る鴨緑江と「豆満江」(=図門江)によって隔てられています。
朝鮮北部の国境線を形作り日本海に注ぐ豆満江の北側、つまり朝鮮北東部の威鏡北道と接する中国領は、当時「間島(カントウ)」と呼ばれていました(この地域を「北間島」、黄海に注ぐ鴨緑江流域を「西間島」と呼称することもありました)。
「近代東アジアの歴史力学」という本によると、「間島」は現在の中国東北区吉林省南部の「延辺朝鮮族自治州」にあたり、その面積は吉林省の四分の一の約4万2700平方キロメートルを占めるそうです。当時は張作霖の支配下にあり、後に「満州国」という擬似国家の一部になったこの地方には、古くから朝鮮族が移り住み、現在215万の人口のうち約四割を朝鮮民族が占めるそうです。
この地帯は昔から中国と朝鮮の何れかの領土かはっきりと定められていない「封禁地帯」でした。両国の了解によってこの地帯に両国民が移住することは禁じられていましたが朝鮮民族の流入は止まらず、1881年には清国が朝鮮人の退去と間島の領有権を主張しています(「近代東アジアの歴史力学」より)。
もちろん朝鮮を保護国化しようとしていた日本もこの地帯に無関心ではありませんでした。間島が朝鮮領と認められれば自然に日本の勢力範囲となるからです。1907年2月8日の閣議によって間島進出が決定され、間島を視察した日本軍将校は「間島は韓国の領土たるべきことを前提として事に当る」方針と、「朝鮮政府より間島仮定地域内の韓国民を統括する一切の権を委任せしむること」を、伊藤博文に「請願」しました(同上より)
その後1909年の「間島協約」によって、間島は清国の領土であると認められましたが、日本は間島への警戒を怠りませんでした。「統監府間島派出所」は廃止されましたが代わりに「間島の日本人と朝鮮人の保護と統制」という目的のために「龍井村」に総領事館が、他の各所にも領事分館が設置されました(同上より)。間島に住む朝鮮人の動静は、朝鮮半島を支配しようとする日本にとって黙視できないものだったのです。

そして1910年の日韓併合によって、間島地方は日本の新しい領土と「豆満江」を挟んで向かい合うようになり、間島の朝鮮人の人口は徐々に増加していきます。併合以来の日本の失政による朝鮮民衆の貧困化は、間島への移住を加速させたのです。1919年の三・一独立運動を弾圧した憲兵隊も、相次ぐ新税や小作料の上昇による貧富の差の拡大によって、間島へ脱出する貧民が多くなったことを指摘しています。

「大正八年騒擾事件状況  一.騒擾事件発生前に於ける民心の状況
●慶尚北道
「欧州戦乱以来諸物価は著しく奔騰し、就中昨夏以来穀類の暴騰は未曾有の事に属し、細民の生活難に苦しむもの尠なからず、而も此等農産物の昂騰は一面中流以上の地主側に富裕を興へ、富者は益富み、貧者は愈貧窮に陥りたり、従て地主は横暴を極め小作移転の如き時に無情の措置をなすものあり、小作料の値上げと税金の増出は名実相伴わずして、依然小作人の負憺に帰し、細民の生活上脅畏を感ずるに至れり、加ふるに下層階級間に於て平素動もすれば怨嗟を漏らしつつある諸法令(特に諸税令)の雨下は頗る之を煩瑣苦痛なりとするの感念を昂め、其の苦痛を避け糊口の安楽を求めん為、間島に移住するもの大正七年九月以降大正八年三月迄の移住者は、実に一萬四千二百人に達し之を前年の同期二千二百人に比すれば六倍強の増加を来す等、民心漸く倦むまんとするの傾向あり・・・・」(「朝鮮騒擾事件状況」P-13より)

「近代東アジアの歴史力学」の人口統計表(P-329)によると、
1910年の間島の朝鮮人の人口は7万3000人だったのが、
1916年には20万3422人、
1919年には29万7150人と、
併合から十年足らずの間に4倍以上に増加しています。北朝鮮の貧しい人々が鴨緑江を渡って中国へ亡命するように、日本統治時代の朝鮮もまた、貧しい生活に堪えかねた人々が続々と母国を捨てることを決意したのです。
また朝鮮人にとって間島は、生活の問題だけでなく政治運動の場としても母国より恵まれた場所で、日本の官憲の力が及ばないこの地方では朝鮮独立運動が活性化していきました。この情勢は日本にとって実に憂うべき事態でした。日本にとっては朝鮮人が地球上のどこに住んでいようとも、独立を口にすることは許せなかったのです。しかも間島に於いては独立運動家によって軍隊が組織され、彼らはしばしば国境を越えて襲来し、憲兵を射殺し、官公庁を攻撃しました。特に三・一独立運動以降はより激化し、独立軍が大挙進軍するという噂がまことしやかに流れ、国境付近の「面」事務所などは恐怖の為に欠勤する者さえ多かったそうです(現代史資料(28)の序文より)。朝鮮民族による侵略者・日本に対する祖国防衛戦争は継続していたのです。

日本はこの状況を危惧し、張作霖政権側にしばしば朝鮮独立運動を取り締まるように要請しましたが、その回答は芳しいものではありませんでした。
「間島方面に於ても亦捜査班を編成し“町野”督軍顧問を派遣することに決定し、“町野”中佐は之が打合の為五月十七日吉林に至り吉林省長“徐鼎林”と会商せしが、省長は之に反対し、『不逞鮮人と称するものは何れも政治犯人なるが故に支那は之を剿討すべき理由なく、又間島方面よりの報告に依れば該地方には大なる騒擾なきが如く、殊に之が取締に関しては既に規定を設け、道尹以下をして実施せしめつつあり』との理由を以て之に応ぜず・・・・」(「間島地方不逞鮮人取締に関する日支交渉の経過」・・・・現代史資料(28)P-64より)。

このように「独立運動をしている朝鮮人は思想活動をしているだけだから、別にこれを取り締まる理由はねえよ。アンタらは余計なことに首を突っ込まないでくれよ!」と、突っぱねられたわけです。
また、日本軍の将校が張作霖に直談判したこともありました。

「・・・・・張は両国軍隊の力によりて吉林省内に於ける不逞鮮人根拠地を一掃するの外なきも、目下支那側に於ては勢力寡少故日本軍を以て此れの目的を達せざるべからずべし、但し日本軍が我国境内に侵入ことは支那側としては体面上当然許し難きことなるを以て、自分限りの黙諾にして之を行はしめるの外なしと思考するも、現吉林省長“徐鼎林”は自分の意図を奉ぜずして・・・・」(「不逞鮮人取締に関し張作霖と佐藤少将との会談」・・・・同上P-69)

要するに張作霖は「日本軍がわが国に侵入して朝鮮人独立派を掃討するのは、自分の立場として認められないけど、まあ黙認するしかないね。しかし“徐鼎林”いう小役人は融通が利かなくて・・・・・」ということを述べたようです。(しかし後に“徐鼎林”は更迭されました)
こうして日本軍は張作霖政権の力を借りずに、間島の朝鮮人独立運動を壊滅させるために中国領内に侵入することを決し、「間島地方不逞鮮人剿討計画 大正九年八月調表」にて、「剿討」に要すると予想される日数(約2ヶ月)、部隊の編成、人員、装備などを詳細に定めました。

ただしこの第一項には、
「本計画は間島地方に在る不逞鮮人の剿討の目的を以て出兵を要する場合のための予め準備すべき事項を指示するものとす」(同上P-117)
という前置きがあります。あくまでもこれは「出兵を要する場合」の準備計画なわけです。「出兵を要する場合」が到来しなければ無意味なわけです。
いくら張作霖が黙認していようとも、他国へ侵略するわけですから、口実をそれなりに作ることが必要なわけです。この8年後に張作霖を爆殺したり、そのまた3年後に満州鉄道を自作自演で爆破したりなどの・・・・。この点張作霖政権に対する多少の遠慮があったと言えます。(ちなみに「現代史資料」所収の公文書は、張作霖政権とその勢力範囲を、ほとんど「支那」と表記しています。「満州」という表現にはあまりお目にかかりません。一部の日本人が中国東北部も「支那」の一部であることが理解できなくなったのは、この時代より後の現象のようです)

そして間島侵略の口実は、剿討計画立案の奇しくも翌月に到来しました。
1920年(大正9年)9月12日早朝、朝鮮やソ連との国境に近い琿春という街に「馬賊」が侵入し市内各所に放火し、約100戸が消失する事件が起きました。これは「第一次琿春事件」と呼ばれています。
このとき琿春の日本領事館の「秋州分館主任」が内田外務大臣に宛てた報告によると、「而して賊徒が果たして支那馬賊なるや不逞鮮人なるや明らかならず」と前置きしながらも「其後に至り賊徒は全く馬賊なることを知るを得た」(P-132)そうです。しかし間島侵攻を企てる日本軍は、「不逞鮮人」の行為であると決めつけたかったことでしょう。
さらに10月2日早朝には、同じ琿春でさらに大規模な「馬賊」による襲撃事件が発生し、多数の中国人・朝鮮人と、在留邦人が殺害され日本領事館が全焼しました。これは「第二次琿春事件」と呼ばれています。日本軍は、襲撃した集団が何者であったか明らかでないにもかかわらず、「不逞鮮人」の仕業による第二の「尼港事件」であると宣伝しました。そして早くも五日後には間島出兵が閣議決定され、日本軍は怒涛のように国境線を超え中国領土内に侵入しました。そして朝鮮半島内、シベリアに次いで中国領内の間島地方に於いて、朝鮮民族に対する三光作戦が開始されるのです。
しかし琿春事件を「不逞鮮人(つまり朝鮮人独立運動家)による襲撃」と決めつけた説明は説得力に欠けるものでした。

朝鮮軍参謀部「琿春事件に就て」という文書によると(P-164〜165)、「賊団の兵力」は、「総数約四百名にして内露人は五名不逞鮮人約百名及支那官兵数十名混し居たるは明らかなり」としていますが、「不逞鮮人を混したる証跡」によると、
「領事館内付近に遺棄せる死体の背負嚢中に鮮人独立に関する書類数枚を発見す」
となっていますが、わざわざ足がつくようなものを携行して襲撃に赴くでしょうか?空き巣が自分の身分証明書を携えて侵入するようなもんです(笑)
それに、本当にこの馬賊集団の中に朝鮮人独立運動家が存在し、且つ又彼らが、自分たちの行為であると明らかになっても構わないというのなら、逆に堂々と声明を出すでしょう。

また、「馬賊に対する聴取書送付の件」(P−167〜168)は、琿春襲撃事件に参加した「白玉全」という元「苦力」の中国人馬賊からの調書で、
「馬賊は戦東、満天、双羊、万勝(以上人名らしい)等の頭目以下約四百五、六十名にして内露国人は六名鮮人五十余名加入して居りました」
と、この馬賊は答えていますが、
「賊団中に鮮人五十余名が加入せるは事実であります・・・・・(中略)然れども之れ等朝鮮人は何処より来たれるものにして独立団たる不逞鮮人の分子なりや否や自分は知りません
又自分等の賊団が他の独立団の不逞鮮人と如何なる連絡ありや否や自分の如き苦力同様の任務に当て居たものには一切分かりませんでした」
ということです。古くから朝鮮民族が多く住むこの地方に於いて、純粋な犯罪者集団である「馬賊」に加入した朝鮮人が存在しても何ら不思議はないでしょう。またそれが独立運動家であるか否かは全く見当がつかないでしょう。

また、中国人馬賊と日本軍との密かな関係もあったようです。下記は同年8月13日、朝鮮総督府から琿春の日本領事館に宛てた文書です(P-126)。
「不逞鮮人の討伐に関し馬賊を利用せんと計画し居る者奉天及び吉林方面の有力者中にありとの情報あり。本府は目下の処右計画には全然反対の意思を有し居るを以て御計画上何等参考の為御知せず」

下記は関東軍参謀部「馬賊首領長江好の行動」(同年10月25日報告)という文書です(P-141〜142)
「馬賊首領長江好(本名長鮮武二十九歳)は撫松、樺旬、濛江、臨江、通化、柳河県方面を勢力範囲とし部下一千五百名を有し松花江以東一大勢力を有する馬賊首領なるが過般彼は支那軍憲に帰順したりとの風評ありて新聞紙上にも掲載せられしが之に関係ある某邦人の言に依れば同人は依然馬賊として日本の為に活躍しつつありて其の状況は左の如しと
長江好は邦人中野清助の仲介にて朝鮮総督府の嘱託に依り大正九年八月頃柳河県三源浦の不逞鮮人を装ひ其の首魁二十名を捕へ重要書類を押収し小銃五百八十挺を焼毀して根拠地へ引揚げ中野と共に右押収の重要書類を携へ朝鮮総督府に出頭し将来の行動に就き協議の上引返し前記不逞鮮人の首魁二十名を銃殺し更に臨江県方面の不逞鮮人の討伐に従事し尠からざる(少なからざる)不逞鮮人の行動を妨げつつありと」

このように「長江好」という馬賊は、日本人の手引きによって「不逞鮮人」を襲撃していたそうです。

また、事件発生前後の日本軍・警察の行動にも不可解な点があります。
事件の調査により外務省より琿春領事館へ派遣された「西沢書記官」の内田外務大臣宛、10月31日の報告によると(P-150〜151)、事件の前日、馬賊の集団が張作霖政権の正規部隊を襲撃し壊滅させ、さらに琿春に迫りつつあるという情報が領事館に入ったため、領事館は午後四時頃、「派出所勤務警察官」に在留邦人の避難誘導と、「豆満江」対岸の「訓戒警察署」(「訓戒」とは地名か?意味不明)に応援を求めることを依頼したのですが、この「派出所」は、「乗馬の調達」やら「鮮語」通訳の選別やらに時間を費やし、結局「志波部長外一名」が出発したのは夜9時でした。しかも河を渡る船の調達に手間取ったという理由で、「訓戒警察署」に彼らが到着したのは日付が変わって午前1時でした。しかも「訓戒警察署」の警察署長は、応援人員の要請については「訓令」がどうたらと渋り続け、結局「慶源」(朝鮮領内の街)の警察署から「道長」(県知事みたいなもの?)に電報を打って裁可を待つということになっていましました。そうこうしているうちに朝の5時ごろ、琿春方面から火の手が上がるのが見え、ようやく警察署長は応援部隊を要請することを受諾したそうです。
それに、日本軍の「慶源守備隊」の行動も不可解なものでした。
「一方軍隊側に於ては慶源守備隊より特務曹長以下十八名派遣の旨午前二時半に至り電報ありたり」
ということですが、馬賊が暴れまわっているときには「慶源守備隊」は姿を見せず、結局「九時頃馬賊が北方丘陵に引上げつつある際領事館に到着し」たそうです。しかも慌てていたけど遅れてしまったわけではなく、なんと領事館の近くで呑気に朝飯を喰っていたそうです。
「到着の遅延並領事館を去る約四十(丁?)の支那人家屋に入り悠々として朝飯を喫したる事実に関しては此を目撃したる当館巡査より詳細聞き取り事実をも突止め置きたるを以て別に電報す」
・・・・・「腹が減っては戦ができぬ」とは申しますが、なんとも悠長なものです。
また、「訓戒警察隊警部以下九名は午前九時二十分、慶源応援警察隊は同十一時頃何れも馬賊引揚後到着したり、何れも馬賊引揚げ後到着したり」ということです。

さらに、調査の完了より先に帰国した「西沢書記官」と「木村課長」に宛てた、11月5日発信の追加調査報告(P-160〜161)では、この情景をさらに詳しくレポートしています。
馬賊の襲撃が予測される情報が伝わって市中の中国人も避難を始め、対岸の「訓戒警察署」に「救援の特使」を派遣する要請が出たのに「副領事並警察署長は部下に厳命して此の任に当らしむることを躊躇」していたそうです(「副領事」というのは日本軍・警察の腹積もりを知らされていたのでしょうか?)。
ある警察官は「ボクは『訓戒警察署』への道を知りません」と断り、ある警察官は「ボクはこの前も職務で対岸に行ったから、いやです。今回は違う人をやってください」と断ったそうです。結局馬で行けば50分程度で行けるところを歩いていったため、上記のように「訓戒警察署」に到着したのは午前1時になってしまったそうです。
そして、日本軍「慶源守備隊」の行状はもっと確信犯的なものでした。

「慶源守備隊連絡兵(御承知の通り南部鳥蘇利派遣軍と朝鮮軍との連絡の名義を以て支那側の諒解を得従来実施し来れるもの)応援隊五十川特務曹長以下十三名が二日午前八時頃当館を距る四五丁の処に到着し、支那人何某の家に入り銃声を耳にし乍ら飯を炊き同家の野菜を料理し朝飯を喫したる事実は、右支那人何某につき取調べたるところに依り事実相違無きことを確め申候。

尚又当地居留民会一役員の語る処に依れば、領事の出兵要求に依り二日午后、兵八十名を率き当地に出動したる沢崎大尉が居留民に対し、右連絡兵一行の事変に間に合はざりしを遺憾とする旨を述べたる際、右一行は二日午前二時半慶源を出発したることを洩らしたる趣にて、同大尉の説明にして果たして間違いなきものとすれば慶源琿春間(五里)の行軍にも意外の時間を費やしたるものと言わざるべからざる、のみならず右一行の一兵卒が図門江を渡る一里余の地点に於て既に火焔の上るを見、銃声を耳にしたることを語れる趣なるに付ては、右一行の行軍は少くとも強行軍に非ざりしは想像に難からざるものと思料致候。

本件は軍の事情に通ぜさる小官として、固より紊りに憶測することを得ざる次第と思考するに従ひ聊か了解に苦しむを以て一応当地旅団司令部附十時中佐に其の説明を求めたるところ同中佐は、

『本件の如きは軍事当局者に於て論議すべき問題にして外部の彼此れ非難する限りにあらず、居留民は宜敷く右連絡兵の到着に対し感謝すべきなり。大凡軍隊の行動は上官の指揮命令によるものなるを以て右連絡兵の一行に関しては外間兎も角の批評を許さざるものなり、従て仮令右一行が行軍を急がず又目前に賊を控えて之と戦はざることあるも全然任意なる軍の行動に属し、敢えて外間の論議する限りに非ず』

・・・・と陳へ、多少昂奮せる様子に見受けられたるは寔に小官の意外とする処に有之候、本件は右一行が仮令銃声を耳にすると同時に逸早く駆け付け来れるとも此惨害を防禦し得ざりしやも料られざるも小官は今以て残念に堪えざるに付、事変に関する限り内外に渉り充分なる調査を為すべき自分の任務に鑑み敢て右の点内密御通報申上候」

つまりは、
「救援部隊は、馬賊が暴れてる真っ最中に近所の中国人の家に入り込んで朝飯を喰ってたんだとさ。
しかもかなり深夜に出発してたそうじゃねえか。どう考えても“強行軍”とは言えねえな。
これを中佐さんに愚痴ってみたらよ、
『急がなかっただと?戦わなかっただと?事情を知らねえ外部の人間が御託を並べるんじぇねえよボケェ!民間人は俺らが駆けつけてやっただけでも、感謝しやがれ!』
・・・・と、逆ギレしやがんの。
そりゃあ、部隊が暇つぶししてないですぐに戦闘を始めたとしても、被害は防げなかったかもしれねえけどよぉ・・・・・」
と、あきれ返っています。日本軍には琿春の街を防衛する気など全く無かったことを、この報告書はイヤミたっぷりに示しています。


・・・・以上の点を重ね合わせれば、
琿春事件とは、日韓併合前の閔妃斬殺や張作霖爆殺事件や柳条湖事件と同様の、日本軍のお家芸とも言える謀略の一例だという推測も可能です。
つまりはこの事件は、間島に於ける朝鮮人独立運動を壊滅させる目的で国境を越えて侵攻する口実を得るために、
中国人馬賊を用いて自国の領事館を襲撃させた陰謀ではないでしょうか?

ちなみに、この事件による邦人の犠牲者は、後の通州事件と同様に極めて残忍な方法によって殺害されたそうです。「琿春に襲来せし馬賊不逞鮮人の惨虐行為に関する件」(P-162)ではその状況を報告しています。

「(領事館に避難していた)雑貨商原田亀次同妻は子女二名を抱き前記煉瓦塀を逃れんとしたるに、賊徒は之を捕へ先ず夫妻を射殺し銃台を以て乱打し頭部を破砕し、尚ほ銃剣を以て腹背を刺し白布を以て首を絞め死に至らしめたり。脳漿血塊及毛髪今尚瓦塀に固著し惨状を極む。
残存せし二子女は両親の死骸に纏り且つ長女(六才)は足部に貫通銃創を受け啼泣なす所を知らず、人生の悲惨言語に絶す」

もしも琿春事件が日本軍の謀略だったならば、彼ら邦人犠牲者たちは全く酷い貧乏くじを引いてしまったものです。
あるいは、邦人惨殺の実行者が50人乃至100人紛れ込んでいたとされる朝鮮人であり、且つ又彼らは朝鮮人独立運動家だったと仮定すれば・・・・・朝鮮を植民地にしてしまった日本に対する怒りが一般の日本人にまで及んでしまった結果による惨劇だと言えるでしょう。いうまでもなく通州事件と同様に、罪は民間人を殺害した者にありますが、しかし日本が朝鮮を植民地化していなければ、1945年8月の「大日本帝国」崩壊の日まで終わることのなかった朝鮮民族と侵略者との闘争に、民間人が巻き込まれることはなかったのです。


・・・・こうして琿春事件を機として間島に朝鮮軍、関東軍、ウラジオストック派遣軍が三方向なだれ込み、朝鮮独立軍と激しい戦闘を行いました。
中でも侵攻開始直後の吉林省和龍県「青山里」での戦闘は激しく、「独立新聞 1921年2月25日」(P-342)によると、日本軍の死者は1257名(その内同士討ちが500名以上)、負傷者200名以上に上り、しかし独立軍側の損害は僅かに戦傷者8名という圧勝に終わったそうです。もっとも日本軍側の報告では損害は極めて少数ですが、地の利を生かした朝鮮独立軍の巧妙なゲリラ戦は侵略者を大いに悩ませていたようです。
しかし(当たり前のことですが)朝鮮独立軍は圧倒的な物量を誇る日本軍と正面きって戦い続けるほど無謀ではありませんでした。また日本軍は朝鮮独立軍を掃討するだけでなく、独立運動を根底から一掃しなければなりませんでした。間島での独立運動が持続していれば、いくら今現在武装しているゲリラを倒そうとも、民衆からのゲリラへの支援は止まず、ゲリラ志願者は絶えることはなく、従って「接壌地」たる間島での「不逞鮮人」の活動は終わることがなく、安心して朝鮮半島を支配することもできないのです。

1920年12月21日付け「シカゴ・デイリー・ニュース」に掲載された、間島を現地取材した“J・B・Woods”の見解は、間島に侵攻した日本軍の真意について的確に言い表しています(「近代東アジアの政治力学」より)。

「日本軍の間島作戦は、間島における朝鮮“独立軍”の殲滅にその主な目的があったが、大部分の独立軍は、北部地方に移動して依然として日本に抵抗の構えを見せている。日本軍が撤退した後は、彼らの取締りは中国軍により引き続き行なわれるだろう。
・・・・そして日本軍の報復攻撃(Punitive Attack)は、彼ら独立軍を支援し、若しくは間島に於いて朝鮮独立軍を支えた一般朝鮮人に対して行われたのである」

日本軍の間島出兵とは民間人そのものを標的とした三光作戦に他ならないことは、アメリカ人の記者の目から見ても明らかだったようです。
日本にとって独立を願う朝鮮人の存在は朝鮮半島支配を危うくするものであり、そんな朝鮮人が存在すること自体、決して許せないことでした。そして植民地支配の安泰のためには冷酷な三光作戦を実行することを躊躇わなかったのです。


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この投稿は、
「韓国併合」(海野福寿・著 岩波新書)
「シベリア出兵 革命と干渉1917-1922」(原暉之・著 筑摩書房)
「近代東アジアの政治力学――間島をめぐる日中朝関係の史的展開 」(李盛煥・著 錦正社)
「現代史資料(28) 朝鮮(四) 独立運動(二)」(みすず書房)
「大正八年朝鮮騒擾事件状況 大正八年憲兵隊長警務部長会議席上報告 朝鮮憲兵隊司令部」(昭和44年9月20日復刻版発行、原本は大正8年発行、極東研究所出版会)
・・・・・・以上より引用しました。
「現代史資料(28)」と「大正八年朝鮮騒擾事件状況」の引用につきましては、読み易くするために句読点やかぎ括弧『』などを勝手に挿入させて頂きました!
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