過去ログ移転作業の続き。
(この投稿も、「シベリア出兵 革命と干渉1917-1922」(原暉之・著 筑摩書房)より全面的に引用させていただきます)
シベリアの革命派は、コルチャーク軍などの白色テロ集団や日本など列強の干渉軍を撃破しながら広く勢力を伸ばしていきました。日本が支援していたコルチャーク軍の軍事独裁政権の崩壊に伴い、コルチャークは「イルクーツク軍事革命委員会」にて裁かれ、1920年2月処刑されました(どこの国でも売国奴の末路というのは哀れなもんです)。
さらにアメリカが「チェコ軍の救援」という派兵の目的を達成できたとしてシベリアから完全撤兵することを宣言したことは、日本にとっては「脳天からの一撃」でした。
ちょうどそのころアメリカ政府に対し、状況に応じてシベリア干渉軍を増派することについての同意を取り付ける覚書を手交し、またアメリカとの協調関係の下で「極東露領三州を以て自治的一政治地域と為す」ことを画策していましたが、これらが水泡に帰してしまったのです。
(大戦末期にアメリカとソ連の共同作戦が準備されていたことも知らずにソ連に対し和平工作を求めたり、6ヶ国会議では一部の狂信的集団の圧力に屈して拉致問題を主要な議題として取り上げようとしたものの他の出席国から一蹴されるなど、この国は今も昔も「場の空気を読めない」国のようです)
こうしてイギリス・フランスに次いでアメリカもシベリアからの撤兵を宣言する中で、日本国内でも異常な軍事費の膨張と相まって撤兵世論が高まっていきました。「大阪朝日」は1920年1月20日の紙面で「増兵は不可、現状維持も無意味、全部撤兵の外はない」という見出しのもとに、前日ウラジオストックから帰国した派遣軍政務部附大蔵省事務官の次のような談話を掲載しています。
「一個師団でも一億円要るが一億円の金を投げ出して得る所のものは何もない」
さらにはウラジオストック派遣軍広報局主幹の頭本元貞という人が「何で(いかで)速かに撤兵の議を決せざる」という意見書を政府に提出します。
「今より考へて見れば最初米国と協定以外の出兵を為したのが抑もの間違であったので、ただちに之が為米国政府に対して日本外交の信用を堕したるのみならず、終に今日の如く進むに進まれず、退くに退かれないような破目に陥ったのである。・・・・・・・此の上兵力を増してセメノフ軍カルムイコフ軍の如き良民より蛇蝎視せらるる者と提携して大いに活動するに於ては、露人の悪感は愈々其の骨髄の達し、徒に千万の利権を護るも何の益かあらんと云ふ結果になるのは明白である。・・・・・他国の民心を度外視し、否之を踏みつけて徒に領土に勢力圏を拡張せんとする政策の、自殺的結果を生ずるものなることは、現に支那に於て苦き経験を嘗めつつまるではないか。然るに更に同一の失敗を西伯利に繰返さんとするは愚の至りではないか」
このようにシベリア派遣軍のスポークスマンすら、撤兵を主張していたのです。シベリア出兵は自衛だなんて馬鹿げた妄言は、当時の軍内部の人間すら吐かなかったのです。
前述のように議会では野党の憲政党が激しく政府を追及していました。こうして「進むに進まれず、退くに退かれない」状態に陥った政府は、「政策変更に非ずして寧ろ守備線整理」であるという方針を示し、アムール州とザバイカル州からの撤兵を決定しました。
しかし、後に尼港事件が起きたニコラエフスク、中東鉄道(「東清鉄道」のこと。「中国東北」鉄道。ロシアが敷設権を得て、中国東北部を縦断してウラジオストックに達した)沿線、そして「沿海州」南部には駐留を続けることになりました。
「沿海州」とは読んで字の如く、日本海沿岸の州です。閣議決定では、
「帝国と一衣帯水の浦潮(ウラジオストックのこと)方面も全然過激派の掌中に帰し、接壌地たる朝鮮に対する一大脅威を現出すると同時に同派は進んで北満に侵入し来るの虞ある処、此の如きは帝国の自衛上黙視難き所たり」
となっています。「自衛」と言えるかどうかはともかく、日本海の対岸が社会主義国の領域になることは恐ろしかったのでしょう。こうして日本軍はアムール州などから撤退する代わりに沿海州に集結しましたが、そこでは革命パルチザンと混在することになり一触即発の状態が続きました。
ところで沿海州では急激な新体制への移行は行なわれませんでした。1920年1月、中道派・革命派は協議の上、この州を「緩衝国家」とすることを決定し、レーニンもこれを了承しました。列強のこれ以上の干渉を上手くかわそうとしたのです。
しかし日本軍はこの曖昧な状態を、革命派に大打撃を加えるチャンスだと見てしまったのです。おりしも同年4月1日、アメリカ軍の最後の部隊がウラジオストックの港を発ち、アメリカの撤兵が完了しました。現地の大井司令官は後に、
「私は一々細かいことまで衝突しても仕方がないから隠忍して居れ、其のうちに時機が来れば私が命令して総決算をするから十分準備して置いて其の時には思ふ存分にやれと言って時機を狙って居った。併し米国軍が縺れて面倒になるから、同国軍が撤退したら大いに過激派を叩いて摩擦の根元を一掃せねばならぬと意を決して居った処、三月尽日までに米国軍は引揚げた。そこで過激派軍は鉄道沿線から三十粁距った所でなければ置かぬと云ふやうなことを主にした数個の条件を我が軍から提出し、これは絶対的のものであると強硬に交渉させた」
と述懐しています。「怖いアメリカ軍がいなくなったから、ここは一つやりたい放題にやっちまえ!」って感じですね。
早くも翌日には、軍高級参謀高柳少将は沿海州政府に対して「我軍の駐留に必要なる諸般の事項即ち宿営、運輸、通信等に関し支障なからしむ」ための6項目の要求を交付しました。4月4日土曜日の深夜には、日本軍はウラジオストックなど州内各地の沿海州政府軍に対し突然武装解除を命じました。こうして日本軍と沿海州政府軍の間に戦端が開かれ、日本軍側は総計約500名、沿海州政府軍側は2000名以上の死者が出たそうです。また日本軍は「白衛派(反革命派)」を釈放するだけでなく、一部の革命派幹部を逮捕して「白衛派」に引き渡しました。彼らは極めて残忍な方法で処刑されたそうです。
世界をあきれ返らせたこの日本軍の暴挙は「四月惨変」と呼ばれています・・・・・
領事団会議に於いて日本は、チェコやアメリカだけでなくイギリス・フランスからも激しく糾弾されました。日本がどういうつもりでシベリアに居座り続けるのかが露わになってしまったのです。(実際にコルチャーク政権は、日本は「中東鉄道」南部支線の獲得、森林・鉱山資源での利権獲得を望んでいることを推測し、それに応じる構えでした。また大井司令官は決起の前夜に、元コルチャーク政権の高官数名に日本軍が成立させようとする新政権の代表となることを打診し、全て断られたため民衆から「蛇蝎の如く」忌み嫌われているセミョーノフを擁立しようとしたそうです)
こうして日本軍は、「道義的に完全に権威を失墜し、連合国内部でいっそう孤立を深め」ることになります
ところで「四月惨変」の被害に遭ったのはソ連人だけではありませんでした。沿海州に住んでいた朝鮮人独立運動家も激しい弾圧を受けたのです。
・・・・1910年に朝鮮は日本の植民地となってしまいましたが、朝鮮人の抵抗が消えることはありませんでした。朝鮮半島内では極めて困難だった独立運動は、シベリア・中国在住の朝鮮人によって継続され、ウラジオストックの「新韓村」は独立運動の拠点となっていました。1918年8月に日本軍が市内の目抜き通りに派遣軍司令部を設置したときも、同じ市内の「新韓村」では独立運動のデモが行なわれていました。彼らは港内に停泊中の日本軍の艦船も恐れなかったのです。また、菊池総領事が「新韓村」を訪れ「韓民学校」に200ルーブルを寄付しようとしたところ、女教師はそれを破って焚き火の中に投げ入れたそうです。
そして翌年朝鮮半島で起こった三・一独立運動はウラジオストックにまで飛び火しました。菊池総領事からの要請によって市当局が示威運動を禁止したのにも拘らず、ウラジオストックに住む朝鮮人は大極旗を打ち振るって市内を行進しました。またニコリスクなど州内の他の都市でもデモが発生していました。三・一独立運動は極東の各地に波及していたのです。朝鮮半島の現状を知らない日本人も、朝鮮人の絶えることが無い独立への願いを思い知らされたでしょう。
また、革命パルチザンに身を投じて日本軍と戦う中国人や朝鮮人もいました。祖国の独立のためにも、日本のシベリア侵略を撃退しなければならないと感じたのでしょう。
こうしたシベリアでの朝鮮人の動きは、日本軍当局にとっては実に苦々しい思いだったでしょう。「鮮人の分際で皇国に逆らい独立を祈願するとは、いわんや露人の過激派に与するとは、何事ぞ!」と、怒り心頭に達していたことでしょう。
「白衛派」を一掃して成立した沿海州政府に対しても、日本軍は朝鮮人の独立運動を取り締まるように要請していました。しかし沿海州政府は独立運動を支援しており、そのため日本軍は独自に必要な措置を取ると通告しました。
現地の参謀部が作成した「朝鮮人取締要綱」によると、
「鮮人は凡て帝国臣民(帰化非帰化を問はず)として取り扱うものとす」として、独立運動やパルチザン闘争を取り締まり、「軍事上に関係を有する」行為だけでなく、皇室侮辱など「我軍の権威と両立せざる性質」の行為についても、「日本軍臨時軍法会議」にて処罰する、と規定されました。
つまりは、「鮮人は、どこの国に住んでいようが、どこの国に帰化しようが、日本人なんだよ!だから独立したいとほざいたり、陛下を侮辱した奴ぁ、日本人として処罰してやっからな、おぼえてやがれ!」ってな感じですね。ここまで身勝手な論理は珍しいもんです。
そして沿海州政府軍への攻撃開始とほぼ同時である4月5日午前4時、日本軍部隊は「新韓村」へ突入し、独立運動家60余名の逮捕し、ウラジオストックの朝鮮人居留民社会のセンターである「韓民学校」を石油を撒いて焼き払いました。ニコリスクでも、「排日鮮人」を捜索し70余名を逮捕し、その中の指導者4名を連行中逃亡を企てたとして射殺しました。4月21日の第二次「新韓村」捜索の際には、逮捕された朝鮮人はソ連人の回想によると「彼らはひとまとめにして首に古レールをつけられ、ウラジオストックに近いウリス入江に沈められた」そうです。総督府派遣員すら「村民は挙て日本の悪辣なる手段に憤慨しつつあり」と報告したそうです。
このように日本は朝鮮半島外に於いても、朝鮮人の独立運動を武力で弾圧していました。そしてこの年日本軍は、中国の間島地方に於いても同じように朝鮮人の独立運動を弾圧するために残虐な行為を行なうのです。
2011年06月30日
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