なぜメディアは検察という権力機関を監視しないのか再び、新聞の現場からリーク問題を考える

2010年01月29日(金) 長谷川 幸洋
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 一つは「検察がどんな捜査をしているか」。これはたとえば小沢疑惑について、検察がどのように扱おうとしているのかを取材することだ。刑事事件として立件するかどうか、どう証拠立てようとしているのか、というような問題意識である。

 もう一つは「権力機関である検察自身の位置づけ、立ち居振る舞いは適切かどうか」という問題意識である。こういう観点からは具体的な捜査の行く末だけでなく、そもそも検察庁という組織のあり方や行動が妥当かどうか、という点に問題意識が及ぶ。私はマスコミがそれ自身「独立した存在」であろうとするなら、この二つの問題意識がともに重要だと思う。

検察が用意する四重の基準

 ところが、今回の報道ぶりをみると、マスコミは捜査の行方そのものに関心が集中していて、二番目の検察自身のあり方について十分な監視と問題意識が及んでいないように思える。

 リークがあったかどうかにかかわらず、本来なら、民主党政権下で検察が置かれている状況、たとえば検事総長に民間人を起用するというアイデアがとりざたされている件や、取り調べの可視化問題などをめぐる政権と検察の綱引きなどについても、もっと深く報道されていい。

 読者はそうした多様な情報に接することによって、検察という権力機関を客観的に観察し、自分なりに考えを深めることができるようになる。

 そうした報道が新聞、テレビに少ないのは「ネタ元の検察を敵に回したくない」という心理が暗黙のうちに働いているからではないのか。

 先の原則について考えると、検察の側はマスコミに対して二重どころか三重、四重の基準を適用しているようにみえる。つまり、私のような門外漢は新聞の論説委員であっても、初めからシャットアウト。ニューヨークタイムズのような外国メディアはクラブ員でないからシャットアウト。

 クラブ員であっても夜回りをしないで会見だけ出席するような記者は相手にしない。クラブ員であって熱心に夜回りし、かつ検察のメガネにかなった記者だけに初めてちょっと話す。そんな構造がある。

 情報が欲しいマスコミはこうした構造をそのまま受け入れてきた。

 だが、私は検察の思惑がどうあれ、マスコミの側が無批判に容認していてはいけないと思う。話すことがあるなら、なぜ、もっとオープンに説明しないのか、検察に求めるべきだ。そう言うと、おそらく検察は「捜査中の事件についてはお話しできない」と答えるだろう。

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