小沢一郎民主党幹事長をめぐる土地疑惑事件はマスコミ報道をみている限り、小康状態に入った感がある。
土地購入代金の4億円の出所が最大の焦点だったが、どうやらネタ切れなのだろうか。連日のように「ナゾだ、ナゾだ」と書きまくっていれば、いずれ答えを示さない限り、ネタも尽きてくる。
これだけ書き続けても新たな展開がない、ということは、すなわち東京地検特捜部もマスコミにリークするほどの新材料を持ち合わせていないのではないか、と読み解くこともできる(あれば、いまごろ少しは出てくるはずだから)。
つまり「検察とマスコミの二人三脚説」が正しいとすれば、事件は進んでいないことになる。
逆に検察がマスコミの吹かす「風」(これが、ホントの「風説」?)とは関係なく、あくまで独自捜査を淡々と進めているのであれば、表面的には小康状態に見えても、あっと驚く展開になる可能性もある。
こうした展開は過去に何度もあったことなので、いまの段階では何とも言えない。ただ、一部報道によれば小沢の再聴取は断念したようなので、それが正しいなら、事件は尻すぼみになる徴候かもしれない。
以上はあくまで外野席からみた感想だ。以下、外野席からではなく「ゲームのプレイヤーの一人としてのマスコミ」という立場から検察リーク説をあらためて考えてみたい。
前回のコラムで触れたように、私が東京地検に電話で「リーク説をどう思うか」と質問したら、広報担当者は「捜査中の事件についてはお話しできない」と答えた。したがって、捜査中の事件について「地検はマスコミになにも話さない」という両者の関係が議論の出発点である。
加えて、地検はときどき「司法記者クラブに入っていない記者には話さない」という立場をとる場合もあるようだ。たとえば、ニューヨークタイムズは「タイムズ記者はクラブに加盟していないので取材を断られた」という記事を掲載したことがある。
ここで「記者クラブ」という存在が新たな要素に浮上する。つまり「捜査中の事件はマスコミに話さない」という一般原則に加えて「司法記者クラブの記者以外には話さない」というサブ原則もあるわけだ。先の地検の対応は、この二つの原則が「東京新聞」を名乗って取材を申し入れた私にも適用された形である。
私は検察取材について、二つの異なるレベルがあると思う。
一つは「検察がどんな捜査をしているか」。これはたとえば小沢疑惑について、検察がどのように扱おうとしているのかを取材することだ。刑事事件として立件するかどうか、どう証拠立てようとしているのか、というような問題意識である。
もう一つは「権力機関である検察自身の位置づけ、立ち居振る舞いは適切かどうか」という問題意識である。こういう観点からは具体的な捜査の行く末だけでなく、そもそも検察庁という組織のあり方や行動が妥当かどうか、という点に問題意識が及ぶ。私はマスコミがそれ自身「独立した存在」であろうとするなら、この二つの問題意識がともに重要だと思う。
検察が用意する四重の基準
ところが、今回の報道ぶりをみると、マスコミは捜査の行方そのものに関心が集中していて、二番目の検察自身のあり方について十分な監視と問題意識が及んでいないように思える。
リークがあったかどうかにかかわらず、本来なら、民主党政権下で検察が置かれている状況、たとえば検事総長に民間人を起用するというアイデアがとりざたされている件や、取り調べの可視化問題などをめぐる政権と検察の綱引きなどについても、もっと深く報道されていい。
読者はそうした多様な情報に接することによって、検察という権力機関を客観的に観察し、自分なりに考えを深めることができるようになる。
そうした報道が新聞、テレビに少ないのは「ネタ元の検察を敵に回したくない」という心理が暗黙のうちに働いているからではないのか。
先の原則について考えると、検察の側はマスコミに対して二重どころか三重、四重の基準を適用しているようにみえる。つまり、私のような門外漢は新聞の論説委員であっても、初めからシャットアウト。ニューヨークタイムズのような外国メディアはクラブ員でないからシャットアウト。
クラブ員であっても夜回りをしないで会見だけ出席するような記者は相手にしない。クラブ員であって熱心に夜回りし、かつ検察のメガネにかなった記者だけに初めてちょっと話す。そんな構造がある。
情報が欲しいマスコミはこうした構造をそのまま受け入れてきた。
だが、私は検察の思惑がどうあれ、マスコミの側が無批判に容認していてはいけないと思う。話すことがあるなら、なぜ、もっとオープンに説明しないのか、検察に求めるべきだ。そう言うと、おそらく検察は「捜査中の事件についてはお話しできない」と答えるだろう。
前回も書いたように、それはそれで正しい。捜査中の事件は単なる検察の「見込み」にすぎない。検察が自分の見込みにすぎない情報を「ああだ、こうだ」と記者に語るほうがよほどおかしいのである。
まるで発展途上国
現実には検察は先の「四重基準」を発揮して、自分の見込みをマスコミがあれこれと報じることを是認しているかのようだ。実際、これだけ報じられながら、検察に「出入り禁止」になった記者はいないとも伝えられている。本当に「お話しない」のが検察の一般原則であるなら、人権を大切に考える検察は報道に苦言を呈する場面があってもいいのではないか、とさえ思う。
それにもかかわらず、四重基準を適用して事件の見通し報道が相次ぐ状態を是認しているのは、検察が実は見通し報道を「よし」としているからと考えるのが自然である。つまり、検察は自分がつくったマスコミの風説を追い風にして利用しているのである。
しかも話す相手を限定しているのは、マスコミと検察のインナーサークルを極力狭くしておいたほうが、情報を適当に分配操作して自分のポチに仕立て上げるうえで好都合であるからだ。私のような門外漢やニューヨークタイムズのような外国メディアは検察のポチになる動機がないから、初めから排除するに限るのだ。
これこそが霞が関に共通するマスコミ操縦の典型的手法である。
鳩山由紀夫政権になって、まだまだ不十分とはいえ記者クラブ開放の機運も出てきた。検察は自らの信頼度と仕事の透明性を確保するうえでも、あらためてマスコミとの関係を考え直すべきではないか。マスコミの側に考える点があるのはもちろんだ。
私はべつに小沢一郎を擁護するつもりはさらさらない。ただ、いまの検察とマスコミの状態は、まるでどこかの途上国で起きている出来事のように見えて、なんだかガックリしてしまうのだ。
(文中一部敬称略)