2014-12-13
「グリーンピースの問題行為は批判出来るのにダライラマ一味の問題行為は何一つ批判出来ない」客観性のないダライラマキチガイの身びいき野郎Mukkeさんを嗤う
小生はid:Mukkeさんが「大嫌い」だしMukkeさん批判をすると「コメ欄でのアンチid:Mukke派(例:Bill_McCrearyさん)」の反応がいいので今日も彼に突っ込んでみましょう。やはりコメ欄の反応がいいと励みになります。
■ハフィントンポスト「ナスカの地上絵に落書き*1 グリーンピースにペルー政府が法的措置へ」
http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/10/nazca-lines-greenpeace_n_6299814.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.huffingtonpost.jp/2014/12/10/nazca-lines-greenpeace_n_6299814.html
Mukke
コラを疑うレヴェルの酷さ。日本緑豆の対応もクソすぎる。自然保護のために文化を無意味に壊す団体とか害悪にも程があるので滅べと言いたい。
さて「日本緑豆(グリーンピース日本支部)の対応」とやらが何かというと「直接にコミットしていないので事情が分からない、現在グリーンピース本部に問い合わせ中」と言うものだが、「ペルー政府に抗議された政治メッセージ行為の直接の実行者(グリーンピース本部?)」ならともかく、そうでないらしいグリーンピース日本支部のどの辺りがMukkeさん的に「糞」なのだろうか。
実際コミットしてなかったらこれ以外に答えようがないだろうに。
ちなみにダライの問題行為(エセ科学者村上和雄との対談、オウム真理教や念仏宗無量寿寺と言った怪しい宗教からの多額の金銭受領、子分ペマギャルポが『中国の最終目的は天皇の処刑』とデマることを容認していること、チベットの焼身自殺を黙認し助長してることなど)を屁理屈で正当化し批判一つしないMukkeさんの方が俺は「グリーンピース日本支部」寄りも何倍も糞だと思っている。
まあ、Danas je lep dan.『「在特会」はどのように生まれたのか――樋口直人『日本型排外主義』』(http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20141126/1417005007#c)のコメ欄に寄れば過去に在特支持者だった癖にそれに口をぬぐって傍観者的な在特批判をし「元在特支持者の癖にその他人事みたいな態度は何だ」と批判されてから渋々「自分の黒い過去の存在」を認める無責任な御仁がMukkeさんなのでそう言う意味でもMukkeさんは糞だが。
まあ、id:Mukkeさんて「嫌いな個人団体(この場合グリーンピース)は糞味噌に罵倒する*2が、好きな団体個人(たとえばダライラマ一味)は詭弁でかばう」それこそ「糞過ぎる屑」なんだろうな。まあ、都合の悪いことは無視するMukkeさんは俺のこうした批判はガン無視だろうけど俺はあんたのことは「あんたの悪友・id:DG-Law*3ともども」大嫌いだから今後も罵倒しますぜ。
ちなみに数々の愚行を行い社会に弊害を与えるダライラマ一味(チベット亡命政府)について俺は
チベット独立のためなら何でも許されるとばかりにカルト「オウム真理教」やエセ科学者「村上和雄」とつるみ、子分ペマギャルボが「中国の最終目的は天皇の処刑」とデマ垂れ流しても黙認し、またチベットの焼身自殺を扇動する団体「ダライラマ一味」など滅べ
と言いたい。
まあ、ダライラマ一味とは、ダライが死ねば遅かれ早かれ「滅ぶ程度のゴミ団体」だとは思うが。
*1:是非はともかく「政治的メッセージ」「撤去可能」なものを「落書き」とは普通表現しないし、ペルー政府に寄れば問題は「政治的メッセージ(ハフポストの言う落書き)」ではない。「立ち入り禁止地域に入ったことが問題」なのだから落書き云々とは関係ない。ハフポスト日本語版のタイトルは明らかに変でありハフポストの知的レベルを疑う。一方「その存在に社会的意義があるとはとても思えないアホの子」ハフポストと違い、常識のあるらしい朝日新聞は「ナスカの地上絵にグリーンピース侵入、足あと残り波紋」(http://www.asahi.com/articles/ASGDB4RLVGDBUHBI015.html)とまともな記事タイトルである。
*2:「お前だって嫌いなダライ一味を罵倒してるじゃないか?」て。ウンまあそうだけどダライ一味なんて罵倒されても仕方ない糞団体と思ってるし、俺Mukkeさんのダライ一味擁護ほど酷い詭弁で個人や団体かばった覚え今のところないし。
*3:しつこいがid:Mukkeごとき「人間のクズ」とつきあえるこの男の人間性には脱帽の限りだ。まあ、俺にはまねできない。まねしたくもないが
出典:河口慧海『チベット旅行記』(1904年)の「第九十回 不潔の都」
けれどもかえってラサ府の市街の道の悪い事といったら仕方がない。高低の多い所で町の真ん中に深い溝が掘ってある。
溝は大小便の溜池 その溝にはラサ婦人のすべてと旅行人のすべてが大小便を垂れ流すという始末で、その縁には人糞(じんぷん)が行列をして居る。その臭い事といったら堪らんです。まあ冬は臭いもそんなに酷(ひど)くはございませんけれども、夏になると実にその臭いが酷い。それで雨でも降ると道のどろどろの上へ人糞が融けて流れるという始末ですから、その臭さ加減とその泥の汚い事は見るから嘔吐(おうと)を催すような有様。一体ラサというのは神の国という意味で、いわゆる仏、菩薩すなわち外護(げご)の神様の住処(すみか)で非常に清浄な土地であるというところから神の国という意味の名をつけられたのである。けれどもその不潔なところを見ると、確かにパンデン・アチーシャがいわれたごとく糞喰(くそくら)い餓鬼の都としか思えない。実に不潔なものです。
私はシナの不潔をしばしば耳にしましたけれど、恐らく糞の中、糞の田圃(たんぼ)を堂々たる都の道路として歩くようなそれほど不潔な所はあるまいだろうと思います。もちろんラサ府には糞食い犬が沢山居りますけれども、なかなかその犬だけでは喰い切れない。犬も糞の新しいのは悦んで喰いますけれども古いのは喰わない。だから古い奴が沢山残って行く勘定になるのです。
★中国が風呂に入ることを教えるまで垢で真っ黒だったチベット人★
出典:河口慧海『チベット旅行記』(1904年)の「第五十八回 不潔なる奇習」
彼らは元来生れてから身体(からだ)を洗うということはないので、阿母(おっか)さんの腹の中から出て来たそのままであるのが沢山あるです。都会の人士はまさかそうでもないが、田舎にいたる程洗わぬのを自慢として居る。もし顔を洗ったり手先を洗ったりすることがあれば大いに笑ってその取締のない事を嘲(あざ)けるのです。そういう訳ですから、白いところと言ったらば手の平と眼の玉とである。ほかは全く真っ黒である。
もっとも田舎人士の中でもその地方の紳士とか僧侶とかいう者は顔と口と手だけは幾分か洗うものですから、そんなに汚なくもありませんけれども、やはり首筋から背中、腹に至っては真っ黒なんです。アフリカ人の黒いのよりもなお黒いのがある。で、手の平がなぜ白いかと言いますに、向うでは麦粉を捏(こね)る時分に手でもって椀の中でその麦粉を捏る。であるから手の平に付いて居る垢(あか)は麦粉の中に一緒に混って入ってしまうんです。それで手の平には垢がない。まあ垢と麦焦(むぎこが)しとを一緒に捏て喰うといううまい御馳走なんです。そういう御馳走をです、黒赤くなった歯糞(はくそ)の埋(う)もれて居る臭い口を開(あ)いて喰うのです。それを見ただけでも随分胸が悪いのです。
出典:河口慧海『チベット旅行記』(1904年)の「第八十五回 刑罰の種類」
チベットの拷問の方法 はごく残酷である。またその処刑もごく野蛮の遣り方である。獄屋というようなものも、なかなかこの世からのものとは思えない程の所で、まずその拷問法の一つ二つをいいますと、先に言った割竹で指の爪を剥すとか、あるいは石で拵えた帽子を頭に載せるという仕方もある。(中略)
それでも三百なり五百なり極めただけの数は叩かなければ罷(や)めない。もっとも三百も五百も叩く時分には、半ばでちょっと休んで水を飲ましてからまた叩くそうです。叩かれた者はとても病気せずには居らない。小便は血のような真っ赤なのが出る。私はそういう人に薬を遣った事があります。またそのお臀(しり)の傷などもよく見ましたが実に酷(むご)たらしいものであります。(中略)
刑罰の一番優しいのが罰金、笞刑(ちけい)、それから 眼球を抉(く)り抜いて 取ってしまう刑、手首を切断する刑。それもじきに切断しない。この両方の手首を紐で括(くく)って、およそ半日程子供が寄って上げたり下げたりして引っ張って居るです。すると仕舞(しまい)には手が痺(しび)れ切って我が物か人の物か分らなくなってしまうそうです。その時に人の見て居る前で切断してしまうのである。(中略)
最も多いのが眼の球を抉(く)り抜かれた乞食、それから耳剃(みみそり)の刑と鼻剃(はなそり)の刑、これらは姦夫(かんぷ)姦婦(かんぷ)がやられるので、良人(おっと)が見付けて訴えるとその男と女がそういう刑に遇うことがある。(中略)
それから 死刑は水攻(みずぜめ) にして殺すんです。それにも二通りある。生きながら皮袋に入れて水の中に放り込んでしまうのもあり、また船に乗せ川の中流に連れて行って、そうしてそれを括(くく)って水に漬け石の重錘(おもり)を付けて沈めるのです。(後略)
出典:河口慧海『チベット旅行記』(1904年)の「第八十七回 奇怪なる妙薬」
その薬といえば一つ思い出しましたがチベットには 奇々妙々の薬 がある。その薬の本来を知った者は恐らくチベット人を除く外誰も飲むことが出来ぬだろうと思います。それはチベット法王あるいは第二の法王というような高等なるラマ達の大便は決して棄てない。また小便も決して棄てない。大小便共に天下の大必要物である。その大便は乾かしていろいろな薬の粉を混ぜて、そうして法王あるいは高等ラマの小便でそれを捏(こ)ねて丸薬に拵え、その上へ金箔(きんぱく)を塗るとかまた赤く塗るとかして薬に用いますので、この薬にツァ・チェン・ノルプー(宝玉)という奇態な名を付けます。
それは決して売り出すのではない。なかなかそれを貰うことさえ容易に出来ません。まずよい伝手(つて)がありお金を沢山上げてようやく貰いますので、貰ったところでチベット人は非常な病気になったとかあるいは臨終の場合に其薬(それ)を一つ飲むのです。それで快くなればその有難味が利いたといい、たといそれがために死んだところが、チベット人は満足して「誠にありがたい事だ。ともかく宝玉を飲んで死んだからあの人も定めて極楽に行かれるだろう」といって誉(ほま)れのように思って居ります。実に奇々妙々の風俗で、チベット国民が実に汚穢(おわい)極まるということも、こういう事によっても知り得ることが出来るのでありましょう。
しかしこういう材料で宝玉が出来て居るなどということは、一般人民はほとんど知らないので、この薬は法王が秘密の法で拵えたごくありがたいものであるということを知って居るだけで、その薬の真面目(しんめんもく)のいかんは法王の宮殿に出入する官吏あるいは官僧、その外それらの人々から聞き伝えて、いわゆるチベットの事情に通じて居る人間が知って居るというだけでございます。
出典:河口慧海『チベット旅行記』(1904年)の「第八十六回 驚くべき葬儀」
食人肉人種の子孫 さてその死骸を被(おお)うて行ったところの片布(きれ)その他の物は御坊(おんぼう)が貰います。その御坊(おんぼう)は俗人であってその仕事を僧侶が手伝うのです。骨を砕くといったところがなかなか暇が掛るものですから、やはりその間には麦焦(むぎこが)しの粉も食わなければならん。またチベット人は茶を飲みづめに飲んで居る種族ですからお茶を沢山持って行くです。ところが先生らの手には死骸の肉や骨砕(ほねくず)や脳味噌などが沢山ついて居るけれども、一向平気なもので「さあお茶を喫(あが)れ、麦焦(むぎこが)しを喫(あが)れ」という時分には、その御坊(おんぼう)なり手伝いたる僧侶なりが手を洗いもせず、ただバチバチと手を拍って払ったきりで茶を喫(の)むです。その脳味噌や肉の端切のついて居る汚い手でじきに麦焦しの粉を引っ掴んで、自分の椀の中に入れてその手で捏(こ)ねるです。
だから自分の手について居る死骸の肉や脳味噌が麦焦しの粉と一緒になってしまうけれども平気で食って居る。どうも驚かざるを得ないです。あまり遣り方が残酷でもあり不潔ですから「そんな不潔な事をせずに手を一度(いっぺん)洗ったらどうか」と私がいいましたら「そんな気の弱いことで坊主の役目が勤まるものか」とこういう挨拶。で「実はこれがうまいのだ。汚いなんて嫌わずにこうして食って遣れば仏も大いに悦ぶのだ」といってちっとも意に介しない。いかにもチベットという国は昔は羅苦叉鬼(ラクシャキ)の住家で人の肉を喰った国人であって、今の人民もその子孫であるということですが、成程羅苦叉鬼の子孫たるに愧(は)じないところの人類であると思って実に驚いたです。
★中国が近代化する以前のチベット人の民族性を表す諺(ことわざ)★
出典:河口慧海『チベット旅行記』(1904年)の「第三十回 人里に近づく」
けれどもその人たちは強盗本場の国から出て来たのです。その本場というのはどこかというとカムの近所でダム・ギャショの人であるということを聞きましたから少しく懸念も起りました。何故ならばその辺の諺にも
人殺さねば食を得ず、寺廻らねば罪消えず。人殺しつつ寺廻りつつ、人殺しつつ寺廻りつつ、進め進め
そういう諺がある国の人でなかなか女だって人を殺すこと位は羊を斬るよりも平気にして居る位の気風でありますから容易に油断は出来ない訳です。けれどももうそこに着いた以上は虎口(ここう)に入ったようなものですから逃げ出そうたって到底駄目だ。殺されるようなら安心してその巡礼の刀の錆(さび)になってしまうより外はないと決心して泊りました。
http://cruel.org/economist/tibet.html
河口慧海の同書『チベット旅行記』は、読み進めていけばさらに興味深い記述がゴロゴロ出てきます。「封建奴隷制社会だった」とか「僧侶でない人々はまともに教育を受けることすらできなかった」とか「悪魔払いで病気が治るという迷信が信じられていた」とか「五百人居れば四百五十人までは確かに屑(怠惰である)」とかね。
ダライ・ラマやネトウヨの欺瞞にうんざりしている皆さんには同書の一読をおすすめします。全文は以下のリンクから無料で読めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html
これは中国が発表する情報でもなければダライ・ラマ側や西側メディアが発表する情報でもない、昔にチベットを訪れた第三者による客観的なチベット情報です。
ついでにこの数十年後、中国編入の数年前にチベットを訪れた西川一三も著書で同様にチベットをボロクソに書いています。つまりチベットは中国なしでは自力で近代化することができなかったのです。西川一三の著書も河口慧海の著書同様に一読の価値がありますので読んでみてください。
イザベラ・バードの本とかにある記述を読んで日本による併合前の韓国を汚い土人だとかバカにしてるネトウヨたちは、旧チベットのこういう記述を読んでどう思うのでしょうね?どうせ毎度のように都合の悪いものはスルーでしょうけど(笑)。