「ひとり親を救え!プロジェクト」というものがある。(*1)
日本ではひとり親の貧困率が高く、現在の児童扶養手当では子育てができないとして、児童扶養手当の加算額を「せめて1万円に増額」してもらうことを政府に要望するために、様々なNPO法人が参加して署名を集めている。
これに対して「若き老害」こと研究者の常見陽平氏が懸念を表明したところ、プロジェクトに参加している、認定NPO法人フローレンスの代表理事である駒崎弘樹氏が反発する(*2)など、ちょっとした騒ぎになっている。
常見さんは幼いころに父親をなくし、小学5年生の頃から母子家庭として育ったという。細かいエピソードについては常見さん自身がこの騒ぎについて書いた記事(*3)を読んでいただくとして、つまりひとり親家庭で育った、このプロジェクトで支援される側に近しい常見さんが、支援する側を批判しているという事になってしまっているのだ。どうして、そのようなことになっているのだろうか?
常見さんは、ひとり親家庭で育ってはいるが、母親が一生懸命働いた結果、何不自由なく育ったという。
ところが、小学校時代の担任に「お前は母子家庭なのに、自覚が足りない」として殴られたり、同級生から「大学に行くお金あるのか?」などと揶揄されるなど、「ひとり親家庭は貧乏である」という世間一般のイメージにこそ傷つけられてきたと主張する。
常見さんにとってみれば、このキャンペーンも、ひとり親家庭の支援を謳ってはいるが、その根底にある「ひとり親家庭は貧乏であるということを前提」が、実際のひとり親家庭を傷つけているのではないかという懸念があるのだろう。
一方で、このプロジェクトの趣旨は理解できるし、やっていることは決して間違いではない。
実際に、貧しいひとり親は多く、子育てにかける手が不足していることから、両親家庭よりも多くの困難を抱えがちである。そして政府に対する要求も「児童扶養控除の増額」と、極めて控えめなものだ。
数的根拠からしても、子供を守り育てることの正当性としても、その主張は真っ当だ。
だがしかし、だ。
たとえ、プロジェクトが成功し、いや、児童扶養手当1万円以上にもっと成功して、ひとり親家庭に両親家庭と同程度の可処分所得が与えられるようになったとして、結局は金銭的には何不自由なく育った常見さんが、ひとり親家庭であるがゆえに傷つけられてきたという問題は、全く解決しないどころか、むしろその傷を増すのではないだろうか?
だって、その場合のひとり親家庭の豊かさの前提には「貧しい弱者だからこそ、福祉が与えられる」という烙印が存在しているのだから。
ぶっちゃけてしまえば、福祉の現場とは手当や寄付金の奪い合いである。
東日本大震災の後に、福祉の人たちがこぼしていたのは、これまで集められていた寄付が集まらなくなったということだ。なぜなら、寄付金の多くが震災絡みに行ってしまったからだ。
そうした団体が抱えている社会問題は一切解決していないにもかかわらず、他に大きなトピックが現れて、自分たちの活動に関する関心が薄れてしまえば、社会問題を解決するどころか、自分たちの団体の活動も危うい。
寄付や福祉を必要とすることはこの世にいくらでもある。今回のように子供を育てるひとり親の問題はもちろんだし、難病患者、身体を欠損した人や精神障害を持つ人も福祉を必要としている。さらにホームレスに被災者にも必要だ。そして人間だけではなく犬や猫、イルカやアフリカの象、そして砂漠の緑化などの動植物にいたるまで、様々な分野において福祉が必要とされ、それを主張する人たちが存在している。
だからこそ社会福祉団体は、いかに自分たちの解決しようとしている問題が、他の問題よりもはるかに大変で、いかに援助が必要であるかを必死にアピールするのである。
そうしたアピール合戦の中では、支援を受ける人達が「貧しく悲惨であるか」かつ「清廉潔白であり、自己責任ではないか」を大げさに主張しないと、有利に立ちまわることができない。
例えば、6歳位の子供が原因不明の肝機能障害を負ったから寄付してくださいと主張するのと、60歳くらいの男性。暴飲暴食で肝機能障害を負ったから寄付してくださいと主張するのと。そのどちらに寄付が集まりやすいかを考えれば明らかである。
6歳位の子供が可愛らしい女の子で母子家庭だったりすると、なおのこと募金は集まりやすくなるだろう。それこそがアピールポイントなのである。
逆に、寄付をしたり、社会福祉の増額などに賛同する立場から考えれば、せっかく寄付などをするのであれば「満足感」を得たいと思う。寄付をする対象は、より貧しく悲惨な人であればあるほど望ましいのだ。
臓器移植のために寄付を募った女の子の手術が成功し、やがて彼女が成長する中で「私は多額の寄付によって救われました。成長したら看護婦になって今度は私が誰かの役に立ちたいです」なんてことを言ってくれれば、その満足感は絶頂を迎えるだろう。
逆に、その子供が大人になって無差別殺人などを起こしてしまえば「寄付なんてするんじゃなかった!」と思うのも当然である。
「福祉を受けようとする側の不幸」、すなわち「弱者が弱者であること」とは、寄付を集める側、寄付をする側、その双方にとっての利益となるの である。
さて、では当のひとり親家庭。いや、ひとり親家庭に限らず、不幸であったり、清廉潔白であったりすることによる寄付や扶助で生きる「弱者」の人達はどうなるのか。
それはもう全身全霊で「弱者」を演じるしかない。他人の施しを受けるのだから、慎ましやかに生き、お金を下さった誰かさんたちの要求を鑑みて、それは株主に対して配当金を渡すかのように、せめてもの満足感を返すように生きていくしかないのだ。それができない弱者は「弱者としての自覚が足りない」のである。間違っても、弱者を支援しようとする人たちに「それでは配慮が足りないではないか!」などと反論してはいけないのだ。
僕は、まさに今回の常見さんと駒崎さんの間に起きた対立というのが、今の社会福祉が抱える大問題そのものなのだと考えている。
労働分配だけがまっとうなお金の分配であると考えられている社会において、福祉によるお金の分配というのは特殊なものとして扱われる。だからそこには常に「お前が分配を受けるに値する根拠を示せ」という圧力が加えられている。福祉の対象者は常にその圧力に傷つけられる。
では、福祉の対象者は圧力に耐えられるように強くなるべきなのか。もしくは、そうした圧力を圧力と感じないようにまで受け入れるべきなのか。
圧力を受け入れると考えるのが駒崎さんや「ひとり親を救え!プロジェクト」に賛同する人たちで、それに反発したのが常見さんであると、僕は見ている。
確かに、そうした圧力を受け入れてでも、お金を得ることを重要だと考える立場に立つ理由もわかる。しかし、その先には、福祉を受ける側が圧力を受け続けることを当たり前だと考える社会しかない。そうした社会で圧力に晒されながら、不幸で悲惨で清廉潔白であることを世間に対して証明し続けるしかない「弱者」は果たして幸せなのだろうか?
ましてや、そうした弱者への配慮と弱者のふり(母子家庭としての自覚!)を期待される「貧困ではないひとり親家庭」は腹立たしいだけではないだろうか?
理想と現実の狭間で、理想を追い求めてもどこかで現実に迎合しなければならないということはある。
最初は齟齬に悩みながらも、やがて現実路線をとる自分の決断を正しいことであると自覚し、理想を青臭いとして打ち捨ててしまうことがある。
本人にとってはそれの方が楽なのかもしれないし、運動を続けるためには迷いなんてないほうがいい。
しかし、福祉の担い手が対応するのは「人」である。
人という、とてつもなく面倒なものに関わっていく以上、現実を飲み下すのはいいが、決して現実に飲み込まれてはいけないのである。
*1:ひとり親を救え!プロジェクト | 子どもを5000円で育てられますか?(ひとり親を救え!プロジェクト)
*2:「ひとり親の貧困が問題だ」→「貧困じゃない人もいる。失礼だ」という論法の生み出すもの(BLOGOS 駒崎弘樹)
*3:ひとり親家庭は応援するが、「ひとり親を救え!プロジェクト」を応援しないことにした(BLOGOS 常見陽平)
記事
- 2015年10月31日 20:39
弱者は圧力を受け入れるべきか
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