ここではANTの基本的要点を以下の論点に沿って整理する[1]。 ANTの形而上学:還元的な形而上学の峻拒ANTの特徴のひとつはその独特の形而上学にある。それまでの科学に関する英米系の認識論および科学社会学(科学的知識の社会学Sociology of Scientific Knowledge; SSK)は、「事実」「知識」「社会」「理性」といったいくつかのア・プリオリに規定されたドメインとその因果関係によって科学実践をモデル化してきた。一方ANTでは任意のラベル(名前)を持つノード(ANTではアクターないしアクタントと呼ばれる[2])とリンクによって科学実践をモデル化する(図1)e.g. [Latour 1987; 41, 1999: 142, 184]。科学実践の歴史は任意のラベルを持つノードをつなぐリンクの接続・非接続の歴史としてモデル化される。ANTでは、ノードを「事実」「知識」「社会」「理性」のようなア・プリオリに設定されたドメインの要素へと還元することはできない(ラトゥールはこれを「非還元の原理the principle of irreducibility」と呼ぶ[Latour 1988: 158])。 図1 ANTの形而上学 ANTではリンクの接続・非接続が時間変化すると捉える。ANTはリンクがいかに接続するか、また連携体がいかに拡大・孤立するかを記述する。ANTはノードをア・プリオリなカテゴリーに還元しそのカテゴリー間での因果関係を論ずることを禁止する。いっぽう、ノードの一般的属性や、ノードやリンクの一般的形成メカニズムについては言及する。リンクを接続するメカニズムは当初「翻訳translation」という概念を用いて説明され[Callon 1986; Latour 1987]、後に「分節化articulation」という概念の導入により抽象化された[Latour 1999]。ノードの生成メカニズムは「ブラックボックス化blackboxing」と呼ばれるものが広く知られているが、本論ではラトゥールが「試行trial」と呼ぶものもノード生成のメカニズムに含めて論じる。次節ではまず「翻訳」について説明する。 リンク生成のメカニズム:翻訳翻訳の概念はSSKにおいて社会集団を同定する概念として用いられていた「利害関心interest」が可変的であることを指摘するために用いられた[3][Callon and Law 1982: 619]。ANTの主唱者たちは翻訳概念の導入によって、社会集団の有する利害関心の差異に基づく論争とその決着という科学実践のモデルの代わりに、利害関心の変容=翻訳に基づく同盟関係alliance=連携体の形成というモデルを提示したのだった。 ANTにおいて利害関心は「目的(ないし目標)goal」とセットで用いられる概念であり、しばしば目標を目的地とする道路としての利害関心というメタファーが用いられる[Callon 1986; Latour 1987]。図示する際には、利害関心はベクトルのようなものとして描かれる[Latour 1999]。いくぶん抽象的な説明になるが、到達すべき目標に対して、達成度に応じた現在の到達点をA、目標となる点をBとしよう。このとき、利害関心はAからBへのベクトルとしてイメージされる。利害関心は目標とともにそれぞれのノードが有する属性として定義される(図2)。 図2 利害関心と目標 翻訳の4つのフェーズ:問題の設定・接続・入会・動員翻訳概念は主唱者によってさまざまな説明が与えられている[Callon 1986; Latour 1987]。まずはカロンによる初期の「翻訳」概念の説明から見ていこう。カロンは1970年代フランスにおけるホタテ貝の養殖をめぐる事例の分析をつうじて、翻訳には「問題の設定」「接続」「入会」「動員」の四つのフェーズがあると述べる。以下では彼自身の事例に即してこれらのフェーズについて説明してゆく。 70年代のフランスではホタテ貝の需要が高まっていた。とりわけクリスマスシーズンには、価格が上昇するにもかかわらず売上は顕著に上昇していた。フランスではノルマンディー海岸、ラド・ド・ブレスト(以下ブレスト)、サン・ブリュー湾(以下サン・ブリュー)の三箇所でそれぞれ異なった種類のホタテ貝が水揚げされる。70年代をつうじて、天敵であるヒトデの発生、水温を押し下げるほどの厳冬の連続、そして漁師の乱獲により、ブレストにおけるホタテ貝の総量は減少していった。サン・ブリューではブレストほどではないものの同じく減少していた。 1972年、ホタテの減少を受けて科学者と漁師組合の代表者らによる会合が開かれた。その会合は養殖を通じてホタテ貝の量を増加させる可能性を探るものだった。会議に参加した科学者のうち、三人の科学者は日本においてホタテ貝の養殖が成功していることを知っていた。その技術とは、ホタテ貝の幼生を採苗器collectorと呼ばれる網に着床させ、篭の中で天敵から保護した状態で育て、十分に大きく成長した時点で海の安全な場所に撒き、二年から三年の間育てるというものだった[4]。しかしフランスの科学者たちはホタテ貝の成長に関する知識が全く不足しており、また貝の種類が異なるためにその技術をフランスに移植できるかどうかは未知数だった。一方漁師たちはサン・ブリューがブレストの二の舞になることを恐れていた。 そこで三人の科学者たちはホタテ貝の養殖技術の移植可能性やその生態について調べる研究計画を立案しつつ、同時にホタテ貝にかかわる諸アクターの位置付けを定義した。漁師はホタテ貝の総量を気にすることなくホタテ貝を水揚げし、巨大な利益を上げる。仮にかれらがこのまま乱獲を続けるとすれば、ホタテ貝は絶滅するだろう。しかし、彼らは長期的な利益に関心が向かいさえすれば、ホタテ貝の養殖に関心を持つだろう。ホタテ貝の生態に関する知識を全く持っていない科学者の同僚たちは、実際に現場でホタテ貝を養殖する本研究に関心を持つだろう。ホタテ貝は自らが生存・繁殖することのできる採苗器や篭の存在に「同意」、すなわち実際に生存・繁殖するだろう。 これが翻訳の第一のフェーズ、「問題の設定problematisation」である。問題の設定は複数のアクター─この事例では、地元の漁師、科学者の同僚、ホタテ貝─を巻き込み、無視できない「必須の通過点obligatory passage point」を仮設する作業とされる。各アクターの歩む道にはさまざまな障壁が存在している。ホタテ貝はヒトデをはじめとする天敵に脅かされ常に絶滅のリスクを抱えているだろうし、漁師は短期的な利益を追求することに貪欲になれば長期的な利益を逸してしまうだろう。知識を増大させたい科学者集団はフィールドにおけるホタテ貝の生態を観察する機会をみすみす失うわけにはいかない。「問題の設定」はこうした障壁を避けるための「必須の通過点」、すなわち迂回路を設定し、特定の問いのもとにこれらのアクターを結びつけながらそれぞれの障壁を避けることを促す。この迂回路を通じて、ホタテ貝の種の存続、漁師たちの長期的利益、科学者の知識の増大というそれぞれのアクターの目的を達成させることが可能となる。カロンのいう迂回路(必須の通過点)の設定は、現在の到達点Aと目標Bをそのままに、利害関心のベクトルを現在の到達点から必須の通過点Cへと向かうベクトルと、必須の通過点から目標へと向かう2つのサブ・ベクトルの合成へと、利害関心のベクトルを分解するようなイメージを持てば良い(AB=AC+CB)(図3)。 図3 問題の設定 第二のフェーズは「接続interessement」である。問題は設定しただけでは絵に描いた餅にすぎない。各アクターは潜在的にあらゆるアクターと接続する可能性に開かれている。たとえば漁師たちは短期的に利益を上げることに関心を持つ人びとと手を結ぶかもしれず、そうした場合にはホタテ貝は絶滅してしまうかもしれない。問題の設定において定義されたアクターの定義を現実のものとするためには、実際にアクターと関係を結ぶ必要があり、また対立するような他のアクターとの関係を絶つ必要がある。接続は、そうした関係を生み出すためにさまざまな道具を使役する手続きである。 たとえば同僚の科学者を説得するためには、ホタテ貝の生態についての研究がこれまで全く存在しないことを挙げつつ、その必要性を訴えるプレゼンを行なう。一方ホタテ貝の場合には、当然言葉を使った説得や交渉は使えないために、採苗器や篭を使役して接続を達成することとなる。当然そうした定義を現実化する過程で、実際には達成されないものもある。実際に全ての漁師に長期的利益の意義を説得するのではなく、協会と会合を繰り返し行い貝が絶滅に瀕しているという背景を説明する方法をとった。 「接続」が成功すると、接続されたアクターは第三のフェーズである「入会enrolment」へと突入する。たとえばホタテ貝の「入会」とはホタテ貝が実際に採苗器に着床し篭の中で育つようになることを意味する。「入会」は、リンクが接続された帰結として、もはや翻訳遂行者の働きかけが必要とされなくなるフェーズである。 単に道具を使役するだけでは容易に入会は達成されない。そこではさまざまな「交渉negotiation」が必要となる。こうした「交渉」は人間を相手にしたものに限らない。たとえばホタテ貝が実際に篭の中で育つようになるためには海流による撹拌が幼生の着床を妨害することに対処する必要があったが、こうした対処もここでいう「交渉」には含まれている。実際のところは、ホタテ貝との「交渉」こそが他のアクターとの交渉においても重要な意味を持っていた。漁師の代表者たちは科学者の知見を無条件に受け入れることを予め同意していた。同僚の科学者たちも、実際にどのような条件の下でどの程度の量のホタテ貝が着床することに成功するかが調査されれば、ホタテ貝の養殖に関する研究が科学的成果であることを認める用意ができていた。 海流への対処、養殖する海中の高さの調整、採苗器の素材の選定等によってホタテ貝の養殖を成功させた後も、研究者には仕事が未だ残っている。第四のフェーズ「動員mobilization」である。ここまで行われたことは、ある三人の科学者がある地域の漁師の協会の了承を得て特定のホタテ貝のいくつかの養殖に成功したということに過ぎない。「動員」とは、このひとつの事例に過ぎないものを、「科学者が地元の漁師を説得してブレストのホタテ貝の養殖に成功した」という事例として代表性を持たせることで、実際の養殖に直接関与していない数多のアクターを同盟へと引きこむプロセスである。 事例に代表性を持たせる方法をカロンは選挙になぞらえて説明する。議会の議員が代表性を持つのは選挙によって得票し、選ばれるからである。同じ理由によって漁師の協会は漁師を代表するものであると言えるだろう。ホタテ貝も同様だとカロンは考える。同僚科学者の求めに応じて養殖されたホタテ貝はその数へと定量化される。そこでホタテ貝は無記名投票と同様に匿名化され、個別具体的なホタテ貝ではなく、その総量が養殖されているホタテ貝を代表する数値としてグラフの上に表象=代表化representされる。同様に、養殖成果の定量化に成功することによって同僚科学者の信任を得た三人の科学者は、ホタテの養殖の専門家として科学者集団を代表する存在となっている。かくして、それぞれの科学者がひとりひとりの漁師やホタテ貝について議論するのではなく、特定のグラフ上の数値について漁師協会の代表者と会議し結果を提示することが、「科学者が地元の漁師を説得してブレストのホタテ貝を養殖すること」の成功を代表する。連携体は科学者、地元の漁師、ブレストのホタテ貝一般へと拡大し、三人の科学者の書く論文はこうした連携体を代表するものとなるのである。 このように、翻訳とはあるアクターがさまざまな・多数のアクターどうしの間にリンクを形成する過程をあらわす概念である。カロンの説明は翻訳がどのような過程としてイメージされているかを理解する適切な見本を与えており、またANTがネットワークの拡大過程を説明することを目的としていることがよく分かる。しかし翻訳を「必須の通過点」の生成をつうじたアクターの入会・動員プロセスへと一義的に還元している点では、アクターどうしの関係の時系列的変化を画一的に確定する性格を持つモデルである。 しかし非還元の方針を翻訳の概念に対しても適用するならば、こうした翻訳プロセスの特徴づけは、せいぜい翻訳のパターンのひとつとして挙げられるべきものである。おそらく私たちは翻訳という概念をあるプロセスの名と捉えて、このプロセスには無数の類型が存在すると考えることが適切だろう。 翻訳の諸類型つづいてラトゥールによる翻訳概念の説明について述べよう。ラトゥールの場合も初期の研究である『科学がつくられているとき(Science in Action;以下SA)』においては翻訳概念を利害関心の変容を示すものとして用いている[Latour 1987: 108-121]。また、カロンが翻訳の時系列的なプロセスを示しているのに対して、ラトゥールは原則的に翻訳の類型論を展開している(ただし、後に述べるようにプロセスについて述べているように思われる部分もある)。 さて、ラトゥールはSAにおいて、翻訳の種類を5つ挙げている。本論では、それぞれ1. 他者の利害関心への迎合、2. 他者の利害関心の誘引、3. 迂回路の設定、4. 利害関心と目標の再設定、5. 利害関心の統合と呼ぶ。 他者の利害関心への迎合とは、自らの目的を追求するために他者の利害関心に自らの利害関心を振り向けることを指す。ラトゥール自身の示している事例からひとつ例を示そう。文化相対主義の祖であるアメリカの人類学者フランツ・ボアズは、生物学的決定論に基いて移民に反対するアメリカ議会を支持する優生学者と激しい論争を繰り広げていた。同じ頃サモアのフィールドワークを行っていたマーガレット・ミードは、サモアの思春期の少女たちは情緒不安定に陥ることはないと報告した。この発見は、思春期の子どもの情緒不安定が生物学的にプログラムされているがゆえに文化を超えて普遍的に生じるという理解を覆し、生物学的決定論に対して文化相対主義の優位を示す事例であった。それゆえ、ボアズはこの発見を自らの優生学者との対決において大いに利用した。このように、ボアズは生物学的決定論を擁する優生学者に対抗して文化相対主義を主張するために、サモア研究の民族誌的成果として文化相対主義を主張するミードの利害関心へと自らの利害関心を迎合させたのである。 翻訳の第二の類型である「他者の利害関心の誘引」とは、1とは対称的・対照的に他者の利害関心を自らの利害関心へと引きこむことを指す。たとえば、裕福な実業家が哲学に興味を持ち、人間の論理的推論能力を司るニューロンを特定したいと考えたとする。しかし脳科学者がこの実業家にそうした研究を行なうことが時期尚早であると述べ、しかし、にもかかわらず自分の研究に投資しろと言うかもしれない。このとき実業家は─ラトゥールは何も説明していないが、おそらくフィランソロフィックな精神に則り─自分の目的を放棄し、科学者の研究目的を支援するために資金を拠出するようになるかもしれない(これはもちろん科学者の始点から見た場合に「他者の利害関心を誘引」したことになっているが、実業家の視点から見れば「他者の利害関心への迎合」である)。 第三の類型は、しばしば困難である「他者の利害関心の誘引」に対して、現実に取られる場合の多い類型として紹介されている。たとえば先に述べた裕福な実業家に対して、脳科学者は実際には「あなたの目的は達成できないが金を払え」と説得することはないだろう。彼らはこう説明する:それは達成可能だ、しかし今すぐというわけにはいかない。今私たちの神経科学における基礎的な研究に投資してくれれば、5年のうちにそれを明らかにすることができるだろう。カロンの同概念との差異は、カロンの場合迂回路として「必須の通過点」を設定していたのに対し、ラトゥールの場合は自らの利害関心へと他者の利害関心を迂回させることをとおして、自らの目標と同時に他者の目標を達成する、という点にある(ラトゥールも「必須の通過点」の概念について議論しているが、カロン[Callon 1986a]とは異なる用法である)。 第四の類型は「利害関心と目的の再設定」である。これまでの類型は他者を頼る/頼られるアクターを前提としていたが、アクターが必ずしも目的の達成に際して他者を必要としているとは限らない。そうした相手とは同盟関係を生成することは困難だろう。しかしこうした相手を同盟に巻き込むための5種類の戦略があるとラトゥールは説く。1. 目標の置き換え、2. 目標の創造、3. 新しい社会集団の創出、4. 迂回の不可視化、5. 帰属の獲得。 「目標の置き換え」から順に見ていこう。物理学者レオ・シラードがアメリカ国防総省に原子爆弾の開発計画を持ち込んだとき、国防総省は彼の計画に関心を示さなかった。国防総省の目的は戦争に勝利することであり、時間のかかる新しい兵器の開発は目下の戦争の利益にはならないと考えられたのである。そこでシラードはドイツが先に原子爆弾を完成させてしまえば、アメリカは戦争に勝利することはできないであろうと説得した。国防総省は依然として戦争に勝利することを目標としていたが、今やそこでの「戦争」とは「原子爆弾をドイツよりも先に開発する競争」という意味へと置き換えられた。 また、全く新しい目的を設定してしまう「目標の創造」を行なう場合もあるだろう。実業家のジョージ・イーストマンは写真乾板販売の事業に参入したが、この商品は自宅に暗室を有するような一部の好事家にしか訴えかけないであろうことを承知していた。そこで彼は”You press the button, we do the rest”のスローガンのもと、一般大衆が写真を撮ることを目的とし、その過程で自らの会社をその目標を達成する上で不可欠の通過点とするよう画策したのだった。 しかしもちろん、新しい目標を創造するだけでは、もともと他者の目標達成に関心のない人びとを惹きつけることはできない。目標の創造は、しばしばそうした目標を希求する「新しい社会集団の創出」と合わせて行なわれる。たとえばイーストマンの目標の創造は、「アマチュア写真家」という新たな社会集団の創出とともに行われた。 また、目標ではなく利害関心のほうを別の等価的な関心へと置き換えることもあるだろう。自動車会社の経営者が燃費の良い自動車を開発したいと考えているとしよう。その企業に所属する研究者は燃料電池によって動く電気自動車こそが未来の鍵を握る技術だと経営者を説得することに成功したとしよう。このとき経営者の利害関心は燃料電池を搭載した電気自動車を製造するという目標を達成することへと置換されるだろう。そして燃料電池を開発するためには触媒下における電極の振る舞いを理解する必要があると研究主任が主張し、さらに技術者が電極の正孔を理解することが肝要だと考えれば、目下の短期目標は正孔についての研究となるだろう。こうした利害関心の置換は迂回の一種であるように思われるが、その迂回路が目的に達する唯一の道であると捉えられ、それが当のアクターにとって目的を達成する最短経路であると捉えられる限りにおいて、利害関心の置換に関する「迂回の不可視化」という戦略として扱われているようである[Latour 1987: 116]。 第五の戦略「帰属の獲得」は、拡大したネットワークがどのアクターに帰属されるのかについての問題である。ナポレオン戦争における勝利はナポレオンの功績と考えられているし、低温殺菌pasteurizationはパストゥールの功績と考えられているだろう。しかしもちろんこうした功績は多数のアクターによるリンクの形成をつうじて達成されたものであり、非還元の原理をとるANTはこうした功績を誰かひとりに還元することはしない。しかし現実の問題として、アクター当人も含め、人びとはしばしばあるネットワークを少数のアクターの功績とするために奮闘するものである、という。第五の戦略については、確かにアクターどうしの交渉の一種ではあろうが、筆者自身は翻訳に関する戦略であるとは考えていない。ラトゥール自身も認めているように、これはネットワークの拡大に関する戦略ではないからである[Latour 1987: 118]。 最後の類型に移ろう。第五の類型「利害関心の統合」は、カロンの入会概念のように、リンクが接続されたとみなされる条件、あるいはリンクの接続の帰結を示すものであるように思われる。他者の翻訳に成功することで他者が翻訳遂行者の企図する関心に基いて動くようになったとき、もはや翻訳遂行者は翻訳を遂行する必要はない。「アマチュア写真家」はイーストマンが何もしなくても自ら写真を撮って現像をカメラ会社に依頼するだろうし、世の親たちは予防接種を世に広めたパストゥールが死んだ今でも子どもに予防接種を受けさせるだろう。そしてそのように振る舞うアクターが増えれば増えるほど、そのように振る舞わないアクターは孤立してゆき、多数派のアクターと利害関心や目的を共有することを迫られるのである。 SAにおけるラトゥールの翻訳の諸類型には不明瞭な点も多いが、翻訳が目的および利害関心の変容をつうじたリンクの形成のメカニズムを示すものであり、また翻訳の遂行主体および対象が学者ないし技術者として捉えられているという点は比較的明確であるように思われる。 ここまでANTにおけるリンクの生成メカニズムについて説明してきた。このメカニズムはネットワークの拡大過程を説明する。ANTではもうひとつ、ネットワークの動態に関する基本メカニズムを想定している。それはネットワークの集約による新しいノードの創発メカニズムである。 ノード生成のメカニズム歴史のある時点までは存在していなかった概念や事物が出現するということがある。インターネットは19世紀には存在していなかっただろう。哲学者ミシェル・フーコーは『狂気の誕生』について論じた。科学哲学者イアン・ハッキングはトラウマやレーザーの誕生について論じている。ラトゥールはパストゥールが酵母を発見するまで酵母は存在しなかったのだと主張した[Latour 1999: 145]。最後の主張については異議を唱える人も多いだろう。この点についての批判は後に検討するとして、ここではまずANTがどのようにノード生成の過程を説明しているかを述べる。 『パンドラの希望Pandora’s hope(邦題:科学論の実在;以下PH)』の第六章において、ラトゥールは「媒介[5]mediation」という概念について論じている[Latour 1999: 174-193]。ここでラトゥールはリンクやノード生成のメカニズムをANTの形而上学に照らしつつ比較的明晰に説明しているが、同時にそれまでの著作とは異なる概念の用法を用いられていたり、「媒介」の概念自体がそれまで考案された複数の概念にまたがって使用されていたりする。ここでは媒介の概念について網羅的に紹介することはしないが、ブラックボックス化を説明するための準備としてPHの媒介とSAの翻訳の差異を2点指摘する。1. ノードの合成の概念の導入。2. 人間と人間以外の存在者nonhumanの対称性の強調。なおラトゥールは必ずしも複数の著作間で概念の用法を統一していないように思われる。表1に、PH第六章におけるラトゥールの術語について示す。本論では、以下の表に基いてSAにおける概念とPH第六章において論じられた概念を同一のものと仮定する。
表1 SAとPHにおける概念の対応表
第一の点から説明しよう。ラトゥールは媒介の説明において目的の「合成composition」について論じている[Latour 1999: 178]。これはSAにおいて論じられていた翻訳による利害関心や目的の変容とは異なる側面を持っている。SAにおいてはそれぞれのアクターが基本的に独立した利害関心と目的を有しており、翻訳はそれらの変容についてのメカニズムを示すものだった。これに対して「合成」は、2つのアクターの間にリンクが形成されることをつうじて、合成されたひとつの目的が生成されるメカニズムを指す。 合成された新たな目的はどのノードに帰属されるのだろう。それは「合成されたノード」、すなわちリンクによって接続された2つのノードであるとラトゥールは述べる[Latour 1999: 178]。ここでは、合成されたノードはあたかもひとつのノードであるかのように単一の属性を持つという理解が導入されている。 これはきわめて素朴な化学のアナロジーによってそのイメージを与えることができる。水素と酸素が結合することで、水素の性質も酸素の性質もいずれも持たない独自の性質を持つ水が創発するように、あるノードと他のノードが接続することで、どちらのノードにも還元不能な新たな属性が創発する。ラトゥール自身の例からとれば、短気な人+銃は短気な人でもなければ銃でもない[Latour 1999: 178-180]。銃は人間によって操作されなければ殺人能力を持たないし、短気な人も銃がなければそうそう人を殺せないだろう。しかし銃を持った短気な人は容易に人を殺す能力を備えている。それゆえそれは独特の属性を持ったひとつのノードして扱われる必要がある。 第二に、PHにおいてラトゥールは人間以外の存在者が利害関心(PHではより中性的に「行為のプログラム」と呼ばれる)を有することを強調している。生存や繁殖といった目的をホタテ貝のような人間以外のアクターにも拡張する視点はカロンの翻訳の議論にも既に見られていたが、そもそもANTはノードを分類しないのであるから、「行為のプログラム」は任意のノードが普遍的に有する属性として想定されるのが自然である。 ブラックボックス化さて、ラトゥールは媒介の類型のひとつとしてブラックボックス化blackboxing [Latour 1999: 183-185]という概念を論じている。この概念もまた複数の用法を持つが、PH第六章におけるそれはノード・リンクが結合してひとつのノードを形成するメカニズムを指すものである。たとえばパソコンについて考えてみよう。パソコンはマザーボードやグラフィックカード、ハードディスクやメモリやモニタといった、さまざまな部品から組み立てられている。もちろんハードディスク単体ではパソコンとは呼べないし、モニタだけでは画面に何も映らない。すべての部品が特定の仕方で組み合わさってはじめて、パソコンという個体が成立する。このようにブラックボックス化とは、ノードの合成から一歩進んでネットワークが特定の行為のプログラムを持つ1つのノードとして、1つのラベルのもとで取り扱われる過程を表す概念である。たとえばある経営目標に向けて事業を営む法人といったものも、ブラックボックス化されたひとつのノードとして扱うことができるだろうcf. [Callon 1986b]。 社会学や人類学において扱われるほとんどのノードは複数のノードの合成として表現できるだろうから、あらゆるノードがブラックボックス化を経たノードであると表現しうるだろう。それゆえ、ブラックボックス化はノード生成のメカニズムであると同時に、あらゆるノードは複数のノードの歴史的な合成物であるというテーゼとして解釈することもできるだろう。 試行ラトゥールはパストゥールによる酵母(イースト)の発見について論じている[Latour 1999: 113-144]。この事例においては明らかに他と区別することのできるノードの生成メカニズムが見られる。そこで、本論ではこれを「試行trial」という独立したノードの生成メカニズムとして扱う。 パストゥールが実験を行っていた当時はリービッヒの主張が支配的影響力を持っており、発酵現象は微生物のかかわらない純粋に化学的なプロセスであると考えられていた。それが微生物の関与するプロセスであるとする発想は、時代遅れの生気論に与するものと見られていた。そうした時代において、パストゥールはそれが微生物によるものであることを主張したのだった。ラトゥールはパストゥールの実験において、酵母に存在者としての地位が与えられる際、最初にそれがパストゥールによって生成された条件下における一群の作用として見出される点に注意を促す。ある論文の冒頭において、著者であるパストゥールは発酵が微生物による作用であると考えることが否定されていると述べることから始める。しかし、パストゥールは実験におけるさまざまな手続きを通じて、「それは...発酵の引き金を引くし、液体を濁らせるし、白亜を消失させるし、沈殿を形成するし、気体を生じさせるし、結晶を形成するし、粘性を有する…」といった作用の連なりが知覚されることを論じる[Latour 1999: 118]。その後、こうした作用のリストと類似した作用を遂行する能力を持つ存在として、醸造に使われる酵母が言及される。この醸造酵母との比較により、パストゥールが実験において生成した作用群は、醸造酵母の亜種、すなわち有機的存在によってもたらされる作用として捉えられるようになる。 ラトゥールは、パストゥールの実験を酵母が行為可能な条件を生成するものとして捉えている。実験室において整えられた物質的諸条件によって、それはさまざまな振る舞いを表す対象として人間に知覚可能な存在となる。その後、そうした作用を帰責する存在として、それまで存在しないと考えられてきた酵母の存在が生成されることとなる。 ラトゥールは、この一連の事態を「新しいアクターの出現the new emergence of a new actor」[Latour 1999: 118]と表現している。それゆえこれはリンクの形成として捉えるよりも、ノードの生成プロセスとして理解するほうが妥当だろう。ラトゥール自身は詳しく説明していないが、ANTの形而上学においては、試行はさまざまなアクターへと始点を持たない複数のリンクがまず生成され、そのリンクの始点としてアクターがラベルを与えられて生成する現象として表現されうるだろう。 このように、ANTはリンクとノードを基本的な構成要素とした、その生成メカニズムについての理論である[6]。ANTはこうした道具立てを用いて現実の実践におけるネットワークの拡大プロセスを記述する。そのように記述されるネットワークの拡大過程はどのような意味を持つのだろうか。この点について、主唱者はANTと既存の理論の比較をつうじて吟味する。 ネットワークの拡大が意味するもの「実在の構築」の3つの意味ANTでは連携体の構築を「実在の構築」と表現する[Latour 2005]。翻訳の節で確認したように、ANTの議論は「自らの利害関心に基いて目標を達成しようとする科学者集団」というSSKにおける科学者モデルを強く引き継いでいる。しかし同時に、基盤となる形而上学はSSKとは全く異なっている。ANTで「構築」と言われるとき、それは社会集団による知識の生産ではなくネットワークの生成のことを指している。 ラトゥールの述べる「実在」の概念には、いささか多くの経験的事象が区別されずに詰め込まれている。それらはすべてANTの形而上学においては連携体の形成として表現される。ここでは3つほどのその意味について述べよう:1. 知識の生産、2. 知識の普及、3. 社会関係の変化と実体化。 第一に、ネットワークの拡大は「事実と対応する知識はいかに生産されるか」という、従来の科学哲学における認識論に解答を与えるものである。この主題はラトゥールとウールガーの著書『実験室生活Laboratory Life』[Latour and Woolgar 1979]の頃から扱われていたが、PAにおいてあらためてANTの形而上学の枠内で提示される。PAにおいて、知識の生産はアクタントの等値性を生み出す翻訳をつうじたアクタント間のネットワークの形成として定式化される。ラトゥールは、サバンナにおいて森林が増加しているのか減少しているのかを調べるフィールド調査に同行し、その知識生産過程について記述している。森林の各点が科学者たちによって測量され、座標が記録される。その各点からは土が採取され、採取された土はボール紙で作られた直方体のキューブを縦横に並べた「土壌比較器」という装置に入れられる。記録された座標は土壌の空間的位置関係を数値として保存し、土壌比較器に押し込まれた土は現実の森林における土壌と等価なものとして扱われる。調査から戻り報告書を書く場面では、それらの土壌の差異が座標値を幾何的に表現した「地図」の上にプロットされ、言語的な表現へと変換される。このような過程をつうじて、物質世界のアクタントの間にひとつひとつ等値的な変換が構築されることにより、サバンナにおける森の諸関係が報告書の記述へと姿を変えてゆく。こうした記述にもとづき、ラトゥールは従来の「推論によって世界を表象する行為」として知識生産をモデル化する「理論」に代えて、さまざまな道具を用いてアクタントの間に等値的な変換を作り上げるプロセスとしてそれをモデル化するのである。 ラトゥールはこのモデルがある相対主義に対する反論となっていると考えている。SSKのように知識が利害関心の相関物であり、人びとの利害関心が異なれば生産される知識も異なると捉える科学理解においては、相矛盾する知識が同一の世界に関する事実を説明することが原理的には可能である。SSKの主唱者はここから事実と対応する唯一の正しい説明といったものはなく、社会集団が異なれば生産される知識もまた異なるとする相対主義を引き出した[Barnes and Bloor 1982]。ラトゥールのモデルはこのような意味での相対主義とは異なり、世界がどのようであるかということと、人びとの生み出す知識との間にリンクを作り上げる営みとして科学実践を理解する。 第二に、ネットワークの拡大とはどのように多くの人びとの間に知識が普及するというプロセスを説明するものでもある。ホタテ貝の事例において、カロンは科学者の生み出したホタテ貝についての知識が科学者集団に共有される過程を説明していた。ラトゥールは、こうした普及にあたって図やグラフといった、関係性を保存しながら空間的な位相を可能とする「不変可動物immutable mobile」や、リソースを空間的な一点に集約する「計算の中心center of calculation」といったネットワーク形成の特徴についても考察を与えている[Latour 1987]。 第三に、ネットワークのは人びとがどのようにして特定の社会関係および人-モノ関係を実体的なものとみなすようになるのかという過程を描くものでもある。たとえばインスタントカメラの普及は、カメラを持つ人とカメラ会社との間に撮影者-現像者という関係を結ばせることとなるだろう。 対象の実在ラトゥールは従来の意味での科学的実在論についても部分的に議論している。「試行」に関する議論は、不可視の存在が人間の知覚から独立して存在するか否かという、伝統的な意味での対象の実在の概念について議論するものとして理解することができる。 まずラトゥールの酵母の実在にかかわる議論を整理してみよう。ラトゥールは、パストゥールが実験において状況を整えた結果、酵母はパストゥールから独立に存在することが可能になったと述べる。試行をノードの生成として理解する解釈に基づけば、ANTではパストゥールの実験以前に酵母が存在しなかったと解釈していることになるだろう。同時に、パストゥールの試行をつうじてノードが実験環境などとリンクを形成した後には、酵母の存在はもはや疑う余地のないものである。 こうしたラトゥールの議論は、従来の科学的実在論とはいささか力点を異にしている。科学的実在論論争は、科学において理論上は措定されているが、観察不能な対象が本当に存在するかをめぐるものである。エーテルをはじめとしてかつては実在すると信じられていたにもかかわらず、その後その存在が否定されることとなった実例がいくつもあったことから、どのような基準を満たせば現在措定されている対象が本当に存在すると言えるのかが議論されてきた[伊勢田 2005]。ANTはそうした基準に関する議論とは無縁であるように思われる。ノードは歴史的に生成しうるものである。また、人間にとって観察可能であるかどうかはANTにおいては問題とはならない。ANTにおいてはノードが存在しなければ端的に存在しないのであるし、さまざまなネットワークの中に織り込まれたノードは存在するものとして扱われる[7]。実在するかどうかを判定する基準は存在せず、どのような方法によって織り込まれるにせよ、大きなネットワークに織り込まれれば織り込まれるほどノードは実在的になると考えられている。 カテゴリー概念の欠如と導入の禁止 個々のノードを分類するカテゴリーを表現する能力を欠いていることは、ANTにおける際立った特徴のひとつである。これは見落とされた欠陥というよりも「非還元の原理」にしたがったANTの基本的方針であり、既存の科学理解のモデルに対する批判の意味を持っている。したがってANTにおいては積極的にカテゴリーの導入が禁止されていると考えるのが妥当である。以下、ANTにおいて導入することが禁止されているとみられる、いくつかのカテゴリーの例を挙げる。 観念と事物ラトゥールはパストゥールが酵母を実在化するまで酵母は存在しなかったのだと主張した。まずこの主張について、これが英米系の認識論的枠組みをベースとした観念論あるいは唯名論の主張ではないことを述べておく。ANTの形而上学は「知の営みとしての科学」における還元的形而上学とは異なっており、そもそもANTは人とモノの二元論を峻拒するので、人の知覚と独立してモノが存在するかしないかという意味での「観念論/実在論」の対立を表現することができるような道具立てを持たない(ただし、あるノードが他のネットワークから孤立している場合には、そうしたノードが観念的なノードであると表現してもよいかもしれない)。 ハッキングは科学社会学者アンドリュー・ピッカリングの『クォークの構築』[Pickering 1984]という議論を例に取りながら、「観念idea」と「事物thing」を区別するよう提案している[Hacking 1999]。すなわちクォークという「事物」は人間が存在しようとしまいと存在しているが、クォークという「観念」が生み出されたのは歴史的な出来事である。同様に、酵母という「事物」によるさまざまな影響はパストゥール以前から存在したが、酵母という「観念」が生み出されたのはパストゥール以後にすぎない、と述べれば、ラトゥールの議論にみられる見かけ上の混乱は整理されるようにも見える。 しかし「観念」や「事物」といったカテゴリーによってノードを分析者がア・プリオリに区別することは、ANTの理論的表現能力を超えた行為なのである。ANTの形而上学においては、酵母というラベルを持つノードが生成されない限り酵母は端的に存在しないし、他のノードとリンクを接続して強固なネットワークが生成されない限り酵母は実在的な存在とはならない。 人間と人間以外ANTは人間と人間以外のノードを区別しない[Latour 2005: 10; Gad and Jensen 2010]。これは、それまでの科学哲学の認識論の系譜において、人間は表象や構築といった行為者性を持つ存在として措定されていたのに対して、人間以外の存在が行為者性を持たない客体として措定されていたことに対する批判の意味を持っている。ANTにおいては人間も人間以外のアクターもひとしく行為のプログラムを有すると捉える。 科学と社会SSKが批判した従来の科学社会学において前提とされていた科学と社会の二元論は、ANTにおいても放棄されている。しかしSSKは知識の生産プロセスの原因として社会を想定していたのに対し、ANTではそもそもそうしたカテゴリーが存在しない。また、事実の生産にあたってどのようなノードを選別すべきかというア・プリオリな基準も設けない。それゆえ、ネットワークの構築に必要なあらゆるノードが記述に含まれることになる。 認識論と存在論ノードのカテゴリゼーションという話とは少し異なるが、人間と人間以外のノードを区別しない以上、ANTにおいては「人が何を知ることができるか」を問う認識論と「この世界に何が存在するか」を問う存在論という形で、研究領域を区別することもできない。もしANTを別の一語で表すならば関係論ないし連関論とでも呼び表せるだろう。ただし、ANTを特定の属性を持つノードの生成についての議論であると捉えれば、その意味でANTを存在論と呼ぶことも可能だろう。しかしそれは、世界に一般に何が存在するかを吟味するという従来の意味での「存在論」ではなく、世界の存在者の多様性と歴史的な存在の生成を記述するという意味での「存在論」である(cf. [Hacking 2002])。モルが「存在論的政治ontological politics [Mol 1999]」という言葉を用いて以来、多くのANTをベースとした経験的探究が「存在論」の標題のもとで遂行されている[8]。 従事する研究のゲーム:記述の理論としてのANTこのように、ANTの主唱者たちはさまざまな形で既存の科学についての議論を再構成あるいは批判してきた。だがこうした仕事は、あくまでもANTとそれまでの還元主義的科学論の持つ形而上学的側面の比較において達成される非経験的な探究であり、既存の理論との整合性を担保するうえで必要ではあるが、ANTが目的とする種類の探究ではないとされる[Latour 2005: 10]。 先にも述べたように、ANTが要請する仕事は経験的記述である。存在者は任意のラベルを持つために、どのような種類の存在者が存在するかという問いは、端的に人びとがどのような種類の存在者が存在するとみなすかということに依存して決定される。またノードやリンクの形成メカニズムも多様であり、経験的に決定される。ANTに基づく研究は、ネットワークの分析ではなく記述をつうじてネットワークの在り方の多様性を示す。 カテゴリー概念の導入の禁止は、それぞれのノードをより大きなカテゴリーに分類することによって、そのカテゴリー間の因果関係として実践を説明する行為を禁止する機能を持つ[Latour 2005]。同時に、ノードはそれよりも細かい構成要素に分解可能であり、そのようなノードの構造を記述し、その構造と翻訳の過程の記述としてさまざまな現象を説明することを要求する。 なぜカテゴリー間の因果関係として実践を説明される行為が禁止されるのだろう。それは、実践に依存せず反証不能な固定的なカテゴリーを用いることが、モデルと現実の関係を逆転させる効果を持つからである。モデルは当然現実の実践を適切に記述するために利用されるものであるが、カテゴリーと因果関係の固定されたモデルは未知の実践をもそうした語彙によって説明可能としてしまう。ノードをア・プリオリなカテゴリーに分類することは、そのノードの持つ構造を記述する必要性を失わせる。カテゴリー間の因果関係によって記述することは、個々のノードの生み出すリンクを理解する必要性を失わせる。現実の実践の影として構築されたに過ぎないモデルは、異なる実践をも説明する一般的スキームとして用いられる場合、いわば現実を影とする実体へとすり換わってしまうのである[Pickering 1995]。カテゴリー概念導入禁止の規則は、こうした「現実の従属変数化」を禁止するための規則である。 ANTに付随するさまざまな先行研究への批判は、科学実践の経験的記述に際して記述を浅薄なものとしないためのさまざまな処方箋として捉えることも可能である。エスノグラファーは科学者がいつでも自然の本性を追究しているなどと考えてはならない。モノは人間が好きなように扱うことができる対象であると考えてはならない。SSKは、論争が描かれ、そして社会的要因がそれを決定するという分析が後に続くというお決まりのストーリーを提示することを批判されてきた。ピッカリングは、SSKのこうしたストーリーを「端的にSSKは、科学を行なうことの豊かさ(装置の制作、計画、運用、実験の解釈、理論の洗練、ラボラトリーの管理と交渉、ジャーナル、グラントを与える機関といった濃密な仕事)を汲み取るのに必要な概念的装置を用意することを私達に要求しない。実践を開かれ、利害関心に基づくものとして描くことはよくてもその表面をなぞるものである」と述べた[Pickering 1992]。こうした先行研究に対して、ANTは知識の生産や共有、社会関係の変化や実体化の原因を一義に還元せず、その重層的プロセスを記述するという経験的探究の道を開いた。 ANTとオブジェクト指向プログラミングの比較 ANTの形而上学は、コンピュータ・プログラミング・パラダイムにおけるオブジェクト指向プログラミングと呼ばれるものにおいて想定される形而上学と類似している。オブジェクト指向言語によるプログラミングでは、メッセージを送りあうオブジェクト(≒ノード)どうしの関係性としてコンピュータ・プログラムを構成する。本章ではANTの基本概念をオブジェクト指向プログラミング(Object-Oriented Programming;以下OOP)と比較しつつ、以下の流れでANTの基本概念を批判的に検討する:1. 「利害関心」ないし「行為のプログラム」概念の棄却、2. 「ブラックボックス化」の概念の明晰化、3. 「翻訳」概念の再定式化。 OOPには、クラスベースのオブジェクト指向言語(JavaやC++など)とインスタンスベースのオブジェクト指向言語(Javascriptなど)という分類がある。オブジェクト指向言語ではオブジェクトは変数と変数に対する操作(メソッドなどと呼ばれる)によって規定される。クラスベースの言語では、オブジェクトがどのような種類の変数とメソッドを持つかは原則としてクラスにおいて規定され、オブジェクトはそのクラスに基いて生成される。たとえば「名前」という種類の変数を割り当てられた「人間」というクラスを元に、名前に「山田」という値が代入された「人間1」と「田中」という値が代入された「人間2」が生成されるといった具合である。ここで「人間1」や「人間2」はインスタンスと呼ばれる。これに対してインスタンスベースの言語はクラスの概念を持たず、変数とメソッドから個別の「山田」や「田中」だけを構成することが可能な言語である。この2つの分類でいうと、ANTはクラスの導入を意図的に禁止したインスタンスベースの言語に近い性質を持っている。クラスとはノードの種類を規定するカテゴリーのようなものと考えれば良い。 さて、第一にカテゴリー導入禁止の規則と「利害関心」の概念の考察からはじめよう。ANTがカテゴリー導入を禁止する理由は、属性の定まった不変のカテゴリー(e.g.「社会」カテゴリーにおける「利害関心」という属性)によって実践を説明することが現実の実践を捨象するからであった。SSKにおける「利害関心」の可変性を指摘するために、ANTはカテゴリーではなくノードの属性として利害関心を割り当てつつ「翻訳」の概念を導入した。 この点に関してOOPと比較すると、多くのオブジェクト指向言語ではオブジェクトの持つ変数を任意に指定することが可能である。いっぽうANTにおいて、カロンは「翻訳」のプロセスを「利害関心」の迂回からなる単線的なプロセスへと変換していた。しかしこうした翻訳プロセスの特徴づけは、せいぜい翻訳のパターンのひとつとして挙げられるべきものであろう。こうした単線性を問題と捉えたためか、ラトゥールは『科学が作られているとき』において翻訳の類型論を展開し、また「目的」や「利害関心」や「行為のプログラム」といった特定の変数とリンクの生成の関係について議論している[Latour 1987; 1999]。だが、いかに類型を定めたところで、それが有限の類型に留まる以上、無限の可能性を持つ翻訳の経験的プロセスを捉えることはできないだろう。それはア・プリオリに定めるのではなく、経験的に記述されるべき事柄なのである。ANTが試行について述べたように、アクターがどのような属性を持っているかは事前には分からず、その要素が何らかの関係に巻き込まれる場合に初めてその属性の存在が判明することを主張するのならば、同時に私たちはノードの属性の種類を「利害関心」や「行為のプログラム」といった特定の種類に還元することはできない。ア・プリオリに前提してはならないのは属性の内容(=利害関心がどのようなものであるか)だけではなく、そもそもどのような種類の属性を持つかということ自体であると考えないのならば、ANTは結局のところノードの属性に関してSSK流の還元主義を採用していることになるだろう。したがって、「利害関心」という概念は、それがいかに人間以外に適用可能な「行為のプログラム」という中性的名称に置き換えられようとも、いわば先行研究批判の残滓であり、経験的記述の障碍として葬り去られるべきなのである。 次にブラックボックス化について分析しよう。OOPにおいてオブジェクトは変数とメソッドによって規定されるので、もしオブジェクトを合成してひとつのオブジェクトを作りたければ、2つのオブジェクトの変数とメソッドを単に合わせてしまうか、オブジェクトそのものをオブジェクトの属性とすることもある(コンポジションと呼ばれる)。これをANTに引き直せば、行為のプログラムの合成という概念によって説明されていた内容は、アクタントの無数の属性とその属性に基づく行為能力の和、ないしあるアクタント自体を属性とするアクタントとして表現されうる。 また、OOPの重要なパラダイムにオブジェクトの「カプセル化」と呼ばれるものがある。カプセル化とは、あるオブジェクトの持つ変数やメソッドを外部から隠蔽することを指す。これはブラックボックス化のもうひとつの要点を明晰化する上で有用である。 たとえば私が床屋に行って髪を染める場合、私の今の髪の色という属性に変更が加えられることとなる。このとき、床屋は私の身体がいかにしてブロンドではなく黒髪を生やすのかという機構について知る必要はない。床屋の行為は外見から明らかな客の髪の色だけを必要な変数とし、ただ床屋は自らの行為能力を行使してそれ以外の色に髪を染め上げれば良いのである。床屋が私の髪の色を認識しその色を茶色に染め上げると、私の身体の髪の色を決める機構がいかなるものであるにせよ、私の髪の色という属性は黒から茶色へと塗り替えられる。床屋にとって私の身体機構はブラックボックスであり、床屋は自らの「髪を染める」という行為に関係する限りにおいて、「髪の色」という私の属性の「値」(「黒」「茶色」)を参照できれば問題ない。このように、オブジェクトが自らの行為に関係する限りにおいて他のオブジェクトの変数の値のみを必要とし、その変数が当のオブジェクトの他の変数やメソッドとどのような関係にあるかということは他のオブジェクトから隠蔽され、変数はその値を処理するオブジェクト自身のメソッドによって処理することができることが、OOPにおける「オブジェクトのカプセル化」の重要な特徴である。いわば、私にとって髪の色という属性は「身体の機構と結び付けられた」ものであるが、結果としての「黒」という属性の値だけをメッセージとして床屋に送ることにより、床屋はそれを「X色の髪を染める」という行為能力のXとして受け取るというわけである。 こうした「カプセル化」の概念は、ANTのブラックボックス化の概念をより掘り下げる上で参考になる。カプセル化の概念からの類推を適用すれば、あるノードが「ブラックボックス化」されているということは、そのノードが複数のノードから合成されているということに加えて、そのノードが他のアクタントから「隠されている」属性や行為能力を持つことを意味する。それはアクタントの行為能力の持つ属性への「アクセシビリティ」という観点から理解できる。たとえば床屋は私の髪の色にはアクセスできるが、私の胃の調子にはアクセスできないだろう。私の胃袋は床屋の髪染め能力にとって「隠されて」いるのである。しかし、たとえばある種の医者の診断には「隠されて」おらず、医者は私の胃にアクセスしてその状態に応じた判断を下すかもしれない。ある属性が他のアクタントの行為能力からのアクセシビリティを有するか否かは、そのアクタントの内部と外部の境界を形成する条件として働き、自己に帰属された行為能力においてのみアクセス可能な属性や、あるいは自己の属性に対してのみアクセシビリティを持つ行為能力の存在が「ブラックボックス化」という概念を特徴付けているのである。 最後に、「利害関心」という概念を棄却する以上、「翻訳」概念も再定式化されなければならない。ノードの有する属性を事前に決定できないのならば、属性がどのように翻訳を規定するかということも、非経験的な形で議論することはできないからである。ANTにおける「翻訳」とはアクタント自身による実践であり、OOPにおいては対応する概念は存在しない。それはプログラマーが記述するプログラムそのものだからである。翻訳によるリンクの構築とは、オブジェクトの持つ属性の値を他のオブジェクトのメソッドの入力変数として利用できる状況を構築するプログラムを記述することに相当しよう。カロンの事例において、漁師は特殊な形状を持つ採苗器という道具の行為能力を利用して、ホタテ貝の幼生の持つ付着可能な形状という属性へのアクセス可能性を引き出す。ホタテ貝とコンポジットされた採苗器は海流の行為能力によって属性としてのホタテ貝を失う可能性があるので、漁師は海流の行為能力をホタテ貝に行使させないよう海流のアクセシビリティを阻害したと理解することができる。このように翻訳とは、アクタントが他のアクタントを観察し、他のアクタントの属性のアクセシビリティや行為能力の使用について交渉し、ときにはその属性を利用した自己ないし他のアクタントの行為能力、あるいはアクタントそのものを開発・破壊することで、複数のアクタントを関連付けながら、実際に行為能力を発揮する環境を整える行為として再定式化できるだろう。 以上、本章ではANTをリンク・ノードの生成メカニズムという表現能力を用いた記述言語として捉えるスタンスから、ANTとOOPの比較を通じて、ANTの主要概念について記述言語としての側面から「利害関心」「行為のプログラム」といった、ノードの属性を特定の形式に限定する概念の批判を行った。また、OOPにおける「カプセル化」の概念を援用しつつ属性の値の「アクセシビリティ」という概念をANTに導入することを提案し、こうした概念を用いて「ブラックボックス化」および「翻訳」の概念をより明晰な形で再定式化することを試みた。 また、同水準の表現能力を持つ全く異なる形而上学を持つ記述言語の可能性─プログラミングからの類推で考えるならば、たとえば構造化プログラミングと呼ばれるパラダイムに対応するような、全てのことを「差異をはらみつつ反復する複数の出来事の連鎖」として記述し、オブジェクトの存在を認めないような記述言語や、はたまたすべてをシームレスなひとつの出来事として記述するような言語を想像することもできるかもしれない。 参考文献Barnes, B, and D. Bloor. 1982 Relativism, rationalism and the sociology of knowledge. In Rationality and Relativism, M. Hollis and S. Lukes (eds.),Oxford: Blackwell. Callon, M. 1986a “Some elements of a sociology of translation: domestication of the scallops and the fishermen of St Brieuc Bay”, In J. Law (eds.) Power, action and belief: a new sociology of knowledge? Routledge, pp.196-223. Callon, M. 1986b “The Sociology of an Actor-Network: The Case of the Electric Vehicle”, In Mapping the Dynamics of Science and Technology, Callon, M, J. Law and A. Rip (eds.), Macmillan Press, pp. 19-34. Callon, M, J-P. Courtial, W. A. Turner and S. Bauin 1983 “From translations to problematic networks: An introduction to co-word analysis”, Social Science Information, 22(2): 191-235. Callon, M. and J. Law, 1982 “On Interests and their Transformation: Enrolment and Counter-Enrolment”, In Social Studies of Science, Vol. 12 pp.615-625. Gad, C. and C. B. Jensen 2010 “On the Consequences of Post-ANT”, Science Technology Human Values 35: 55-80. Hacking, I. 1999 The Social Construction of What?, Harvard University Press. Hacking, I. 2002 Historical Ontology, Harvard University Press. Latour, B. 1987 Science in Action: How to Follow Scientists and Engineers through Society, Harvard University Press. Latour, B. 1988 The Pasteuralization of France, Harvard University Press. Latour, B. 1999 Pandora’s hope: Essays on Reality of Science Studies, Harvard University Press. Latour, B. 2005 Reassembling the social: An Introduction to Actor-Network-Theory, Oxford University Press. Latour, B. and S. Woolgar 1979 Laboratory Life: The Construction of Scientific Facts, Princeton University Press. Laudan, L. 1991 "A confutation of convergent realism", Philosophy of Science 48. reprinted In The Philosophy of Science, R. Boyd, et al. (eds.), MIT Press, 223-245. Mol, A. 1999 “Ontological Politics. A word and Some Questions” In Actor Network Theory and After, J. Law and J. Hassard (eds.) Wiley-Blackwell, pp.74-89. Pickering, A. 1984 Constructing Quarks, The University of Chicago Press. Pickering, A. 1992 “From Science as Knowledge to Science as Practice”, In Science as Practice and Culture, Pickering, A. (eds.) Chicago University Press. pp. 1-26. Pickering, A. 1995 The Mangle of Practice, The University of Chicago Press. 伊勢田哲治 2005 「科学的実在論はどこへ向かうのか」『Nagoya Journal of Philosophy』 vol. 4, pp.35-50。 [1] なお、ANTの主唱者らは以下に挙げる議論の他にも、言明の様相変化や引用分析に基づく事実の形成[Latour and Woolgar 1979; Latour 1987]や共起分析[Callon et al. 1983]についても議論している。ANTではテキスト上でのアクターの関係を現実のアクターの関係と等価なものとみなしたり、テキスト上での関係をアナロジカルに現実のアクター間の関係へと適用することがある。本論ではANTのテキストをめぐる議論を原則として対象としない。 [2] 「命題proposition」という呼称が使われたこともある[Latour 1999]。 [3] 翻訳の概念はカロンが哲学者ミシェル・セールから借用した概念である[Callon, M. et al. 1983]。この概念は多様な仕方で用いられており、本論で説明するのはANTの形而上学に沿ったひとつの用法である。 [4] ホタテ貝の養殖法については株式会社ともや< http://aomoritomoya.co.jp/scallop/youshoku.html>も参考にした。 [5] 邦訳においては「媒介項」と訳されているが、プロセスに当てられた術語であるので名詞として訳すべきではない。 [6] 主唱者を含めて、「ANTは理論ではない」という主張も多く存在する[Callon; Latour 1999; Mol 2010; Gad and Jensen 2010]。このような主張の「理論」という言葉には、主として存在者を限定された複数のドメインへと還元し、その因果関係を議論する形而上学が想定されている。本論はANTはそうした理論とは異なる理論として想定するものであり、したがってこれらの主張と本論の「理論としてのANT」理解は矛盾しない。 ただし、主唱者のひとりであるローはこうした一般的な議論を行うことそれ自体に問題があったとも述べている。本論はその是非を論ずることをしないが、ここでは積極的に一般的な議論を展開しているという意味では、筆者はローと意見を異にするだろうと思われる。 [7] ただし、ANTにおいて「孤立したノード」が「存在しない」ものとして扱われているかどうかという点については不明瞭である。 [8] 医療人類学や科学技術論の情報を掲載するブログSomatosphereには、ジュディス・ファーカー、ジェヴィア・レゾン、モーテン・プダーセン、アナマリー・モルらによる存在論関係のブックガイドが掲載されている。<http://somatosphere.net/2014/01/a-readers-guide-to-the-ontology-turn-part-1.html> |