NHK映像ファイル あの人に会いたい「木村秀政(航空エンジニア)」 2015.10.31


(テーマ音楽)東京オリンピックを目前にした昭和39年9月。
聖火の到着に日本中が沸き返っていました。
東京オリンピックの聖火が今朝本土に入りました。
国産初のジェットプロップYS−11でございます。
アジアに初めてやって来た聖火。
これを日本に運んだのが完成したばかりのYS−11です。
以来オリンピアの愛称で呼ばれたこの飛行機を生み出したのが木村秀政さんでした。
木村さんが生まれたのは明治37年4月13日。
この5か月前にアメリカのライト兄弟の飛行機が初めて空を飛んでいます。
木村さんの人生はまさに飛行機の発達とともにありました。
大空に魅せられたのは6歳の時。
家の近くの青山練兵場に日本で初めての飛行船が着陸した時です。
大空への憧れが募った木村さん。
大正12年東京大学の航空工学科に進みます。
同期は8人。
後にゼロ戦を設計する堀越二郎戦闘機飛燕を設計する土井武夫など精鋭ぞろいでした。
そして卒業後同期が航空機メーカーに就職する中大学に残った木村さんは航研機という飛行機の開発に携わります。
長距離飛行の世界記録を狙う飛行機でした。
しかし研究者も手探りならば作る人々も手探りでした。
みんなで一緒になって飛行機を作り上げる喜び。
木村さんはこの時初めて知りました。
記録に挑んだのは昭和13年5月。
関東平野を一周するおよそ400キロのコースを回り続けます。
62時間余りを不眠不休で飛び続け1万1,651キロの世界記録を打ち立てました。
東京からニューヨークに匹敵する距離を無着陸で飛ぶ快挙でした。
同じ頃東大で同期だった仲間も活躍しています。
三菱に入った堀越二郎はゼロ戦川崎に入った土井武夫は飛燕と高性能の飛行機を次々と生み出していました。
この時期はまさに日本の航空技術が世界に肩を並べ頂点に立った時期だったのです。
世界にその名をとどろかせた日本の航空技術。
しかし敗戦が全てを無にしました。
昭和20年11月。
GHQは航空禁止令を出し航空機の生産はおろかその研究や教育さえも禁じました。
木村さんをはじめ多くの航空エンジニアが職を失いました。
日本は7年間航空技術の進歩から取り残されるのです。
昭和27年。
サンフランシスコ講和条約によって日本は再び独立。
自由な空が戻ってきました。
空白の7年間を埋め再び日本の航空技術を取り戻したい。
日本大学で教授の職を得ていた木村さんは新たなチャレンジを始めます。
国産初の旅客機YS−11の開発です。
木村さんをリーダーに集められたのは同期の堀越や土井など戦前の航空界を担った「5人のサムライ」でした。
世界を相手に売れる飛行機をどう作っていくか。
木村さんたちが出した結論が60人乗りの中距離旅客機だったのです。
戦前の優れた技術と戦後の新たな技術を組み合わせ日本ならではの飛行機を。
多い時には200人もの若手技術者が集められました。
最終的に180機余りが製造されたYS−11は木村さんたちの技術を次の世代に引き継ぐ懸け橋となったのです。
戦前世界に肩を並べた航研機。
戦後日本の航空技術の復活を懸けたYS−11。
航空エンジニア木村秀政さん。
飛行機の発達に全てをささげ次の世代の多くの人材を育てた生涯でした。
2015/10/31(土) 05:40〜05:50
NHK総合1・神戸
NHK映像ファイル あの人に会いたい「木村秀政(航空エンジニア)」[字]

航空エンジニアの木村秀政さん。1962年に初飛行したYS−11の設計で中心的な役割を果たした。木村秀政さんの足跡をたどる。

詳細情報
番組内容
航空エンジニアの木村秀政さん。1962年に初飛行したYS−11の設計で中心的な役割を果たした。東京五輪の聖火を運び、オリンピアの愛称で呼ばれたYS−11は戦後日本の希望の星であり、日本の航空機技術発展の起爆剤になった。木村秀政さんの足跡をたどる。
出演者
【出演】航空エンジニア…木村秀政,【語り】鈴木奈穂子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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