(cache) ヒトはなぜ衣服を着るのか　小田亮

　専攻が文化人類学だと、世界の珍しい衣服などについて教えてほしいという依頼や問い合わせを受けることがある。人類学者ならば、例えばマルケサス島の人々の身体装飾など風変わりな「衣」の話ぐらい知っているだろうということなのだろう。けれども、そのような話の大半はいまや過去のことになっている。そこで、今はどこでも洋服を着ているし、若者たちはどこでもＴシャツにジーンズですよ、と答えるのだが、正直に言えば、そのような話には詳しくなく、第一、マルケサス島がどこにあるかも知らないのだ（こんなことを書いたら、他の人類学者に怒られると気づき、あわてて地図をひっぱり出して探してみると、南太平洋上のフランス領ポリネシアに「マーケサズ諸島」を無事見つけることができた――「諸島」だったのか！と、どんどん無知をさらけ出してますます人類学者の評判を落とすな、と叱られそうだが、地図でどの辺を探せば良いかは分かっていたことに免じてご容赦のほどを。ついでにこの島の名前だけはなぜ知っていたかといえば、このマルケサス島、いや諸島は、かつて一妻多夫婚を行っていたことで人類学上有名なのである）。

　というわけで（どういうワケだ！と古典的なツッコミが聞こえてきそうだが）、《装い》と《モード》の話をすこし学問的にしてみようと思う。ところで、人類の「衣」を理屈っぽく考えるとき、「人はなぜ衣服を着るのか」という問いと、「人はなぜ衣服を変えるのか」という２つの問いが出てくる。

　前者の問いが成り立つのは、いわゆる「裸族」などと呼ばれている民族でも、腰にビーズの紐を飾るなど、身体に何らかのモノをまとっていた（性器は露出していても、全く何の装飾もしない、裸の民族などは存在しなかった）からだ。すぐ思いつく答えは、耐寒や身体保護のためとか、性器を隠すためとかであろう。しかし、これらの答えは「裸族の装い」によって覆される。それらは耐寒や性器の隠蔽には何の役にも立っていない。それに、人間は耐寒性がないから衣服を着たのではなくて、衣服を着ることによって人間の耐寒性が弱くなったのだという説もあるくらいで、もともと熱帯以外でも人間は裸で生き延びることができるのだ。1799年にフランスの森で見つかった「アヴェロンの野生児」は雪の積もる冬の寒さの中でも裸ですごしていた。また、羞恥心も同じで、恥ずかしいから隠すのではなく、装うから取ることが恥ずかしくなるのであって、性器は覆わずに腰紐しか身につけていない人たちも、それを人前で外すことは恥ずかしくて出来ないのだという。

　では、人は何のために装うのか。この問いの答えを探るには、二番目の、何のために装いを変えるのかという問いと結びつけるのが良いかもしれない。というのも、何のために装うのかに対する有力な答えのひとつは（この答えは、昔に私が提示したものだが、いまだに誰も「有力」な答えと認めてはくれないのだが）、装いを変えるためだというものだからである。つまり、ヒトはなぜ衣服を着るのといえば、衣服を変えるためだという答えである。なるほど、何か身に着けていなければ、それを変えることもできないわけだ。確かにあの腰紐も成人女性の徴であり、子供から大人になる際に装いを変えるために、あるいはそれを外すことで「恥しい姿に変わる」ためにあると言うことはできよう。

　ようするに、装いは差異を示す「記号」としてある。王朝貴族が位によって異なる装いをしたのも、地位や身分の違いを表すものだし、たいていの社会で男女の装いが違っているのも、性の差異を示すためだ。それらの差異こそ人の欲望の対象であり、セクシーさの源泉となる。逆にまた、祭やカーニバルなど、特別の時や場でハレ着を着たり仮装をするのも、地位や身分や名前といったしがらみを解きほぐし、普段の自分とは異なる存在になるためだった。人は他人と異なる存在になるために異なる装いをし、それまでの自分と異なる存在になるために装いを変える。その意味では「変装」や「仮装」にこそ《装う》ことの本質的な働きが現れていると言ってもいい。

　差異化への欲望という点は、現代のファッションにもあてはまる。というより、近代に始まるファッション・モードにこそ、それが最も剥き出しに現れていると言えるかもしれない。だが考えてみると、身分の差がなくなり、皆と同じになるという平準化への欲望に最も強く駆られている社会になってからモードや流行という差異化の運動が始まったのは、矛盾していないだろうか。そこに何が起こったのか。

　「記号」としての装いというとき、以前の社会であれば、その記号の表す差異には、身分や場の違いなどの「実質」があった。装いはその実質的差異を表すだけで、自分が何者であるかという「物語」は装う前に用意されていた。そして、祭やカーニバルは、異装を纏うことでその実質の物語を脱ぐことのできる機会であり、そのことが逆に実質の物語への対応を可能にもしたのである。身に纏うことの前提には、脱ぐことができるという可能性がなければならない。脱ぐことのできないものを、どうして身に纏うことができるだろう。

　ところが近代になって、記号から「実質」が奪われてしまった。皆が同質であり場が均質であるとき、そこには実質的差異などない。流行のモノを着るのは、他人との差異をきわだたせるためではなく、誰もがその差異を共に欲望していることを確認するためである。他人がその差異を追っかけない流行など流行に値しないし、もうありふれてしまったモノも流行たりえない。誰もそれに欲望しないからだ。

　実質的差異から離れた「記号」としての装い、それは当然、虚構の物語の中での「仮装」でしかない。だが、それは以前の仮装から決定的に変質している。その仮装には、それを脱いで戻ることのできる自分、実質的な差異に基づく自分を欠いているのだ。いわば毎日がカーニバルであって、「自分」はその仮装にしかない。人は仮装を変えることはできても、仮装や物語を脱ぐことはできなくなってしまっている。

　「靴はバリーで、時計はローレックス、バッグはルイ・ヴィトンかカルティエね。靴はリーボック履いているのにゴールドのブルガリしている人なんか信じられない」。もう単にブランド物をすれば良いというわけではなく、それらの記号で自分という「物語」を語らなければならないのだ。その物語が「ライフ・スタイル」と呼ばれているものだが、そのライフ・スタイルは、それらの記号で表される以前に実質としてあるのではなく、それらの記号によってはじめて生まれてくるものなのである。

　モードやブランドの記号をどのように組み合わせたところで、それらのライフ・スタイルの間には実質的な差異などないのだが、だからこそ実質を欠いた記号による差異化が重要になるのだろう。そのようなライフ・スタイルの物語を、他人の笛に躍らされたブランド志向と非難する人は多い。けれども、そのような人は、「ブランドに背を向けるポリシーを持った自分」というのも、同じく虚構の差異によるライフ・スタイルのひとつに過ぎない（ちょうど「無印良品」というのがひとつのブランドに過ぎないように）ということを忘れている。そのような虚構のライフ・スタイルを離れて「自分」というものはなく、誰も虚構の物語を脱ぐことはできない。それは笑うべき喜劇なのだろうか、嘆くべき悲劇なのか。おそらくそのどちらでもない。観客も皆舞台に上げられ、誰も舞台の外から笑ったり嘆いたりできる者がいない以上、それはそもそも劇ではなくなっているのだろう。

（2001/06/14 更新）