その指が3本しかないし。
でも何かね頑張って頑張って頑張ればね頑張った分だけ何か返ってくるものがあるんじゃないかって若い時はとても思ってた。
だけども結局は例えばピアノ弾けるかというと弾けないしテニスができるかというとできないし。
やっぱり指が3本で生まれてきたら3本の指の人生がそこにあるんだなという事を私はすごい感じてたんですよね。
50年前妊婦が服用した薬が原因で重い障害を負った子供が次々と生まれました。
全国で300人を超える子供たちが被害者と認められました。
事件をめぐる裁判は10年争った末国と製薬会社が責任を認め和解に至りました。
忘れません忘れません忘れません。
忘れないでやりますから。
しかし和解は事件の終わりではありませんでした。
どうもおはようございます。
おはようございます。
今日はよろしくお願いします。
今50代になった被害者はこれまでにない体の異変に襲われています。
広がってますよね痛い所が。
去年国は和解以来初めて健康問題について大規模な実態調査の結果を公表しました。
目に見える奇形にとどまらない内臓や骨などの異常。
無理な体の使用による二次障害の多発が指摘されました。
被害者は今も薬害を背負って生きています。
頭にもくるしいらつく時もあるし。
地獄っすよハハハハ…ある意味。
サリドマイド事件が和解に至った時国は二度と薬害を起こさないと被害者に誓いました。
しかしその後も薬害やそれが疑われる事件は次々と起きています。
「二度と薬害を野放しにしていかない」。
半世紀を生きてきた被害者たち。
今改めてその歳月の意味を問い直しています。
やっぱり自分がどんな思いでどう生きてきたかという納得できたのかできなかったのか。
サリドマイドの事件の当事者として生まれてきた私たちだからこそ幸せとは何か自分たちはどうだったのかという事を考える事が非常に意味のある事だと思ってます。
(増山)山ちゃんと…。
これは山ちゃんの特別食です。
千葉県松戸市に暮らす増山ゆかりさんです。
増山さんは就職のため18歳で北海道から上京。
以来30年一度もふるさとには帰っていません。
今は夫と犬6匹の猫と共に生活しています。
(増山)チビたん?
(取材者)腕がですか?
(増山)そう。
そこを保護したの。
猫はほんとにただ生きようとするんですね。
もうその自分の命が尽きるまで。
私はそれをやるのに随分時間かかりましたから。
サリドマイド剤は西ドイツの製薬会社が開発。
1957年睡眠薬として製造販売を開始しました。
それまでの睡眠薬と違って安全で習慣性がないと宣伝されました。
その翌年日本の製薬会社もサリドマイド剤の製造販売に乗り出します。
しかしそのころドイツでは異変が起き始めていました。
薬を服用した妊婦から手足が欠損した子供が相次いで生まれたのです。
販売開始から4年。
ドイツでは薬の影響を疑った科学者の報告によって販売停止回収が決まりました。
しかし日本では迅速な対応はとられませんでした。
国や製薬会社が薬と障害の因果関係を認めなかったのです。
結局全面的な販売中止が決まったのはドイツの10か月後。
薬の回収も徹底されず一部はその後も販売され被害を拡大させました。
この世に誕生した300人を超える障害児たち。
幼少期から過酷な運命がありました。
最初に自分が記憶しているのはその病院の風景で白い壁に看護婦さんとかが何かかわいい絵を貼ってくれていて。
増山さんが生まれたのはドイツで出荷停止が決まった2年後の1963年。
両腕の欠損と心臓の異常のため生後間もなく北海道から東京の施設へと送られました。
実際にはもともと家族と会った事もなければ自分の記憶の中にはですね。
なので正直会いたいとか一人でいて寂しいとかそういう感覚は全然ないですね。
多分私の中には家族って何だろうというそういう気持ちはあったと思います。
家族の元で暮らしても痛みを感じた人もいます。
山口県に暮らす中野寿子さんです。
中野さんは両腕と両足の大部分を欠損した状態で生まれました。
薬害の情報がなく障害の原因が分からなかった幼少期。
中野さんは世間の目から逃れるように日々を過ごしました。
当時まだ昭和の昔の事ですから勝手口から例えばお米屋さんとかご用聞きに来られるわけですね。
「こんにちは。
どう?」とか言って。
そしたらばっと私の前に母が覆いかぶさるような事とか。
だから母のその動作。
うわっと母が慌てる動作が私には怖かったですね。
ちっちゃい時って母に何回か「私も大きくなったら普通に手足皆と同じになるんだよね」って何回か聞いた記憶がありますもん。
その時にああこの質問は絶対しちゃいけない質問だなというのは思いました。
中野さんは障害を理由に小学校への進学が受け入れられませんでした。
全てを家族だけで背負う事になりました。
つらいなと思ったのは朝起きちゃいけないと思ってたんです。
何ていうんですかね朝の時間って戦争じゃないですか。
みんな学校に行く出勤するって。
バタバタ…母も目いっぱい手いっぱいですよね。
そんな時に私まで一緒に起きだしちゃうとトイレの世話しないといけない歯磨きもしてやんなきゃいけない。
私が起きると不機嫌なわけですよね。
(取材者)お母様?うんそうです。
だから目が覚めてもじっと事が静まるまでは我慢してる。
トイレに行きたくても一緒に起きたくても。
いまだに実はあるんです。
朝早く起きるという事はすごく特別な気がするんです。
その感覚は抜けないいまだに。
薬の危険性について何の情報もないまま全国に広がっていった薬害。
それは時に家族の破壊をもたらしました。
北海道に暮らす被害者市川昌也さんです。
両腕の大部分がない状態で生まれた市川さんは幼い頃から施設を転々としました。
そしたらそっちやって。
他の子供たちと違っていくら待っても市川さんを訪ねてくる家族は一人もいませんでした。
そのころから職員に追及し始めたのかな。
(取材者)何をですか?親いねえんじゃねえのって。
今から50年前の新聞記事です。
昭和36年7月夜9時ごろ札幌市の乳児院の玄関前で赤ちゃんが泣いているのを保母さんが見つけました。
生後1週間ぐらいで両腕がありませんでした。
それが市川昌也さんでした。
伏せられていた出生の事実を初めて施設の職員から告げられたのは10歳の時でした。
何で捨てたのというそれを知りたかっただけかな。
別にそれでよりを戻したいというのは全然ないし。
(取材者)その当時でも?そうですね。
世話になった記憶がないからね。
親に対してはお前いつか潰してやるからなみたいなね。
(取材者)潰す?どういう意味ですか?こてんぱんにやるぞみたいなさ。
だってこっちが悪いわけじゃないわけでしょ。
両腕を失った事もそうだし。
全部ひっくるめて俺が悪いわけじゃないんだから何で俺が全部背負わなきゃいけねえのみたいなさ。
東京の施設で暮らしていた増山ゆかりさんに転機が訪れたのは7歳の時でした。
心臓の病が落ち着き初めて家族の元に帰る事になったのです。
1人で飛行機に乗って飛行機が千歳に着くとスチュワーデスの方が家族が待合室に来ているのでご案内しますというふうに言われて。
しばらくもじもじしながら部屋の前で立ってたんですね。
そしたらうちの父がね部屋からポンと飛び出してきて「ゆかりか?」と聞いてくれて。
「ゆかりなのか?」ってもう一回聞いてくれてそしたら私はようやく「はじめまして私がゆかりです」というふうに挨拶ができました。
その時に「あ私の家族なんだ」と「私の本来いるべき場所なんだ」という事をね感じました。
いとしいとか会いたいとかいう気持ちがよく分かりました。
(取材者)その時初めて?その時初めて。
この間一部の被害者とその親たちは国と製薬会社を相手どり責任の明確化と損害賠償を求める裁判を続けていました。
しかし国と製薬会社は薬と障害の因果関係を認めず裁判は長期化しました。
そして裁判が始まって10年。
国と製薬会社はその責任を認め裁判は和解に至りました。
ここに心からおわびを申し上げます。
和解で決まった賠償は裁判に参加しなかった子供にも適用され全国で309人が被害者と認められました。
子供たちは間もなく思春期を迎えようとしていました。
父がある日突然カメラを向けて私に。
「ちょっと悪いけど全身の写真を撮らせてくれ」と。
えらい今まで見た事ないような口調で言うわけですよね。
ちょっと服を脱いで下着だけになってくれといって。
母が黙々と私を脱がせて父がカメラを向けてっていう。
何かものものしい何でかは分からない。
いきなりそういう事が始まってびっくりして泣きましたよね怖くて。
後で思えばそれがサリドマイドかどうかを調べてもらうための申請に必要な写真をきっと撮ってたんだなと後になってほんと分かる事ですけどね。
「まさか薬か」とかねいろいろ「母の胎内にいる時に?」とかだんだん分かってきますからね。
「じゃあ母が何か薬をのんだって事か?」とか。
そういううん?うん?うん?という感じでちょっとずつ事実が入ってきたという感じ。
何か自分に名前が付いたみたいなストンと落ちるものはありました。
まあでもショックだったですけどね。
一方市川さんは裁判の結末に納得がいきませんでした。
親がいなかった市川さんは裁判や和解の交渉に関わる事はできませんでした。
何で和解しちゃうのって。
何で例えば両腕奪ったやつとかに刑事罰与えねえのとか思ったよねやっぱり。
4,000万なら4,000万という金で全部売られちゃったわけですよ。
苦しみも何も全部。
片一方は和解したから何の罰も受けねえで普通に会社勤めしてでけえ顔して生きてってるわけですよ。
それはだって企業にしてみればその方が絶対楽なんだもん。
和解に持ってきゃ自分たちのいいように絶対持ってけるんだから。
あいつら力持ってるし財力もあるし。
片一方は財力がないし早く結果を出さなきゃ裁判自体続けられないわけだから。
だからそのあと続いているでしょまた薬害が。
繰り返し。
北海道に戻った増山ゆかりさんも被害者として認められ賠償金を受け取りました。
しかしそれがせっかくつかんだ家族との暮らしを壊していく事になります。
家がポンと一軒買えるぐらいのお金が下りたんだと思うんですね。
父はそれを足掛かりにして新たに事業を始めて。
だけれどもうどんどん仕事がうまく回らなくなって父がいらいらする姿を見ていて私は昔のまんまでよかったのにっていう何となくそんなふうに思いながら。
間もなく父と母は離婚。
母は家を出ていきました。
そして父の事業も失敗。
父も何も言わないまま姿を消しました。
父を恨むどころか自分が招いた事なんじゃないかという気持ちは常にありました。
両親の離婚も家族の離散もそれから父の事業の失敗も。
全て自分がサリドマイドとして生まれたところから始まってるんじゃないかという。
ちょうど実家にそのあと帰って父もいなくなり誰もいなくなったその家を見た時にね「ああこれがその現状今の私の家族のありようなんだ」とそう思った時に…。
やっぱり何かこう自分の人生に期待するものが何一つなくなった。
生きて何かいい事あるのかとこの先。
苦しい事ばっかりじゃないか。
この世の中に私が生きていく生きていたいと思う場所があるのかと。
ないだろうと。
自ら命を絶つ事を考えたのはある冬の日の事でした。
そうすると見てたら目の前にパーッと初めて父がこの海を見せに来てくれた日の事を思い出すんですね。
近所の友達も誘ってみんなで海に行こうといっておっきなスイカを抱えていくんですよね。
空が真っ青で。
はっとしましたね。
我に返って私何やってるんだと。
ほんとに終わらせていいのかと。
あんなに楽しい瞬間もあったじゃないかって。
もしかしたら頑張ればそういう瞬間がまた再びあるかもしれないと。
そんな日が来るかもしれないという。
何かこうこのまんまで終わりたくないこんなに苦しいままで終わりたくないというそんな気持ちにさせてくれました。
生きる事を決意した増山さんは高校卒業と同時に北海道を離れました。
東京の障害に理解のある企業に就職し自立への道を歩みだしました。
幼い頃世間から隠れて生きざるをえなかった中野さん。
18歳の時高校に通いたいと親に訴え初めて自らの意思で外の世界に飛び出しました。
何か母のお手製のマントケープみたいなのをがばっと着せられててるてる坊主状態。
手も隠して。
ただそういう子が車椅子に乗って押されて。
入学したのは通信制の高校でした。
週に一度の登校が楽しみになりました。
それが楽しくてねそういうのがちょっとずつ増えてやっとマントを取る事ができましたね。
頼る親もなく施設で暮らしていた市川昌也さん。
信じられるのは自らの力だけでした。
ある意味食うか食われるかだから。
そうそうそう。
そういう意味では自分の立場を絶えず保っておかなきゃいけないとかさ。
弱みがやっぱなかなか見せられないとか信用できないとかそういうのも片一方ではあるわけだから。
(取材者)施設の暮らしでは?うん。
多分皆さんが考えてるほど安全ではないですよね。
楽でもないし。
人間だから例えばこいつと仲良くなりてえとか助けてやりてえとかいろんな気持ちもあるわけですよどこかで。
だけど…結局ほんとはそこでよろいを一回脱ぎゃよかったんだけど少なくともその時は脱げる状況ではなかったんだよね多分自分では。
強く生きようと自分を追い詰め続けた市川さん。
次第に疲れ果て死を覚悟するようになります。
しかし一線を越えなかったのは理由がありました。
世の中にはもっと苦しいやつがたくさんいるからって自分に言い聞かせながら格闘するわけじゃない。
受け入れていかなきゃいけないし。
今だって多分受け入れられてないんだよ100%は。
頭にもくるしいらつく時もあるし。
でもそいつらもふんばってるんだからここで負けてどうするのよというのはすごいあるよね。
それがなかったらとても多分生きてられないかな。
地獄っすよハハハハ…ある意味。
東京で一人生きてきた増山ゆかりさんに再び転機が訪れたのは26歳の頃。
夫雅一さんとの結婚を決意したのがきっかけでした。
雅一さんの提案で結婚の報告をするため行方知れずの両親を捜そうと考えたのです。
生きてるんだったら会った方がいいんじゃないかと言ってくれて。
お父さんもそうだしお母さんもそうですけれども捜してね…。
四方に手を尽くし再会を果たした父は関東の病院で死のふちにありました。
会って「ああそうだお父さんこんな顔だった」と思うぐらい。
もう病気で入院していて危篤の状態だったんですよねがんで。
肝臓がんで末期で。
今までどうしてたとかそういう話はお互いほとんどしなかったんですけれども。
お父さんに「結婚するんだ」って言った時に父が「そうか」って言って「良かったな」ってほんとにね…もうねほんとにうれしそうにしてくれて。
いろんな事を言いながらね最後ほんとに眠るように亡くなっていくんですけれども。
父の死をきっかけに母との再会も果たしました。
しかしその母も間もなく病に倒れました。
その時に2人きりになって母はその…痛かったのかよく分かんないんですけども夜あまり眠れないみたいで私にいろいろ話しかけてきたんですよね。
とにかく申し訳ないという気持ちでいっぱいだったと。
ほんとに自分がなぜ薬をのんでしまったのかなぜ代わってあげられないのかそういう気持ちでねいっぱいだったんだというのをようやくその時母のその言葉を聞いてはっきりと母の気持ちを理解する事ができたと。
だから多分わびたいって思ったんじゃないですかね。
でも違いますよね。
そのわびなきゃいけない人は違う所にいるじゃないですか。
私はほんとにその時ね薬害はやっぱりほんとに起きちゃいけない事が起きたし何でこんなに何も悪い事をしてない当事者が死ぬまで…最期の息を引き取るほんとにその時まで苦しく自分を責めてね死んでいかなきゃいけないんだろうと思いました。
薬害によって家族もろとも翻弄された被害者たち。
は〜いこんにちは。
彼らはサリドマイドの当事者団体を通じて結び付いています。
公益財団法人いしずえは和解をきっかけに誕生。
去年設立40年を迎えました。
当初親たちが中心だったいしずえの運営は今は当時の子供たちが担うようになっています。
増山さんは2年前から事務局長を務めています。
この40年社会の中でそれぞれに自立の道をつかもうとしてきた被害者たち。
しかし50代となった今彼らは新たな壁に直面しています。
広島市に暮らす被害者佐藤育子さんです。
佐藤さんはサリドマイドの影響で親指の一部を欠損した状態で生まれました。
思わぬ異変が始まったのは大手企業の正社員としてキャリアを重ねていた6年前の事でした。
(取材者)まずは?
(佐藤)まずは。
今度は肩から来ちゃったんですよ。
ここから来てた痛みが今度ここがもう全然動かなくなっちゃったんですよね。
いたたたた…って動かない感じ。
精密検査によって手首の骨の一部欠損などこれまで知らなかった障害が判明しました。
それにより萎縮した筋肉が長年の使用で腫れ上がり神経を圧迫したのが痛みの原因でした。
手術で痛みは和らぎました。
しかし以前のようには働けず会社を退職。
積み上げてきたキャリアを諦めざるをえませんでした。
また人生の過渡期を過ぎたこの時点で何でまたここでというのは感じますね。
増山ゆかりさんも4年前思いも寄らぬ体の異常を告げられました。
乳がんを患いその摘出手術をした時の事です。
まずそういうリンパの位置が違っていたとか血管も普通の人の太さでいえば半分以下だったと言われていて。
もしかしたら次何か別の病気の時は手術できないと言われるかもしれないし。
被害者の体に何が起きているのか。
去年国は3年にわたって被害者の健康状態や生活状況を調査した結果を公表しました。
最新の医療機器による70人以上の検診と200人を超える被害者へのアンケート調査が行われました。
調査では新たな発見が続出しました。
頸椎の一部が癒合する塊椎がおよそ10%の被害者に見つかりました。
更に先天性の無胆嚢症も13%。
その他にも身体内部の奇形は多岐に及びこれらはサリドマイドの影響が推察されました。
また障害のある部位をかばうため無理な体の使用によって生じた二次障害も明らかになりました。
40年前の和解当時には分かっていなかった事態でした。
例えば首の骨がつながっていれば当然中年以降になると動きが悪くなる。
それによって肩が凝ったり場合によっては首以外の所にも障害が生じると。
腰が痛くなったりそういった事も起こりえると思いますね。
それを含めて幅広く二次障害という事を考えた方がよいのではないかと。
今になって初めて分かった事もありますし今から10年後に初めて分かる事もあると思います。
被害を受けた方は現実の問題として懸命に生きておられるわけですから終わった事では実は全くない。
(中野)よっこらどっこいしょ。
山口市の被害者中野寿子さんは20代の頃から広告のイラストなど絵を描く事で仕事を得てきました。
幼い頃孤独を癒やすためにと父が手ほどきしてくれたのが始まりでした。
それが中野さんの世界を広げていきました。
中野さんには今心配に思う事があります。
絵を描く事は極度の集中力が必要です。
しかし背中や腰の痛みは年々ひどくなる一方です。
いつまで絵を描く事に体がついていってくれるのか。
やっと何とか社会の中でね自分なりに一生懸命つながってきてるつもりなのに動きどんどんとれなくなっていったら私…。
ねえ怖いです想像すると。
でも実際毎日この背中の痛みや腰の痛みを感じてるとほんとにリアルですよね。
そういう日が遠くないんじゃないかというリアルさはありますよね。
もし本当にそのせいで動きとれなくなったら怒るぞみたいな感じですよね。
40年前被害者と国製薬会社の間で交わされた和解確認書です。
そこには今後新たな障害が発生した場合の対応について次の文章が記されています。
「被害児について現時点で予測しえない新たな障害が生じた時は当事者が誠実に協議し解決する」。
いしずえはかつて被告だった国製薬会社と年に一度協議の場を設けています。
被害者の一部は裁判で得た賠償金を年金化し受け取っています。
その制度の円滑な運用が例年の議題でした。
今年いしずえは相次ぐ二次障害の訴えを受け問題にどう向き合うべきなのか国に見解をただしました。
(取材者)お疲れさまでした。
随分長くかかりましたね。
そうですね。
これは議論をする場は厚労省もそれは前向きにお考え頂いてますので議論はできると思うんですが。
(取材者)これから?はいはい。
ただ我々サリドマイド被害者のために国の予算を使うという事をどのように決めるかという事が非常に難しいようですね。
世界では今サリドマイド被害の見直しが進められています。
40か国以上で販売され被害を広げたサリドマイド。
薬を開発したドイツでは世界最大およそ3,000人が被害者と認められています。
サリドマイドによって両腕と両足の欠損聴覚障害を負った体で生まれました。
この10年腰や肩など関節の痛みが深刻化しています。
幼い頃は活発な性格で義足をつけて自由に動けたというバーバラさん。
今は車椅子を使用し24時間の介護と一日数回の痛み止めの服用がなければ生活できません。
痛みはどんどん強くなりました。
10年前はベッドから一人で起きられましたが今はできません。
できない事が増えていくのは精神的にもつらいです。
そのバーバラさんの生活が大きく変わったのは2年前の事でした。
法改正によって被害者の年金が最大およそ1,200ユーロから7,000ユーロへと大幅増額となったのです。
増額された年金によってバーバラさんは車椅子ごと乗り降りできる自動車を購入する事ができました。
この車を買うまでは車の乗り降りが難しく出かける気はしなかったわ。
それほどの痛みだったのです。
自前でヘルパーの旅費を工面し旅行に出る事もできるようになりました。
12年ぶりの旅行でした。
法改正の実現は長年の被害者の訴えを受けての事でした。
ドイツ最大の被害者団体会長…ドイツでは日本より1年早くサリドマイド剤の販売が始まりました。
当時シュテブリッツさんの母がのんだという薬です。
二次障害によって私たちは急激に社会の中心にいる事ができなくなりました。
頑張ってそこに居場所をつくってきたのに。
支援を求めた政治家たちは私たちの話を信用しようとはしませんでした。
前の会長はこう言っていました。
「砂漠の中で叫んでるようだった」と。
自分たちの現状を理解してもらおうと被害者は行動に出ました。
50代になって新たな障害に直面している姿を社会に訴え始めたのです。
訴えは大きな反響を呼びました。
社会の注目におされドイツ連邦議会は実態調査を大学に依頼します。
およそ900人の被害者が調査に協力しました。
調査ではおよそ85%の被害者が関節などの痛みを訴えていました。
その原因として障害がある部位の消耗それをかばう他の部位へのダメージそして血管や神経の異常などの二次障害が指摘されました。
彼らは強い意志で自立を獲得してきました。
職業を持ち働いてきたのです。
今年を重ね本来は働き盛りのはずなのに現在の状況は悪化しています。
私たちは彼らの臨床的な問題精神的な問題の全体像を明らかにしたかった。
社会特に政治家たちに伝えるためです。
それは彼らにとって唯一のチャンスと思ったからです。
調査結果に多くの政治家たちは衝撃を受けました。
当時法改正に中心的に携わった…報告書を読んで被害者へのそれまでの知識は最低限だったと分かりました。
難しいのは政府内の抵抗ではなくてどうすれば最善のサポートやニーズに合ったお金の配分ができるかでした。
誰もが社会へ参加する権利を持っています。
その実現が私たちの責任です。
ドイツの被害者が訴えた50年目の体の変化。
それは日本の被害者が訴えていた症状と重なるものでした。
ドイツ社会は被害者の訴えを受け止め制度の変更を実現させました。
(バーバラ)私の人生は闘いの連続でした。
これからも闘いは続くでしょう。
でも私は生きる意欲を持っています。
これからも前向きに生きていきたいです。
50代になった被害者に突きつけられた現実。
去年12月いしずえの40周年の記念会合が開かれました。
二次障害による被害者の苦しみは続いています。
しかしそれをどう支えるのか議論の見通しは立っていません。
新たな支援の仕組みがない中これからの歳月をどう歩んでいくのか。
増山ゆかりさんは今改めて生きる事の意味を仲間と共に見つめたいと考えていました。
常に私のこの小さい腕は私に幸せとは何か生きるとは何か差別とは何かあなたにとって大事なものは何かという事をですね私に問うてきたというふうに思っています。
私たちはこれから健康問題などさまざまな問題も山積しています。
でもこれから始まる10年20年というのをですね私たちがどんなふうに乗り切っていけるのか。
これからの私たちの幸せをみんなで模索してみたいと思います。
どうもありがとうございました。
(拍手)
(女性)増山さんありがとうございました。
増山さんには自分の人生と向き合うためにどうしても必要な事がありました。
高校卒業以来一度も訪ねていないふるさとへの訪問です。
家族との再会と離散を共に経験した北海道のふるさと。
50代になった今増山さんは30年ぶりにふるさとを訪ねてみようと決めていました。
つらい事がたくさんあった所なのでね行く事が自分にプラスになるような気がしなかったので。
でもまあ自分も50年たってやっぱり一区切りついて次の一区切りまで頑張るために一度見たいなと思います。
じゃあこれでいいかな。
50代になった事をきっかけに自らの経験を次の世代につなげていきたいと考える被害者もいます。
高岡市に暮らす被害者杉本絵里さんです。
杉本さんは障害に悩んだ日々の記憶を手記にまとめていました。
杉本さんは腕のねじれや指の一部の欠損顔面麻痺などの障害を持って生まれました。
指先のしびれの二次障害も続いています。
この時書いていたのは初めての出産の時の経験です。
病院に行く事をすごく拒んだんですね。
それは何かまた私がここで病院に行って薬を使って子供を障害児にしてしまうんじゃないかというその恐怖感がすごく大きかったんですね。
それって自分が受けた障害ではなくて自分の心の傷というかそれがやっぱりすごく大きくて。
薬害の怖さとそういう過ちを繰り返してほしくないそういう思いをつなげていきたいなと思って。
その時生まれた長男峻太郎さんは今薬学部に通う大学生になりました。
私自身の事で向き合って話した事はほとんどないと思います。
避けて通ってきたわけでもなく何て言うんですかねきっかけがなかったというか。
長男の杉本峻太郎さんです。
峻太郎さんは来年の薬剤師の国家試験に向けて勉強を続けていました。
こうやって重要な副作用とかは「警告」といって書かれてます。
大学で事件について学びました。
もっと知りたいと手にした本に峻太郎さんの知らない母の姿がありました。
最初見た時はほんとどきどきしながら見ちゃいましたねこれ。
何かちょっと怖いなというか。
「日本の国大嫌い。
勉強虫みたいな国だから。
意地悪な国だから。
サリドマイド児なんて奇形児つくっておいて平気な顔している日本なんて最低の最低。
いくらお金くれたって治らないんだから私の体。
お金なんて一銭もいらないから私の体もとどおりにしてよ。
みんな嫌い!今私の言いたい事頼みたい事もう絶対私みたいな奇形児つくらないで。
お願いよ。
絶対につくらないで…絶対に…」。
…ってところが一番じ〜んときちゃいましたね。
その何も知らなかった事に関してお母さんの…知らずに自分がへらへらしてた事に関してすごい悔やみましたね。
やっぱりこれだけじゃまだ詳しくは分からないじゃないですか。
一部そのつらい思いというのが伝わってくるだけで。
だからやっぱりもっともっとそのお母さんの事とか薬害の事について知りたいなという気持ちに思わされましたね。
高岡市の実家に帰省した峻太郎さん。
この機会に母絵里さんとサリドマイドについて話をしてみたいと考えていました。
ただいま。
あらおかえり。
スリッパどうぞ。
今日暖かいんだよこれでも。
そうだよね。
ケーキ食べる?食べる食べる。
ありがとう。
これまで親子の間で触れた事がなかった事件の記憶。
峻太郎さんが切り出しました。
一つね謝りたいじゃないけどもっと早く知っといてあげればよかったなと思った事があったのが障害の事を誰かに聞かれた時にお母さんの事について俺軽く話してたのね。
高校の頃書いた日記見ちゃいました。
知らなかったんだってね。
知らなかったよ。
うちに2冊もあったのに。
見せてくれないから。
見せてって言わないからでしょうよ。
お母さんこういう事思うんだなというのがあったわけよ。
俺軽々しく「お母さん軽い方だよ」とか言っちゃいけなかったなというのはあったね。
(絵里)一番ママの人生の中で障害がある事をすごく意識したのは出産の時かな。
ああやっぱり。
もうとにかく何て言うんだろう自分の中で自分しか守れないと思ったの。
おなかの子供を守るのは自分しかいないと思ったから。
それだけ薬に恐怖心があったにもかかわらず薬学部薦めてくれたのはお母さんじゃん。
ママの中ではやっぱりつなげてってほしいなって。
薬学を学ぶのであれば薬の良さというか薬の大切さも伝えてほしいけど逆に薬が害になる事もあるよという事も知ってほしいし伝えてほしい。
逆に聞いてみたいなと思ったのは今まで口にしなかったけどさママの事をお友達とかに紹介するの嫌な時なかったのかなって。
ああなるほどね。
恥ずかしいとか思ったりした事なかったのかなって。
正直な事言うと小学校の頃ある友達に「お前のお母さん口ちょっと曲がってるし顔があがってるよね」みたいな事言われた事があったんだよね。
その時もすげえ腹立ったけどそういうやつらは相手にしない方がいいと。
要は私のせいで苦労した事があるんじゃないかって思ってるのかもしれないけどそれは一切ないね。
もう感謝しかないかなそれは。
ママにとってあなたたち3人は掛けがえのないものというか自分の人生の中でこれだけ大事なものってないなって思う。
何を失っても失いたくないかなと思うぐらい掛けがえのないものかな。
だから必死で守りたいと思った。
これからね恥じない…何て言うんだろうねお父さんやお母さんに恥じない人間になろうと思うんでまあ見てて下さいよ。
頑張って下さい。
はい。
山口市の被害者中野寿子さん。
寿子さんの母はおととし83歳で亡くなりました。
生前一度たりとも事件について親子で話す事はなかったといいます。
本来必要のなかったいろんな我慢とかつらさとか。
こうやって私も母と面と向かってサリドマイドの事なんか話した事はないままにもう母は死んでしまった。
何て言うのかな一種の遠慮をお互いに持ち続けたままだったのかもしれないですよね。
それは本来持たなくてもいいようなお互いの遠慮だったかもしれないし。
母なんか最後の最後まできっといろんな負い目はずっとあったと思うんです。
いくら私がいろんな人たちに助けられてだんだん外の世界が広がった事を喜んでくれてたとはいえそれでもこの子は一人になったらこの先全く一人で生きる事はできないだろうどうするんだろうどうするんだろうという不安はきっと死ぬまで親としてあったはずです。
そういう思いがね。
それが薬害の一つの何て言うんでしょうかね余計な事してくれたなって感じでしょうかね。
去年暮れ中野さんは一つの作品に取り組んでいました。
(中野)お〜いいじゃない。
ちゃんと金色は金色で出てるじゃない。
よしよし。
自分の人生を振り返り描いたのは一人の女性像でした。
はい終わりました。
(取材者)完成ですか?完成しましたおかげさまで。
背中痛いです。
背中痛いです。
ガキガキいってます。
言われた方はものすごく困るだろうなという気持ちがすごくあっていつもいつも。
でも何か描きたいな。
だって私だって女性だもんみたいな気持ちになった時にこのシリーズを何となく描いてたんで。
(取材者)おはようございます。
おはようございます。
北海道に暮らす市川昌也さん。
市川さんは週3回隣町の病院へと通っています。
3年前腎不全を患い人工透析を受けるようになりました。
透析は通常患者の腕の血管に管を通して行います。
しかし市川さんにはその腕がありません。
やむなく脚に人工血管を埋め込む事になりました。
しかし血管がもろく手術は難航。
右脚ではうまくいかず利き足の左脚に埋め込む事を余儀なくされました。
週3回4時間の新たな負担。
人工血管の寿命が来れば再び大手術が待っています。
だからその一日一日を自分の中で大切にしたいと思ってるし先の事を考えるよりは全然ね今は一日一日とにかく納得できるように生きていければいいかなという感じですね。
北海道のふるさとに向かった増山ゆかりさん。
記憶していた住所を頼りに実家のあった場所を目指しました。
あっ。
ここの場所だ。
お〜この景色ですね。
この景色この景色。
うれしいです。
うれしいです。
もう何にもなくなってるかと思ったら何となく面影が。
あ〜!多分あれアンズの木だと思いますよ。
でも壊したんだこっち。
この木から実がぽとっと落ちてくるのを待って拾っては食べてました。
よかったまだ残ってた。
すごいうれしい。
エヘヘヘヘ。
かつて家族が一時だけ一つになれた時間がありました。
死を思いとどまり生きる事を決意したあの時の海です。
違いますね。
何か…懐かしい。
こういう静かな海でしたね。
うまく言えませんけどありがとうという何かそういう気持ちですね。
待っててくれてありがとう。
国は更に3年被害者の調査の継続を決めました。
薬害は被害者の人生に何をもたらしたのか。
そしてそれは償う事ができるのか。
旅を終えた増山ゆかりさんは新たな思いでこれからの歳月と向き合おうとしていました。
帰ってみるとすごくその昔自分が初めて家族と再会して見た海とね全く同じだった。
その時の空気というかあたたかさというかそれがそのまんま残っていて。
自分自身がやっぱりどこかにねどこかにサリドマイドに生まれていなければという気持ちをどこか払拭できない部分はあったりしたんですけれども。
今ね生きていたいと思うんだったらもうそれ以上の事はないんじゃないかなと思う。
ようやくねいろんな事あってもそれでいいじゃないかと。
2015/10/31(土) 15:30〜17:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集・選「薬禍の歳月〜サリドマイド事件50年〜」27年度文化庁芸術祭参加[字]
薬害事件のこうし「サリドマイド事件」。これまで知られてこなかった様々な障害の存在が浮かび上がってきた。再び事件と向き合い始めた被害者たちの50年の歳月を見つめる
詳細情報
番組内容
薬害事件のこうしとされる「サリドマイド事件」。去年被害者を対象にした大規模実態調査の結果が公表された。最新の医療機器を使った検診や、聞き取り調査などによって浮かび上がったのは、これまで知られてこなかった多様な障害の数々だった。終わらぬ被害の存在は、被害者らに人生の問い直しを迫っている。事件に再び向き合い始めた被害者らの姿を見つめながら、半世紀を経ていまなお続く「薬禍の歳月」を描く。
出演者
【出演】渡邉佐和子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
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