2015.09.27.Sun.
■[読書] 舞城王太郎 “淵の王”
- 作者: 舞城王太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2015/05/29
- メディア: 単行本
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0.
良かった。
舞城王太郎の久々に出た長編。三つの章で構成されている。話自体は直接つながっていないので、一見、短編集のように見えないこともない。テーマというか中身や形式の連続性があって、全体を読み通すことでひとつの小説が立ち現れる感じ。
語りの目指すところ・行き着く果てが、かなり好み。不条理だとか剥き出しの害意、あるいは読み解きがたい謎によるもやもやした感じだったりがずっと続いて、でもそれに抗する反力というか、わずかかもしれないけど希望というものがあって、決して順風満帆とか明確な勝利や安寧なんかはないんだけど、確実に前へ向かっていく……というような。
1.
通底する構図としては、「悪意」およびそれへの対抗。
- 「悪」とは何かを問うというより、「悪」に対してどのように行動するか、という話。
- この概念がどう人々に運用されているのか、他のどういった概念とどのように結びついて用いられる言葉なのか、ということを考えることの方が自分としても関心がある。
2.
この小説の最大の特徴は、語り手。
一人称文体なんだけど、語り手自身は名前を持たず、作中に実体として登場することもない。その視線は常に別の人物、各章表題の名を持つ主人公に焦点を向けられ、「あなた/君」というような二人称代名詞をもってその行動が語られる。
一人称と二人称の間、1.5人称小説、みたいな。
- 一人称小説や三人称小説ほどではないけれど、二人称小説の事例というのもけっこういろいろあったりするようだ。よく出てくる例が、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』。この小説自体は読んだことないけど、二人称小説の例として書き出しの文が引用されてるのをよく見かける。
- 小説だとどうしても実験文学っぽくなってしまうけど、たぶん小説以外だともっとふつうにある。ゲームでの、プレイヤーに語りかける文体とか。
- 物語を「一人称小説 / 三人称小説」などと区分するのは実は不完全な区分だという物語論の指摘もある。三人称小説であろうとあるいは二人称小説であろうと、あらゆる語りはそれが語りである以上いついかなるときでも自分を指して「わたし」と言い得るのであり、常に潜在的な一人称小説であると考えられるからだ。ジュネットはこうした理由でいわゆる人称での区分に異を唱え、代わりに語り手が作中人物として登場するかどうかによる区分(「等質物語世界の物語言説 / 異質物語世界の物語言説」)へと整理し直している。
この語り手は、作中世界に対して何の実効的な影響も及ぼさない。ただ主人公を見守るだけだ。
かといって完全にテキスト外の超越的な視点にいるのかというとそうでもなくて、
- ……いや、必ずしもそうとは言えないか。この語り手は「読者」の位置にいる存在だと読むこともできなくはないかもしれない。
- 第一章の語り手は、最終的に自分を「証人」と称している。
正確には、作中の他の登場人物たちに知覚されない存在。そして、語り手たちを感知し相関し得る例外的存在もいる。
語り手がいったいどういう存在であるのかは――各章で語られる例外的存在と同様に――この小説の真髄ではあるけれど、同時に、大きな謎でもある。
たぶんふたつ考え方があって、ひとつには、各章表題の人物がそれぞれ他の章の語り手である、という見方。もうひとつは、そうではなく表題人物とはまったく別の語り手である、という見方。
表題人物とは関係ない語り手、という考え方もおもしろいかもしれないけど、さしあたりは「それぞれが他の章の語り手」という見方がたぶん自然な発想。
語り手が用いる一人称代名詞(「私」「俺」)・三人称代名詞(「あんた」)、語り手が有する知識(文学・映画、グルニエ)、キーフレーズの一致(「光の道」)、などを踏まえると、おそらく下記のような組み合わせが当てはまる。
- 第一章 主人公:さおり 語り手:果歩
- 第二章 主人公:果歩 語り手:悟堂
- 第三章 主人公:悟堂 語り手:さおり
各章はどのような時系列にあるのだろうか。
語り手たちが死者というか霊のような存在であるならば、実体として登場してきたあと死んで語り手の立場に移行すると見ることができるはずだけど、その場合、各章の時系列は 第一章→第三章→第二章→第一章→…… というように、ループしてしまう。
各章のつながりは、作中内での時系列として読むものではないのかもしれない。
手がかりとなることばが、第二章にある。
それとも過去も未来もなくて時間の経過は一冊の本みたいに全て書かれて全部一緒に存在してて、何かが開いてるページ、あるいはその何かが読んでる文字、そういうのが今ってこともあるかな?
「生者→死者」といった時間順序があると考えるのではなくて、むしろ素直に本(テクスト)が書かれている順番に受け取るとどうだろうか。
たとえば悟堂を例にすると、第三章で悟堂が真っ暗坊主と戦って倒したそのあとに第二章で果歩を見守る存在になる、のではなくて、第二章で果歩を見守っていた存在が第三章で表題人物となり作中を実体として動き〈真っ暗坊主〉と戦って倒す、という順序。
第二章末尾の悟堂の台詞を見てみよう。
君のために、君のできなかったことを、君の代わりに必ず成し遂げてみせるのだ!
負けず嫌いだった君が、この訳の判らない奴に負けたなんてことにはさせない。
俺が君を引き継ぐ。やってやる。
続く第三章で〈真っ暗坊主〉に勝利する悟堂は、まさにこの宣言通りに果歩を引き継ぐことに成功している。第二章の語り手の思いがそのまま第三章の悟堂に連続しているとも言える。記憶の同一性といった作中世界での整合性を無視しテクストをただ字義通りに読んでいくなら、第二章で語り手として登場した人物が次の第三章では作中で実体を持つ主人公として再登場し、物語を完遂させる……と見ることができる。
同様に、第一章の語り手は主人公さおりの勝利を見届けつつも自分自身は闇に食われ、続く第二章では主人公果歩として再登場。表題人物となった果歩はここでもやはり敗れてしまうのだが、しかしその敗北は果歩を見守る語り手の奮起を促し、第三章へ引き継がれる。
一方、第一章の主人公さおりは他のふたりと違い、まず表題人物として登場。語り手に見守られながらも影の世界を知らないまま自分の役割を果たす。そして第三章では語り手として再登場し、悟堂の戦いと勝利を見届ける。彼女が冒頭で口にしたことば「私は光の道を歩まねばならない」は、第一章の時点では脈絡なく現れたものだけど、第三章の最後へ、章や時間を飛び越えてつながっている。
3.
舞城王太郎は、「人称」「語り」「物語」というものにわりとこだわって書き続けてきた作家だと思うんだけど、この小説の場合もそこから外れてはいない。
『淵の王』は、語りが自己駆動する小説、と読むことができると思う。
小説が自分自身で語り、想像することによって現実化(実体化)する、というプロセスの記録として。
第二章には重要な台詞がいくつか出てくる。
……怖い想像が悪い影響を持つって、まさしく堀江さんに起こってると思う。
堀江さん、時間ってどうなってるんだと思う? 過去と今と未来って、俺らにとっては流れるものだけど、実際に、俺らがどこかに留まっていて、そこを時間が通過してるのかな? それとも過去も未来もなくて時間の経過は一冊の本みたいに全て書かれて全部一緒に存在してて、何かが開いてるページ、あるいはその何かが読んでる文字、そういうのが今ってこともあるかな?
嘘が苦手なんだ。
俺は君を食べるし、食べたし、今も食べてるよ。
それぞれから連想可能なこととして、
- 想像が現実化すること。→フィクションの力
- テキストとしての時間について。体験の視座。
- 嘘≡想像≡フィクション
- 未来/過去/現在の同時化
第二章の最後は特に良い。「物語」「語り」の限界/束縛に対する反抗、と見ることもできそう。
ここはこの小説の中心部だと思う。
いいか!物語では最後の最後、唐突な展開で文脈をぶっ飛ばして何かが起こることだってあるのだ!
君と一緒にいて培った俺なりの負けず嫌いを最後の最後まで発揮してやるのだ。
語り手が、自分が語っているテクスト内の登場人物からの影響を受けて自身の性質を変容させ、その結果、今度は自分が別の語り手から語られる対象となって物語を駆動させていく。語り手/登場人物という三者ずつの連関。
内容や文体、台詞もいつもの舞城王太郎の通りで好きなんだけど、今回の作品は、こうしたテクスト構造の幾何学的ともいえるつくりもすばらしいと思う。
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―Angela Mitchell