昭和47年の大みそか。
今度の「紅白」の最年少野口五郎さん「めぐり逢う青春」。
・「愛は謎のように」・「ぼくに問いかける」デビュー2年目16歳の野口五郎さんは当時史上最年少で「紅白歌合戦」に初出場。
その後もヒット曲を連発し10年連続で「紅白」出場を果たしました。
・「愛は哀しい」そして今年でデビュー45周年。
59歳になった今も精力的な活動を続けています。
これまであまり振り返る余裕のなかった自らのルーツ。
それを中学生と小学生になった子供たちに伝えておきたいといいます。
番組では五郎さんに代わり家族の歴史を追いました。
そこに立ちはだかった一人のライバルがいました。
そんな父の夢を戦争が奪い去ります。
従軍した陸軍史上最大の作戦。
その過酷な現実。
終戦後…そして両親の夢を託された息子五郎。
父は息子をあえて突き放します。
野口五郎さんはこの日初めて家族の歴史と向き合う事になります。
よろしくお願いします。
野口五郎さんの本名は佐藤靖。
母伊代子さんは現在87歳。
父進さんは18年前76歳で亡くなりました。
進さんは若い頃歌がうまいと評判でした。
しかし昔の事はほとんど語りませんでした。
あとなんかね…岐阜県美濃市。
野口五郎さんのふるさとです。
五郎さんのいとこ西村斉さんに佐藤家の倉庫に案内してもらいました。
18年前進さんが亡くなった時妻伊代子さんが整理したといいます。
五郎さんの父佐藤進は大正10年美濃の農家の長男として生まれます。
しかし進が1歳の時父は結核で亡くなり母綾が看護師として働いて進を育てます。
進が通った小学校です。
進が小学生の時母が再婚。
年の離れた弟が生まれました。
進学する経済的ゆとりはありませんでした。
小学校を卒業した進は14歳で働きに出ます。
進の弟春男の妻大野知子さん。
当時の事を聞いています。
家族と離れ一人名古屋で働く事になった進。
就職先について詳しい事はあまり語らなかったといいます。
表札に書かれていたのは「橋図案所」の文字。
調べるとかつて名古屋市内で刺繍の図案を作っていた会社だという事が分かりました。
橋図案所は昭和25年ごろに閉じられその跡地は今住宅になっています。
もとの経営者の娘が別の場所で暮らしている事を突き止めました。
失礼します。
図案所を営んでいた橋家の娘…進の事を覚えていました。
進が働いていた頃土屋さんは幼稚園児。
従業員の中で一番かわいがってくれたのが進でした。
進が橋図案所で働いたのには理由がありました。
もともと絵を描くのが好きで絵に関わる仕事がしたかったのです。
当時進が描いたイラストが残されています。
その絵は社内でも評判となります。
その腕前は新聞にも掲載されるほど。
当時橋図案所では「絽刺」と呼ばれる刺繍の図案を作り糸とセットにして販売していました。
図案どおりに縫えば誰でも簡単に財布などが作れました。
好きな絵に関わる仕事ができる喜び。
母にこんな手紙を送っています。
「母さんかくの如く進は元気に又愉快につとめています」。
そんな日々の中で進は別の才能でも注目を集めていました。
当時はやっていたアマチュア歌謡コンクール。
歌もうまかった進は周囲の勧めで出場する事になったのです。
レコード会社や新聞社が主催し優勝するとプロ歌手になるチャンスがありました。
進は順調に勝ち進みます。
しかし出場者の中にとびきり歌のうまいライバルがいました。
2歳年上で岐阜の鉄工所で働いているという若者。
結果1位に輝いたのはそのライバルの青年でした。
後にヒット曲を連発する昭和を代表する歌手です。
田端はコンクール優勝がきっかけでプロにスカウトされました。
「次は優勝し俺も歌手になってみせる」。
しかし進のその夢はあっけなく断たれます。
昭和17年21歳になった進に召集令状が届いたのです。
7月進の部隊は中国戦線へ送り込まれます。
向かった先は広東省。
司令部勤務を命じられました。
絵が得意だったため作戦図などを任されたといいます。
やがて進は陸軍史上最大の作戦に従軍する事になります。
当時日本軍はアメリカ軍によって太平洋の制海権を失いつつありました。
そこで中国大陸を南北に貫き日本と東南アジアを結ぶ輸送路を築こうとしたのです。
途中中国軍の激しい反撃にさらされます。
この作戦に参加していた…8か月に及ぶ過酷な行軍。
昭和20年進は終戦を迎えました。
翌年名古屋に引き揚げます。
(「かえり船」)町では闇市が開かれラジオからは流行歌が流れていました。
(「かえり船」)この年大ヒットしたのがあの田端義夫の「かえり船」でした。
「俺も歌手になりたかった」。
その後ふるさと美濃に戻った進。
久しぶりに町を歩いていた時の事です。
芝居小屋で演奏するアマチュア楽団の存在を知りました。
居ても立ってもいられなくなった進は楽団に入りたいと頼みます。
そこには絶大な人気を誇る一人の歌姫がいました。
その女性こそ後に五郎の母となる西村伊代子18歳でした。
ふ〜ん…。
野口五郎さんのもう一つの大切なルーツ母伊代子さんの西村家。
その歴史をたどります。
ふるさと美濃は1,300年の歴史を誇る日本有数の和紙の生産地です。
ここで和紙作りの道具を作る職人をしていたのが西村家。
母方の祖父英一は腕のいい職人として知られていました。
紙すきの際繊維をすくいとる道具「簀」を作っていました。
太さ0.5ミリに満たない数千本の竹ひごを糸で編むのが簀編み職人でした。
簀は和紙の仕上がりを左右する重要な道具。
失礼しま〜す。
あっこんにちは。
職人歴70年の…駆け出しの頃から頼りにしていた簀編み職人が英一でした。
英一のもとには美濃だけでなく高知や福井など和紙作りの盛んな地域から簀の発注が入っていました。
50年以上前に英一が編んだ簀を大切に保管しています。
頑固な職人だった英一。
仕事中声をかけるのもはばかられたといいます。
英一は22歳の時結婚。
そして昭和3年女の子が生まれます。
伊代子後の野口五郎さんの母です。
伊代子は子供の頃から歌うのが大好きでした。
学校で唱歌などを歌うといつも褒められました。
こんにちは。
いらっしゃいませ。
伊代子の歌声は近所でも評判だったといいます。
「歌手になりたい」。
いつしか伊代子はそう夢みるようになります。
そして戦争を経て終戦を迎えます。
その年美濃の町であるアマチュア楽団が結成されます。
「戦争で傷ついた人々を歌や音楽で元気づけよう」。
若者たちの有志が立ち上がったのです。
楽団の名は…当時小学生だった…小倉楽団の事を今でもよく覚えています。
ここですね。
(取材者)ここですか。
ここです。
かつてここに「小倉座」という芝居小屋がありました。
小倉楽団はここを中心に活動する事になったのです。
楽団結成にあたり看板となる歌い手を探す事になりました。
そこで白羽の矢が立ったのが子供の頃から歌がうまいと評判だった伊代子でした。
楽団の旗揚げ公演。
伊代子17歳念願の初舞台でした。
娯楽に飢えた多くの市民が小倉座に押し寄せました。
伊代子の得意な曲は「支那の夜」。
誰もがその歌声に魅了されました。
伊代子の歌声が吹き込まれたカセットテープ。
20年ほど前70歳の頃の歌声です。
(伊代子)・「シナの夜シナの夜よ」・「港の灯り紫の夜に」かつて小倉楽団のメンバーだった人が見つかりました。
こんにちは。
こんにちはどうも。
岩見さんは踊りの担当でした。
伊代子の歌声を聴いてもらいました。
(伊代子)・「シナの夜」
(取材者)どうでしたか?小倉楽団は瞬く間に人気を集めメンバーは町のスターになりました。
そんな中伊代子は「プロの歌手にならないか」と誘われます。
幼い頃から抱き続けてきた夢。
しかし職人だった父英一は首を縦に振りません。
歌手になる事を諦めざるをえなかった伊代子。
その悔しさを小倉楽団の活動にぶつけました。
そんな中楽団に新たなメンバーが加わります。
戦争中兵士として中国に渡り復員したばかりの男性。
佐藤進当時25歳。
戦前名古屋の歌謡コンクールで上位に食い込んだ実力者でした。
昭和21年小倉楽団で出会った進と伊代子。
透き通るような歌声の伊代子に進はすぐにひかれます。
楽団員だった岩見すみゑさん。
小倉楽団にはある決まりがありました。
進のアタックをきっかけに2人は恋愛禁止のルールを破ってひそかに交際を始めます。
しかしそれはすぐに周囲に知れ渡りました。
進27歳伊代子二十歳でした。
翌年長男寛が誕生します。
寛は後に作曲家になり弟五郎の代表曲「私鉄沿線」などを作曲しています。
子供も生まれ歌手への道を諦めた伊代子は資格を取って美容室を開業します。
一方進は公務員になり保健所で働き始めました。
このころラジオで手軽に音楽を楽しめるようになると楽団の人気は下火になっていきました。
楽団仲間だった丹羽深谷夫さん。
団員たちのやる気が薄れていった事を覚えています。
そして小倉楽団は解散の時を迎えました。
次男靖が誕生。
後の野口五郎です。
音楽好きの両親の下家にはいつも音楽が流れていました。
すると靖は言葉を覚えるよりも前に歌いだしたのです。
進は後にラジオに出演し幼い頃の靖の事を語っています。
進と伊代子はそんな靖にリズムのとり方や発声法を教えました。
自然と歌手を夢みるようになった靖。
小学5年生の時のど自慢大会で優勝します。
そしてチャンピオン大会である少女に出会いました。
歌手の天童よしみさんです。
数々ののど自慢大会で優勝していた天童さんも靖の歌声には驚いたといいます。
「ああぁ〜」っとこう…その時の貴重な映像が残っています。
・「青い星の光が遠くにまたたく浜辺には」・「今宵も今宵も波のしぶきが騒いでいるぜ」そして中学生になった靖に「歌手になるために東京でレッスンをしないか」と声がかかります。
昭和44年母伊代子は美容室を畳み靖と2人上京します。
自分たち夫婦が諦めた歌手の道。
何とか息子に実現してもらいたいと願っていました。
伊代子は浅草の印刷所で賄いの仕事を始め稼いだお金を靖の歌のレッスンに充てました。
しかしある日靖に異変が起こります。
レッスンを始めた靖。
ところがなぜか高い声が出ません。
すると先生に言われました。
「君は声変わりだ。
歌はやめた方がいい」。
「僕はもう歌手にはなれないのか」。
落ち込む靖に伊代子はかける言葉がありませんでした。
当時の様子を聞いています。
数日後一人美濃で暮らす父進が上京してきました。
男同士。
靖は父に「歌手を諦めたい」と打ち明けるつもりでした。
しかし言いだせずにいるうちに父は帰っていきました。
靖が追いかけてくる事を知りながら一度も振り返りません。
晩年進は手記にこう書き残しています。
「帰る時はサヨナラもいわず走り去る様にして地下鉄に乗り子供の儚い希望をかなえさせるためと」。
あえて靖を突き放した進。
息子の成功を願うゆえの覚悟でした。
上京して2年がたった昭和46年。
・「恋を拾って」15歳になった靖は「博多みれん」という演歌で念願の歌手デビューを果たします。
ちなみに「野口五郎」という芸名は北アルプスの山野口五郎岳からとりました。
この時父進が息子のデビューを真っ先に伝えにいった場所があります。
それはかつて自分が働いていた名古屋の橋図案所の家族でした。
図案所の娘だった土屋良江さん。
その時の進のうれしそうな様子を覚えています。
しかしデビュー曲の売り上げは一向に伸びませんでした。
当時のマネージャー児玉英毅さん。
大手芸能事務所の元社長です。
ひたむきに頑張る五郎の姿を覚えています。
そして2曲目からはポップスに転向。
瞬く間に人気者になりました。
・「離さない離したくない」そして五郎は16歳で当時としては史上最年少で「紅白歌合戦」出場を果たします。
・「青春を」デビュー5年目の昭和50年には年間レコード売り上げ1位にも輝きました。
「野口五郎さん!」。
(歓声と拍手)そして数々の音楽賞も受賞。
「お父さんの進さんです」。
「お父様ですか」。
「お父さんね今朝5時半に起きまして近くの八幡様にお祈りしたそうです」。
「あ〜ねえ。
よかったですね」。
「おめでとうございました。
五郎さんよかったですね」。
家族でつかんだ夢。
父と子はステージの上で喜びを分かち合いました。
いやいやいやいやいやいや…。
五郎さんの父進さん。
息子がスターになってからも美濃に一人残り公務員として働き続けました。
五郎さんの人気が出るにつれ実家には全国から多くのファンがやって来るようになりました。
それを進さんは快く迎えたのです。
進さんと親しかった雲山さん夫妻。
中学・高校時代美濃の実家に通ったファンの一人…進さんはこうした五郎さんのファンが来ると喜んで話をしたり美濃を案内してくれました。
子育てがようやく一段落した奥田さん。
今青春の日々を振り返ると五郎さんそして進さんの姿がよみがえってくるといいます。
五郎さんは30歳を過ぎると歌番組への出演が減ります。
そんな中父進さんは五郎さんにこんな励ましの手紙を送りました。
「青いリンゴ時代は過去の栄光…」。
そしてこの手紙を送った4年後進さんは胃がんを患い76年の生涯を閉じたのです。
美濃にある進さんの墓。
ここには今なお進さんに世話になったというファンからの花が絶えません。
野口五郎さんの「ファミリーヒストリー」。
歌を愛し歌にかけ歌への思いを貫いた家族の歳月がありました。
ほんとに…ありがとうございますです。
初心にかえれそう。
2015/10/30(金) 14:05〜14:55
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「野口五郎〜歌にかけた家族の絆〜」[字][再]
これまで謎だった亡き父の若き時代。見つかった知人や遺品から、父の素顔が浮かぶ。そして、父、母ともに自らの夢を息子・五郎に託していた。歌手になることは宿命だった。
詳細情報
番組内容
これまで謎だった亡き父の若き時代。見つかった知人や遺品から、父の素顔が浮かびあがる。戦前、名古屋ののど自慢で活躍し、歌手を目指していた。ライバルは有名歌手になっていた。それが、戦争によって全てが台無しになってしまう。そして母も、終戦直後、岐阜のアマチュア楽団で歌手を目指すが叶わなかった。両親は、自分たちの夢を息子・五郎に託した。五郎さんは、両親の思いを知り、涙が止まらなかった。
出演者
【出演】野口五郎,【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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