若者「俺、自分探しのために、仕事を止めてアメリカへ行くんだ。」
「自分探し」という言葉は実に滑稽だと思う。一人旅に冠して使うのであればまだ可愛げがある。だが、冒頭の若者のように、思い切った環境の変化を試みる場合に使ってしまうのであれば、そこには危険性すら感じる。
転職や海外へ働きに行くことは非常に思い切った行動である。そこには大きな責任が伴う。そう、自分で決断する責任だ。自分で決断したからこそ、その先にある苦難を乗り越える覚悟が決まるものだ。しかし、その動機が「自分探し」であるとすれば、いったい誰がその思い切った決断の責任をとるのだろう。まさか、考え無しに行動した先の「自分」という実体のないものに責任を押し付けようとしているわけではあるまいね。そのゴーストは、責任をとってくれるとはとても思えない。
どこか遠くに「自分」というそのあやふやな何かがいて、そこに行けば「お前、やっと見つけてくれたのか!来るのがおせえよバカヤロウ!」とかなんとかいって感動の出会いを果たし、熱い抱擁を交わす。その後、順風満帆に事は運び幸せに包まれ、最後には夕日をバックに感動のエンディングロールが流れ始めるだろう...と。そんなことを本気で期待して「自分探し」をするのだとすれば、それが見つかる可能性は近所の川で砂金が取れる可能性と同じくらい低い。皆無とも言う。
そもそも「探す」というのは「無い物を見つける作業」だ。つまり「自分探し」というのは、現時点で「自分が無い」と自ら激白しているようなものなのである。言葉の意味をかみ砕いて考えてみると、いかに恥ずかしいことを言い放っているか、良くわかるだろう。わざわざ「僕は(私は)自分がありません。なので、探しに行きます!」なんて声を大にして言うもんじゃない。聞いてるこっちが恥ずかしくなる。
「自分探し」という動機で環境を安易に変えてしまおうという若者は、とりあえず今の自分と向き合うことを強くオススメしたい。現在あるものをしっかりと見つめて、検討して、そこで初めて覚悟を決めて思い切った行動に移すべきだろう。自分なんて探さなくても、そこにいるのがあなたであり、認めるべきだ。そうすれば自分の現実の身の丈が見えてくるし、背伸びして怪我をすることもないだろう。おそらく、これらの過程で「あれ?自分探しってなんだっけ」という気持ちに至るだろう。なぜなら、人は「自分」としか向き合うことはできないのだから。
自分を探そうとする人は、見えてないだけ。自分なんてほかのどこにもいやしない、自分の中にいる。
考えてみると、人に相談するって大事だね。
自分の決断が暴走してる可能性だってあるんだから(^_^;)