とあるアイドルの女の子が、グループからの卒業を発表した。
私が普段一番熱を入れて応援しているアイドルはジャニーズ事務所のアイドルなので、その女の子のことは必死で応援していたわけではない。テレビに出ていたら見てかわいいなぁと思い、DVDが発売されれば気まぐれに買う。パフォーマンスについて少し語ってみたりもする。その程度のファンだった。
卒業しますとオフィシャルブログで発表があったとき、実感が全くわかなくて、性質の悪い冗談でも聞いているような気持ちだった。少し落ち着いた今は、じわじわと苦い気持ちでいっぱいになっている。急な卒業発表で、年内いっぱいでグループを去ることになった彼女に、私は会いに行くことができない。私は永遠に、アイドルとしての彼女に会いに行くことはできない。
これがもし、私の一番応援している、気持ちを割いて応援している人間のことだったら、私はどうなるんだろうと怖くなる。
よく「好きになった人にはちゃんと会いに行った方がいいよ、限られたチャンスなんだから」とアイドルファンは口にするが、それを実感することはそうそうない。ただこういうとき、「まさか表舞台から去るとは思っていなかった人間が去る」ときに、その言葉はナイフのように鋭さを増す。人の心をめちゃくちゃに裂く。本当にチャンスは限られていたんだと、過去の自分に平手打ちでもしたくなる。
いつまでも目の前にいてくれる人間なんていない。家族でも友達でも恋人でも、例外なくそうだけれど、でも家族や友達や恋人の行く先には、私たちはある程度コミットすることができる。プライベートな立場で、直接会いに行って話ができるからだ。どこかへ行くことを引き止めたければ引き止めることもできる。あなたがいなくなるのは悲しいから、もっと一緒にいてほしいという気持ちを伝えられる。近い目線で、名前やお互いの身の上をわかった状況で、精度の高いコミュニケーションをとることが比較的できる。
けれど、アイドルにはそれができない。精度の高いコミュニケーションをとることはほぼ不可能だ。コンサート会場へ行って辞めないでくれと叫んでも、それは「あなた」の言葉ではなく「いちファン」の言葉だととらえられる。そしてその「いちファン」の言葉に対して、アイドルから個別のリターンがあるケースは極めて少ない。ファンレターを書いても、それが本当に読まれているか確かめることはできない。そして綴った言葉が思惑通りに伝わっているかどうか確かめる術もない。
今日眠って、次の日起きて、その世界に大好きなアイドルがアイドルとして存在する確証はない。アイドルがアイドルを辞めるとき、アイドルが今とは違う道を進むとき、ファンである私たちに止める権利もない。アイドルに限らず人が本当に何かを決意して、何かを始めたり辞めたりするときに、身近な人物であればまだしも、アイドルにいちファンとしてコミットしているにすぎない人間が影響を与えられることなどないに等しい。
アイドルがアイドルである時間には限りがある。あとどれだけその時間が残っているのか、知る術はない。無力だ。無力なのに、アイドルの力になりたがったり、アイドルのために働きたいと思ったりする。ばかばかしいな、と思う。自分のことも、周りのことも。何もうまく伝えられないことに加えて、終わりの期限を知ることもできない。
だったら、何が残るんだろう、と思った。アイドルを応援して、そのアイドルがアイドルとしての命を終えたときに、ファンの心には何が残るのか?
多分、残るのは記憶だ。そのアイドルがアイドルとしての命を生きていたという確かな記憶だけが残る。思い出だけが残る。愛も希望も残らなかったとしても、何も伝わらなかったとしても、記憶だけは残る。「会いに行った」「目の前でちゃんとアイドルとして生きていた」という記憶。アイドルファンたちが「好きになった人にはちゃんと会いに行け」とたびたび語るのは、せめて記憶だけでも、確かに手の中に残るものがほしいからなのかもしれない。アイドルがアイドルとして生きていた記憶は決して永遠ではないけれど、「会いに行こう」と決心して会いに行った者の心にのみ残る、アイドルの世界において一番確かなものなのかもしれない。記憶の価値は、アイドル界においてのみではなく、現実の世界においても非常に大きなものだ。対象物が「現実の世界」ではなく「アイドル」だと、なぜかその大きさになかなか気づけなかったりもするのだけれど。
私は私が一番大事だ。自分とアイドルを比べたら、自分をとる。自分とアイドルが同じくらい大事なときなら、自分の大事さを選ぶ。それはそれで間違ってはいないと思う。むしろ人間としてはわりとまっとうな方ではないか。
けれど「明日になったら、自分の大好きなアイドルがアイドルではなくなっているかもしれない」という事実は、いつまでも頭の中に置き続けておきたいと思う。そのうえでアイドルがアイドルとして生きていたという記憶を受け取りたい。いつ消えるかわからないものを、いつ消えてもいいように(そんな気持ちにはおそらく一生なれないけど)追いかけていたい。
「アイドルとして日々生きてくれることに感謝」とか「どうして今まで出会えなかったんだろう」とか言うつもりはない。でもアイドルはいつか終わる。普通の人間が死ぬのと同じように、アイドルとして生きている人間が、アイドルとしての命を終えたり捨てたり、ほかの何かとしての命を望んだりするときはいつか来る。その日を迎えるとき、私は「記憶」という無数にあるジグソーパズルのピースを、いったいどのくらい持っていることができるのだろう。