メメントモリ・ジャーニー メレ山メレ子

2015.10.29

06魂の向かう山、死後の住所

 

 バスは霊場への山道を登っていく。車内には観光ガイドの音声が流れているが、音質は悪く、内容はほとんど頭に入ってこない。

 

 

 「冷水(ひやみず)」というバス停で、バスはいったん停まった。バスを待つ客はいないが、運転手が座席のほうを振り向いて「お水、飲んできてもいいですよ」という。乗客たちは、うっそうとした林と数体の石地蔵を背に流れる岩清水をかわるがわる柄杓で汲んで飲んだ。「冷たいわねえ」と、中年女性とその母らしい親子連れが喜んでいる。最終バスに乗っている6人の乗客は女性ばかりだった。
 ふたたびバスに乗って十数分経つと、視界が開けて大きな湖と赤い太鼓橋が見えてくる。そして、窓を閉めていても鼻をつく強烈な硫黄のにおい。乗客はそれぞれ入山料を払い、広い駐車場を横切って山門をくぐり、恐山菩提寺の宿坊に向かう。
 宿坊の建物はとても新しく立派で、宿泊費も一泊12,000円となかなか高いが参篭(さんろう)所とは思えないくらい快適そうだ。部屋に案内され、作務衣を着たお坊さんの説明を受ける。食事はそろって食堂で取るので、食事時間にはちゃんと集合すること。夜は22時に消灯、朝は6時起床、朝食前に“お勤め”がある。境内に4つの硫黄泉があるが、目を傷める恐れがあるので決して目にかけないこと。窓も日暮れまでには閉め、朝には換気すること。
 お坊さんが去り、ひとりには広すぎる二間の畳部屋を見まわす。テレビはないけどスマホがあるもんね、と取り出してみると圏外だ。季節は9月のはじめ、まだ夕方の18時前だが、この本州の北端では日没が近い。
 ここ最近で感じたことのない、鼓膜につんとくるほどの沈黙。一方で、室内でも鼻に雄弁に訴えかけてくる硫黄臭。この沈黙とにおいと向き合って夜を過ごすことを思うと少し不安だが、これぞ俗世間から離れた宿坊という感じもする。

 

 旅と死に関する連載をすることになった当初から、青森県の霊場・恐山(おそれざん/おそれやま)は行き先候補にあった。これまで連載で取り上げてきた場所は、ことさら死について考えることを意図して訪れたわけではない。だが、東北最大の霊場はまさにメメントモリ・ジャーニーにふさわしい場所ではないか、と思ったのだ。
 小さいころ、怖いところを手で隠しながらも熱心に読んだ怪奇事典に、ミステリースポットの世界地図があった。青森のところに「イタコの口寄せ」として描かれたカットでは、死者の声を伝えるイタコのおばあさんがまるで妖怪のようにおどろおどろしく描かれ、今思えばすごく失礼だったが、恐山とはいったいどんな場所なのだろう……と想像が膨らんだものだ。
 もっとも、下調べの段階でイタコ幻想はあらかた吹き飛ぶことになる。恐山のある青森県むつ市にはイタコはおらず、7月の例大祭や10月の秋詣りなどの限られた機会にのみ、八戸などから来て口寄せをする。恐山での口寄せは、決して長い歴史を持つものではないようだ。気味の悪いイメージがぼやけていく一方で、恐山の本当の姿はなかなか見えてこない。
 まずは見てみなければはじまらない。青森といえば、県立美術館で気になる展示もやっているし、あわせて行こう――そんな軽い気持ちで、9月の上旬に青森一泊旅行の計画を組んだのだった。

 

 緑色の東北新幹線・はやぶさの鼻の長さに、いつも駅のホームで笑ってしまう。新青森駅に着くと抜けるような青空が広がっていて、東京よりぐっと涼しい空気に心が弾んできた。まだ暗い早朝に家を出るときには「もうどこも行きたくない……でも予約してるから……」と不機嫌ですらあったのに、現金なものだ。
 青森県立美術館には、新青森駅からバスで向かう。キョロキョロと外を眺めるわたしの前にはJR東日本の「行くぜ、東北。」キャンペーンポスターから出てきたような20代の女の子ふたり連れが座っていて、久しぶりに会うのか近況報告に花が咲いている。やがて美術館の前に着いて、バスを降りたふたりは「フーゥ!」とご機嫌な歓声を上げた。わたしも心の中で、こっそり彼女たちに唱和した。

 

 

 青空と、お隣の三内丸山遺跡につながる広大な緑地。その間に、白くあちこち角ばったユーモラスなフォルムの美術館がドンと鎮座している。
 さらに、美術館の前の地面には巨大なカップ焼きそばが突き刺さっている。なんだこの愉快な光景は! 踊り出したいのを我慢しながら近づいていく。開催中の企画展「化け物展」の作品のひとつ、岡本光博の「UFO-unidentified falling object(未確認墜落物体)」だ。

 

 

 作家が美術館の下見に訪れたちょうどその日、ツイッターに「UFOか火の玉が美術館の近くに落ちた」という怪情報が流れていた。それを見て、本当に美術館の前にUFOを落としてしまったのだ。
 美術館に入ると、いきなりエレベーターで地下2階に降りて鑑賞をはじめる順路になっている。企画展と常設展への入り口を分ける部屋は、神殿のように天井が高い大ホールだ。壁の三面を用いて、マルク・シャガールの描いた舞台幕が飾られている。バレエ「アレコ」の背景画として描かれた絵は、ひとつの大きさが9メートル×15メートルにもなる。暗雲立ちこめる空を駆ける白い馬、青い夜明けの空に漂うカップルといったモチーフは絵はがきや画集でおなじみだが、現物の広い広い空の迫力にしばらく立ち尽くす。

 

 

 常設展もすごいボリュームで、奈良美智、日本画家の工藤甲人、寺山修司、ウルトラマンの宇宙怪人をデザインした成田亨など青森県出身作家の作品が多く、短時間で見てまわるとくらくらしてくる。隣接する三内丸山遺跡への接続をイメージした地下迷宮のような館内、この美術館のために作られたという特別なフォントサイン、スタッフユニフォームのミナ ペルホネンのスモックワンピースもかわいくて、硬軟のバランスが楽しい空間だ。わたしは大興奮で、お洒落な雰囲気と分厚い美術作品をミルフィーユのようにがっついて味わった。

 

 新青森駅から奥羽本線、青い森鉄道、大湊線を乗り継ぎ、北に向かう。2時間半ほどの鉄道旅を、車窓から見える陸奥湾や風車を眺めて過ごした。東京から新青森と下北半島の北端を一泊でめぐるというのはあまりおすすめできない強行軍で、地元の人にはたぶん笑われてしまうだろう。3地点の移動時間が、それぞれ3~4時間になってしまう。美術館があまりにも楽しくて離れがたく、もっと時間をかけて観たかった――そして、きっと寂しい場所だろう恐山に行くのは気が進まないな、という気持ちもあった。

 

 夕食の時間になった。食堂は300人ぐらい収容できそうな大部屋だが、宿泊者は十名ほどで、部屋の一隅にかたまって着席する。バスには女性しかいなかったが、宿泊客は男女半々というところか。
 食事は肉類のない精進料理だ。食前に、箸袋に書かれた「五観の偈(げ)」という食事をいただくときの心得を唱和する。赤い塗りのお碗に盛られた山菜などの料理はなかなか美味しいのだが、わたしも含めた宿泊者たちは広い部屋に満ちた沈黙を破るに破れず、ほぼ雑談もなく黙々と箸を進めた。恐山の銘が入った塗り箸はおしぼりで拭って部屋に持ち帰り、朝食のときにまた持参する。最後は持って帰っていいらしい。
 食後はロビーのテレビで、NHKが作った恐山のドキュメンタリーを流してもらう予定になっていたが、DVDを再生できないという小事件が起きた。DVDプレーヤーが壊れてしまったらしい。
 原因は、電化製品を恐ろしい速さで駄目にしてしまう硫化水素だ。恐山は11月~4月の間、冬季閉山するのだが、閉山時には電化製品をすべて山から下ろす。使わないまま山に置いておくと、春の再開時にはもれなく壊れているという。硫黄泉を目に入れないように何度も注意を受けたし、長期間住んでいるだけで目を病む人もいる。
 わたしは大分県別府市出身なので、硫黄泉がその辺から噴き出す暮らしにそこそこ慣れているつもりだったが、ここの硫黄濃度は桁違いらしい。すべてを痛めつける硫黄の恐ろしさに震えていると、お坊さんは「DVDについては、明日観られるように何とかしてみます」といって、読経で鍛えられた喉でみずから恐山について語りはじめた。

 

 

 「恐山という山は実際にはなくて、宇曽利湖(うそりこ)というカルデラ湖を囲む外輪山である大尽山、釜臥山、鶏頭山、地蔵山、剣山、小尽山、北国山、屏風山の八峰の総称です」
「わたしはむつ市の出身ですけど、小さいときには『死ねばお山さ行ぐ』と教えられて育ちました。陸奥地方の人々の魂は、死ぬとこの山に来ると信じられていたんですね。このお寺は曹洞宗ですが、もともとは9世紀ごろに、天台宗の慈覚大師円仁さんがお告げを受けてこの地を見出だし、地蔵菩薩一体を刻んで開山したと言われています。そのさらに前から、仏教とか特定の宗派ではない、いわゆる庶民信仰の対象となってきたんです」
 地元の人々のお山だった恐山が全国区で有名になったのは戦後のことらしい。“恐山といえばイタコの口寄せ”というイメージの流布も、お寺としては複雑なものがありそうだった。
「全国からツアーをやれとかもっと宣伝しろというお話が来ますし、みなさんのような観光客もいらっしゃるけれど、なかなか宣伝もできません。恐山を大観光地にしてしまうのは、お弔いに来られる地元の人にとって妨げになることもありますからね」という言葉に、うしろめたくなってもじもじする。

 

 部屋に戻ったわたしは、浴衣に着替えて外湯をめぐることにした。境内には4つの湯小屋があって、男湯・女湯・男女入替制・混浴に分かれている。すでに真っ暗な境内を、下駄で砂利を踏みながらよろよろと向かっていった。
 男女入替制の湯小屋も、今日は女湯らしい。ラッキー、と思って引き戸を引いて中に入ると、お湯の中に向こうを向いて仁王立ちしている男の人が見えて、あわてて逃亡した。よく見ると、2か所ある引き戸の横に掛けてある「女湯」の札のひとつがひっくり返されて「男湯」になっている。宿泊客のヒッピー風のお兄ちゃんが、札を返して入浴したらしい。この野郎、と思ったが、とりあえずこっちを向いていなかったことに感謝だ。

 

 

 外湯は日帰りで来ても入れるのだが、湯小屋の独り占めは宿泊しないと難しいだろう。しかし、どれも強い硫黄泉なので一回あたりにつき3分~10分で出なければならない。温泉はたいへんいい気持ちだが、「なぜ人は、ここまでして危険な硫黄泉に入りたがるのか……ふつうのお風呂では駄目なのか……」という疑念も兆してくる。そういえば子供のころ、「温泉に入るとすごく疲れるので、温泉は体に悪いのではないか」と、温泉の町の民にあるまじき温泉危険説を提唱していた。
 湯小屋の窓の磨りガラスが、街灯のオレンジ色の明かりをキラキラと砕いている。それを背景に、小さなクモが黙々と巣を繕っている。黒い影の動きを見ながら、「体が疲れること自体が薬効なんだなあ」と納得する。30歳くらいまで、温泉のよさが正直よくわからなかった。大人になると体をちゃんと使って疲労することが少なくなり、ただ眠っても疲れが取れにくくなるので、こうやって体を正しく疲れさせることが必要になるのだろう。湯治客などにとってはなおさらだ。しかし、まず正しく疲れるところからはじめないといけないとは、人間の体ってほんとに面倒くさいなというか、平均的に抱えている心労がオーバースペックなのではないかという気もする。
「死ねばお山さ行ぐ」さっきのお坊さんの言葉を思い出す。陸奥の人々の魂は、この湯小屋の灯りを頼りにやって来たりするだろうか。魂に死後の住所があるとして、青森の山を眺めて暮らしたことのないわたしの体に乗っかっている魂は、ここにはたどり着けないだろう。住所不定無職の幽霊になってしまうのだろうか。
 怖がりのわたしは、夜の恐山ではもっと怖い気持ちになるのではないかと思っていた。しかし、ほかの宿泊客とほとんど行き会うこともなく真っ暗な境内を歩いていても、不思議と恐怖はない。閉山後に境内に潜む物好きな変質者もいないだろうし、火山ガスのせいで生物の気配もすごく薄い。仮にお山を目指してやって来た霊がいたとしても、この恐山にいるということは地獄または極楽行きのバス停に着けたということで、特に道に迷ってはいないのではないか。怖がる相手がいないのだ――と、調子に乗って暗い境内を歩き回っていたらお寺の人を驚かせてしまい、「受付の懐中電灯を使わないと危ないよ!」と諌められてしまった。