先日、知らない人から電話がきたので、なんだろうなあと思いながら出てみると、電話の向こうは図書館の受付の方で、誰かが私の財布を届けてくれたということでした。
私はすぐさま図書館に向かました。そこで、財布を受け取り、中身を確認しました。財布の中身は1円たりとも減っていませんでした。
「誰か」のやさしさ
財布を拾ってくれた誰か。私はその人の顔も名前も知りません。しかし、その人のやさしさだけは知っています。
もし、財布の中身がごっそりなくなっていたらどうでしょうか。絶望することでしょう。自分のまぬけさと世の中の汚さにです。その後どこかで誰かの落し物の財布を見かけたらどうでしょうか。多少なら中身を取ってしまってもよいという感情も浮かんでくるかもしれません。そして、実際に取ってしまったら、同じように誰かが世の中に絶望し、絶望させるという連鎖が繰り返されるのです。
やさしさの連鎖
何もなしにやさしくするということは難しいことです。なぜなら、手本がないからです。どんな分野でも手本なしにうまくできる天才はそうそういません。私は財布を拾ってくれた誰かのやさしさを手本にすることによって、他の誰かにやさしくしやすくなったのです。この手本は理想であり、希望の源です。
もしかしたら、拾ってくれた誰かも他の誰かに落し物を拾ってもらった経験があるのかもしれません。やさしさというのは連鎖するものです。だから、私は「誰かによるやさしさ」に「誰かに対するやさしさ」を繋げていかなければなりません。私たちは人類史上続いてきたやさしさの連鎖を次の世代までとぎれないようにしなければなりません。