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はてな村定点観測所

汚物を消毒します

「フクシマ」呼称と「福島への当時者性意識」は必要ない

「フクシマ」呼称はやめてほしい

potatostudio.hatenablog.com

福島県相馬市出身で、大熊町・双葉町・浪江町に親族や友人が住んでいた私としては、この記事の主旨には完全同意。

福島を「フクシマ」って片仮名で呼ぶことで何か変わるんだろうか。世界的な原子力事故にセンチメンタルな気持ちがその人や読者の中で込み上げてくる感じなのかもしれないけど、それ以上でもそれ以下でもない。

私の妹一家は避難民だったけど、東電などからの賠償金が貯まって新しい家を建てたことは以前ブログに書いた。もう既に避難していた人達の新しい日常は始まっている。

cyberglass.hatenablog.com

悲劇で語らないといけないとか、そういう重圧があると自分も故郷を語りにくくなる。いまの立入禁止区域の写真を見て涙を流すのは理解できるけど、人間ってそんなに弱い生き物じゃないし悲しいことだけじゃないよ。

私の妹も仮設住宅で暮らしていたときに、テレビのインタビューを受けて、「子供もいるし、いつになったら帰れるのか本当に不安で…」と話している途中で感極まって泣いてしまった。その泣いたシーンがテレビで報道されて相馬の実家ではそれを録画していた。

相馬に帰省したときに、妹も含め家族みんなでその録画を見て「本当だ、泣いてる」と家族みんなで大笑いした。妹も笑いながら「グッチの袋は隠してた」と答えた。感極まって泣いたのは事実。でも家族の間では笑い話にもなるのだ。そこに日常があるのだ。

福島への当時者性

福島への当時者性意識という話もよく聞く。何か日本国民みんなが福島に当時者性意識を持たなければいけないような雰囲気がある。

でも、福島の浜通り(特に相双地区)は元々は殆どの人が町の名前も知らないような誰も気に掛けない東北の寒村だった。有名なのは伝統行事・相馬野馬追いくらい。

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皆さんは大熊町に行ったことがありますか?第一原発を見学したことがありますか?夜ノ森の桜を見に行ったことがありますか?Jビレッジに遊びに行ったことはありますか?

別にその場所に住んで生活していた人達だけが当事者たり得ると言いたいわけではない。ただ、日本国民のほとんどが知らなかったような私達の故郷に、「みんな当事者意識を持っています」という雰囲気になられても違和感を感じる。「お、おう…」的な気持ちだ。ありがたいことであると思うし、復興を支援してくれている人には頭が下がる思いだけれど。

「福島の人は今も苦しんでいるんです!」と福島県民じゃない人がTwitterで叫んでいたりする。福島県民を思ってくれる気持ちは嬉しいけど、避難した人達も含めてあんまり困っていない部分もあるので(もちろん先祖代々の土地を失って今も怒っている親族もいる)、何だろう、やっぱり違和感がある。

相馬は津波で約半分の田畑が冠水したけれど、今はだいぶ修復も進んで稲作も始まっている。相馬牛も売ってるよ。魚介類はまだ一部しか制限が緩和されてないけど、相馬の海で獲れたタコが地元のスーパーで売ってて、実家でも食べたと言ってた。

相馬への鉄道(常磐線)は普及していない。南は立入禁止区域だし、北は津波で流されたままだ。震災前は上野からスーパーひたちで相馬まで帰れたけど、今はバスを使わないと帰れない。福島市からのバスは山道を通るのだけど、「あの辺はホットスポットだべ」と笑い話になったりする。そんな雰囲気。

福島第一原発を観光地化して福島を支えようなんていう福島県への当事者意識を語る思想家もいるけれど、何だろう…自分個人の感想を言わせてもらうと「余計なお世話」に尽きる。

逆に「福島県民はいつまで原発乞食を続けるんだw」というような心ない投稿もネットにはある。その人に見せたかった。震災の少し後に帰省したときの景色を。山間部のどの田畑にも、その田畑を囲むようにヒマワリが植えられていた。当時ヒマワリは放射線を吸収するという記事が出ていた。その科学的効果は私には分からないが、線量の少しでも少ない農産物を育てようという切なる願いを感じた。

津波の被害

津波で多くに人が泣がされたテレビ映像を見て涙する人がいる。私は震災当時は、毎日福島県警から続々と発表される死亡者リストに自分の知人が載っていないか重圧を感じながらチェックしていた。あとから聞いた話だけど、私が東京で生活していることを知らない旧友や知人は逆に心配して、私の名前が死亡者リストに載っていないかチェックしてくれていたと聞いた。

私の幼なじみ達が住んでいた民宿街も瓦礫の山になった。でも、ここ数年、帰省するたびに瓦礫が整備されて新しい家が建てられて、その数は増えてきている。新しい生活が始まっているのだ。

津波で相双地区も多くの人が亡くなった。その光景を見て涙する人は優しい人だと思う。でも人間はいつまでも悲劇の世界には生きていない。課題は山積みだけど。

普通に接してほしい

福島は確かに大変だった。震災後に帰省したとき、「これを聴くどな、元気だった頃の相馬を思い出すんだ」と私に松川浦大橋音頭を聴かせてくれた母も今年亡くなった。胃ガンだったけれど、震災後の疲れもあったのかもしれない。

でも、それぞれの日常は始まっている。福島の浜通りでも。願わくば、フクシマと呼ばず福島を。当時者性は個人の心に委ねるけれど、普通に福島と接してほしい。そう強く思う。