霧社 年表とメモ
2002.5.4 作成、阿川 ⇒霧社事件関連URL
1884(M27/光緒20) | 清国、日清戦争に敗れる |
1885 | 台湾割譲 |
1896 | 各地に警察署設置。蕃地調査隊編成。11ヶ所に理蕃行政機関<撫墾署>設置。埔里撫墾社、7月に設立。隘制を踏襲し、隘勇線(水底寮−馬鞍寮−) 北港渓−埔里社)を維持。近藤勝三郎、台湾に来て、埔里に「近藤商店」を開店(陸軍憲兵隊雇用の「通蕃」) |
1897 | 埔里社支庁不正事件:桧山鉄三郎支庁長兼埔里地方法院長、埔里社撫墾署長、蕃産交易所の独占、蕃社の略奪などの犯罪。近藤、権力を増大。パーラン社の頭目の娘との結婚。霧社との交易を独占。生蕃近藤。 <深堀事件>南北縦貫鉄道、中央山脈東西横貫道路のための調査で「中部線蕃地探検隊」を組織。深堀陸軍大尉以下14名。1月1日台北を出発、15日に埔里到着。18日、近藤を案内に埔里を出発、霧社経由でトロック社に。近藤はマラリアで埔里に戻るが、その後一行は行方不明に。その後全員殺害されたことが判明。 理蕃当局は制裁として「生計大封鎖」。食塩、鉄器などの生活用品をストップ。蜈蚣崙「蕃地」交易所を閉鎖。 第一回日本内地観光旅行、平地に近い山地の頭目や勢力者。阿里山蕃上四社のウオン、モール、日本へ(1ヶ月)。 |
1899 | 近藤、当局の依頼で蕃情の偵察。能高山越え隘勇線設置の基礎をつくる。霧社地区に隘勇線を延長、隘勇(漢人、平埔族)を増員、防備施設を構築。 |
1901 | 埔里社を前進基地として霧社地区への包囲討伐行動を開始。3月、隘勇と警察官部隊の前進部隊が、観音山でタイヤル族と戦闘開始。 |
1902 | 人止関の戦い。タナトゥヌの名称が生まれる。双方に相当の死者が出る。 |
1903 | 10月、隘勇線を前進し、霧社地区を制圧するための防備施設の基盤をつくる。近藤はブヌンのカンタバン社の人に霧社群に対して濁水渓の姉妹ヶ原で「鉄器や食塩等の交易をしよう」ともちかけさせる。霧社群の100人余りに酒を飲ませたところを、カンタバンが襲い掛かり、80余人を殺害。これ以降、霧社群の勢力は衰えた―<姉妹ヶ原事件>。原住民同士を争わせる作戦の最初だった。 |
1905 | 11月、当局、隘勇線の前進を利用して、トーガン、シーパウ、パーラン、タカナン、カッツク、ロードフ、ホーゴーに最初の「和解式」をさせる。 |
1906 | 5月、当局、霧社群との間に和解式。霧社群、武力と生計大封鎖に屈する。佐久間左馬太第五代台湾総統、「五カ年計画理蕃事業」推進。総督府警務局に「理蕃課」設置。 |
1907 | 9月、近藤、能高山越えルートを踏破。当局は隘勇線を延長。1月、マヘボ、ボアルンとの和解式。7月、タウツァ、トロックとの和解式。 |
1908 | 4月、霧社に警察官吏駐在所設置。7月、ホーゴー駐在所設置。 |
1909 | 1月、近藤、ホーゴー社の頭目アウイ・ノーカンの妹、オビン・ノーカンと結婚(入り婿)−重婚だね。翌日、霧社群の647人の戦士を率いた近藤は三角峰を制圧、タウツァ、トロックの来襲を防ぎ、当局はこの地に砲台設置。砲台は霧社山地制圧の重要な陣地となる。(立鷹にはすでに砲台あり)マレッパ、ハッグ群も3月には制圧。マシトバオンに隘勇監督所設置。 モーナ・ルーダオの妹、テワス・ルーダオと近藤の弟、近藤儀三郎との結婚。 |
1910 | 5月、新竹のガオガン群の抗日事件発生。手薄になった霧社地区で脳寮襲撃事件。12月、事態を重くみた当局は討伐行動、三角峰、立鷹砲台からトロック群の各部落を砲撃、戦いは翌年まで。 霧社療養所、開設。仏教僧侶が20人のセイダッカの子供たちを集めて宗教教育を始めたのが霧社教育所の前身となる。 |
1911 | 第二回日本内地観光旅行。パーラン社(ワリス・ブニ)、マヘボ社(モーナ・ルダオ)、ホーゴー社(タダオ・ノーカン)の頭目たち、4ヶ月に渡り「理蕃警察官」引率の下。「日本人の数は濁水渓の石と同じくらい多い」モーナ。 霧社療養所⇒霧社公医診療所に改名。 |
1914 | タロコ抗日事件。蕃語通訳人材の養成、「太魯閣蕃調査事項」「抄本太魯閣蕃語集」出版。 「蕃童教育意見書」に基づいて蕃童教育所が次々に設置される。 |
1916 | 原住民教育制度改革され、蕃人公学校(内務系統の管轄)と、蕃童教育所(警務系統の管轄)−どちらも4年−に分けられた。霧社公学校。日本人警察官の師弟のための霧社尋常小学校もできた。 |
1919 | 1月、インフルエンザ流行、出草頻繁化。11月、サラマオ群が道路工事現場を襲い、警察官2名が負傷。当局、サラマオ群に懲罰的攻撃。12月、さらに襲撃で三人の巡査が死傷。 |
1920 | 9月、抗日の動きがサラマオ、スカヨウ地区に広がる。合流点分遺所襲撃で警察官と家族7人を殺害。当局はマレッパ、ハッグの壮丁(味方蕃襲撃隊)を戦闘に動員。苦しい戦いに霧社地区のパーラン社、マヘボ社、トーガン社、スーク社、ホーゴー社、ボアルン社、タウツァ群、萬大群の壮丁を動員。霧社群の主力部隊はホーゴーのタダオ・ノーカンとマヘボのモーナ・ルダオ。<サラマオ事件> 霧社支庁廃止。台中州能高郡警察課霧社分室、設置。 |
1927 | 12月、当局は帰順の埋石式をして、サラマオ群のタイヤル人の服従を確認。大甲渓道路開通。 |
1930 | 10月27日、霧社公学校運動会を襲撃。”霧社事件”勃発。10月30日、日本軍、討伐開始。12月8日、モナ・ルダオ自害。 |
1931 | 4月25日、第二次霧社事件。シーパウほか収容所、襲撃される。収容所の514名をタウツア蕃約230名が襲撃し、210名を殺害。 5月6日、川中島への移住⇒メモ参照。 |
1935 | 当局は、原住民の呼称を一律に「高砂族」に改名。 |
1936 | 高砂族青年の日本内地見学旅行。 |
1937 | 盧溝橋事件から中日全面戦争へ。皇民化教育開始。 |
1938 | 国家総動員法。国語家庭。日本名への切り替え。川中島神社設置。 |
1939 | 日月潭発電所第二期工事完成。萬大ダムを建設。パーラン社群の人々を中原へ移住させる。 |
1941 | 太平洋戦争(真珠湾攻撃)開始。 |
1944 | 4月、川中島青年学校できる。 |
メモ1
持田六三郎(総督府参事官)「教化政策」⇒固有の伝統文化と思考方式を放棄させ、精神と物質の両面から改造を進め、伝統的な部落社会の機構の崩壊を加速することによって日本人による統治を進めやすくする・・・「撫育政策」
・刺青、欠歯の習慣を禁止
・室内葬禁止、共同墓地を作る
・焼畑移動農業を、水稲栽培に。
・牧場を開き、種牛を繁殖。
・貨幣経済の導入。貯金を奨励。
・交易所の開設。
・<頭目・勢力者会議>を組織―警察官が仕切る(毎月一回)
・青年会、家長会、主婦会の開催。
・1910年、仏教僧侶が20人のセイダッカの子供たちを集めて宗教教育を始めたのが霧社教育所の前身となる。
・1916 原住民教育制度改革され、蕃人公学校(内務系統の管轄)と、蕃童教育所(警務系統の管轄)−どちらも4年−に分けられた。霧社公学校。日本人警察官の師弟のための霧社尋常小学校もできた。1922年にマヘボ教育所、1927年にボアルン教育所、その後、マレッパ、ハッグ、萬大地区、ブヌンの居住区にも次々に教育所ができた。
・霧社尋常小学校には、ホーゴー社で近藤勝三郎関係の子供たち―花岡一郎、次郎、川野花子、高山初子、中山清−が特別入学している。
川中島への移住 1931/05/06
全体は2グループ(116人、166人)に分けられ、最後のグループは家に火をつけて去った。
・霧社⇒眉渓まで徒歩
・眉渓⇒埔里北門の駅まで軽便鉄道の台車
・埔里北門駅から2グループ合流で台糖埔里工場まで徒歩
・台糖埔里工場⇒小埔社までサトウキビ運搬用の汽車
・小埔社⇒川中島まで徒歩
・川中島には、それまで住んでいた漢人が開拓した水田があちこちに残されていた。土地公祠も残されていた。(漢人たちは北斗郡に強制移住させられた)
・警察が毎朝サイレンを鳴らして人々を駐在所の前に集め、点呼して訓示を与えた。それで一日の集団作業。家の建設から。
・マラリア蚊により、90%の人がマラリアに。
・1931年10月15日、埔里の能高郡役所で帰順式をすると言ってトラックに乗せられる。埔里で女子は電力会社の施設見学に、男子は基準式にと分かれさせられた。帰順式の場で、23人が逮捕・連行された(秘かに進められてきた調べによって)。
・翌日、霧社警察分室は家長会の名目でパーラン社、カッツク社、タカナン社の169人を霧社公学校の運動場に集め、15人を事件に参加したとして告発、逮捕。
・川中島に移住して1年で生き残ったものは210人。1953年、仁愛郷警察分局(昔の霧社分室)の裏の空き地で防空壕を掘っていたところ三十体あまりの人骨が出てきた。これら人骨が霧社事件の抗日志士の遺骨であるとの証言―以前に警丁をしていた葉火内然の証言―を得た中山清−高永清―が霧社桜台に合葬。国民政府はこれを「無名英雄之墓」と名づけた。これが「霧社山胞抗日起義記念碑」。⇒1930.11〜1931.5の間に、拘留されていた「保護蕃収容所」の壮丁が、霧社分室での拷問・尋問のなかで、暗中殺害されたもの。
日本人慰霊塔は、1933年10月27日―事件の2周年記念日に完成。―ケ相揚さんは「セイダッカの手によって撤去された」と書いている(P241)が、その情報はどこから来たのか?⇒05−02−09、ケさんに確認したところ、曖昧。自然に段々壊れた、との説明のあと、誰が壊したのか分からない―柳本さんの発見の話は知っていると思うが触れない。あの本の記述にはいくつも間違いがあって修正中だとも。
関連URL
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霧社事件七十週年紀念網站 阿川亭:日本人慰霊塔など