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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 1999年10〜11月号 Vol.40
 

自分で産んだ子は自分で育てる
キヤノン初代社長 御手洗 毅

御手洗 毅翁

戦後日本の国際化をリードしたのはカメラ産業であった。
なかでも、町工場から世界企業に発展したのがキヤノンである。
そのキヤノンを育てたのは、産婦人科の医師であった。
医学博士 御手洗 毅。

時代の向こうを視とおす力と、人を見抜いてまかせる勇気。
理想主義者、家族主義者として、
その柔和なまなざしを記憶する人も多い。

昭和9年(1934)頃に製作された国産初の
35mmフォーカルプレーンシャッターカメラ
試作機『KWANON』1号

最新の電子カメラ
(PowerShot S10)

カメラハKWANON

  「敗戦国ドイツにしてライカ有り。日本は軍艦や紡績で世界に肩を並べるまでになったが、精密工業なくして発展はない」
  ビヤホールで気勢をあげているのは、内田三郎、御手洗毅、吉田五郎らである。内田は山一証券に勤めていた。日本赤十字病院の産婦人科医である御手洗とは、内田の妻を診てもらった縁で親交が始まった。その妻の兄が吉田で、カメラ好きがこうじてカメラや映写機の製作にのめりこんでいた。昭和8年(1933)、戦争の足音が高まりつつある時代のことである。
  この年、内田と吉田は、東京・六本木の木造アパートの3階を借りて、「精機光学研究所」を旗揚げした。彼らが志したのは、35mmカメラの最高峰、ドイツのライカ、コンタックスである。大卒社員の月給が70円の時代に、ライカは500円もした。
  翌9年の『アサヒカメラ』に、研究所の第一号製品の広告が掲載されている。『潜水艦ハ伊号、飛行機ハ九二式、カメラハKWANON 皆世界一』。日本の最新兵器と並べたところに、彼らの自負がうかがえる。価格は270円、小西六の「ベビーパール」なら30円前後だったから思い切った値付けである。KWANONと命名したのは、内田が観音教に帰依していたからであった。やがて語呂のいいキヤノン(canon)に変更し、昭和11年より近江屋写真用品から「ハンザキヤノン」のブランドで本格的に市販された。
  売れ行きは順調で、アパートでは手狭になったので、御手洗が資金集めに奔走し、目黒区に工場を建てて、昭和12年に「精機光学工業株式会社」を設立した。社長は置かず、内田が専務となった。御手洗も役員に請われたが、常勤でなくても勤まる監査役に就いた。
  国際聖母病院産婦人科部長となっていた御手洗は、医師をやめる気はなかった。この年「毒ガス(塩素系ガス)と流産の関係」の論文で博士号を得て、いずれ独立して病院を開くつもりだった。

請われて社長と医師の二足のわらじ

  御手洗毅は、明治34年(1901)に大分県南海部郡蒲江村の旧家に生まれた。佐伯中学5年の時に結核を患い1年療養したが、北大予科に進学した。恵迪寮の委員長に選ばれ、まさに『ボーイズ・ビー・アンビシャス』を謳歌する日々を過ごした。昭和3年(1928)に医学部を卒業し、講師になった。このまま学究の道もあったが、自立の意思強く、翌4年に突然上京して、日赤病院に入った。
  精機光学工業における御手洗の仕事は、月1回の役員会に出席することと従業員の健康診断を行うことであった。しかし、医師であることが、その後の精機光学工業に大きな仕事をもたらすことになる。
  昭和12年にカメラに物品特別税が課せられて売れ行きが鈍り、月産45台の目標も滞りがちになった。支払いが悪いから部品メーカーも納期を守ってくれない。問題はレンズだった。名門・日本光学から供給を受けていたが、同社は海軍向けの光学機器を一手に引き受けており、どうしても民生用は後回しになる。やむなく、日本光学の下請けとして測距儀などの製作も行うことにした。
  そんなおり、御手洗が目をつけたのは、X線カメラである。当時、結核は死に至る病として恐れられ、軍隊でも神経を使っていた。X線カメラはほとんどドイツ製だったが、御手洗は海軍の医務局に働きかけて受注に成功し、昭和15年に「35ミリ間接X線カメラ」を納入した。やがて陸軍からも受注し、年に100台も生産するまでになった。この営業を行うのに監査役でもなかろうということで、取締役に就任したことが、経営に加わるきっかけとなった。同年、目白に病院を開設した御手洗は、早朝の会議に出席したあと、病院に戻って診療を行う二足のわらじをはきつづけることになる。
  ところが、昭和16年に太平洋戦争が始まると、専務の内田がシンガポール司政官に赴任してしまい、会社はトップ不在になってしまった。このままではつぶれてしまうという幹部社員の懇請で、昭和17年9月、御手洗はやむなく社長に就任した。「私は医師だから技術も経理もわからない。会社を繁栄させるには、皆を信じて、一人ひとりが誠心誠意やるしかない」と就任挨拶で語った。
  誠心誠意の実践が「月給制」の導入である。当時の日本では社員と工員は明確に区別され、出入りする門も別だった。工員は出来高払いなので仕事の奪い合い、技能の伝承が行われないなどの弊害があった。御手洗は、会社を発展させるには従業員の生活の安定が第一と考え、昭和18年に月給制を導入し「工員」を廃止した。この改革は時期尚早だった。高給を得ていた腕のいい者は退社し、月給に甘えてさぼる者も出てきて、戦後は奨励給に変えることになるが、御手洗の理想主義・家族主義の原点といえよう。
  戦時色が強まった昭和19年、同規模の大和光学製作所を吸収合併して会社は550人の規模に発展し、日本光学の協力会社として軍需製品を中心に生産しながら、戦後を迎えることになる。

家族主義のもとで戦後の発展

  多くの工場の復興は、焼跡でナベ・カマをつくり、敷地を開墾してイモを植えることからはじまった。しかし、精機光学工業は残った部品をかき集めてでも、カメラ製作にこだわった。
  「精密工業ほど、わずかな材料で大きな価値が得られるものはない」というのが御手洗の持論であり、焼失した病院の再建を断念し、カメラ事業に専念しようという意思の表れでもあった。こうして、昭和21年2月にはカメラの生産を再開している。また、「時代は変わった。もう大会社も下請けもない、実力だけがものをいう」と、日本光学の技術者をはじめ海軍技術者などを積極的に採用した。
  再開したカメラは米兵に好評で、「キヤノン、キヤノン」と電話がかかってきた。そこで、進駐軍(GHQ)の購買局に対応するために、銀座にサービスステーションを開いた。後に本社も置いた。
  そして、昭和22年に創立10周年を迎えたが、経営が綱渡りであることに変わりはなかった。式典の席上、御手洗は「日本が世界に伍していくには頭でつくった製品を世界に売るしかない。我々は打倒ライカをめざす」と宣言した。これを聞いた日本光学の首脳が「何を大きなことを」と批判したのを聞いた御手洗は、「今に見ておれ」と奮起し、翌23年には、それまで全量を購入していた日本光学のレンズをやめ、自社開発のセレナーレンズに切り換えた。
  その一方で、昭和22年8月、御手洗は突然、社名を「キヤノン株式会社」に変更した。「世界に出るのにブランドと社名が一致した方がよい、canonのスペルは世界共通に発音される」という理由だったが、カタカナ社名は品格がないと周囲は猛反対で、後に昭和24年に東京証券取引所に上場するときにも一悶着があった。ちなみに、東京通信工業がソニーとなったのも昭和24年のことである。
  この時期の御手洗の功績として、寄せ集めの集団をまとめる経営手腕が特筆される。昭和21年にいち早く従業員組合結成を助けたのをはじめ、永年勤務者表彰、家族を招いた観劇会などを実施、昭和25年には持家をめざす住宅組合を設置した。そして、この年、収益を資本、経営、労働で分ける「三分配制度」を実施している。
  「私は、従業員が『キヤノンで一生を過ごして本当によかった』と思ってくれる会社にしたい」と御手洗は常々語っていた。後のことになるが、昭和34年には週休2日制を導入している。

オキュパイド・ジャパンの屈辱を越えて

  技術面では新しい才能が加わって画期的な成果が次々と生まれつつあった。まず、これまで職人が部品一つひとつを削って調整しながら組み立てていたのを、作業を標準化するために図面づくりから変えていった。レンズでもライカのf値(レンズの明るさ。小さいほど明るい)が2.0なのに対して、昭和24年に1.9のレンズができた。
  こうして、キヤノンは高級カメラの地位を着々と築いていったが、昭和24年に進駐軍のJ.M.ドッジにより、為替レートを1ドル360円に固定されたことで急激なデフレ不況が始まり、あのトヨタでさえ倒産の危機にさらされる。キヤノンの本社もたちまち在庫の山に埋まり、月産1,000台体制を縮小するほかなかった。そんなおり、朝鮮半島で動乱が発生し、軍用として大量の需要が発生したために在庫は一気にはけ、ようやくこの危機を脱出することができた。
  経営が安定すれば、御手洗の動きは早い。25年、「これからは世界に商品を売っていかねばならない」と、フラッシュ同調装置を備えた最新型試作機を携えてプロペラ機で米国に旅立った。
  御手洗の目的は、米国で代理店を得ることである。シカゴの新聞で『ベル・ハウエル社に29歳の社長誕生』という記事をみつけ、人を介して何とかアポイントを取ることができた。しかし、若い社長には日本の知識がほとんどなく、持参したカメラにもあまり関心がなかった。それでもカメラを置いてくると、後日、「当社の技術者によれば、ライカより数段優れている。これがドイツブランドならホットケーキのように売れるだろうが、残念なのは、メイドイン・オキュパイド・ジャパン(占領下の日本製)であることだ。当社ブランドで生産するなら引き受けてもよい」という回答だった。
  御手洗はもちろん断った。「キヤノンのブランドでなくて何の世界進出か、自分で産んだ子は自分で育てる」
  ベル・ハウエル社からは生産体制にも疑問が投げかけられていた。渡米中に工場でボヤもあったことから、帰国した御手洗は新工場づくりに動き出す。この頃、英国の商社ジャーディン・マセソン(JM)社と販売提携の話が出ていたが、御手洗は総代理店契約の条件として借入を申し入れた。この時のエピソードが面白い。事前の交渉で30万ドルで妥結して調印に臨んだが、その席上、御手洗は突如50万ドルを要求した。ジャーディン側は一瞬沈黙した。キヤノンの社員にはそれが1時間にも感じられたという。答えはO.K.だった。
  こうして、昭和26年、多摩川に近い下丸子に新工場用地を取得し、製造部門を集結させた。資本金が5,000万円のところ、1億5,000万円の投資だったから冒険だった。業界やマスコミの間でも、あれで命取りになるという評判だった。しかし、御手洗は3年以内の返済を心に決めており、事実、昭和29年暮れに全額返済を終え、その達成は社員のお陰だからと、ほぼ月給と同額のボーナスを支給した。
  キヤノンの売上高は、昭和26年度の6億円から昭和30年度には19億円にまで伸びている。

ライカと肩を並べるブランドに

  昭和30年代は発展の時代となった。昭和30年にニューヨークの五番街に事務所を構えた。昭和32年にはジュネーブにキヤノン・ヨーロッパが誕生した。世界的なカメラショーであるドイツのフォトキナ、ブリュッセル万国博などの展示会でも、キヤノンはライカ以上に注目される存在となった。
  一方、失敗もあった。紙シートに磁性粉を塗布して音声を記録する「シンクロリーダー」は、多角化の先駆けとなる商品で、展示会で『グーテンベルグ以来の大発明』と賞賛されたものの、マーケティング体制が不備で結果的に成功しなかった。しかし、この経験がなければ今日の売上高の9割を占めるエレクトロニクス製品は生まれなかったといえよう。
  昭和36年にはキヤノンのコンパクトカメラの先駆けとなるキヤノネットが大ベストセラーになった。それまで高級カメラに絞り、大衆向けのカメラに見向きもしなかったキヤノンがコンパクトカメラに進出したことで、カメラ愛好者の裾野は大きく広がったのである。
  昭和39年のフォトキナは、f0.95レンズと“夢のオートフォーカスカメラ”キヤノンAFのためのショーだったといってもいい。こうして世界ブランドに成長したキヤノンに対して、あのベル・ハウエル社も、代理店契約を求めて頭を下げてきたのである。

  御手洗は、昭和49年に会長に就任し、その10年後、世界のキヤノンを見届けて逝去した。今日、キヤノングループ8万人のうち、外国人社員は約半数を数える。(文中、敬称略、社名は略称とさせていただきました)

取材・大喜三郎  撮影・山田勝巳
取材協力 キヤノン株式会社
参考『キヤノン史−技術と製品の50年』
   『都ぞ弥生の』御手洗 毅追悼集
   『夢が駆けぬけた』加藤勝美著