努力できない、頑張れないということで悩んでいる人は、努力している人・頑張っている人と自分を比べることで落ち込むことが多い。
それらが正しいことだと思われている現代社会では、そうでない人は肩身が狭いだろう。
しかし、努力できないことは悪いことなのだろうか。頑張れない人に価値はないのだろうか。
今回は努力できない、頑張れないという人に向けて、努力のあり方などについて述べていきたい。
努力できない、頑張れないという悩み
努力と頑張りはできなければ「ダメ」なのか
そもそも努力できない、頑張れないことは「ダメ」なことなのだろうか。
日本では子供のことから努力は美徳であり、頑張れない人は社会的に失敗すると教えられてきた。
そのため、自分がそれをできない場合、プレッシャー感じたり、劣等感を得てしまうようになっている。
努力できない、頑張れないことを受け入れる
つまり「努力しなければ」「頑張らなければ」という気持ちの根底には、「努力しなければいけない」「頑張れないやつはダメだ」という考えがあるということ。
豊かな人生を歩む方法はいくらでもあるのに、努力することや頑張ることが唯一の「正解」であるかのように考えてしまっているから、苦しくなってしまう。
自分が努力できない、頑張れないと思うのであれば、それを「ダメ」なことだとは思わずに、あくまで一種の個性として受け入れるべきである。
本当に受け入れることができれば、それらができないことで悩むことは少なくなるだろう。
外国人の努力と日本人の努力は違う
日本人は勤勉なことで知られており、今回の記事のようなことで悩むのも日本人がほとんどではないだろうか。
日本人は努力すること、頑張ることが当たり前のことだと受け入れられているが、外国ではそうでないという。
とある経営史の学者によれば、ヨーロッパで労働というものが生まれた背景には「宗教」があるそうだ。
詳しい説明は省くが、とにかく外国人と日本人の努力や頑張りの本質は異なるものであり、それをやらなければいけないと過度のプレッシャーに晒されているのも日本人だけである。
大げさではなく世界規模で考えると、「努力できない」「頑張れない」ことで悩むのは、少しおかしなことであることがわかる。
努力と頑張りの本質
頑張る=苦痛を伴うと考えている人たち
努力すること、頑張ることは大変なことだと考えている人たちがいる。そのうえで辛いことを我慢して続けられるからすごいんだと勘違いしてしまっている。
これはある人たちが、あえて部下に苦痛を与えるのを「そういうもの」と考えたり、辛いことから逃げる人のことを安易に「努力できない」「頑張れない」と馬鹿にしていることなどからもわかる。
ぼくは本を読むのが好きで、大学生にしては*1膨大な数の本を読んでいる。周囲から「たくさん本を読んでいてすごい。努力家だ」といわれることもある。
「本を読むのってしんどいのに、なんでこんなに読めるの?」と聞かれることもあるが、ぼくは本を読むことはまったく大変なことではない。
努力をすること、頑張ることは苦痛を伴うものだと考えている人たちは、常に自分を「しんどい」状況に追い込む。それが頑張ることだと勘違いしている。
しかし周囲から努力家だと言われるような人は、基本的にそれが楽しくて仕方ないのであって、無理をしているということはない。
就職活動で何の対策もなしにとにかく企業にエントリーしたり、とにかく長時間部活の練習をしたりすることが苦痛なのは当たり前のことである。
それにも関わらず、努力=苦痛だと勘違いしてしまっているために、それを続けようとし途中で挫折する。
他の人をみて「みんな頑張っててすごい」と思うかもしれないが、その人はあなたと違って「苦痛を感じない努力」をしていることは多いだろう。
工夫や手抜きも努力である
努力すること、頑張ることは苦痛を伴うべきだと考えている人は、「工夫」や「手抜き」を否定してとにかく「苦痛のある努力」をすることがある。
例えば、就職活動で親のコネに頼るのではなく、自分の力で100社以上エントリーして内定を勝ち取るべきだと主張する人がいる。
確かに自分の力でやることは素晴らしいが、必ずしもそれだけが努力だとはいえない。
努力をすること、頑張るということは「最大限の成果が出るように力を尽くすこと」であり、絶対に「大変」「苦痛」を伴う必要はない。
親のコネに頼るということもまた、良い企業に就職するという目的においては「努力」であり「頑張り」であるといえる。
もちろん、お寺の修行や自分であえて負荷をかけるという努力も存在する。
しかし一方で、苦痛の伴わない「努力」「頑張り」も当たり前のように存在するということを忘れてはいけない。
努力のジレンマ
- 「努力・頑張り」はしなければいけないもの
- それらは苦痛を伴うものである
- 辛いことを続けることは辛い
上記のような勘違いをしてしまっている人は「努力のジレンマ」に陥ってしまう。
頑張れないやつはダメな人だから、努力しなきゃいけない。だけど頑張ることは苦痛を伴うものだ。だからやりたくない。だけど努力はしなければいけない。
そう考えてしまう人が身動き取れなくなり「努力できない」「頑張れない」と悩んでしまうのではないだろうか。
それらはやらなければならないことでもないし、やるとしても必ずしも苦痛を伴うものではない。このことを意識していくべきだろう。
好きなことは頑張らなくてもできる
前述したように、本を読むのが好きだったそれは苦痛ではない。しかし周囲からは「努力・頑張り」だとみなされる。
よく言われるが、好きなことだったら頑張れるものである。
どうしてもやらなきゃいけない場合の対処
これに対する反論として「やらなきゃいけないこと(勉強など)が好きではない」というものがあげられる。
この場合、2つの対処方法が考えられるだろう。
本当にやらなくてはいけないのか。
「企業に所属して働くのが嫌だけど頑張らないとしょうがないじゃないか」という場合でも、「本当に企業に所属して働かなければいけないのか」と考えられるだろう。
「嫌いな受験勉強をしなきゃ大学に入れないし、将来稼げない」という場合、「推薦制度を利用する(勉強は必要だがその方向性は変わる)」「大学を出ていなくても立派に稼いでいる人はいる」と考えることができる。
とにかくそれを「しなければならない」と考えていることは多いが、実際多くの人がやっているだけであって、本当にそれが生きるために必要不可欠ではないということはよくある。
確かに独立することは困難なことかもしれないが、実際に企業に所属して生きるのが嫌だから、独立するために頑張ったという人はたくさんいる。それこそ好きなことなら頑張れるものだ。
もちろんこれを理想論と捉えることもできる。しかしこれらの理想を実現した人は、実現できると信じていただろう。
次により「現実的」な対処方法を紹介する。
苦痛と向き合わなければいけないと決意する
「努力できない」「頑張れない」といってもやはり人生において挑戦しなければならないタイミングはあるだろう。
そのときは決意をもって、頑張るしかない。
ただし、苦痛の伴う努力をするのは最終手段であって、当たり前のように苦痛を受け入れていると、途中で諦めたり、病気になったりしてしまう。
この決意するという対処方法はとても簡単にできるが、出来る限り行うべきではない。
周りを気にしなくてもいい
上記のことを実践して、周囲から見て「努力できない」「頑張れない」というレッテルを貼られることを怖がる必要はない。
自分自身が十分だと思える成果を発揮できるのであれば、苦痛を感じるほどに何かをする意味があるだろうか。
周囲からどう思われるかではなく、自分自身がそれで十分だと思えるかが重要である。
また周囲の目を気にしているうちは、やはり「努力をしなければ」と思ってしまうだろう。
「苦痛のある努力・頑張り」は絶対必要という人は他人を攻撃する
世の中には苦痛のある努力や頑張りをしない人は絶対にダメだと主張し、そうしない人たちを攻撃する人たちがいる。
そういう人は大抵大変な努力をし、苦痛を我慢しているが、たいして成果を出せていない。
それほど頑張っているようには見えないし、苦しくもなさそうなのに成果を出している人をみると、攻撃したくもなるだろう。
「親にお金があるからうまくいってる」「推薦で入学した人は努力を知らない」などと批判することに意味はない。
親のお金や推薦制度も存分に活用して最大の成果をあげることが努力だといえるのではないだろうか。
まとめ
努力と頑張りについて
- 「必ずやらなければいけないこと」ではない
- 努力できない、頑張れないことで悩む必要はない
- これらは必ずしも苦痛を伴うものではない。苦痛のない努力もある。
- 工夫や手抜きもときとして努力だといえる
- 好きなことは頑張らなくてもできる
- 周囲の評価を気にする必要はない
- 苦痛のある努力ばかりの人は他人を攻撃する
ぼくらのような若い世代にとって受け入れやすい内容かもしれないが、上の世代の人たちは大きく反発する人もいるだろう。
ゆとり教育やブラック企業の存在などによって、努力と頑張りのありかたは少しずつ変化しているからである。
ぼくは努力家だと言われるが、自分で頑張っていると思っていることはめったにないし。できれば頑張りたくないとすら思っている。また努力や頑張りとは本来そうあるべきものだとも考えている。
*1:最近の大学生は本を読まない