人間の目は猛禽の目であるのをきみは知っていますか?
というところから話を始めるのはどうだろうか。
視界を犠牲にして、防護を犠牲にして、相手との距離を測る測距儀の役割を人間の目は担っている。
多分、枝から枝に飛び渡るための、この人間の目の機能は、しかし人間を途方もなく攻撃的にした。
その攻撃性は、地上の生物のなかでは桁外れのもので、石を研いで、集団でおおきな獲物を囲い込んで追い落として、十分に食糧を得られるようになると遊び半分に狩りを行うようにさえなった。
ホモサピエンスはネアンデルタール人たちを嬲り殺しにするのをヒマツブシにしていたと述べている若い男の研究者がいるんだよ。
論文自体は上長のアドバイスで日の目を見なかったが、英語フォーラムで公開されて、ぼくは、どちらかといえば、ネアンデルタール人が滅びた原因へのヒントより、この研究者の人間の残酷性への憧憬に気をひかれて一気に読んでしまった。
残虐性は人間の目を美しくした。
いつかモニと小さい人をつれてホールウェイに立っていて、物音に気がついてぼくのほうを振り返ったことがあった。
母子で、引き継がれた「燃えるような緑色の目」が、こっちを見ていたのさ。
暗い場所で、そこだけスポットライトがあたったような輝く目。
ぼくは、やあ、とかなんとか、とても他人行儀な挨拶をして笑われながら、人間の欲望は人間を美しくするのではないか、と脈絡のないことを考えていた。
最も強く欲望するものだけが、最も美しい場所にたどりつくのではないか。
人間の目は怖い。
この脳に直截つながった「露出した脳」は、人間についてのすべてを教えている。
のみならず、人間の本質をも教えてくれている。
「おまえは敵だ、わたしはおまえを殺したい」
人間の文明の歴史は、この人間の本質との格闘につきていると思える。
SEALDsを支持しないという言明に至った経過を言語化しろ、というきみの仰せだが、いろいろな意味で難しい注文です。
だから何回かに分けて、長々と話すことになるのを許して欲しい。
直截の原因は簡単で、例えばぼくは「物理学」という集合のおおきさなら、子供のときから(物理学者である)大叔父を透してみる癖がついている。
この人は、きみが直截に見知っている人間でいえば、「二次元キンちゃん」、オダキンにとてもとても似ている人です。
もしかすると、アホなクマちゃんの、かぶり物をかぶって、「ミショだよおおーん」をしていた岩本祥にも似ているのかも知れない。
いや、きみは「鈍感さん」揃いの物理研究者にしては19世紀数学者的に詩的なところがあるからオダキンや大叔父とは違うか。
わがclosest友オダキンは「聞き上手」で、「俺はアホだから」という余計な謙遜がうるさいが、それを取り払ってしまえば、知性の人です。
そうして、彼の知性の最もすぐれた点は、考えの全体が「物理的思考」に戻ってくることであるのが見ていてわかる。
戦車兵が小さな窓から戦場を凝視するように、あるいは艦隊の司令長官が「海」全体を戦場という観点からしか見ていないように、オダキンは本人が意識しない場所で物理的思考、あるいは、もっと基礎的な(コントロールや対偶というようなレベルでの)科学の基本に帰ってくる。
めんどくさいから端折ると、どんな人間にも、世界を眺める展望台が与えられていて、その展望台をどこのどんな場所にしつらえるかは、ひとりひとりの人間にまかせられえている。
ナマケモノで知力を低い人間は、感情のまっただなかに展望台をつくって、日の丸をわざわざ望遠鏡のなかで拡大して「なんて美しい旗だろう」と呟いている。
知力の高いきみのような人間は、ある日、ふと宇宙全体の構造がほかでもない自分自身に似ているような気がしてきて、いてもたってもいられなくなる。
この望遠鏡じゃなにも見えないじゃないか!
と苛立ちはじめる。
そうして、SEALDsの若いひとびとは「政治」を透して、ものごとを見始めてしまったのだと思います。
政治の論理、と言ってもよい。
ぼくのSEALDsというグループを見つめるための望遠鏡は三浪亭という、一個の人間として世界を眺めていられる人間で、こういう言い方がきみには最も判りやすいとおもうが、長かったデモの一日のあとで、ふと空をみあげて、なんて美しい青空なんだろう、と考えて、長かった一日の政治性に満ちた出来事をみんな忘却できる人間だった。
SEALDsに対しては、ことの初めから日本のいる友達から、「ガメ、あれは操り人形だから信じてはダメだよ」
参謀がいるのさ。
どうして辺野古のひとびとはbrutalに殴られ、酷い目にあうのにSEALDsは、ただ囲まれているだけなのか考えてみるべきである、と主にトーダイおじさんたちから忠告を受けていた。
でも、仮にも運動である以上、そのくらいはどうでもいいやん、というのがぼくの返事だった。
街宣車が日本共産党のものだったって言うけど、使えるものは、なんでも使うさ、と考えた。
そう、うるさく言っていては何も出来やしない。
だから、そういうことではない。
奥田という人が国会に呼ばれて、なぜ選ばれたのかと三浪亭に訊ねたら「公募でした」という答えで、それはぼくが初めに抱いていたSEALDsのイメージを説明して裏付ける答えだった。
ぼくはそのときには、もう誰が何をしているのか判っていたと思います。
奇妙なこだわりで、事態を調べ上げなかったのは、日本に対する無関心であるよりも、最も若い友達の三浪亭と、まだ話していたかったからだと思います。
野間という人がいて、良くも悪くも、どこにでもいる政治好きおっちゃんです。
あんまり、いろいろなことをこの手の人に言う気はしない。
同じイギリスにいれば、イッパツぶん殴るくらいはするかもしれないが、でも本人を見ると、ぼくがマジメにぶん殴ると、その場で死んでしまいそうな貧弱な体格の人です。
「すごむ」ことが思想であるような、そういうひとり。
三浪亭が、この人のツイートをリツイートしていたので、「もう、そこまでは勘弁してくれ」というのが正直な気持ちなのかも知れない。
そこまで、自分の友達を底なしの沼にひきこまないでくれ、ということではないだろうか。
政治がいかに人間性を破壊するかという気持ちになっただけだと思う。
ロンドンでも、ウエリントンでも、デモにはホイホイでかけて、ニュージーランドの警察はそういうことはないが、ロンドンの警察はあの通り下品な警察なので、「おい、おまえ、おれの身体にちょっとでも手をかけたら、ぶち殺すぞ」というチョーお下品なことを警官に述べたりもするが、もともとは、ぼくは政治などは嫌いで、「政治」「経済」と聞くと、なんだか使命感に燃えてしまって、思想の木靴を履いて、床の上をドタドタと駆け回り始める人間を心から軽蔑している。
だから傀儡師たちなのか、本人たちの意志なのかどうか知らないが、
「とりま、通りに出て声をあげた」集団だった、SEALDsが、いまでは惨めで、凡庸な政治集団に変容したことを、「やっぱりそうなるのか」という気持ちと「残念な」という気持ちとの半々で見ている、ということではないだろうか。
もうすぐモニさんがニュージーランドのパスポートをとる資格が出来るので、そうしたら、またなつかしいノーマッド暮らしに戻って、きみにも会えるかもよ。
そのときは日本語ブログをたたむときだが、もう、いいだろう、という気持ちが、ぼくにはあります。
ほら、聖書も述べている
時、満ちて