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蛭川研究室

蛭川研究室の「はてなブログ」版です

「疑似科学とされるものの科学性評定サイト」について

はじめに

私、蛭川立は、明治大学科学コミュニケーション研究所のメンバーではあるが、西暦2014年に「疑似科学とされるものの科学性評定サイト」が作成されたときには、オーストラリアのクイーンズランド大学歴史・哲学科に在籍しており、作成作業には全く加わっていない。

疑似科学とされるものの科学性評定サイト(以下「評定サイト」と略す)は、日本語で書かれたものとしては希少価値のある良質な啓蒙サイトだと思う。しかし、広範囲の現象を扱っている一方で、必ずしも個別分野での専門知識を持っていない少数のスタッフによって、短期間で作られたため、まだ不十分な部分が少なくない。このサイトに書かれたことを「明治大学」という大きな組織の見解として、権威づけしたり、批判したりするような議論もあるようだが、それは誤りである。

ちなみに私自身は「何でもあり anythinig goes」と言い放てるほどのアナキストではないが「科学ではないもの」を(とくに大学の権威を借りて)非難するようなことは、できるだけしたくないとも思っている。詳しくは以下で議論するが、有害な疑似科学を批判するあまりに、有益な空想を妨げるようなことはしたくないからである。

私は、2015年4月より、この評定サイトの改訂作業に加わった。ただし改訂作業は、サイト全体の構成の問題もあり、現状では、枠組み内での小さな修正に留まっている。評定方法などの枠組み自体については、現在、議論を続けている。その結果が反映されるのは、議論がある程度まとまってからという予定になっている。

以下は、評定サイトの、とくに評定方法についての、私なりの覚書である。この覚書自体も、議論の進行とともに随時改定している。2015年の9月の時点で、評定基準がだいぶ変わったようだが、以下の議論は、その改定に追いついていない。

「科学」という日本語

まず最初に触れておきたいのが「科学」という日本語の意味である。日本語で「科学」というのは、もともと個別科学という意味だが、現在ではより強い意味で使われるようになっている。日本語で「科学」または「科学的」という言葉を使う場合、複数の意味が含まれているため、混同しないように注意しなければならない。たとえば以下のような含意が挙げられる。

(A)唯物論的な立場
 →これに対立するのは唯心論あるいは二元論。(「科学的」という言葉が「唯物論的」という含意を持ち、かつそれがマルクス主義的政治思想からみた「正しさ」を表す言葉としても使われることがあるが、この場合、対立する「誤った」概念は「観念論的」という言葉で表される。「観念 idea」を物質とも精神とも異なる独立した実在とみなす、三世界論という立場もある。)

(B)実証主義的な立場
 →これに対立するのは形而上学だが、実証主義は各種の実在論とも相反するので、物質実在論である唯物論とも対立する立場であり、どちらを「科学的」というのか、混乱することが多い。

(C)機械論的な立場
 →これに対立するのは生気論。

(D)還元主義的な立場
 →これに対立するのは全体論 holism。中間的な立場として構造主義やシステム理論などがある。

(C)と(D)はさておき、(A)と(B)の混同は入り組んでいるので整理する必要がある。たとえば「幽霊」について、科学的にみて存在するはずがない、幻覚に違いない、とするのが(A)の立場である。なぜなら(A)の立場は、非物質的な実体の存在を認めないからである。(B)の立場では「実在」するかどうかという問題は保留して、もし二人以上が目撃したり、写真に写ったりすれば、それは仮に存在するとして議論が進められる、と考える。

(A)と(B)の混同を避けるための、もっとも簡単な方法は、「科学」という言葉を使わないことであろう。しかし、もし使うのであれば、どちらの意味で使っているかを明確にする必要がある。古典力学を規範とする近代科学は漠然と(1)の立場—唯物論というよりは素朴実在論に近いかもしれない—から進められてきたが、相対性理論量子力学以降の現代科学は(B)の立場から進められている。

現代科学の文脈で、あえて「科学」という言葉を使うのであれば、(B)の立場であることを明示した上で、そのように使うのがよいだろうと考える。

科学と非科学の線引き問題

ある体系が「科学」であるかどうかという「線引き問題 demarcation problem」は、科学とは何かという定義にも大きく依存するものであり、明確な結論が得られていない。むしろ、あまり厳密に線を引くことはできないというのが結論だろう。有害な疑似科学は問題だが、有益な空想を妨げる根拠はないからである。つまるところ極論は「何でもあり anythinig goes」なのだが、それでも「科学的」であるかどうかの基準としては、おおよそ、

(1)理論が無矛盾であること
(2)理論が反証可能であること

の二点が挙げられる。さらに社会的、応用的な観点からすれば、価値依存的ではあるが、

(3)理論が有用である(または有害ではない)こと

という基準も加わる。

科学性評定サイトで挙げられている9個の基準のうち、(1)と関係するのが「論理性」「体系性」「普遍性」であり、(2)と関係するのが「透明性」「再現性」「客観性」である。また「予測性」は(1)と(2)の両方と関係しており、(3)に関係するのが「公共性」と「応用性」である。すべてを漢字三文字で「○○性」とするのは、なかなか語感が良いが、9個の項目を列挙するのはやや冗長であり、個々の項目の記述にも重複がある。もうすこし整理する必要があるだろう。

理論の無矛盾性と反証可能性

科学理論の用件についても諸説あるが、たとえばクーンは『本質的緊張』(和訳第二巻417頁)で「よき科学理論」の条件として「精確性 accuracy」「無矛盾性 consistency」「広範囲性 scope」「単純性 simplicity」「多産性 fruitfulness」の5項目を挙げている。

クーンの基準に挙がっている「精確性」は、おおよそ、よく知られたポパーの「反証可能性 falsifiability」(上記(2))に相当する。評定サイトでは「透明性」「再現性」「客観性」「予測性」の四つにまたがって関係しており、これは煩雑で冗長である。それは、反証可能性の中で社会的要因を論じているからだが、このことについては、社会的要因として別に分けたほうがわかりやすくなるだろう。これについては以下の「理論の社会的側面」で論ずる。

次に、上記(1)の無矛盾性に対応するのが、そのままクーンの「無矛盾性」であり、これは科学性評定サイトの「論理性」である。これについては、あまり細かい議論は必要ないだろう。

(1)から派生する要請として、反証不能でかつ無矛盾な理論であれば、より単純であるほうがすぐれた理論であり、またひとつの理論はより多くの既知の現象を説明し、かつまたより多くの未知の現象を予測するものであるほうがよい、ということが挙げられる。これはクーンの「単純性」「広範囲性」「多産性」に対応する。

この三点に着目すると、「単純性」という項目は科学性評定サイトには現れないが、場合によっては必要だろう。たとえば、メカニズムが不明な現象、たとえば「テレパシー」という現象を説明するために「第五の相互作用(力、場)」、あるいは精神現象に特有の相互作用を仮定するとすれば、四つの物理的相互作用ですべてが説明できるという既存の物理学理論に対して、それがより複雑であるという点に困難がある。逆に、現代の物理学は、すでに電磁気力、強い相互作用強い相互作用を一つの相互作用の別側面であるという統一理論を作り上げており、現在、重力を含むすべての相互作用を統一しようという方向で研究が進められている。これは「単純性」という点で、健全な方向性だといえる。

次に、クーンの「広範囲性」(これは「保守性」と言い換えたほうがわかりやすいかもしれない)と「多産性」は、おおよそ科学性評定サイトの「体系性」と「普遍性」に対応しているようだが、意味がはっきりしない。この二つの基準は、一つにまとめてもいいかもしれない。

たとえば「テレパシー」という現象を説明するのに「第五の相互作用」を導入しても、それが「テレパシー」だけではなく、既存の、四つの力によって説明される現象群よりも、より広い現象群を説明できなければ「広範囲性」の基準を満たさないし、また「テレパシー」以外の新しい現象が観測されることを予測しなければ「多産性」を満たさない。もしそれができないのであれば、「テレパシー」は既存の四つの相互作用の範囲内(おそらくは電磁気力)によって説明されるべきであり、あるいはその実験的証拠自体が否定されなければならない。

理論の社会的側面

次に、理論の応用面と社会的側面について検討したい。上記の(3)に関するものとして、評定サイトでは「公共性」と「応用性」が挙げられている。まず「応用性」は、純粋に有用かどうかという評価として考えられる。

社会的な文脈における科学のあるべき姿としては、マートンの「マートン・ノルム Mertonian norms」、つまり「普遍主義 universalism」「公有性 communism」「利害の超越 disinterestedness」「系統的な懐疑主義 organized scepticism」がよく知られているが、これらには強い政治的な含意があり、現代の日本の疑似科学を論じるにあたっては、幸か不幸か、あまり網羅的に問題にする必要はなさそうである。

しかし「公有性」は、有益であることが確認されたものであっても、その利益が特定の集団に占有されていてはならないという要請であり、応用性について論じる場合には、この公有性は考慮されなければならないだろう。これは、評定サイトの「公共性」と重なる部分が大きい。

さて、すでに指摘したことだが、評定サイトにおける「透明性」「再現性」「客観性」および「公共性」は、(2)と(3)にかかわる問題として挙げられているが、これは冗長であるように思われる。

ある理論が反証可能でない理由として、まず、理論自体に反証可能性が内在されていない場合がある。たとえば、ある療法により症状が軽減すれば「効いた」ということになり、症状が悪化すれば「好転反応」だとする場合、「好転反応」というものを明確に定義しなければ、理論は反証不能になる。

一方、反証を妨げる要因として、より社会的な要因がある。たとえばEM菌の効果について、関連する研究機関で行われた研究結果だけが偏重されるという問題が指摘されているが、追試の手続きが公表されており、かつ誰が追試しても反証されていない、という用件が満たされなければ、反証可能性は保証されない。この点について、評定サイトではすでに見たように「透明性」「再現性」「客観性」および「公共性」の四つの項目を立てており、たとえばEM菌についての項目には、外部の研究機関による追試が難しいという、同様の主張が繰り返し書かれている。これはうまく整理できないだろうか。

非科学・未科学疑似科学

「科学」と「科学ではないもの」の「線引き問題 demarcation problem」については、「科学ではないもの」一般(非科学)と「疑似科学」が混同されているきらいがある。「非科学」一般と「疑似科学」は区別されなければならない。

科学的とされる基準を満たさない体系を仮に「非科学」と呼ぶことにする。しかしこの非科学にも「科学的であろう」とする非科学と、「科学的であろう」とはしない非科学がある。芸術や宗教などの文化的活動の領域には「科学的であろう」としていない「非科学」の体系はいくらでも見いだすことができる。

ここで問題になるのは「科学的であろう」とする「非科学」である。しかも、それらすべてが「疑似科学」なのかというと、そうではない。「科学的であろう」とする「非科学」のうち、論理的な一貫性を欠いていたり、すでに反証されていたりするものにかぎって「疑似科学 pseudoscience」と呼ぶべきである。理論や実験が不十分であるがゆえに、今後まだ科学として発展しうる可能性のある体系は「未科学 protoscience」として別個に扱われるべきである。新しい科学は必ず「未科学」の領域から発展してくるが、「疑似科学」にはその可能性はない。「現在の科学ですべてが説明されたわけではない」という主張は当然だが、それは「未科学」の可能性を保証するものであり、「疑似科学」を正当化するものではない。

しかし「科学的であろう」という姿勢は、主観的なものであり、それを客観的に判定できるだろうか。おおよその基準を挙げることはできる。理論の内部に「波動」や「イオン」などの科学用語を含んでいたり、根拠として統計的な数字を挙げたりすること、などである。

ただし、科学用語の濫用の範囲は曖昧で、たとえば「あの人とは波長が合わない」といったときの「波長」は、慣用的な表現であって、具体的に特定の媒質を伝わる波動のことを言っているのではない。同様に「セラピストとクライアントの間には量子的なエンタングルメントが起こっている」といっても、それが慣用的な比喩表現であれば、疑似科学として問題になることはない。この場合「波長」という言葉がすっかり慣用的なものになり、また直感的にもイメージしやすいのに対し、「エンタングルメント」という言葉は専門分野外では聞き慣れない言葉であり、また直感的な理解が難しいぶんだけ、神秘的に捉えられやすい、という問題はあるだろう。

評定サイトの最後の「総評」では、「科学」「発展途上の科学」「未科学」「疑似科学」の四つのカテゴリが使われているが、「発展途上の科学」は「未科学」に含めたほうがすっきりするだろう。また積極的な意味でも「非科学」を加えるべきではないだろうか。上に述べたように、「有益な非科学」は肯定的に評価すべきだからである。場合によっては「有益な疑似科学」というカテゴリさえもありうる。科学の外部にある宗教や呪術などの多くが伝統文化として存続してきたのは、その応用性の高さゆえにであるとも考えられなければならない。

一般に疑似科学とみなされる占星術も、それが過去数千年における統計学の産物であると主張した時点で「科学的であろう」としていることになり、たしかに疑似科学になってしまうのだが、たとえば惑星の配置を一種の投影法として心理相談のように利用するのであれば「科学的であろう」としていることにはならず、それが役に立っているのであれば「疑似科学」ではなく、有益な「非科学」だということになるだろう。

世界が神によって創造されたとする「創造論 creationism」は、聖書だけではなく世界各地の創世神話にあるもので、それを純粋に文学や宗教としてとらえるならば「非科学」だが、神による創造が「科学的事実である」と主張する「創造科学 creation science」は「科学的であろう」としている理論であり、それがまだ反証されていないとすれば「未科学」になり、反証されているとすれば「疑似科学」になる。しかし疑似科学だからといって、ただちに有害だということはできない。

疑似科学の有害性

創造科学のようなものが政治的な議論にさえなっている状況からすると、大宗教の権威がほとんど存在しない日本で疑似科学と呼ばれているものが起こしている問題は、幸い、それほど深刻ではない。水に綺麗な言葉をかけると結晶も綺麗な形になる、という主張が道徳教育の現場に取り入れられたことが問題視された。たしかに、道徳の根拠を「科学」に求めようとするのは誤った科学主義である。しかし、綺麗な言葉を使おうという主張自体は穏当なものである。教育現場に限れば、例えば国語の教科書に、倒錯した思想により自殺した作家の文章を載せるほうが、青少年の健全育成において、ある意味では、はるかに有害であるとは言えまいか。これはまた逆に、大宗教による道徳的な歯止めの存在しない日本社会に内在する難題だともいえる。(私は、人間の本性として、倒錯の美学というものはありうる、と思う。しかし、それは「成人指定」であり、高校以下の教科書に載せるようなものではないだろう。そうであればこそ(とくに文学部系の)大学教育というものが必要な所以でもある。)

社会的な有害性がすぐに表れやすいのは疑似医学の分野であるが、しかし伝統医療も含めて疑似医学の多くは高々プラセボであり、無害な物が多いのも事実である。多くの問題は副次的なところで起こる。たとえば、費用が高額になってしまうという問題は、保険が適用されないことが多いがゆえに、患者の側に重い負担となる。また、特定の療法を用いることではなく、他の療法を使わないことによる被害も副次的なものである。たとえば「ホメオパシーで死者が出た」といった語りには注意する必要がある。(現在主流となっている)ほとんど存在しないほど希釈した成分を染みこませた砂糖玉を摂取しても健康被害は生じようがない。そうではなく、他の薬を摂取しないことで副次的な健康被害が生じる可能性があるということであり、問題はホメオパシー自身にあるのではなく、通常の医薬品に対する不信という信念体系のほうにある。問われなければならないのは、薬物療法を中心とした近代医学に対する不信感が生じる仕組みのほうであろう。

あるいは、効かないサプリメントを効く薬と称して売ることよりも、効く薬を効かないサプリメントと同列に売ることのほうが深刻な問題になることもある。例えば今の日本ではコンビニや家電量販店でも買えてしまうセントジョーンズワートセイヨウオトギリソウ)は標準的な抗うつ薬であるSSRIと同等の作用と副作用を持っており、こうしたものを医師の処方箋なしに売ることができるほうが問題である。

なお、代替医療や自然食品などの「自然」回帰を目指す一連の文化は、その科学性を正確に見きわめるよりは、象徴論的な分析のほうが有効になるだろう。この点については「文明社会における神話的思考」を参照されたい。


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(2015/2558-05-10 作成 10-17 更新 蛭川立