http://ninicosachico.hatenablog.com/entry/2015/10/26/144601
痴漢された体験談に同情する女性と、「自慢?」と言いがちな男性・一部の女性の意識差について考えたので書く。
傷つけるため明確な悪意をこめて「自慢?」などと言うのではなく、ある種自然な反応としてそう言ってしまう場合に限っている。
被害を受ける人間や、痴漢被害の体験談を聞く人間は異性愛者の男性・女性を想定して書く。
モテない男性~普通の男性くらいであれば、その欲求は生活していて十分満たされることが少ないというレベルだ。
「ブスのババアにモテるなんて迷惑」とよく言われるが、実際のところ、よっぽど嫌悪感を抱くレベルでなければブスや年上からであっても気がある素振りをされるのは嬉しいものだ。
(見栄や責任を取る面倒くささなどから、実際に抱いたり付き合ったりするかと言うとまた別問題だが)
一方女性は、異性から性的に求められることにうんざりしがちである。
性的に値踏みされると意識する機会は非常に多いし、自分個人でなくとも、自分の属する性別が性的需要の対象となりやすいということは街を歩いても民放テレビでもすぐ分かる。
もちろん男性アイドルなどはいるが、グラビアアイドルや、AV男優に比べ数も露出もずっと多いAV女優、風俗業、エロ本広告など、女性への性的な求めはより即物的でインパクトが大きい。
つまり、女性は異性からの性的視線を強制的に限界まで受けている。
性的魅力よりおとなしさの方が狙われる要素として大きいが、同じく無力そうな老人ではなく若い子が狙われがちというのは、結局若さに付随する最低限の性的魅力は目についてしまったのだ。
そして接触された。
それが嬉しいだろうか、自慢になるだろうか?
若い女というだけで獲物に選ばれたのは魅力を見出されたことに全然ならない、そそらせたということになりはしないし自慢になるわけがない、と思われるかもしれない。
だが、若い男という要素が大した価値を発揮せず異性に性的に十分求められたことのない飢えた者からすれば、そそらせてるじゃないか、となる。
飢えている人に「(その飢えているものを)私は受けた」と語るのは、羨ましさを引き起こし、だから「自慢か?」となる。
だが女性からすると、普段の生活の中でもうんざりしているものを更に受けたのだから苦痛で当然だし、自慢と取るのは理解しがたい。
常に空腹で苦しんでいる人間が「飯を食わされた」という話を聞くのと、常に過剰な満腹で苦しんでいる人間が「飯を食わされた」という話を聞くのとでは、どうしても受け取り方は異なる。
ちなみに女性でも「自慢か?」と言う人がいるのは、彼女らが現在性的視線に飢えており、またかつて性的視線にうんざりしていたことがなかったか忘れたかして、飯を食わされた話が羨ましく感じるからだろう。
しかし痴漢被害の話を自慢と取る、性に飢える人々が見落としがちなのは、痴漢というのは普通に「飯を食わされる」と表現されるような柔らかい接触ではないということだ。
たとえるなら、フォアグラにされるガチョウの如く、喉にチューブを突っ込まれ餌を注ぎこまれるような暴力であり苦痛だ。
いくら空腹だとしても、そんな食糧の与えられ方はごめんだろう。
実際に痴漢被害に遭った男性は、そのガチョウの気分を味わったはずだ。
けれど、実体験なしでそれを感じ取るのは残念ながら難しい。
男性が日常で性的に求められること、肉体的に触れられることはほぼ好ましく貴重な体験だから、どうしてもその延長線上で考えてしまう。
クラスの子に色目を使われたり、同僚にスキンシップをされたり、そういった、ちょっとニヤケてしまうような経験の延長線上で。
痴漢の恐怖と言うのは、逃げづらい状況で、異常な行動をする理性のなさそうな相手に何かされている、という部分も大きく、それは男性にとっても十二分に恐ろしいのだが、理性のなさそうな相手と接触した経験が少ないとそこのところもぼんやりしてしまう。(また、痴漢物、というポルノジャンルが割とメジャーな程度にはノーマルな嗜癖であるため、自分とかけ離れて理性がない異常者と判断するのが難しいというのもある。現実で行おうとするかは別だが、夢想の中でくらいはそれをしたがる、つまり欲求レベルではある程度広く理解を受けているということ。殺人欲求、戦闘欲求よりは狭いだろうが。ちなみに男性露出狂などはもう少し異常者と感じやすいようで、男性露出狂もののポルノは痴漢物よりニッチであることにもそれが表れているのではないか)
男性は逆ナンをされたく思う。だが実際された経験がある人間は少なく、それが尚更憧れを増す。
迷惑だった話のつもりでナンパされたことを語ったら、「羨ましいね」とか「自慢しちゃって」など言われてしまう、という構図に、この痴漢体験の問題は似ていると言えまいか。
直接的な暴力ではないナンパと、暴力である痴漢の間には線があるのだが、ナンパもあまりされたことがなくまた慢性的な性への飢えに悩まされている者は、痴漢もナンパと同じようなもので、鬱陶しいだろうけどちょっとした手柄話にもなるだろうと考えてしまうのだ。
それにより不特定多数の異性から性的に見られることに原則否定的か肯定的か。
その感覚の違いがズレを生んでいると考える。
ではその性的に見られることの多寡はなぜ発生するかということについては、肉体的に平均性欲に差があるとか、文化的慣習がどうのとか、どこまでも広がっていきそうなので誰かに任せる。
とにかく私としては、飢餓に苦しむ者と強制給餌に苦しむ者の間での不理解のようなものだ、という意見だ。
余談の1。
女性から男性へのセクハラ被害が周知されづらいのは、多くの男性は女性からの性的視線・性的接触を好ましく思うため、少数例である不快に思う男性の声が軽んじられて起こる不幸だと考えている。
この少数例というのは、その男性個人の感受性や、加害者である女性の個性や接触方法が極端だった、などを混ぜた意味での少数例である。
余談の2。
男性に、性的視線に晒されることの恐怖や嫌悪を伝えるために「筋肉隆々のゲイに狙われるのを考えてみなさい」という言い回しがよくされるが、これは、ゲイに失礼かもしれないということに加えて、性的に見られる恐怖に同性愛への抵抗が混じって話がゴチャっとするのであまり良くないと思う。