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majick94        落合莞爾『堀川政略』再検証

加筆修正して再投稿します。


訂正事項


記事の中では徳川家茂生存説は一旦保留にしましたが、
採用させていただくことにします。
尾張徳川と水戸徳川が二元対立の駒として動き、
ジンテーゼとして紀州徳川宗家が創設された経緯を鑑みるに、
〇紀州徳川宗家の第一代目当主として家茂が表舞台から退場
〇水戸徳川と尾張徳川にバトンタッチ
〇しかる後に明治『維新』のシナリオが本格的に進行
と考えるとその後の『出来事』の辻褄が非常に合います。
また和宮生存説についても、
紀州徳川宗家第一代目の連れ合いとして一緒だった可能性大です。
よって紀州徳川宗家については次のように定義しておきます。


定義 紀州徳川宗家第一代目は徳川家茂である。






以下本稿です。



まず落合莞爾と鬼塚英昭を定義しておきます。


定義 鬼塚英昭と落合莞爾は311のトモダチである


鬼塚英昭=田布施王朝の語り部。落合莞爾=裏天皇家の語り部。
一見対立する『皇統プロパガンダ』を吹聴しているが、
両者は両サイドに配置された同じ穴のトモダチである。


但し、落合莞爾は鬼塚英昭より遥かに大物です。この御仁は徳川宗家よりも上にいるでしょう。
徳川宗家の本拠地で『紀州文化振興会』を率いて、いまだに奴隷根性が抜けない連中を相手に、
『堀川政略』カルトを布教伝道しています。徳川宗家の獅子身中の虫、味方のフリをして挽歌を奏でる恐るべきパイパーです。




311のトモダチ 鬼塚英昭のお仕事



2006・7・8





2007・7・21




2007・11・20




2008・7・19





2009・11・6




2010・3・11






2010・8・21



2011・5・21




2011・7・15


『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』DVD





鬼塚英昭のDVDを文字起こしした私の記事がありますが、
いったん頭の中からこれら全ての糞を洗い流してください。






2011・11・24

『世界最終恐慌への3000年史 時間とマネーを支配する怪物の正体』




2013・3・29




2013・7・6






2013・12・10



 


2014・8.1
 









2014・12・12
 







鬼塚英昭の『ユダ金ワンワールド』を敷衍させた落合莞爾のお仕事


2012・4・20     






2013・4・11






2013・8・9







2014・1・22
 





2014・9・2







2014・12・3
 
 



2014・8・19






では311のシンボルともいえる『堀川政略』を再検証しましょう。
たたき台は以下のブログより拝借致します。





<ahref="http://2006530.blog69.fc2.com/category10-3.html">http://2006530.blog69.fc2.com/category10-3.html
   
●疑史 第68回  ★清朝宝物の運命    落合莞爾 

この辺で堀川辰吉郎の正体を明かさねば、本稿はもはや諸賢に認めて貰えまい。辰吉郎は明治十三年、孝明帝の血統を享けて京都の堀川御所に生まれた。


引用者注 これはウソです。
堀川政略の根幹は皇統をウソで練り固めることにあります。



(落合莞爾続き)
明治二年、西郷・吉井・大久保の薩摩三傑が宮中改革を図り、孝明帝の女官を京都に留めたことは周知であるが、その女官たちは、維新後も京都堀川御所に住した京都皇統に仕えたのである。堀川御所は昭和三年に廃止されたと聞くが、皇統の本拠としての意義を果たし終えたからであろう。


引用者注 堀川御所が皇統の本拠となったことは一度ありません


(落合莞爾続き)
京都皇統の中核的人物として生まれた辰吉郎は井上馨の実兄・重倉の籍に入ったが、生地に因み堀川姓を称した。(重倉については未詳だが、玄洋社員と聞く)。幼くして玄洋社に預けられた辰吉郎は、上京して学習院に入る。皇族・華族の子弟教育の機関で一般民の入学を初等科に限っていた学習院に入学したことは、辰吉郎の貴種たるを暗示する。明治三十二年、清国の革命家・孫文が日本に亡命した時、その支援を図る玄洋社は、実質社主・杉山茂丸の計らいにより、弱冠辰吉郎を孫文に付して、その片腕とした。


引用者注 京都皇統=尾張徳川&水戸徳川。 
つまり堀川辰吉郎は情報部員として育てられたのです。



(落合莞爾続き)
ともかく、常に伴う辰吉郎を日本皇子と称したことで、孫文の清人間に於ける信用が俄かに高まったのである。愛親覚羅氏が日本に接近するのは、日本の実力を目の当たりに見た日露戦争の後である。接近は西太后の側近・袁世凱を通じて行われたが、東京皇室は固より、政体・桂太郎内閣も敢えて対応を避けたのは、東京皇室と京都皇統の間に国務分担の密約があり、皇室外交と国際金融は京都皇統の分野だったからである。



引用者注
孫文の箔付けのために『日本皇子』を自称した。
こういう奥の手を使うために堀川姓を名乗ったのでしょう。
東京皇室=尾張徳川家&水戸徳川家です。


私は鬼塚英昭『20世紀のファウスト』に衝撃を受け、
爾来鬼塚英昭を信奉する記事を書いてまいりましたが、
鬼塚英昭が提唱する『田布施王朝史観』は、
ためにするガセネタであるという見解に達しました。
ここにお詫びして撤回させていただきます。


その他の項目については追々訂正と修正をしてまいりますが、
鬼塚英昭の『田布施王朝史観』『ユダ金ワンワールド』
副島隆彦&中田安彦の『311安全プロパガンダ』『日本再占領』
落合莞爾の『堀川政略史観』
いずれも311の同じ穴のトモダチという意味では同一線上にあります。


しかし落合莞爾の「東京皇室と京都皇統の間に国務分担の密約があった」、
という『インサイダー情報』はやはり群を抜いています。


現時点で立てている私の仮説では、
東京『皇室』は尾張徳川&水戸徳川。
京都『皇統』も尾張徳川&水戸徳川です。
徳川宗家はこの埒外にいます。


つまり尾張徳川義親は田安徳川家達のダミーである、
という私の見解は同心円の円周をなぞっているだけであって、
求心力の足りない底の浅いものでした。
徳川家達もまた宗家のダミーに過ぎなかったのです。


水戸徳川の将軍は『大政奉還』『鳥羽伏見の戦い』を演じ、
尾張徳川の高須四兄弟は官軍と賊軍に分かれて『内戦』を演じ、
明治『維新』の表舞台の主役を張っています。
その背後にいたのが紀州徳川家です。


紀州徳川家すなわち徳川宗家は、
尾張徳川と水戸徳川の二元対立のテーゼとして存在しています。
このような偽装を徳川宗家に指示したのが世界支配層です。
(但し落合莞爾が言うような『在英ワンワールド』では絶対ない)


世界支配層はなぜこのような偽装を徳川宗家にさせたのでしょうか。
お金の流れを見てください。
幕藩体制では到底できないことをやっています。


幕藩体制を瓦解させ中央絶対集権にしたのはまず第一に金のため。
中央絶対集権化における搾取は幕藩体制の比ではありません。
国の財産も一極集中させることができます。
麻薬密売・専売のアガリや強奪資金をスムースに回収できます。
中央絶対集権下におけるこの自由裁量権が狙い目なのです。


第二に天皇教カルトで洗脳した家畜人ヤプーを汚れ仕事専門に使うため。
天皇教カルトがキリスト教の換骨奪胎であることに留意しましょう。


統一協会幹部のどんちゃん曰く、
「お前ら幼稚な猿は一度キリスト教を信仰することによってちっとはマシになるだろう」
黄色い幼稚な猿がキリスト教を一度信仰したところで何の益があったでしょう。


鬼塚英昭『天皇のロザリオ』はとっくに終わっていることの二番煎じ。
徳本栄一郎『1945年日本占領 フリーメイスンン機密文書が明かす対日戦略』然り。
何をいまさら御託を並べる必要がありましょうや。


『尊王攘夷』『王政復古』『ご維新』
『脱亜入欧』『近代化』『富国強兵』


こんな掛け声のもとに国家まるごと改変させたのは、
あくまで世界支配層の都合に合わせるためであって、
極東のちっぽけな島国を真に偉大ならしめるためではありません。
しかし徳川宗家はこのグロい謀略に唯々諾々と従ったのでしょう。



(落合莞爾続き)
辰吉郎を盟主と仰ぐ京都皇統の芯核は孝明帝の祖父・光格帝由来の宮中勢力で、光格帝と実賛同血統の鷹司家を始めとする旧堂上の一部である。之に加えて、孝明帝の皇妹・和宮が将軍・家茂(紀州慶福)に降嫁した公武合体に発する紀州藩・会津藩の勢力もあった。辰吉郎傘下の実行部隊は玄洋社だけではなく、京都に根拠を張った寺社勢力がそれで、東西本願寺が当時の棟梁格であった。外郭の中で、最も強大な勢力は前述の薩摩ワンワールドで、在英海洋勢力の支部として杉山茂丸の指示に従いながら、辰吉郎の経綸を実行していた。また丹波大江山衆は、光格帝の実母・大江磐代(大鉄屋岩室氏)に由来する禁裏の外郭で、亀岡穴太村の上田吉松を頭として江戸時代から禁裏の諜報に携わっていたが、多くは玄洋社に誘われて満洲に渡って馬賊となり、或いは清国本部に潜入して国事に備えていた。彼らが創めた大本教が、玄洋社と並んで辰吉郎支援の実行部隊となり大正時代には民国内に実質支部の紅卍会を建て、辰吉郎はその日本総裁となる。


引用者注 要点をまとめてみましょう。
薩摩ワンワールドが辰吉郎の経綸を実行していた。
江戸時代から禁裏の諜報員だった丹波大江山衆が大本教を創り、
玄洋社と共に渡満して辰吉郎の実行部隊となった。
紅卍会はその実質支部で辰吉朗が日本総裁である。
ここから次の定理が見えて来ます。


定理 秘密工作員とカルトはワンワールドである(世界支配層の共通の尖兵として用いられる)



(落合莞爾続き)
上田吉松と結んで大本教を開いた綾部の出口ナヲの次男・清吉は、高島鞆之助の計らいで近衛に入隊し、日清戦争後の台湾土民平定に参加したが、凱旋中の輸送船上で蒸発し、北清事変で軍事探偵・王文泰として手柄を挙げた後、満洲に渡って馬賊に投じた。この王文泰が馬賊仲間で三歳年下の張作霖を指導し、親日に誘導して日本陸軍の支援を取り付け、満洲の覇王に養成するのである。

堀川辰吉郎は辛亥革命後、しばしば満洲に赴いて張作霖と慇懃を通じ、長子・学良と義兄弟の盟約を交わしたと謂う。辰吉郎は、漢族自立を図る孫文、満洲保全を望む愛親覚羅氏の双方と親しく交わったが、その立場に毫も矛盾はなかったのは、蓋し双方とも満漢分離で一致していたからである。


引用者注 これが辛亥革命の本質です



(落合莞爾続き)
新生中華民国が群雄割拠となったのを国情の必然と覚った袁世凱は、共和政は不可能として帝政復帰を図るが、これを孫文にとって重大な障害と観た辰吉郎は、革命党に手を回して大正五年に袁を毒殺させたと聞く。宗社党の満蒙独立運動を支援した大隈内閣が、袁世凱の急死と同時に方向を転換し陸軍内大連派に撤兵を命じたのは、在英ワンワールドの意向に基づくものと思われる。そのため、粛親王と宗社党を支援していた日本陸軍内の大連派には、彼らの損害を補填すべき義務が生じ、参謀本部支那課長の浜面又助大佐は、その財源探しに四苦八苦していた。

在英ワンワールドの戦略に従う辰吉郎は、張作霖を地方政権として育成し、満洲を特殊地域化する戦略を立てた。張作霖が乾隆秘宝を接収したのは大正五年十二月で、大連派に対するジェスチュアとして、秘宝強奪の形を取った。 


●疑史(第七十回)  清朝宝物の運命(3) 
日本陸軍の「河豚(ふぐ)計画」は、欧州のユダヤ難民を満洲に迎え、以てソヴィエト・ロシアに備えることを目的としたが、結局実行に至らず、欧州のユダヤ難民は、バルフォア宣言によりパレスチナの地を与えられて現在のイスラエル共和国を建てた。

日本陸軍は第二のバルフォア宣言を極秘に出していた。満洲政権が当地に漢族を移住させたのは、やはり帝政ロシアに備える住民の壁を意図したものだから、当地に新イスラエルを建てる計画は、パレスチナヘの強制的移住に比べて格段の合理性があった。

要するに「河豚計画」とは、満族政権に替わった日本が、漢族に加えてユダヤ族をも誘致しようとした案である。今日の論者は「河豚計画」を日本陸軍の立場からのみ論ずるが、根底にグレイト・ゲーム即ち地政学的発想があるのは当然のことで、しかも一神教内の対立を絡めた発想者は、どうみても海洋勢力の本宗たる在英ワンワールド以外には有り得ない。

台湾政策においても、総督制による植民地制を採りながら現地民の甘薯栽培を保護したのは、そもそも台湾政策の根本を建てた高島鞆之助と樺山資紀が、在英ワンワールドの伝令使・杉山茂丸を通じて海洋勢力的統治策の根本を理解していたからであるが、その知識と知恵が朝鮮半島経営には生かされなかった。原因は幾つかあるが、一つは朝鮮総督府を独占した長州陸軍閥の総帥たる山県有朋が、親露的かつ親大陸勢力的性格が濃かったことであろう。之が陸軍の悪しき伝統となり、満洲事変後の満洲政策を左右して、石原莞爾が折角建てた海洋勢力的構想を変改・破壊してしまったのである。

京都皇統の中心で皇室外交を実践していた堀川辰吉郎は、弱冠にして孫文の秘書となったが、一方では張作霖にも慇懃を通じ、子息・張学良と義兄弟の盟を交わした。孫文の漢族自立革命と、醇親王の張作霖利用による満洲保全策は、どちらも満漢分離を前提としたもので、本来少しも矛盾しない。

そこで醇親王は、極秘扱いの「乾隆秘宝」の存在を辰吉郎に明かし、両人は之を張作霖の軍費に充てることを決断した。時期は恐らく大正三~四年ころである。

折から民国では北洋軍閥の総帥・袁世凱が権力を掌握し、帝政を復元して自ら皇帝に即こうとしたので宗社党と関東軍内の旅順派を剌激した。袁世凱は五年六月六日に急死するが、裏では孫文革命党を支援する辰吉郎の手が動いたと言われている。


●疑史 第71回  落合莞爾。
  
★清朝宝物の運命 (4) 
ごく最近のことに、「乾隆帝が奉天に隠した宝物は堀川辰吉郎が秘かに買い取った」と聞いた。情報源は「その筋」というしかないが、その売主を二代目醇親王、時期を大正三~四年頃とするのは、私(落合)の推測である。

清室の中心は明治四十一年末以来醇親王であった。従って四十二年に、訪日途上の英国元帥キッチナーに北京で宣統帝の名で桃花紅合子を賜ったのも、奉天宮殿で江豆紅太白尊を贈呈したのも、すべて醇親王の計らいである。義和団事変の後、ドイツ公使殺害の謝罪使としてドイツに渡った醇親王は、世界の大勢すなわちワンワールドの存在と意志を知って帰国し、開明思想に基づいて清朝の政体を立憲君主制に移行させたが、時既に遅かった。

これより前、保守思想の権化西太后も漸く清朝倒壊の時機を覚り、腹心袁世凱を通じて日本皇室に今後の満洲経略を諮ったが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて対応を避け、京都皇統の堀川辰吉郎にすべてを委せた。清朝の中心醇親王は明治十六年生まれで辰吉郎より三歳年下に当たる。同世代の両人はワンワールドに対する認識を共有することからも見識相通じて、爾後の満洲経略を練った。四十二年に中島比多吉が紫禁城に入って溥儀の傳役となり、翌年には辰吉郎が紫禁城の小院に寓居を構えるが、すべて醇親王の計らいであることは言うまでもない。


引用者注 要点をまとめます。
『共通認識』を有するトモダチ同志の醇親王&堀川辰吉郎は『満州経路』を画策した。
一方で西太后は袁世凱を通じて日本皇室に今後の満洲経略を諮ったが無視された。
辰吉郎と醇親王は西皇后と袁世凱を排除し、かくして世界支配層は紫禁城を掌中に収めた。



(落合莞爾続き)
民国初年、醇親王から乾隆帝の泰天秘宝の存在を明かされた辰吉郎は、西本願寺法主・大谷光瑞師管理下の国体資金を用いて早速買い取った。目的は国事に用いるためで、代金はおそらく、革命後不如意になった醇親王と宣統帝の諸用に供されたのであろう。わが皇室にとって清室所蔵の古陶磁が単なる隣国の珍玩でなかったことは、辛亥革命の直後、泰天宮殿内磁器庫の清朝陶磁が放出されるとの風説を聞いた外務大・臣内田康哉が、「その筋において購入の意志あり。価格などを探れ」との訓電を奉天総領事・落合謙太郎に発した事で分るが、乾隆秘宝はそれよりも更に重大な意味を有していたのは論を挨たない。


引用者注 
手持ち不如意なトモダチのために、辰吉朗が奔走して美術品を高価買取りさせたのです。



辰吉郎と光瑞師は、買い取った乾隆秘宝中の「奉天古陶磁」をネタに、二つの作戦を建てた。一つは換金して奉天の新興軍閥張作霖の軍資金とすることである。大正三年に奉天の軍権を掌握した張作霖は、丹波皇統奉公衆の出口清吉が明治三十年代から親日傾向に誘導してきた緑林の頭目で、之を養成して奉天に親日的覇権を維持するのが日満合作の基本的戦略であるが、兵器近代化の資金が日本からの援助であることを隠蔽するために、張作霖が自力で乾隆秘宝を強奪した形を装うこととした。そこで張作霖に、大正五年末から六年二月に掛けて七回に亘って宝物強奪(真相は移管)をゆっくり実行させることとし、その都度光瑞師は配下の上田恭輔を立ち会わせた。


引用者注 
満州帝国の近代武装化を図った辰吉郎により華々しく『満州事変』が演出され、
『河豚計画』のバリエーションともいうべき『満州麻薬帝国』が現出します。



(落合莞爾続き)
洪憲皇帝に就こうとした袁世凱は五年六月に急死する。これを中矢(伸一)は辰吉郎の工作と謂うが、頗る肯繁に当たる。南方革命派の孫文とも奉天覇権の張作霖とも昵懇だった辰吉郎が、愛新覚羅氏に代って帝政を維持せんとした袁世凱を排除するのは当然である。

 ●疑史 第72回    

★清朝宝物の運命(5) 

先次大戦後、満洲は中華人民共和国東北地区となり、辰吉郎と醇親王の謀った満洲計略は満洲国建国だけの線香花火に終わったかに見える。此処までの経緯は畢竟在英ワンワールドの意図に沿ったものと思われるが、彼らの建てた河豚計画(ユダヤ教徒の満洲移住計画)は未だ全く終っていないから、満洲問題はパレスチナ問題の今後の推移を観てから結論すべきであろう。


引用者注 「河豚計画」はまだ終わっていないそうです。 


●疑史 第74回     評論家・落合莞爾  ★辰吉郎と閑院宮皇統(1) 
辰吉郎は孝明天皇の世に隠れた直系で、遡れば孝明→仁孝→光格と三代の天皇が続く閑院宮系皇統の直系である。


引用者注 
この真っ赤なウソが落合莞爾の唱えるプロパガンダのミソです。
堀川政略の要諦は皇統の抹殺&粉飾にあります。
主権国家を換骨奪胎して家畜にする手立てとして、
まず国家元首の血統を根絶するというのが世界支配層のセオリーです。
孝明天皇が弑逆されたように西太后もまた暗殺されのです。



(落合莞爾続き)
江戸幕末が光格帝に始まるとの論が近来盛んで、慶応大学講師竹田恒泰氏も、先年の講演でその事を強調していた。竹田講師の父は竹田恒和日本オリンピック委員会会長で、伏見宮皇統から出た。
ここからが、私(落合)が仄聞した学校歴史にない★秘史である。何時の頃からか詳らかでないが、この国の支配層の間では、開国に向けての工程とそれに伴う次代の政体の探究が始まり、その実行のために皇統の入れ替えを図った。


引用者注 
皇統の入れ替えではなく抹殺です。
但ししその時期は19世紀半ば以降であって、
以下落合莞爾が列挙する人物たちには毫も関係ないことです。



(落合莞爾続き)
皇統の変改はこの上もない重大事であるから、関係者は極く少数で、同期する関係者たちの第一世代が、光格天皇(一七七九~一八四〇)・関白鷹司政煕(一七六一~一八四一)・将軍徳川家斉(一七七三~一八四一)・薩摩藩主島津重豪(一七四五~一八三三)らである。鷹司政煕は光格帝の叔父に当たるから、禁裏側は親族がペアを組んだものである。幕藩側は、家斉の叔母・一橋保姫が重豪の正室で、家斉の正室が重豪の娘という間柄で、これも縁戚のペアである。巷説では、家斉側に頼まれた重豪が将軍・家治の世子家基を暗殺して家斉の将軍就任を導いたというほど親密度の高い仲であった。

光格天皇、鷹司正煕、徳川家斉、島津重豪が皇統の入れ替えをしたという。関係者の二世代目は、孝明帝(一八三一~一八六六)・関白鷹司政通(一七八九~一八六八)将軍家茂(一七四六~一八六六)・福岡藩主黒田長溥(一八一一~一八八七)である。孝明帝は光格帝の孫で、関白政通は政煕の子だから、二人は又従兄弟のペアである。また将軍家茂は家斉の孫、黒田長煕は重豪の実子であるから、幕藩側もペアである。この中で、孝明帝の妹で家茂の正室になった和宮親子内親王(一八四六~一八七七)が触媒の役割得を果たす。

右の二世代にわたる関係者が、皇統の変改を核とする幕末維新の仕上げをしたと仄聞するのだが、詳細を語るほどの情報をまだ得ていない。ともかく公認史実と異なる事実は、 
① 孝明帝は慶応二年には崩御されず、維新後も御生存。
② 孝明帝の御子は、維新後も生きて堀川御所に住んだ。
③ 和宮は明治十年には薨去されず、その後も御生存。
④ 家茂も慶応二年には薨去していない。
以上が真相ということであるが、これには和宮の家茂への降嫁と東京遷都が深く関係しているらしい。


引用者注
①真っ赤なウソ
②真っ赤なウソ
③分かりません。
④ウソでしょうと書いたのは保留にします。
家茂の死はタイミングが良すぎるので暗殺だと思っていましたが、
紀州徳川宗家の一代目として温存された可能性があります。


 

(落合莞爾)
鳥羽伏見の戦いの後、江戸城における評定で新政府軍に対する交戦継続を主張して罷免された小栗は、三野村に米国亡命を勧められたが応じず、勘定奉行を辞任して領地の下野国・権田村に隠遁した。慶応四(一八六八)年、無血開城の江戸城に入った官軍は、例のインサイダー取引による莫大な利益を知っていたから、城内の金蔵が空なのは小栗が隠匿したと判断し、小栗が大量の荷駄を赤城山に運びこむのも目撃されていたから、直ちに派兵して小栗を捕え、厳しく吟味するが結局解明できず、小栗ら三人を斬首した。真相は、この利益金は秘かに京都西本願寺に運ばれ、孝明帝に献金されて公武合体基金となったと聞くが、無論大老井伊直弼の発意であろう。幕末開国に向けた工作も既に最終段階に達していたから、この孝明基金は王政復古ではなく、明治以後の国事に充てられることとなった。


引用者注 
落合莞爾によると、小栗上野介は斬首されなかった、
生きて渡米して活躍したそうですが、
小栗上野介は有能な幕臣であったからこそ、
斬首はされなかったかも知れませんが、
いずれ知り過ぎた男として抹殺されたと思います。
生きて渡米したというのはないでしょう。



(落合莞爾続き)
●疑史 第75回-2    
 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(2)
 閑院宮皇統から出た光格帝の血筋が、維新後京都の堀川御所に潜んで成した子孫を仮に京都皇統と呼ぶが、その一人が堀川辰吉郎である。


引用者注 
白洲次郎の場合を見ても分かるように、
世界支配層が家畜のカポーの『血統』を交配させるやり口には、
或る一定の法則があります。
混血させ両親から引き離して養育させます。
おそらく堀川辰吉郎もブレンドされているでしょう。
もちろん皇統の血は一滴も入っていません。



(落合莞爾続き)
井上馨の兄重倉の戸籍に入ったため明治二十四年生まれとされている辰吉郎の実際の生年は明治十三年らしい。辰吉郎七歳の時、同じく孝明帝の孫でいとこに当る松下トヨノが堀川御所で生まれ、これを機に辰吉郎は福岡の玄洋社に預けられたと聞くから、戸籍では明治二十四年とされている松下トヨノも、実際の生年は明治二十年ということになる。


引用者注 
松下トヨノは堀川辰吉郎とはいとこでも何でもありません



(落合莞爾続き)
明治天皇東遷の陰で、秘かに堀川御所を造営して孝明帝の子女を匿ったのは如何なる意図に出たものか。禁裏関係筋から、いまだに「聖地は本来富士山を西から見る土地であるべきもの」とか「今の東京城は行在所に過ぎぬ」との言を聞くが、ことほど左様に禁裏側は、維新政府の必要から行われた皇居東遷を心中歓迎していなかったらしい。或いは、皇居東遷が、西南雄藩と倒幕派公卿の連立政府の成立を意味するからであろうか。ともかく堀川戦略は、御所建春門外に在った学習所(京都学習院)が目指した公武合体理念が尊皇倒幕思想に置き換わる新事態に対応するためのもので、孝明帝を中心に公武合体派が、京都に堀川御所を秘かに造営して閑院宮皇統を残す「堀川戦略」を立てたものと思われる。


引用者注
「公武合体理念が尊王攘夷に置換される新事態発生」
というのも堀川政略のシナリオ通りなら、
そのドサクサで孝明天皇を弑逆して幼帝を擁立する、
というのも堀川政略のシナリオ通りで、
その幼帝を抹殺して皇統を根絶するのもまた、
堀川政略のシナリオ通りなのです。


日本という国家を丸ごと改造して家畜化する―
これが堀川政略の根幹にあります。
このグロい謀略方式を創案したのは世界支配層ですが、
それに乗っかった徳川宗家のグロさもまた格別のものと言えるでしょう。


あるいは徳川宗家の施政方針―
百姓は殺さぬように生かさぬように 
百姓と胡麻の油は搾れば搾るほどよく取れる 
民は知らしむべからず依らしむべし―
これを究極まで純化させた方式が堀川政略である、
いう言い方もできるやもしれません。






京都御苑内(発掘された公家町 閑院宮邸跡)
http://www.youtube.com/watch?v=zDyQLz0fn4k
黒川眞澄さんがアップロード


(以下転載)
閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、1710年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部のこの場所に屋敷を構えました。
(引用者注 つまり閑院宮家は徳川幕府によって創立されたやんごとなき『血統』なのでございます。)
創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいことは判っていません。明治2年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が一段落した明治16年、宮内省京都支庁が設置されています。第2次世界大戦後の昭和24年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のちに環境庁の京都御苑管理事務所などに使用されていました。

平成15年度から3ヶ年掛けて全面的な改修と周辺整備が行われ、平成18年3月に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示品・解説を備えた収納展示室と庭園などを開放しています。この閑院宮邸は、宮家創立後から明治10年まで、明治天皇が東京に移られてからも、公家町では唯一建物が存続しており、色々な用途に使用されて来ました。
(引用者注 徳川宗家が色々な用途に使用して参りました。)

歴史的な価値が高い、この宮邸跡を保存し、公家屋敷としての面影を遺す建物と庭園を活用するため、平成18年から一般公開されています。敷地面積は、約9500平方mあり、東側には正門があり、左右に築地塀が繋がっています。

(以上転載)



(落合莞爾続き)
堀川戦略の中心人物が、維新政府の高官として宮中改革を進めた★吉井友実、西郷隆盛、大久保利通の薩摩三傑であることは確かである。就中自らこれに処したのが吉井で、各省の卿を歴任して当然の身ながら進んで宮内省に入り、官歴をほとんど局長級で終始して中々次官にさえ就かなかったのは、姿勢を屈めて明治宮城の護持に専念していたのである。吉井と相携えたのが実質閑院宮の鷹司家から入った★徳大寺実則で、実弟が西園寺公望と住友友純であるから隠然政財界に通じていたが、宮内卿兼侍従長として明治天皇に常侍し、片時も傍らを離れなかった。長州人では、辰吉郎の戸籍上の叔父となった★井上馨で、公武合体資金や玄洋社への炭田払下げなど各所に、堀川戦略に関与したフシが窺える。


引用者注
俗に薩摩閥、長州閥といいますが、
これもよく出来た二元対立のプロパガンダです。
こんなものは幻です。

フルベッキ群像写真に写っている人々は、
所詮中央のやんごとなきお方のための添え物に過ぎません。
明治『維新』ってこういうヤラセだったんだぜ~~
と種明かしするために群像写真に収まっているだけでしょう。
311のネタとして使うために。
フルベッキ群像写真のイカガワシイ『鑑定』をした斎藤充功と、
落合莞爾が仲良くつるんでいる所以です。

考えても見てください。
こんな証拠写真をわざわざ残すこと自体がオカシイ。
証拠写真の被写体になっていること自体が、
彼らの身上を物語って余りあります。
彼らは道具として使われた挙句、
一部の優秀なものは『姦徒誅鋤』されていったのです。



(落合莞爾続き)
公武合体を理念的基盤とする堀川戦略の財務的基盤は、前月稿で述べた小栗上野介の公武合体資金であるから、当然ながら徳川氏側にも関与者がいた。まず将軍家茂の側近であった★勝海舟で、西郷・大久保ら薩人とも昵懇で、維新後は家定未亡人・天璋院と誼を通じて旧幕臣の要となり、明治海軍増強のための資金供給に携わった。今一人は一橋家旧家臣で、井上馨の後援下に実業界に対する資金供給を担当した「実業王」★渋沢栄一であった。(引用者注 澁澤龍彦のご先祖様です)


引用者注 
小栗上野介の公武合体資金=皇統を抹殺して徳川宗家の血統に入れ替える謀略資金。 
徳川宗家の皇統乗っ取りに幕臣が関与するのは至極当然のことであり、
その乗っ取り資金として公武合体資金なる名目が掲げられ、
有能な小栗上野介に先導を務めさせたのでしょう



●疑史 第76回              評論家・落合莞爾
 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(3)
教科書史観では孝明帝は強烈な攘夷論者とされているが、事実は程遠く天皇は内心堀田の意図したごとき漸進的開国を望んでおられた。この真実を世にまげて伝えたのは、列参事件を美化せんとする攘夷派公家の子孫らが図ったものであろう。


引用者注 
真実を世にまげて伝えているのは落合莞爾本人です。
孝明天皇が漸進的開国論者だったとしたら、
会津若松藩と新撰組は一体何をさせられていたのでしょうか。
斬られまくっていた長州藩士って何でしょう? 



●疑史 第77回  堀川辰吉郎と閑院宮皇統(4)    
評論家・落合莞爾 
江戸幕末に生じた諸々の現象の根底に横たわる対立は三点あった、①開国の是非、②幕藩体制の存廃、⑤皇統の南北論これである。そのうち最大の対立点は、実は皇統の南北論であったが、下記の「堀川政略」が奏功し、奇跡的な円滑さで南朝復元が実現する。その真相を、朝廷も明治新政府も厳重に隠蔽したのは、「万世一系思想」の通俗的理解に捉われ、ないしは迎合したからであろう。爾来百四十四年、インターネット社会が到来して偽史隠蔽はもはや無理となり、真相を探究し公開する事業が私(落合)に託されたのである。


引用者注 
堀川政略によって南朝は根絶しています。
落合莞爾は徳川宗家の本拠地で紀州文化振興会を率いて、
堀川政略なるカルト教義を広めることに腐心しています。
いかにも徳川宗家の味方のフリをしていますが、
この御仁が堀川政略を吹聴するようになった時期に注意してください。


まさに徳川宗家の実権が失墜したであろう311直後のことです。
落合莞爾に“使命”を自覚させた『さる筋のお方』というのは、
徳川宗家ではなく世界支配層であり、
徳川宗家が奴隷国家のカポーとして君臨する期間も定めています。


太田龍によると明治『維新』がなった当初、
公家の『占断』として次のように予告されているそうです。


「最初の天皇は金帝、次の天皇は銀帝、その次の天皇は銅帝、最期の天皇は泥帝」
つまり明治天皇は金、大正天皇は銀、昭和天皇は銅、平成天皇に至って泥に帰すと。



(落合莞爾続き)
曰く、開国の是非よりも幕藩体制の有無よりも最大の対立点が南北朝論である。落合莞爾に託されたのはこの最大の論点がクリアされたことを公開することである。偽史隠蔽はひとえに「万世一系」の通俗的理解に捉われ迎合した結果である。


引用者注
落合莞爾のこの論建ては、
大野芳『天皇家の暗号 明治維新140年の玉手箱』
の瞞着と通底するものですが、
ただし大野芳は南北朝統一とは言っていません。
南朝革命と言っています。
そして落合莞爾が使っているジョーカー、
殺されたと思っていた関係者が実は全員生きていた、
彼らは地下に潜り堀川政略のために活動していた、
という禁じ手は大野芳には許されていません。



(落合莞爾続き)
皇統の南北交代を目的とする政略の核心は、孝明天皇が崩御を装い皇太子睦仁親王や閑院宮皇統の一部と共に堀川御所に隠棲され、奇兵隊士・大室寅之祐が皇太子と入れ替って明治天皇として即位することであった(先月稿では「堀川戦略」と呼んだが、今後は「堀川政略」と呼ぶ)。「堀川政略」の立案者は孝明天皇以外にはあり得ず近親閑院宮皇統と岩倉具視ら側近公卿がこれを輔翼したのであるおそらく天皇は、外寇の接近と幕藩体制の破綻の迫る中、蒼生に潜在する南朝復元願望が噴出してきた新事態を見抜かれ、救国のために南北朝の合体を図られたものと察せられる。


引用者注 
鬼塚英昭が拡散したプロパガンダ、
『奇兵隊隊士・大室寅之佑』
に私も幻惑されていましたがここではっきりと却下します。


三島由紀夫の『血統』を熟考した結果、
『阿多羅しい古事記』なる与太ブロガーの
―与太ブロガーであることは訂正しません―
『リーク』しているところの
「明治天皇は徳川慶頼の実子で徳川家達の異母兄弟である」
に一票を入れさせていただきます。
ここに改めてお詫びするとともに訂正させていただきます。


徳川宗家は孝明天皇と睦仁親子を抹殺し、
徳川慶頼の子どもに差し替えるよう指示されたのでしょう。
『堀川政略』なるグロい謀略の立案者は世界支配層以外に絶対にあり得ず、
おそらくこの連中が睦仁暗殺にカンデいたのでしょう。


落合莞爾曰く、
皇統の『統一問題』を解決したいから京都と東京に天皇を擁立した。
「蒼生に潜在する南朝復元願望が噴出してきた新事態を見抜かれ、
救国のために南北朝の合体を図られたものと察せられる」


要は「南北朝統一」という辻褄合わせです。
だからそれをコソコソ隠れてやっていた。
孝明天皇は日本の奴隷化のために弑逆され、
南朝は根絶されたものと察せられます。



(落合莞爾続き)
当初は公武合体を期しておられた孝明天皇が側近と「堀川政略」を謀られたのは、仄聞するに学習所が開講した弘化四年(一八四七)で、嘉永五年(一八五二)ころに六条堀川の日蓮宗本圀寺の境内に秘密御所を営む計画が立てられた。すなわち、将来の開国に伴う皇室の東遷に備えて、閑院宮皇統を京都に残すための施設「堀川御所」である。その後、社会の根本的改革のためには政体の抜本的改変が必要と判断された天皇が、幕藩体制の破棄を決断されたのは安政五年(一八五八)前後のことで、同期して皇妹和宮の降嫁および幕末通貨問題が生じた。「堀川政略」の骨子は南北皇統の入れ替えで、崩御を装った孝明天皇と皇太子睦仁親王が堀川御所に隠棲し、皇太子と入れ替えた長州藩奇兵隊士大室寅之祐を東京に遷し、次代天皇(明治天皇)として即位させるものであった。


引用者注 
クドイまでに堀川政略の宣伝をくりかえしています。
カルト教義を刷り込むためでしょう。



(落合莞爾続き)
予定の皇女富貴宮が夭折したため、皇妹和宮が新たに降嫁候補に挙げられたが、有栖川宮との先約のために縁談は難航する。そこで和宮の代わりに候補となったのは生まれたばかりの壽萬宮で、岩倉具視の実妹堀河紀子を母とする正に「堀川政略」の申し子であったが、余りにも若過ぎるため幕府の強い希望で和宮に決定した。その萬壽宮を、翌文久元年(一八六一)に夭折したと装い、秘かに堀川御所で育てたのも、「堀川政略」の一環である。 天皇義弟となった将軍家茂は、「堀川政略」を理解してあらゆる努力をした。天皇の偽装崩御に合わせて、自らも大坂城で脚気急死を装ったのである。


引用者注 
こうやって全部ゾンビにして生き返らせるのが堀川政略のミソです。



(落合莞爾続き)
万延元年(一八六〇)一月、条約調印と通貨交渉のために、新見豊前守を正使とする幕府使節が出発したが、その四日後、天保小判一両を三・三七五両に通用させる増歩令が出され、四月には万延小判(雛小判)が新規発行される。小栗忠順は遣米使節に目付として同行するが、これに先立ち、元中間の三野村利左衛門に命じて、秘かに天保小判を買占めさせた。三月三日に井伊大老を暗殺した水戸浪士が、井伊の罪状の第二条として小判買占めの私曲を掲げたが、取り調べの結果、「上のために行った」と判り、井伊に咎めはなかった。

大老の命令で買占めを実行した小栗は、利益金を隠匿したために、慶応四年(一八六八)官軍の命を受けた高崎藩・吉井藩らの藩兵のために斬首された。小栗は利益金を赤城山に埋蔵したと偽装して、秘かに京に送り、本願寺に保管して「堀川政略」の基金としたのである。これだけの大事を悠々実行した小栗忠順が、雑兵の手に徒死する筈もなく、姓名を変えて再び渡米し、明治史に残る一大事を成すのであるが、其れは後日に述べる。(引用者注 斬首はされなかったかも知れませんが、知り過ぎた有能な人材はいずれ『姦徒誅鋤』される運命にあったことでしょう)

つらつら思うに、治承寿永の乱と言い、幕末維新の変乱と言い、実態は想像を超えた大計画の下に諸事が運ばれた一大リストラ戦争であった。計画した中心人物は、自らの死を以て世間を欺隔する必要があったが、実際に死ぬ必要はないから生き延びた。平家の公達は固より、孝明天皇・睦仁親王・壽萬宮・徳川家茂・小栗忠順らは皆それである。

   ●疑史 第78回 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(5)
 評論家落合莞爾
以後の朝廷は、公武合体と勤皇倒幕の間を揺れながら維新に向かうが、その中心に孝明が端然と座し閑院宮皇統を従え岩倉具視ら側近公家を用いて「堀川政略」を進めていたことを洞察し得ず、左右からの風圧に靡く葦なぞと見做していては、歴史は解けない。慶応二年十二月二十五日、孝明崩御の場所は御所ではなく、堀河紀子邸とされる。四年前に宮中退出と掌侍辞職を命ぜられて霊鑑寺の尼僧となった筈の紀子が、孝明天皇の御幸を待つために秘かに構えた私邸である。その「紀子邸に住んでいた孝明の二人の幼い姫宮が、孝明暗殺の数日前に堀河家に移された」との説(宮崎鉄雄『明治維新の生贅』)が、壽萬宮と理宮が生存していた傍証となる。

孝明の死因は、表向き天然痘とされるが、当時から暗殺の噂が立ち、死因として毒殺説と刺殺説が挙げられた。昭和十五年、大阪学士会の講演で毒殺説を立てた医事史家佐伯理一郎博士は、宮中侍医伊良子光順の日誌を解読した結論として、「天皇が痘術に罹患した機会を捉え、岩倉具視が堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」と断言し、「岩倉の姪(?)で、霊鑑寺に尼僧をしていた当の婦人から聞いた」と付け加えた。一方刺殺説は、寵姫私邸の便所に潜んだ長州藩の刺客伊藤博文が、槍で刺殺したと謂うもので、急遽現場に喚ばれて診察した複数の外科医の証言を掲げて、謀主を岩倉具視と指摘する。『中山忠能日記』にも「御九穴より御脱血」と、刺殺を仄めかす記載があり、その他の風聞や間接証拠も世上に多く、いつまでも決着がつかない。


引用者注 
伊藤博文による便所での『刺殺説』について訂正させていただきます。
松本重治『上海時代』には次のような記述があります。


同盟通信社上海支局でお仕事に精励していた松本重治が、
非常に懇意にしていたジャーデイン・マセソン商会のケジャック兄弟から、
彼らの祖父ウイリアム・ケジャックについての『伝説』を聞かされます。


とある夕暮れの横浜、祖父ウイリアム・ケジャックは、
長州の若者たちが行き暮れているのに行き合い、
彼らの意気に感じて渡英の労を取ってあげました。
そういう『伝説』をケジャック兄弟から直かに聞いたと。


所謂『長州ファイブ都市伝説』の種明かしを知るに及んで、
私は伊藤博文極悪人説に付和雷同した不明を恥じるとともに、
ここにお詫びして撤回するものです。



(落合莞爾続き)
実はこれも「堀川政略」の一環で、孝明の生存を隠蔽するために関係者が故意に虚報を流布したのである。まず天然痘説は無論虚報で、状況も造りものである。毒殺説は、犯人とされる岩倉兄妹自らが流布したもので、刺殺説の『中山忠能日記』などもその伝である。内科・外科の医師数人が招かれた現場は作り物で、死体はむろん替え玉であった。医者の証言は騙されて行なった偽証であるが、佐伯博士に対する紀子の証言のごときは故意の偽証である。毒殺説と刺殺説の両方を流したのは、論争を招いて決着を付かなくするための、極めて巧妙な手口と見て良い。後人見事にこれに嵌められ、両説激しく論争するが、孝明生存の真相を見抜いたものは今まで本稿以外にない。


引用者注
「孝明天皇が実は生存していた」
「孝明天皇は実は攘夷論者ではなかった」
という後出しジャンケンで押しまくるのが堀川政略の特長です。
これなら何でもやれます。
その一方では、
満州帝国の麻薬専売制や台湾統治の麻薬漸減政策の欺瞞には、
一切触れないで済ましています。





以上で落合莞爾『堀川政略』再検証を終わります。





余談ですが、私は落合莞爾の風貌を眺めてているとなぜか須磨弥吉郎を想起します。駐スペイン大使の時に、「天皇のスパイ」ことベラスコをスカウトした人物です。



  2009・8

東京『皇室』のプロパガンダ



この御仁が中国大使をしていた時に、『西安事件』が起きています。須磨弥吉郎は事前に、『西安』事件が起きることもそれがヤラセであることも知らされています。そういう記述が彼の回想記の中に出てきます。


蒋介石は世界支配層の支援で1927年に『南京政府』を作って以来、トモダチ大日本帝国と手を携えて中国人を殺戮しまくってきましたが、『西安事件』が起こされるや『国境合作』して『抗日統一戦線』に路線変更します。そしてトモダチ大日本帝国とトモダチ共産党とともに『日中全面戦争』へと突入していきます。(これは中国共産党を誹謗するものではありません。ごく限られた一握りの上層部の人間だけがトモダチで、それ以外は常に人的資源として消耗在として使われています)


南京大虐殺は暴行や虐殺の有無その多寡を論うばかりで、この南京政府の本質には言及しません。トモダチ蒋介石に『南京政府』を作らせることによって、トモダチ大日本帝国に紫禁城を攻撃しないで済む口実を与えた訳には絶対に触れないように、その周辺で喧々諤々やっているだけです。



そういうシナリオモセオリーも熟知する立場にあるのが須真弥吉郎であり、須真弥吉郎のトモダチ松方幸次郎(松方正義の三男)であり、松方幸次郎の身内の婿松本重治なのです。当時松本重治は聯合通信社の上海支局にいて、いち早く『西安事件』をスクープし、一躍世界に有名を馳せます。松本重治はジャーデイン・マセソン商会のケジャック兄弟と懇意で、ロイターの上海支局長チャンセラーとも誼を通じ、白人様専用の『上海クラブ』に出入りしてお互いに情報交換していますが、こういう身内情報も豊富だったわけです。


ところで松方幸次郎は、目を剥くような豪華な松方コレクションの持ち主として有名です。やはり印象派の画家の豪華なコレクションを持っていたのが白洲文平。元々はさほど高価なものではなかった印象派のコレクションが、世界支配層が付加価値をつけたことにより『豪華』なものになったのです。ゴッホなんかキチガイ沙汰の値段で、清朝美術品の用途と同じく、換金目的のコレクションにされてしまった観があります。


須磨弥吉郎はまた、FBIの二重スパイといわれている寺崎英成ともトモダチです。『真珠湾湾騙し討ち』の演出に協力した寺崎英成は、戦後になると東京『皇室』の御用掛となって、東京裁判対策のために国際検察局に『情報』を流し続けます。


寺崎英成は兄の太郎ともども、吉田茂のコネクションでもあります(つまり白洲次郎のコネクションということです)。吉田茂の養父・健三はジャーデイン・マセソン商会の横浜支店長。その吉田茂のお気に入りが松本重治です。そして、マセソン商会のケデイック兄弟が来日すると定宿にするのが松本重治の自宅です。


ある特定の人々があらゆるシーンで繋がっているのが分かります。世界支配層に隷従するトモダチの輪です。彼らにとって戦前、戦中、戦後は連続線上にある『出来事』に過ぎません。


松本重治の聞書によると、松方一族には一人一人にコード番号をつけた『東海会』なる組織が存在しているそうです。一例として日活の社長松方乙彦(松方正義の八男)の場合を見てみますと、戦前ハーバード大学に留学した際に、学内寮にいたフランクリン・D・ルーズベルトに『田中メモリアル』の存在を印象づけ、そのために大統領になったFDRが最初にやったことは日本を仮想敵国にした『オレンジ計画』を練り直すことだった・・・・という『エピソード』を実地に演じています。


戦後、『知日家』エドウイン・ライシャワーと結婚したハルもまた、この松方一族の『東海会』に属しています。上海で謀略放送を続けていた松本重治も、第二次世界大戦の一年前にはきっちり帰国して、戦争が終わるまで『病床』に伏せていましたが、戦後は俄然元気になって、『国際文化会館』設立に奔走したり、あるいは鳩山一郎にカレルギーの「友愛主義」を翻訳させたり、八面六臂の活動を開始しています。まさに『オールド・リベラリスト』の面目躍如といったところでしょう。


この『オールド・リベラリスト』の系譜に連なるのが、我らが三島由紀夫を世界周遊の旅に送り出した嘉治隆一です。神戸一中の先輩として松本重治から尊敬の眼差しを浴び、白洲次郎のコネクションの一人として朝日新聞で『お仕事』に励んでいたお方です。








以下、訂正とお詫びです。


当ブログは鬼塚英昭の田布施王朝プロパガンダを却下すると共に、
田布施村の大室家にまるわるすべてのプロパガンダも却下します。
今後は、東京『皇室』の『血統』は田布施村とはまったく無関係、
という立場を取ります。



定義 徳川宗家

東京『皇室』と京都『皇統』のジンテーゼとして存在している。
東京『皇室』と京都『皇統』は水戸徳川と尾張徳川を本体とする。
両者を統括する立場にあったのが紀州徳川家を本体とする徳川宗家である。




下記写真説明

左端=いわゆる『明治天皇』 中央・右端=徳川慶頼
中央の修正していない貴重な徳川慶頼の写真は、
「母を訪ねて3000円・・・」様より拝借しました。




    


田布施村とは無関係だったお方     お父上     似せるために若干修正したお父上 





追記

徳川宗家と世界支配層の関係から、白洲次郎は徳川宗家の上にいることが分かります。
よって、吉田茂と昭和天皇を白洲次郎と松本重治の上に置いた私の過去記事は、
かなりパースペクテイヴが狂っています。ここに訂正してお詫びします。
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