先週、某全国紙の社説を読んでいて慄然としました。「こんなこと言いだしたら、代議制民主主義は崩壊する!」って。

 その社説は、安保法制の参議院特別委員会の裁決に際して、「発言するもの多く、議場騒然、聴取不能」とされていた速記録に、議事録を扱う最終権限者である委員長の職権で「質疑を終局した後、いずれも可決すべきものと決定した」と書き加えたことについて、「なかったこと」を「あったことに」にできると厳しく批判しています。これは一部の市民グループなどが「委員会の議決は成立していない」などと抗議しているのに歩調を合わせた論ですが、はっきり言って、この主張はムチャクチャです。

 こんなことを言いだしたら、どんな会議でも、いざ議決という段になって少数の反対派が大声を上げて議長の声を聞けなくしたら、あらゆる議案を潰すことができてしまいます。

 今回の特別委員会での採決の際に、まず委員長を守ろうと議長席に殺到したのは確かに与党議員でしたが、その前に議場にピケを張って議事進行を暴力で妨げたのは間違いなく野党議員でしたし、覚えきれないほど長い法案の名前を記した文書を議長から奪い取ろうとするなど、議長を守らなければ暴力で採決が阻止される状況だったのは、誰が見ても明らかです。幸い一連の動きはリアルタイムで全国中継されていて、全国民がその状況を目の当たりにできる状況でしたからね。

 あの時の与野党の議席差、党議拘束によって議員の投票行動が規定される慣習などから、議案の可決は疑いようがなく、その点で委員長の権限で書き加えられた文言は、客観的に見て、参院特別委員会室で起きたことに合致しています。

 念のために言っておきますが、私は限定的な集団的自衛権の行使には賛成ですが、それを憲法解釈の変更だけでやろうとするのは結構「無理筋」だろうと考えています。でもね、法案に反対だからと言って、「議論が平行線をたどった時には最後は多数決で結論を出す」というプロセスを否定していたら、民主主義は成立しません。

 採決を暴力で潰すことを肯定するかのような主張を堂々とする某新聞は、いったいこの国をどこに連れて行こうとしてるんでしょうか?((株)大阪綜合研究所代表・辛坊 治郎)

 

 

(社説)安保と議事録 歴史検証に堪えられぬ

2015年10月17日05時00分 朝日新聞

 集団的自衛権の行使を可能にする安保法制の成立から1カ月。参院特別委員会での採決のプロセスが、いかに日本の民主主義に汚点を残したか。公開された参院の議事録から、改めて見えてくる。

 「発言する者多く、議場騒然、聴取不能」

 採決直後の速記録は、鴻池祥肇委員長が可決を宣言したとする際のさまをこう記してログイン前の続きいた。

 しかし、このほど参院のホームページで公開された議事録には、鴻池氏の判断で「質疑を終局した後、いずれも可決すべきものと決定した」「なお、両案について附帯(ふたい)決議を行った」などの文言が追加されている。

 野党が「与党だけで文書を作り上げたのは前代未聞」(民主党の岡田代表)として、作成過程を検証するよう参院事務総長に申し入れたのは当然だろう。

 議事録をあつかう最終権限は委員長にある。だとしても、このようなやり方が通用するなら、「なかったこと」を、事後的に「あったこと」にできることにならないか。

 議事録は国会審議の公式記録だ。それなのに、この議事録を読んでも可決が「賛成多数」か「全会一致」か、付帯決議はどの会派が提出したのか、どのような内容なのかもわからない。

 戦後日本の一大転換となる一幕が、歴史的検証の素材たり得ない。後の世代に対する責任放棄と言われても仕方がない。議事録はいったん白紙に戻し、記録の内容について与野党で協議し直すべきだ。

 問題はこれだけではない。横浜市であった地方公聴会の報告をしないまま、公聴会の翌日、委員会採決が行われた。

 公聴会に対しては採決に向けた「通過儀礼」と化しているとの指摘もある。しかし本来は、利害関係者や学識経験者から意見を聴き、法案審査に生かすためにある。参院先例録は、派遣された委員が、その結果を「口頭または文書で委員会に報告する」と定めている。

 公述人から「公聴会への派遣は委員45人中20人。報告がされなければ、公聴会の内容が共有されない」「公聴会が本当のセレモニーになってしまう」と抗議の声が上がっている。重く受け止める必要がある。

 最後は多数決で決める。それが議会制民主主義の一面であるのはその通りだ。

 だが、その根幹は異論や反論にも耳を傾け、議論をする、そのプロセスにこそある。

 民主的なプロセスを軽んじる政治は、民主的に選ばれたはずの自らの基盤を弱くする。

 

 

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