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ペルーのマチュピチュ村 福島・大玉村と友好都市に10月27日 6時44分
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南米ペルーの世界遺産「マチュピチュ」で、福島県大玉村とマチュピチュ村の関係者が式典を開き、友好都市協定を結びました。マチュピチュ村が友好都市協定を結んだのは世界で、大玉村が初めてです。
式典は、ペルーにあるインカ帝国時代の遺跡で世界遺産のマチュピチュで、日本時間の27日未明から行われました。
福島県大玉村とマチュピチュ村の双方から合わせて100人余りが出席し、友好都市の協定書を交わしました。
マチュピチュ村には、世界各地の自治体から友好都市協定を結ぼうという申し込みが寄せられているということですが、大玉村出身でペルーに移住した故・野内与吉さんが、昭和20年代にマチュピチュ村の村長を務めた縁で、初めての友好都市の相手に大玉村を選んだということです。
野内さんは、川の水を利用した水力発電で村に電気をもたらしたほか、土砂災害からの復興に手腕を発揮するなど、村の発展に尽くしたということです。
マチュピチュ村のガヨーソ村長は「およそ100年前にペルーに来た野内さんがマチュピチュ村の村長になり、大玉村との深い絆を築いたのです」と話していました。
式典に出席した大玉村の押山利一村長は「何年もかけて準備してきて、遺跡の真ん中に立って調印できて感無量です。道のりは遠ければ遠いほど喜びも大きいと言うが、皆さまもそう思ってくれていると思う。ここで野内さんが活動していたことを実感できました」と話していました。
福島県大玉村とマチュピチュ村の双方から合わせて100人余りが出席し、友好都市の協定書を交わしました。
マチュピチュ村には、世界各地の自治体から友好都市協定を結ぼうという申し込みが寄せられているということですが、大玉村出身でペルーに移住した故・野内与吉さんが、昭和20年代にマチュピチュ村の村長を務めた縁で、初めての友好都市の相手に大玉村を選んだということです。
野内さんは、川の水を利用した水力発電で村に電気をもたらしたほか、土砂災害からの復興に手腕を発揮するなど、村の発展に尽くしたということです。
マチュピチュ村のガヨーソ村長は「およそ100年前にペルーに来た野内さんがマチュピチュ村の村長になり、大玉村との深い絆を築いたのです」と話していました。
式典に出席した大玉村の押山利一村長は「何年もかけて準備してきて、遺跡の真ん中に立って調印できて感無量です。道のりは遠ければ遠いほど喜びも大きいと言うが、皆さまもそう思ってくれていると思う。ここで野内さんが活動していたことを実感できました」と話していました。
野内与吉さんとマチュピチュ村
野内与吉さんは明治28年、福島県大玉村の裕福な農家に生まれました。海外で成功したいという夢を抱いて、日本が中南米で最初に外交関係を結んだ国、ペルーに渡ったのは21歳の時。大正6年1月に移民船で横浜港から出港し、3月にペルーに到着しました。
野内さんは農園で1年間働いたあと、ブラジルやボリビアなどを放浪し、ペルーに戻って大正12年ごろからペルーの国営鉄道で働きます。マチュピチュに鉄道が通った昭和4年ごろからマチュピチュで暮らし始め、川から水を引いて畑を作ったり水力発電で地域に電気をもたらしたりしました。また、温泉を発見したと伝えられています。
昭和10年には、当時は珍しかった本格的な木造建築のホテルを建て、郵便局や交番などとして部屋を無償で貸し出し、この建物を中心に地域が発展していきます。そして昭和16年にマチュピチュ村が誕生。
川が氾濫してマチュピチュ村が土砂災害にみまわれると、野内さんは昭和23年、日本人でありながらマチュピチュ村の村長に任命され復興に手腕を発揮します。
野内さんは昭和43年、52年ぶりに大玉村に里帰りし、マチュピチュの遺跡に関する講演会を開くなど、大玉村の人々にもペルーの魅力を伝えていたといいます。
親族が日本に残るよう説得したものの、子どもたちを残しているからとペルーに戻り、昭和44年8月、マチュピチュの玄関口にあたる町クスコで、波乱万丈の生涯を閉じました。
74歳でした。
野内さんは農園で1年間働いたあと、ブラジルやボリビアなどを放浪し、ペルーに戻って大正12年ごろからペルーの国営鉄道で働きます。マチュピチュに鉄道が通った昭和4年ごろからマチュピチュで暮らし始め、川から水を引いて畑を作ったり水力発電で地域に電気をもたらしたりしました。また、温泉を発見したと伝えられています。
昭和10年には、当時は珍しかった本格的な木造建築のホテルを建て、郵便局や交番などとして部屋を無償で貸し出し、この建物を中心に地域が発展していきます。そして昭和16年にマチュピチュ村が誕生。
川が氾濫してマチュピチュ村が土砂災害にみまわれると、野内さんは昭和23年、日本人でありながらマチュピチュ村の村長に任命され復興に手腕を発揮します。
野内さんは昭和43年、52年ぶりに大玉村に里帰りし、マチュピチュの遺跡に関する講演会を開くなど、大玉村の人々にもペルーの魅力を伝えていたといいます。
親族が日本に残るよう説得したものの、子どもたちを残しているからとペルーに戻り、昭和44年8月、マチュピチュの玄関口にあたる町クスコで、波乱万丈の生涯を閉じました。
74歳でした。