それは、ぼくが「嫌いな」意見を取り上げていました。
大学3年生のとき、フォーラムに参加したときのこと、
ある教授が登壇し、終了後、その内容について意見交換に行ったのでした。
「先生の紹介してくれたこの論点について、
この論者とこの論者では対立していますよね、
ぼくはこっちの論者は、捉え方がおかしいように思います」
なるほど、なるほど、と、その先生はだいぶ耳を傾けて聞いてくれていました。
そしてそのとき教授の言ったことばが、ぼくの考え方を180度変えたように思います。
頭良さそうに見せた感情論
「どういう点で、ですか?」
教授が質問してきたので、じぶんの意見を説明してみた。
「そうですね、これこれこういう点で、です」
うんうんと聞いた後で
「あなたは、そのあなたの反対する論者の論文なり、書籍っていうのは、けっこう読みましたか?」
「読んだ、と思います。
ただ、やっぱり読んでいて、内容があまりにもじぶんからは理解しがたくて
そこまでしっかりは、正直なところ、読んではいないです……」
なるほど、そうですか。
先生が言うと
「たしかに、あなたの意見は鋭い、とは思います」
と前置きした上で
「私たち研究者はとくにそうですが、ちょっと聞き入れがたいこととか、
じぶんとは反対の立場の人とか、そういう人の意見をしっかり聞くべきですよ。
実際、じぶんの意見の行き詰まりを越えるには、じぶんとは真逆だったり、じぶんが絶対に手をつけないだろうところにあったりしますよ」
そう言って、教授はその論者の、ぼくが拾え切れていなかった意見を教えてくれた。
「一般的な議論を拾えてはいますけど、この点についてはまだ深く突っ込めていないんじゃないですか?」
それを聞いて、はあと感心するばかりで。
「この意見をきちんと組み込めば、だいぶ解決が見えると思いません?」
そう言われて自分の考えていることの前がパアッと明るくなった気がした。
「自分が手を伸ばしやすい意見を深く聞いているだけでは、
たとえ言っていることが論理的に見えたとしても、感情論の枠をこえられないと、私は思います」
そうですね、と言うしかない。
「私もね、前は避けてたんです、その人の議論。
なんだか強烈なことしか言ってないなあ、いやだなあって。
けど今は読んだからこそ深みが出たと思います。
がんばって」
そう言って、最後、その教授はぼくのちょっとうなだれる背中を押してくれた。
石を投げつけたくなる向こう岸に、求めるものはある
ピータン / akiraak2
その件を後日友だちに言ったら
「じぶんが石を投げたくなるような人の意見こそ聞け、みたいな話だね」
とうまいことを言ってくれた。
気にくわない人には触れたくもないから
フォローを外す。
意見は読まない聞かない。
もしも
ぼくらが論理的なことだけを言うためだけのゲームをしているのなら、
たぶん、ぼくのように反対側の意見なんて聞かないで済ませてもいいと思うんです。
「正解」を見つけたいなら、たぶんそれが正解。
けど、
じぶんの見たい世界だけで論理的で、正しいだろうことをわめいていたところで
それは何にも動かしたことにはならない。
世の中にたくさんいる人たちの「間」でベストな解決を目指すなら
じぶんとは反対側にいるひとの意見を深く知ることで、その間が見つかる。
そしてそれが「最適解」と言われるものだと思って。
石を投げたいような相手だからと、無視をしていたら
無視と無視がすれ違うだけで、結局何もおこっていないことに近い。
じぶんが無視していたら、無視されて、ことが進められるだけ。
「じぶんが石を投げたくなるような人の意見こそ聞け、みたいな話だね」
と友だちは言ったけれども、
石を投げたくなろうが、なんだろうが、
その向こうに、じぶんが見つけたいことが少しばかりでもあると分かれば
石を投げてる暇はないんだと、きづいたんです。
それは、とてもストレスのあることなのだけども。
一瞬のストレスを避けて、ずっと無視され続けるのか。
***
いやだなとおもったとき。
そんなときこそじぶんに声をかける。
深く知ろう。
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