撮影/山田秀隆
撮影/山田秀隆
1990年代に「接吻」「プライマル」「朝日のあたる道」などのヒットを飛ばしたオリジナル・ラブ。音楽アーティストにお話をうかがう新連載「MUSIC TALK」、第2回は田島貴男さんのインタビューをお届けする。音楽にのめりこんだ少年時代、そして90年代を振り返っていただいた。(文・中津海麻子)
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――どんな音楽少年だったのですか?
母親がエルビス・プレスリーやザ・ビートルズが好きだった影響で、海外のロックは小さいころから聴いていました。そんな中、神戸で暮らしていた中学1年のとき、輸入盤のレコード屋で流れていたミュージックビデオで、当時ロンドンで大きなムーブメントを起こしたパンク、ニューウェーブという音楽を知りました。「なんだこりゃ!?」ってものすごい衝撃でしたね。
ザ・クラッシュ、ザ・ジャム、セックス・ピストルズ解散後にジョン・ライドンが結成したパブリック・イメージ・リミテッド……よく聴きました。特にP.I.L.の音楽は耳に痛々しくて攻撃的で、居心地が悪い。聴き手を拒否するような冷たい音楽だったけれど、音もレコードジャケットも含め、すべてがアーティスティックでかっこいいと思いました。
あのころは洋楽の情報がほとんどなく、ロンドンの若者たちの間で何が起こっているのかよくわからなかった。全貌が見えないからこそ、惹かれたのかもしれません。初めてギターを買って曲を作り始めたのも、中1のころ。よく作った曲を母親に聴いてもらってました(笑)。もう自信たっぷりで、「これ全米ヒットチャートで1位取っちゃうんじゃね?」なんて思ってましたよ(笑)。
中学3年で福島県郡山市に引っ越すと、洋楽、ましてやパンクやニューウェーブを聴く人は周りにいなかった。ところが、その2年後に東北新幹線が開通。郡山の街は華やかになり、輸入盤のレコード屋もできました。あるとき、郡山にある日大工学部のイベントを見に行くと、ひとりでテクノみたいな音楽をやっている人がいて、「話が合うかな?」と声をかけてみた。すぐに意気投合し、高校時代は学校が終わると自転車でその人の家に行き、曲を作ってはカセットテープに録音する、ということをほぼ毎日続けました。ものすごくたくさん曲を作ったなぁ。郡山にライブハウスもできたので、その人とライブ活動もしましたね。
――大学入学で上京されました。
受験勉強で半年ぐらい音楽から離れたから、大学生になって曲が作れるのがうれしくてしょうがなかったですね。毎日家で録音し、曲をまとめたアルバムも年に1、2枚作って友だちに聴いてもらいました。それに興味を持ってくれた一人が「この曲をやるバンドをやろうよ」と声をかけてくれて、「レッド・カーテン」という4人組のバンドを結成しました。
とにかく東京の有名ライブハウスでやりたくて、デモテープ片手に売り込みしてまわるんですが、全然相手にされない。あのころの僕は、マッシュルームカットのひょろっと背が高い怪しいヤツだったし、なにも実績がないから信用されなかったですね。
そんな中、渋谷に今もある老舗ライブハウス「ラ・ママ」だけは20万円で貸し切りならいいよと言ってくれました。でも当時はお金がなかったから、ひやひやでしたね。大学はもちろん、街行く人にもチケットを手売りし、60~70枚自分一人で売りました。で、蓋を開けてみたら大入り満員で、なんと黒字に! すごくうれしかったですね。これがきっかけで、ラ・ママや他のライブハウスでも次々とブッキングしてもらえるようになりました。
大学時代の87年ごろから、ヒップホップなどの新しい音楽が台頭してきて、パンクやニューウェーブがだんだん色あせて見えるようになりました。それまで曲作りの指針としていたものが違う気がしてきて、自分がどういう音楽を作っていったらいいのか分からなくなった。そのとき、ジャンルを超え、時代を超えて残っていく「普遍的なポップス」こそ、音楽として自分が目指すものなんじゃないかと思ったんです。そして、そういう音楽を作ってみたい、と。それを機に、バンド名を「オリジナル・ラブ」にしました。
――ライブハウスやレコードショップなど、渋谷を中心とした街から発信される形で若い世代から高く支持され、91年にメジャーデビューします。そのころをどう振り返りますか?
当時の日本の音楽シーンは、ロックバンドもどこかしら歌謡曲的なテイストを曲に盛り込まなければヒットしない、そんな風潮がありました。でも僕らは洋楽しか聴いてこなかったこともあって、純粋に洋楽的なエッセンスや雰囲気を持った音楽をやれていた。パンク以降の流れから派生したネオ・アコをそのまま体現できているのは、自分たちだけだという自負もありました。その後、フリッパーズ・ギターなどが出てきたけれど、僕らのそういった洋楽的な音楽が海外のシーンとリンクしていたことが、洋楽好きにも邦楽好きにも新鮮に響いたのではないかと思います。
一方、そのころから逆に日本のポップスやロック、歌謡曲を少しずつ聴くようになり、その歌詞をよく読むようになりました。それまで僕は日本の音楽をそれほど聴いていなくて、ロンドン、アメリカと同じ動きの中で音楽をやっているつもりだった。同時に、日本でも同じクオリティーの音楽を作り、届けるには、自分が最高だと思える音楽が「分かる人たちだけに分かる、趣味的でマニアックなもの」ではなく、メジャーになってこそ、大衆化してこそなんだ」という思いが強くあった。日本のポップスの歌詞をよく読むようになったのは、そのためです。
そしてセカンドアルバムぐらいから、サウンドは洋楽的でありながら日本語で歌う曲が形になりはじめて、「珍しい」と受け入れられたことが支持につながったんじゃないかな。
――具体的にはどんな日本語の勉強を?
歌謡曲の時代の作詞家さんの歌詞をよく読みました。特に好きだったのは阿久悠さん。阿久さんの詞には、ものすごくはっきりとした物語性と、日本人の心に響く情感や色気がある。僕は、黒人音楽のようなセクシーな詞が書きたかった。当時の自分の心情やムードを反映しつつも、阿久さんの歌詞の書き方を参考にして書いたのが「接吻」です。この曲を収録した「サニーサイド・オブ・オリジナル・ラブ」というベスト盤が予想を超えて売れ、その直後の94年にリリースした「風の歌を聴け」が初のオリコン1位になりました。
――90年代の日本の音楽シーンの変化を、渦中にいてどのように感じていたのでしょうか?
海外でリアルタイムに起こっている動きに日本の若いミュージシャンたちが瞬時に反応し、その影響を受けて作った音楽が日本で流行る状況ができてきた。輸入盤のレコード屋がたくさんでき、海外の様々な音楽が日本にも入ってきて、雑誌もどんどん出版された。90年代は、情報の密度、伝達速度、その価値が一気に上がった時代だったと思います。そして、ポップスが曲調を歌謡曲っぽくしなくてもヒットするようになった。ただ残念なのは、そういった一連の動きに「渋谷系」っていう呼び名がついたために、日本化というか、一時代化してしまったような気がすることです。
「接吻」という曲は、当時はミリオンセラーにならなかったけど、その後いろんな人に歌い継がれて、20年以上経ってもみなさんに歌われるロングランヒットになった。正直、ここまで「もつ歌」になるとは、僕も周囲も予測できなかったですね。
この曲によって、僕は渋谷系というレッテルを飛び越えることができた気がしています。
(後編は10月29日配信予定です)
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田島貴男(たじま・たかお)
1966年東京生まれ。86年大学在学中に「レッド・カーテン」を結成。87年バンド名を「オリジナル・ラブ」に変更、88年にデビュー。並行して、ピチカート・ファイヴで活動していた時期もある。91年、アルバム『LOVE! LOVE! & LOVE! 』でメジャーデビュー。その後「接吻」「プライマル」といったヒットシングルを生んだ。この6月に通算17枚目のアルバム『ラヴァーマン』をリリース。10月から12月まで全国をまわる「ひとりソウル・ツアー2015を敢行中。
「ひとりソウル・ツアー2015」日程はこちら
オリジナル・ラブ公式サイト:http://originallove.com/
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