ようやっと終わりが見えてきました、川上量生さん監修『角川インターネット講座4 ネットが生んだ文化 誰もが表現者の時代』の章別感想記事も、7本目でございます。
第6章の筆者は、山田奨治さん。国際日本文化研究センターの教授にして、知的所有権の研究をしている情報学者。著書に『日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか』などがあります。
『日本文化にみるコピペのルール』と題された本章は、“コピペ”の字が指し示すように、ネット上での著作権の扱いについて紐解いた内容――かと思いきや、時を遡ることおよそ900年。古くからの詩歌文化における「本歌取」を起点として、“オリジナル”と“n次創作”の関係性を読み取るような展開となっておりました。まさかのタイムスリップ。
日本文化におけるコピペの原点「本歌取」
時は13世紀。日本の伝統的なコピペ文化として筆者がまず挙げているのが、和歌の技法のひとつ「本歌取」だ。この技法が完成されたのが12世紀末〜13世紀初頭のころに編纂された『新古今和歌集』であると、筆者は説明している。
和歌・連歌などで、古歌の語句・趣向などを取り入れて作歌すること。新古今時代に盛んに行われた。
「駒とめて 袖うちはらふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮」
(藤原定家)
この歌の本歌となっているのが、長忌寸奥麻呂の「苦しくも 降り来る雨か みわのさき 佐野のわたりに 家もあらなくに」。同じ“佐野のわたり”を舞台にしていながら、定家の歌からは奥麻呂のもの以上の叙情が感じられるとして、高く評価されるに至ったとのことだ。
素人目に見れば特に問題がないようにも思えるが、当時の歌人にとって定家の歌は、誰が見てもほぼ間違いなく奥麻呂の歌を思い浮かべるようなものであったらしい。
その共通の文脈としてあったのが、この歌が『万葉集』に収録されているものであるという点。誰もが読んでいる歌集に登場する印象的な句であるために、歌人でさえあればすぐにその“元ネタ”を思い描くことができた。なればこそ、その“アレンジ”の素晴らしさを讃えたのであろう。
一口に言えば、定家の本歌取は、優れた“パロディ”である。単なる剽窃ではなく、悪質なパクりでもなく、誰もがそれを“アレンジ”であると判断できる文脈を持っていながら、しかも“元ネタ”とは異なる、あるいはそれ以上の質を備えた別作品。
本歌取が技法として機能する条件、それは本歌があるのかないのか、どの歌が本歌なのかを、歌を鑑賞するひとが知っていることである。過去に作られた膨大な和歌の蓄えがあり、それが和歌を楽しむ者に共有され、それをアレンジして新しい作品を付け加えていく、そういう共同作業が本歌取という営みなのだ。
既存の作品に敬意を払いつつ、自分独自の表現や主張を織り交ぜて再構成する技法は、詩歌に留まらずさまざまな文化・芸術に見られるもの。ただ、それを現代日本の「コピペ」になぞらえた場合、遡った先にあるのはこの「本歌取」なのではないか、と筆者は書いている。
開かれたインターネットと、閉ざされたコミュニティのローカルルール
本章では、本歌取に続いて、最初の句=発句を起点として幾重にも“n次創作”が連なっていく「連歌」の存在とそのルール、近世では、浮世絵の模倣文化などを取り上げている。
どちらも自分にとっては馴染みの薄いカルチャーでありながら、特に芭蕉の俳諧における類似句の考え方(等類・同巣)などはおもしろく読んでいたのだけれど、問題となっている部分は明らかに共通しているように読める。
ざっくりとまとめれば、「限定的な文化圏でのローカルルール」。
「本歌取」ならば、元ネタとなる歌の存在が詩歌界隈で共有されているという前提があった。浮世絵であれば、模倣それ自体が共有された文化であり、同時代の人気絵師の真似をすることによって次々と新たな表現・流行が登場してきた。
それらは外部から見れば「よくわからない」ものだし、なかには現代の著作権に明らかに違反している行為もあるが、その文化圏においては「当たり前のルール」として認められているものでもあった。そこではコピペですら「文化」を構成する一要素であり、外部から批判される言われもなかった。
ところが、現代日本ではそうもいかない。インターネットは世界に向かって開かれており、リアルであれば全く交わることのない文化・人間同士が出会ってもなんら不思議ではない。
そこで外から来た人が、「よくわからないけどおもしろそう」と感じるだけで済めばまだ良いが、「いや、それはおかしいだろう」と火種をもたらすことも往々にしてある。内部では当然のルールであっても、外部からはその常識がわからない。目に見えないローカルルールや文脈は数知れず、それによって起こる衝突も珍しくはない。
最近だと、こちらがその“衝突”に該当するのではないかしら。美大の卒業制作の作風が既存作品に酷似しているとして、槍玉に挙げられた。ちょうど東京五輪のエンブレム問題が加熱していたこともあって、一部サイトで取り上げられて批判を集めることになりました。
本件に関しては「これは明らかにパロディだろう」という意見も多く、一部の人間が煽り立てていただけのように見えなくもない。美術分野の“ローカル”を知らない人があれこれツッコんだことに加えて、制作に至った背景・文脈が削ぎ落とされて画像だけが出回ったこともあり、騒動になったという印象です。
日本文化にみられるコピペは、クローズドな創作共同体内でのルールにしたがって行われていた。インターネットはいうまでもなく世界に開かれているので、そこでの一般的なルール、すなわち自分の住む国とサーバーのある国の法律がどうなっているのかの知識は欠かせない。しかしネットのなかにできているコミュニティには、開放性と閉鎖性を兼ね備えたセミクローズドなものも多く、そこでのローカル・ルールを知っておく必要もあろう。つまり、そのコミュニティでの共通理解が何であるのか、コピペに対してどのくらい寛容なのか、といったことの見極めが、ネットでの情報発信者には求められる。
インターネットには、いくつもの「文脈」がある。全世界的に共有されているルールなんてものは「人としてやってはいけないことは避けるべき」くらいのものであり、国ごとに法律があり、地域ごとにルールがあり、文化ごとに独自のマナーやスラングがある。
もちろん、大前提としての「法律」の存在は意識しなければならないだろう。しかし、だからと言ってコミュニティやカルチャーごとに存在するローカルルールを看過することはできないし、法的に曖昧な部分を外部から切り込んで全否定するのも得策とは思えない。実際、日本のネットコンテンツについて著作権まわりの考え方を見ると、「部分的許容」「暗黙の了解」がかなり多いように見える*1。
多種多彩な文化が織り交ざるインターネットで何かを論じるのであれば、どうしても一面的ではいられない。自分の価値観に照らし合わせて批判するのは自由だが、全くの無知のまま全否定するのは考えもの。最低限、文化の根底を流れる文脈は把握しておきたい。
俳諧・浮世絵がそうであり、ポップカルチャーもそうであったように、法を遵守しながらも独自の文化を尊重し、「良いコピペ」と付き合っていきたいものでございます。もちろん、「悪いコピペ」はダメよ。
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『角川インターネット講座4』感想記事(敬称略)
- 序章/川上量生:『ネットがつくった文化圏』
- 1章/ばるぼら:『日本のネットカルチャー史』
- 2章/佐々木俊尚:『ネットの言論空間形成』
- 3章/小野ほりでい:『リア充対非リアの不毛な戦い』
- 4章/荻上チキ:『炎上の構造』
- 5章/伊藤昌亮:『祭りと血祭り』
- 6章/山田奨治:【本記事】
- 7章/仲正昌樹:『リア充/非リア充の構造』
*1:そのために文化全体が問題視されている一面もあり、「グレーゾーンを減らすべき」という論調も認められて当然かと。