今夏、93歳で亡くなった鶴見俊輔さんには、戦後を代表する知識人として、「哲学者」「思想家」と一口では言えないスケールの大きさがありました。独特の立ち位置からの発言、思想、行動の軌跡を、今こそ読み返したいものです。
■恵文社一乗寺店・能邨陽子さんに聞く
(1)限界芸術論 [著]鶴見俊輔
(2)わたしが外人だったころ [著]鶴見俊輔 [絵]佐々木マキ絵
(3)セミナーシリーズ 鶴見俊輔と囲んで [聞き手]鶴見俊輔ほか
(4)身ぶりとしての抵抗 [著]鶴見俊輔 [編]黒川創
■戦争とは、自分とは、問う
能邨(のむら)さんが、まず選んだのは、(1)『限界芸術論』。鶴見俊輔は、「非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される」芸術を「限界芸術」(マージナルアート)と命名した。それは民謡、祭り、漫才、カルタ、落書きといった「人間の営みの中で自然発生的に生まれ、暮らしの中にとけ込んだ、民衆による第三の芸術」(能邨さん)。柳田国男、柳宗悦、宮沢賢治、黒岩涙香らの仕事や生涯をたどりながら、多彩な限界芸術を紹介している。
「民衆の内からわき起こる芸術の芽生えが自分にも根づいているような感覚を呼び起こされる」と能邨さん。一見ガラクタに思えるものに宿る芸術を浮かびあがらせ、芸術とは何かという根源的な問いの答えを見いだそうとする意欲はすさまじい。
「『限界芸術』という広大な海を泳ぐ鶴見さんの肺活量、追究する力の強さに圧倒される名著です」
(2)『わたしが外人だったころ』は、ハーバード大在学中に太平洋戦争が勃発し、交換船で日本に帰国、南方で従軍した戦争体験を描いた絵本だ。戦争を通じ、自分とは何かという、これまた根源的な問いにさらされた著者の実体験が、子どもたちに向けて、まっすぐに語られる。
鶴見は「戦争が終わるときは負ける側にいたい」という思いで交換船に乗った。「独自の『フェアネス』を感じさせる言葉です。ベ平連の活動についての言葉もそうですが、この潔さこそが思想家鶴見俊輔を貫く基本なのでは」と能邨さん。
晩年の鶴見は、京都の編集グループSUREと多くの仕事をした。そこで制作された全5巻の(3)『セミナーシリーズ 鶴見俊輔と囲んで』は、テーマごとにメインの語り手を呼び、鶴見と若いメンバーが囲んで論じ合うシンプルな構成だ。
車座になって、時に脱線しつつ、一つのテーマを真摯(しんし)に語り合う。「孔子の時代の学問の風景とも重なる。鶴見俊輔という牽引(けんいん)役が引き出してこそ起こり得た現象です」。購入はSURE(電話075・761・2391)で。
記者のお薦めは(4)『身ぶりとしての抵抗』。様々な社会行動に関わった鶴見の思考の軌跡をまとめたアンソロジーだ。60年安保闘争では、鶴見は市民運動「声なき声の会」のデモに参加、労組や政党の運動方針が学生たちを孤立させたことを批判した。日記をまとめた「いくつもの太鼓のあいだにもっと見事な調和を」(60年)は鶴見が現場でどう動き、何を考えたかを示す貴重な記録だ。
「すわりこみまで」(66年)では、戦争に反対しようにも「指一本あがらなかった」戦時中の記憶に立ち返り、こう言う。「しゃべること以上のところにふみだすことが、しゃべることを保つためにも必要だ」
今、その言葉はなんと生き生きと響くことか。まず、身ぶりから始めることが大切なのだ。
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■(聴くなら)インドネシアの民族音楽「ガムラン」
その旋律が、精霊の心音を聞いたかのように魂の奥深くにまで響き、忘れがたくなった音楽が、鶴見俊輔さんにはあった。インドネシアの民族音楽、ガムランだ。
戦中、海軍軍属に志願した鶴見さんはインドネシアのジャワ島へ派遣された。任務は、司令官が敵国の情報を知るための新聞づくりだった。インドやオーストラリアなどからのラジオ放送を毎晩、聞いてニュースを書きとめ、翌朝、翻訳して記事を書いていたのだ。
真夜中、ラジオを聞く合間にベランダに出ると、かなたの村々からガムランが聞こえてきた。
戦線離脱の願いを募らせた、その音楽が伝えたものは、「永遠の停滞」だった。戦争を原動力とした近代文明の進歩など、どうでもよくなり、人類はこの世界から退場すべきだとまで思わせた。
鶴見さんは生涯、ガムランを、「人類の終末後の音楽」として聞いていたのだった。
写真のCDは「ジャワの宮廷ガムラン3」(ワーナーミュージック・ジャパン、972円)(龍)