2015年10月25日

虚栄と臆病。


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サラの周りにいる(いた?)人たちは、私に感謝しなければならない。
何故なら、私はサラをずっと救ってきたからだ。
私の店にたどり着いた時、サラの心は深く傷ついていた。 (もう5年半以上前になる)
みんなが長いことずっと、サラのことを無関心に放置していたからだ。
サラはその寂しさに耐え切れず、倒れるようにして私の店にやって来た。
そしてサラは、私によって救われた。


サラの周りにいた人たちは、サラのことを平気で傷つけていた。
要らない荷物は、いつも必ずサラに押し付け、持たせていた。
サラをぼろ雑巾のように、ゴミ箱のように扱った。
人を踏みつけにしても、たとえその人が泣いていても、知らんぷりをする汚い奴らばかりだ。
サラが踏みつけにされるのを笑って見ていたそいつらのことを、私はきちんと知っている。
そいつらは、サラのことをいつも馬鹿呼ばわりした。


サラは自分を犠牲にして人のために尽くせる、愛情深い、本当に立派な人だ。
だから、いつもそうやってずっと人に尽くしてきた。
彼女は自分の優しさ (愛) が、必ず人のためになると思っていた。
だが、それが当たり前だとサラを利用してきた人たちは、もう少し自分たちの醜さを知る必要があると私は思う。
でももう遅い。
サラは、私がいただくからだ。


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私はサラを救っている。
ただ私だけが、それをしていると思う。
私に言わせれば、サラを本当に愛している人など、サラの周りには誰一人いない。
私は、その全てをずっとクールに見てきた。
私の持っている不思議なアンテナで、全てを感じ取ってきた。
私に言わせれば、サラの周りにいる人たちは、サラに対する感謝が足りない。
だからサラを癒すこともできない。
本当に弱い、ズルい、卑怯な、醜い人たちばかりだ。


多分みな、サラを愛してはいるのだろう。
だがそのレベルは、全くお子ちゃまであり、笑える。
なぜなら、行動がないからだ。
行動がなければ何を言っても、結局は責任感がない、つまりは愛がない偽善者であり、卑怯者ということになる。
そいつらは、いつもこうやってサラに泥をかぶせ続けてきた。
サラが逃げられないことをいいことに。
人の弱みにつけ込む奴ら…。
勿論その先頭は、ゴミ屋敷の住人(王子様?)だ。
そして、そいつを隠れ蓑(みの)にして、のさばっている生意気な奴らが何人かいる。
だが、行動のない、勇気のない、愛のない奴らは永遠におとなしくしててもらうしかない。


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その人たちには、私が何をしてるのかさえも、全く見えてはいないはずだ。
見るつもりがないからだ。
都合の悪いことには、いつもフタをする奴らだ。
人のこと、つまり自分のことを愛せないのだから、それも仕方がない。
そうやって、いつも格好つけて、気取って、そして泣いていればいい。


サラの言葉は、決してエゴ(個我)の言葉ではない。
サラにはエゴはないからだ。
サラの声は、宇宙の声であり、神の声だ。
だから、サラのことを癒すことのできない人たちは、自分を癒すこともできない。
神の声、つまり自分のハイヤーセルフに耳を傾けれない人たちは、永遠に救われない。
糸の切れた凧(たこ)のようなものだ。
どこに飛んでいくのかさえ、全く分からない。


虚栄を抱えている奴らは、その虚栄で自分の首を絞める。
臆病者は、いつも決して何もできない。
人を救うことも、自分を救うことも。
だが、私にはそんな言い訳は通じない。
何故なら、私は既にそれらの修行を、全て完璧に終えた身だからだ。
そんな奴らの抱えている世界 (虚栄や臆病) は、私にはちゃんちゃらおかしい。
場合によっては、そこにいる全ての奴らに、きちんと私は決着をつけるつもりだ。



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2015年10月24日

心根の美しさと崇高な道。


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本当の自分、自分の本音を愛するということ。
何があっても、何がなくても、たとえ何かを失ったとしても。
人にどう言われようと、思われようと。
世の中がどうであろうと。

私にはサラがいる。
そして、サラにも勿論私がいる。
男性性、女性性の違いはあるが、私たち二人は、互いにある一定の修行を終えた者同士だ。
それは、人に尽くす修行であり、自分のエゴ(個我)を打ち破る戦いだった。

だが、私たちは何十年にもわたりずっとその修行に忙しくて(必死で)、自分の周りにあるものや、自分の周りにいる人たちのことには、全く無頓着だった。
でも、それをいいことに、私たちを利用した人たちがいた。
多分、私たちを見下し、馬鹿にしていたのだろう。
でも、それは私たちの問題ではない。
あくまで、その人たちの問題だ。
私たちは、その人たちの意図の影響は、全く受けなかった。
いつだって影響を受けるのは、ただ自分が自分に与えるものだけだからだ。



人には、なかなか私たち二人の人生の歩み、その真剣さは分からないだろう。
この世で選んでいること、実践していることが、人とは明らかに違う。
でもいいんだ。
どうあれ私たちは、もう既にその修行を完璧に終えた身だ。

私は、人生に一番大切なのは、「 心根 (こころね) の美しさ 」だと思っている。
それさえあれば、必ず美しい人生を築き上げれるからだ。
だから、私はサラのことが大好きだ。
私は、ただ自分の心根の美しさを守りながら、人生を生き抜いてきた。
そのためには、たとえどんなものだろうと、全てを差し出し、捧げた。
何かに自分の魂を売ること、汚すことは、決してしなかった。
そして、サラも私と全く同じだ。



出会ってすぐに、サラが私に言ったある言葉がある。
それは、「 崇高な道を歩めば必ず守られる 」というものだった。
そして私は、「 そうだね。 私もいつもそう信じているよ… 」と答えた。
常にどんな時でも潔く全てを差し出し、捧げながら、崇高な道を歩んできた私たち二人だった。
互いに、本当に大した者たちであり、本当にアッパレだと思う。
でも、その道は、私たち二人にはどうしても譲れない、必然の道だった。
魂がその歩みを求めていたからだ。
決めていたからだ。

だから、自分自身と違う道には、常に完璧に決着をつけたいと思う。
「愛のない人には、きちんと見切りをつける」 ということを、彼女はずっと私の店で、私から本当に恐ろしいくらいに真剣に学んだはずだ。
彼女は、私の店を 「 道場 」 と呼んだ。
魂を鍛錬する、厳しくも美しい、神聖な場所という意味だ。
そして私は、いつも抜かりなく、100%実践する私の姿を、彼女にこれでもかと言うくらい繰り返し完璧に見せ続けた。

そして、それを求め、学んできた彼女の魂も、本当に恐ろしいくらいに崇高であり本物だった。
勿論そんなことは、私の魂には、初めから分かっていたことだ。
だから私は、サラを自分の弟子にした。
そして、今も変わらずに彼女を鍛えてもいる。
だからサラは、必ず自分の手で、宇宙から完璧な「 合格 (卒業) 証書 」を受け取るはずだ。



心根の美しさと崇高な道…。 
そんなこと言っても、誰にもわからないだろうけどね。
でも、サラにはそれが分かる。
何もない(持っていない)ということは、逆に言えば、「 何も持たなくても全然平気だ 」ということだ。
つまり私たちは、既に(初めから)怖れというものを超えている(超えていた)ということだ。
だからいつも、誰もついて来ない(来れない)。
潔いということは、本当に清々(すがすが)しく、ホッとして、ワクワクするものだ。
いつも素敵な、爽やかな風を浴びることができるからだ…。



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2015年10月23日

フォトアルバム。2015年10月


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何年も通い続けて、もう第二の故郷になった感がありますね。 わーい(嬉しい顔)
大好きな街です。
そして、今年もとても大切な訪問となりました…。 ハートたち(複数ハート)



 
posted by John at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | フォトアルバム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月22日

「自分を愛すること」 と、「幸せ」というもの。


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(写真と文章は全く関係ありません)


楽しいことに夢中だと、周りが何も見えなくなる奴がいる。
だから、そいつは、すっかり浦島太郎になっていた。
でも、全てが自分のせいだ。
そいつは、人の気持ちを全く無視ししてここまで来た。
人を利用し、犠牲にしていたことも、残念だが全く気付かなかった。


馬鹿な奴。
ダサい奴。
恥ずかしい奴。
困った奴。
笑える奴。


そいつは、ここまで来なければ、全く気づけなかった。
笑うに笑えない。
でも、この責任は大きい。
感謝知らずだから、身の程知らずだから、お子ちゃまだからこうなる。
身から出た錆(さび)とは言え、この代償は大きい。


私は、サラを傷付ける奴は、絶対に許さない。
どうあれそいつは、サラに愛を注がず、利用し、放置し、踏みつけにした。
でも私に言わせれば、サラは普通の人ではないからここまでやってきた。
サラが人に尽くす魂は、本当に並み外れているのだ。
でも、そいつがその上に胡坐(あぐら)をかいたのは、事実だ。


私は決して、そんな馬鹿なことなどしない。
人の犠牲の上に、自分の幸せなど築かない。
そんなのは幸せでも何でもないからだ。
自分を正しく生かす道こそが幸せだ。


人の幸せを祈らない奴が何を言っても、私はそれを認めない。
人の幸せと自分の幸せは一体だからだ。
でも、人の幸せをきちんと祈るのなら、その人は必ず幸せになるだろう。
そしてそれは、勿論私の望むとろこでもある。



posted by John at 06:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 私のスピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月21日

サヨナラCOLOR。


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(写真と文章は関係ありません)



これまで、本当に沢山の人にサヨナラしてきた。
迎えに行ってもその人にその気がなかったり、ぶら下がられたり、噛みつかれたりしたから。
シンクロしない関係は、もうご免だ。
波動 (周波数) の違う人とは、全く分かり合えない。
私は人の問題を解決したり、誰かを変えるために生まれてきたのではない。
私が人に左右される限り、人は私を支配することを学ぶだろう。
そして私は、人を変えたり批判したりすることを、自分自身に生きないことの言い訳にすることもできない。
私は私に生きるしかない。


この歌を聴いたのは、もう随分と昔のことだ。
「サヨナラから始まることが、たくさんある…」
当時、断捨離(だんしゃり)好きの私には、ピッタリの歌だと思った。 (笑)
でも、それから随分と長い年月が経って、今はもうこの歌詞のような痛みも全く感じない。
人を躊躇(ちゅうちょ)なくナイフでバッサリと切り落とすようなことにも、もう充分に慣れすぎてしまった。
それも仕方がない。
人の面倒をみることは、もうしない。
フォーカスすべきは常に自分の本音なのだと、苦しみながらも本当に何度も真剣に学んだからだ。



「 サヨナラCOLOR(カラー) 」  by ハナレグミ & 忌野清志郎 (いまわの きよしろう)
https://www.youtube.com/watch?v=uVCUTpkFqhY


「サヨナラCOLOR」 は、SUPER BUTTER DOG の曲。 (詞・曲:永積 (ながづみ) タカシ)
2001年10月リリースの2001年盤と、2005年7月リリースの2005年盤が有る。
ボーカルの永積タカシ氏は、2008年9月のバンド解散後、一人で「ハナレグミ」として今も活躍しています…!



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2015年10月20日

援護射撃。 (好きなことを言わせてもらう)


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(写真と文章は全く関係ありません。 楽しい写真だからわかるでしょ?)



これらは、決して私のことを書いているのではない。
ただ、これらがしばらくずっと、私の周りに存在していたことは事実だ。
いい歳こいた馬鹿野郎が、お子ちゃまが、今のこの時代にこの世の中に存在していれるということが、私には本当に信じ難い。
でも私は、これらの全てにきちんと決着をつける。
私は閻魔大王 (えんまだいおう) の息子だから。 (笑)



何一つ責任を取らずに人生を生きてきた珍しい奴。
やることと言ったら、自分の好きな格好のいい気取ったことばかりだ。
そうやって、自分の虚栄を満たすために、いつも人を騙しながら、利用しながら、無駄な人生を生きてきたのだろう。
でもそれは結局、自分を騙して生きてきたということだ。

行動が全てだ。
行動が全てを物語っている。
今この状況にあっても、一日一日更に人に迷惑をかけ続けている。
もうとっくの昔に、化けの皮がはがれているのに。
困った奴だ。
とことん幼稚で、お馬鹿な奴。

時間が経てば全てが消えていく、だからしばらくじっとしていよう、いつもそうやって人生を生きてきたのだろう。
どうあっても、自分に酔いしれることしかできない、全く下らない奴。
子供以下。
だからそいつは、今も誰とも(子供とも)人間関係を結べない。
人間ではないからだ。
強さが、人格が、人間が、全く形成されてきていない…。



人の上に胡坐(あぐら)をかく奴。
人を平気で踏みつけにする奴。
簡単に人を利用し、犠牲にし、人の人格を踏みにじる奴。
それを何とも思わない奴。
人を奴隷扱いする奴。

自分以外に、人が生きているとは、全く思ってはいない奴。
人に感情があるなどと、思ってない奴。
いつも必ず人に重たい、汚い荷物を持たせる奴。
人は、喜んでそれを持つものだと思っている一人よがりなお坊っちゃま。
頭の中がお子ちゃまで、無責任と卑怯丸出しな奴。
片付けも、不要なものの処分も、全く、一切、絶対にしない奴。



人の気持ちより、自分のオナニー(例えですよ)がどこまでも大好きな奴。
必要のないもの、興味のないものは、ただ投げ出せばいい、放置すればいいと思っている馬鹿。
肩書きがとにかく大好きな奴。
格好のいいことばかり妄想してる困った奴。
虐(いじ)められるのが大好きな、無邪気な変態 どM 野郎。

感謝を知らない奴。
頭を下げれない奴。
誠実さなど全くない奴。
とことん卑怯な奴。
都合が悪くなると、すぐにスタコラ逃げ出す奴。



愛など全くない奴。
味方のいない奴。
孤独な奴。
金で人を脅し続けた奴。
でももう、その金も底がつきそうな奴。

不潔すぎる奴。
歯がまったくない奴。
水虫など、身体中が細菌に犯されている奴。
立派なお城 (ゴミ屋敷) に住んでいる偉いお方。 (裸の王子様? 敗戦国の捕虜?)
無邪気で可愛らしい、いつも楽しそうな変態君。

身寄りのない奴。
どこのホームにも入れないであろう奴。
全く未来のない奴。
待っているのは孤独死であろう奴。
ざまあ見ろ!な奴。
馬鹿野郎な奴!



白旗を振る勇気もない、誇りも何もない、どうしようもない、救いようのないただの老人。
そんな奴は、正直、死んでしまえ!と私は思っている。
長年踏みつけにしてきた人に対して、自分の命以外で、はたして償いができるものだろうか?
そこで震えているのは、怯えているのは、あのたいそう生意気だった兵隊さん…???

でも、私にとっては、これらのリアルな嫌悪感だって、全く 「So what? それが何か?」 ってな感じだ。
私はいつも、「それが私と、どんな関係があるのか?」 と、繰り返し心の中でアファメーションしているからだ。
そして私は、必ずバランスをとる <バランス王子> だ。 (笑) 



人のことは、全然私のことではない。
私の望むものの実現には、人の馬鹿さ加減、滑稽(こっけい)さ、幼稚さ加減は、全く関係ない。
こんなことばかりしていては、私の生きる目的が見えなくなってしまうから、早く先に行こう。
今日も、全く楽しい日にしようと思っている。
でも勿論、償いはきちんとしてもらうよ。
それが世の中の道理 (すじみち) だからね。

所詮、しょんべん野郎は、どこまでいっても、ただしょんべん臭いだけだ。
今のそいつにできることは、ただ、全てを失った哀れな姿を見せることくらいだろう。
お望みどおり、哀れな人間の結末を、しっかりと眺めさせてもらう。
もうそれも、短時間で終わらせるけどね。
そうそう付き合ってなどいられないから。



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2015年10月19日

君の友だち。


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40年以上も前の曲だけど、メロディラインの美しさが頭から離れない。
詞・曲ともに、本当に素敵な、天下一品の作品だと私は思う。
詞・曲ともに、キャロル・キング(女性)の作品です。

1971年のグラミー賞アルバム「つづれおり(tapestry)」(最優秀アルバム賞他全4賞受賞)の中の一曲で、本曲は最優秀楽曲賞を受賞。
アルバムは、全米アルバムチャートで、15週連続1位を獲得しています。

ジェイムス・テイラー(男性)は、そのアルバムにギターで参加。
また、本曲のカバーで全米ヒットチャート1位を獲得し、グラミー賞でも最優秀男性ポップボーカル賞を受賞しています。

いつもサラは、この曲の通り私の味方でいてくれるし、勿論私も、この曲の通り永遠にサラの味方だ。
二人は、互いにかけがえのない親友であり、シンクロしたソウルメイトであり、人生に大切な、とても愛しいパートナーです。



「 君の友だち 」 ( you've got a friend ) by Carole King and James Taylor
http://www.youtube.com/watch?v=qNQX_0aY0Rg



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2015年10月18日

「トワトモ」 (永遠の友だち)


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(もう何年か前の写真ですね…)



サラは、必死で自分を救おうとしていました。
本当に真剣でした。
そして、彼女は私のことも救おうとしてくれました。
彼女は、自ら私を迎えに来てくれました。
あれからもう、どれくらいの歳月が流れたのでしょうか。
今はもう私は、それも思い出せないくらいです…。


彼女は何も口出しせずに、いつもただじっと私の戦っている、抱えている世界を見つめていました。
いつもいつも、ただ静かな、深い愛を持って見つめてくれました。
彼女は言いました。
「あなたが本当には、愛されていないのなら…」
そして、彼女は私を守り、支えてくれました。


私も同じく、彼女が誰に愛されているのか、誰に愛されていないのかを、ただじっと見つめてきました。
勿論、これからもそうするつもりです。
なぜなら、彼女は私の分身だからです。
私自身だからです。
そして私は、もう既に自分を救い終わっているのです。
今はもう、私には何の問題もないのです。
勿論それは、全てがサラのお陰です。


自分の外側に、自分の分身を、自分自身を出現させるということの意味を、そのすごさを、あなたは知っていますか?



映画 「 リサとガスパール / とびきりキュートなパリの住人 」 予告編 https://www.youtube.com/watch?v=XSB3roRhe1U
(サラの好きなリサとガスパール。 サラは、絵本やぬいぐるみ等、リサとガスパールのグッズを沢山持っていますよ…)



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2015年10月17日

確かに見える世界。


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私はサラに、<バランス王子> と呼ばれている。 (笑)
元々は、店の掲示物や備品等の配置・整列等、空間的な事柄から言われ始めたのだが、今は内面的な世界も含めて言ってくれている。
私の決して一方的な考えに偏らない、極と極を押さえたバランスの良い中立・中道の立場、幅の広さ、柔軟さ、鋭さを、彼女はいつも誉めてくれる。

優しさと厳しさ。
愛情の深さと憎しみ・怒りの強烈さ。
真剣さと大らかさ。
冷たさと温かさ。
優しい表の顔と腹黒いしたたかな裏の顔 ? 等など…。 (笑)



何かを語るときには、私はいつもできるだけ両面を語りたいと思っている。
少なくとも、物事のとらえ方は、一方だけの見方では完全ではないと思っているからだ。
その両面・両極を対比する視点の中に、いつも真実が見えてくるのだと思う。
その客観的な冷静なものの見方が、確かに私のキャパシティ(判断範囲)の広さや、ポテンシャル(対応能力)の高さになっていると思う。

先日触れた3つの価値についてもそうだ。
<美の価値> と <利の価値> と <善の価値> 。
それらのバランスが、とても大切だ。

芸術家(アーティスト、クリエイター、創造主)と、実業家(商売人、社会人)と、宗教家(信仰、スピリチュアル、哲学者、教育者)というバランス。
確かな人生観(生命観・宇宙観)に基づく、個人と社会の開花。
それぞれ得意な分野があっていいと思うし、好き嫌いがあるのは仕方がない。
でも、それらをできるだけバランスよく拡大していくことが、より人生の価値を豊かに生み出し、大きな喜びや感謝、満足や幸せにつながると思う。



そういう意味では、私は自称「スピリチュアルな音楽喫茶」という、一人よがりな (誰も分かってくれない ・ 笑) ヘンテコなカフェをやっていたので、その私の3つの顔に気付いたサラはさすがだ。
ていうか、サラはそのバランスを自らが持っていたからこそ私の姿が見えたし、私の持っている世界に惹かれたのだ。
感じるということは、自分こそがそのような存在なのだ。
見えない人には、残念ながら全く見えないからだ。
シャーマンはシャーマンだけに分かるし、ヒーラーもしかりだ…。

決して、私がサラに何かを伝えたわけではなかったのだが、サラは当時の私のブログを繰り返し読んで、私の中にある「厳しさと優しさ」、「愛と怒り・憎しみ」、「真剣さと大らかさ」等を、読み取ったらしい。
結局彼女は、私のことが、私のお店がどうしても気になり、とうとう私のお店の扉を勇気を出して開けた。
(5年半以上前のことです。ブログの記事は随時消去しているので、それらの記事は今はありません)



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サラは、ただ静かにずっと私のお客さんへの気配りや話しかけ・対応を見つめていた。
勿論、私はサラにも、他のお客さんと何も変わりない対応をした。
そして、彼女はブログで感じていたものを実際の私にも感じ、それに納得したようだ。
そして、結局彼女は私のストーカーになった。 (笑)

彼女は道を求めていたからね。
20年間命を注いだ〇〇会にも力尽き、それからも様々な心理学的なカウンセリングを受けたり、各種の精神的なセミナーにも本当に沢山参加していた。
また、カードリーディング等、将来の道も模索していた。
確かに、彼女が抱えていた過去や当時のこと(家族や自分自身のこと等)の闇は、相当深刻で深かったのだろう。
彼女は、とにかく自分を救う道、生かす道を求めて真剣だった。
だから、私に必死でくらいついてきた。



彼女は、相当のお金も注ぎ込み、カウンセリングやセミナー等のために、東京までも何度も通っていた。
また、普段はスカイプ(テレビ電話)等で、繰り返しカウンセリングを受けていた。
本当にサラは必死だった。
また、更年期の苦しみもあって、婦人科の診療を受けたり、鍼(はり)治療やヨガ教室に通ったりと、店に来た当時の彼女は本当に苦しそうで、大変そうだった。
毎日足湯をして体を温め、「冷えとり」と称して靴下や下着の重ね履きを、これでもかというくらいにしていた。
それは、今も変わらない様子だが。 (笑)

私は医学的なことは分からないが、信仰やスピリチュアル、そして音楽や人生・社会という私の持っている世界なりには、彼女にも全てを注いだ。
また、彼女が店を手伝うようになってからは、彼女は私から、珈琲の淹れ方から料理の仕方(メニュー)まで、また店内の掃除の仕方や人との向き合い方・その姿勢、そして私の人に対する愛情の深さと厳しさの全て等を、本当に一つひとつ真剣に学んだ。
彼女にとって私の店は道場であり、彼女は常に私に頭を下げて、礼を尽くして、私から私の持っている全てを学んだのだ。



彼女が店に来るのは、日中のせいぜい長くても2〜3時間の間だったし、店内が混んでいれば私と実りのある会話を何もすることもできずに帰ることも多かったけれど、それでも彼女は私の顔を眺めに、また他のお客さんとの交流を緊張しながらも楽しみに店にやって来ていた。
店を手伝うようになってからは、ほとんど半年〜1年位で、彼女のことを知らないお客さんは、新しく来る人を除いては誰もいなくなったと思う。
私は、店での彼女に限らず、彼女のこれまでの人生の歩みの全てを心から称賛しているし、彼女という人間を本当に尊敬している。
私もそんな弟子ができて本当に嬉しかったし、それは今も変わらない。

彼女は、ある意味私より歳上で、普段は信頼できる姉のような存在だ。
彼女も、私のことを、ある意味生意気な弟のように思っていると思う。
でも、見つめている < ある道 > に関しては、互いにあるプライドを持ってもいる。
そして、互いにその辺の礼儀(境界線)を決して踏み外さないところが、私たちが互いに真剣に生きている証でもある。



同じ道を求める同志に出会えるということは、本当に嬉しいことだ。
分かるということは、互いに同じものを見つめているからだ。
つまりそれは、互いにそこに手を伸ばしており、既に互いにそういう人間でそこにいるということだ。
見えない人には見えないし、分からない人には全く分からないのだから。
でも、私たち二人に見えている世界、知っている世界が、そこにもここにも確かにあるのです…。



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(右は、サラが店を手伝い始めた4年近く前の正月の写真です。 彼女にとっては、体が冷えて一番大変な時期だったのですが、着物を着て来てくれました)


サラのブログ
http://blogsara.seesaa.net/



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2015年10月16日

選択する世界。


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「 それがあなたと、どんな関係があるのですか? 」


電車を停めて人を待つことばかりしてきた。
でも今回も、もう出発する。
本当に何度もこれを繰り返してきたが、それも仕方がない。
その思考(やるせなさ・寂しさ・期待)の波動に完璧にサヨナラするためには、私にはこれらを繰り返すことが必要だったのだ。

でも、人のことにフォーカスすることはもう完全にやめる。
人のために言い訳してあげることも、イライラして波動を下げることも、たとえ何がどう見えたとしても、全く私自身のためにならないからだ。
私にとってリアルな世界(現実)とは、ただ体験する自分自身だけだ。



リアルな世界以外は、全てが単に幻想・空想であり、そこには何ら実体はない。
あったとしても、私はそれを体験できない。
だから、「人のためには生きない」というのは、どこまでいっても真実だ。
リアルでない世界に振り回されることは、愚かだ。

私はただ、リアルである自分自身にフォーカスするだけだ。
そして、リアルな世界とは、更に言うと選択するものだ。
自分の望むもの、心地良いもの、体験したいもの。
それこそが、本当のリアルな自分の世界だ。
今の自分のコネクションある (つながっている・手を伸ばしている) 世界だ。
自分の望まない世界、心地悪い世界は、今の私にとってはリアルな世界ではなく、全く存在しない世界だ。



そして、私はサラの味方だ。
サラは、決して私自身ではないけれど、私にはサラと共通の望む心地良い世界がある。
それは、私のハイヤーセルフが「こっちへおいで」と私を手招きしている世界だ。
人生で初めて自分の分身だと思った人、それがサラだ。

私はサラのために生きるわけではないし、サラも勿論私のために生きているわけではない。
互いに、人のために泥をかぶろうなどとは、全く思ってはいない。
ただ、それぞれ本当の自分自身に、互いに生きているだけだ。
サラはきちんとそれを知っている。
前に紹介した 「ゲシュタルトの祈り」 の詩の通りだ。

http://bloginmylife.seesaa.net/archives/20150731-1.html
( 7/31 の記事 )



サラとの出会いは、私が引き出した世界だ。
引き寄せているのは私自身であり、私が実現している。
一人ではなく、二人でなければ実現(体験)できない世界がある。
そして、ポジティブな夢(世界)を目指す当事者は一体だ。
だから、ネガティブではない、ポジティブにシンクロしたサラという存在は、まぎれもなく私自身だ。

5年半以上ずっと、サラのことをすぐそばで見てきた。
そして、私は馬鹿ではない。
リアルではない幻想の人たちは、もう私の世界には誰も存在させない。
私の望まない世界、心地良くない世界に振り回されることは、滑稽(こっけい)だ。
私は、ただ自分の望む心地良い世界を見つめ、その波動にエネルギーを注ぐ。
人や周りの様子・状況がどうあろうと、どう見えようと、それらは私が実現しようとする世界とは全く関係ない。



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2015年10月15日

観念。(信念)


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観念(信じてること・信念)は、決して真理ではない。
それは、ただそれを信じている人にとってのみ真実であるにすぎない。
この宇宙(世界)には、真理など何もない。
あるのはただ、「全てが自分の信じる通りになる (ただ自分の出す、その波動の結果を受け取る)」ということだけだ。
それだけが、唯一宇宙の真理だ。
(これもただ私の信じている観念にすぎない。だが私はその信じた結果を、きちんと宇宙から受け取る…)

観念は、いつでも自由に変えられる。
そして、観念を変えると、体験する世界が変わる。
私たちは、意識的だろうと、無意識だろうと、ただ自分の信じているもの、その見方・思考・感情の「波動」を、その結果として受け取っている。
でも、本当はその原因とその結果は、実は同時であり一体だ。
私たちは、便利さゆえに、時間というものを創り出している。
それも観念だ。

無意識に思い込んでいる世界が本当に多い。
だが、それが多ければ多いほど、人は自由さを失う。
自分の観念に、無意識に縛られてしまう。
身動きできなくなり、やりたいことができなくなる。
不可能と思うことが多くなる。
全てが難しくなる。
怖れが生まれ、自分との、宇宙との分離を感じ、ネガティブな感情を生じてしまう。



なぜ、それがないとダメだと思うのですか?
なぜ、それをしないとダメだと思うのですか?
なぜ、それが必要だと思うのですか?
なぜ、それに、その形にこだわる(執着する)のですか?
なぜ、それを、その見方を、その考えを、その感情を手放すことができないのですか?

なぜ、そうなる、そのうちダメになると思うのですか?
なぜ、それを知らなくてはダメだと思うのですか?
なぜ、今ある状況やタイミングを、信頼できないのですか?
なぜ、自分の引き出している現実が、ポジティブなものだと思えないのですか?
なぜ、宇宙が全てをうまく、簡単に解決してくれると思えないのですか?

なぜ、心配するのですか?
なぜ、恐いのですか?
なぜ、怒るのですか?
なぜ、悲しむのですか?
なぜ、絶望するのですか?



全てを、今この瞬間に笑い話にもできる。
現実は、実はとってもやわらかいものだから。
それを固くしているのは、ただ自分なのだ。
自分の観念(信じているもの・信念)がそれを固めているだけだ。

他のポジティブな観念も、いくらでも今自由に取り入れることができる。
でも、私たちは、いつも思い込みという鎖につながれている。
〇〇が必要だ。
〇〇がないとダメだ。
〇〇でなければダメだ。
早くしろ…! (笑)

リラックスしよう。
のんびりしよう。
なぜ急ぐのですか?
なぜ時間がなくなるのでしょう?
時間は永遠です。
時間はありません。 
時間は、自分が創っているだけだ。
長くも、短くも、存在することも、存在しないことも…。



できない、無理だ、難しい、というのも観念だ。
しようと思えば、できると思えば、自分がそれを自分に許せば、それを止めているのは自分以外にないことが分かる。
形(願いの叶い方)にこだわることはやめよう。
全てを自由にしよう、させよう。
その形・こだわりが、自分を不自由にし、苦しめている。

全てを宇宙にまかせ、宇宙を信頼すれば、形にこだわる必要などない。
形にこだわるのは、宇宙のすることに制限をつけてしまうことになる。
宇宙は一番近道を選んで、私たちの望みを実現しようとしているのに。
宇宙のすることに抵抗することになる。
そして、結果的に願いが叶わなくなる。

リラックスして、自然体で両手を広げて、いつでもどこからでも願いが届けられることをのんびり信頼していればいい。
全ては信頼だ。
宇宙を、自分を、今ある全てを信頼し、世界には信頼できないものがないと思えるくらいに、全てを信頼していきたいと思う。



信頼とはリラックスだ。
信頼すると楽ちんだ。
信頼すると体が柔らかくなり、軽くなる。
信頼すると痛みや苦しみがなくなり、病気が治る。
心も広くなり、軽くなり、しまいには心が完全に「無」になってしまう。

その時自分は何も考えていない。
全てが自動運転だ。
全てを、自分の信頼する「今」という流れにまかせていられる。
その時そこにあるのは、ただ幸せの流れだけだ。

心をオープンにしてこだわらないことが、いつも必ず一番いい結果を引き出す。
いつもただ宇宙を信頼しよう。
こだわらないことにワクワクできると、流れに乗れる。
リラックスすると波動が変わり、体験する世界(現実)が変わる…。



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2015年10月14日

人生の価値。


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人生は、決してただ自分のエゴ(個我)を満たすためだけにあるのではない。
勿論それだって、人生にはとても意味のある大切なことだ。
でも、人は全てに対して、美や善という意識も持ち合わせている。
だから、決して醜いものや悪を取り入れてまで自分の欲望を満たそうとは、普通の人は思わないだろう。
それらは、時には犯罪にも成り得るものだ。

少なくとも私は、多分に偏った私個人の価値観を基準とはするのだが、それでも常に醜いものではなくより美しいもの、そして人間関係や社会・世界に対しても、悪ではなくより善なる自分の人生を目指したいと思っている。
人生には、それらのバランスがどうしても必要なのだ。



私は、信仰の師匠(既に亡くなっている)から「価値論」を学んだ。 
カントの価値論(「真・善・美」)ではないよ。
カントの言う真は、認識の対象であって、実は価値ではないのです…。

私が学んだのは、「美・利・善」という価値だ。
価値とは創造するものであり、価値をより大きく創造していくこと(生み出すこと)が人生だと学んだ。

「 真理は不変である。 しかし価値は変わる。 真理は創造することはできない。 価値は創造し得る 」

「 幸福の要素は、すべてが価値の創造である。 人々は日々月々年々にわたって如何なる価値を獲得し、如何なる価値を社会に提供できるか、その為にこそ努力精進しているのが人生の実相である 」

「 幸福なる生活とは、結局は価値を遺憾なく獲得し実現した生活の状態を云うのである。 価値の考察は単に人生の目的観念として必要であるのみならず、不幸の生活を打開して幸福な生活を確立する為に必要である 」



美とは、品性・品格でもあり、人は全てのものごとに対して、常により美しさ・気品を求め、目指しているとも言える。
利とは、損得における利得、つまり物心両面(体と心)にわたる喜び・満足のことだ。
そして、善とは勿論悪に対して言うものだ。
人生とは、仕事や人間関係など生活の全てにわたって、大善を前提として、より得(喜び・感謝)を感じる生活・世界を、より美しく優雅に生み出していくことだと思う。
(※ 大善とは我々の生命や宇宙に対して言っているのだが、難しくなるので今日は触れない…) 

ところが、善なる生活も、美なる生活も追求せずに、ただ自分のエゴ(個我)を満たすことだけが人生だと思っている人がいる。
しかしそれは、仏教的には餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)の生命状態と呼び、決して品格(人間性)もなく、美しくも善なるものでもない。
それらは、苦しみの状態である地獄と合わせて三悪道(さんあくどう)と呼び、怒りの状態である修羅(しゅら)と合わせて四悪趣(しあくしゅ)と呼ばれる。



そして、普通の人は、せいぜいそのすぐ上の境涯(生命状態)である人(にん:穏やかな人間の心)、天(てん:喜びの状態)を合わせた六道(ろくどう:苦しみから喜びまで)を、ただ縁に触れて行ったり来たりしているだけだ。
それを六道輪廻(ろくどうりんね)と呼ぶ。

ただ本能的に自分の個我を満たすだけなら、別に人間に生まれなくても、動物として生まれるだけでよかっただろう。
しかし、人間として生まれたからには、もっともっと高い境涯(世界・人格・人生)を目指さなくては、持って生まれた宝(命)の持ち腐れなのだ。



ちなみに、これらは法華経に説かれている一切衆生の成仏(じょうぶつ=絶対的幸福境涯を確立すること)の原理を、中国の天台大師(てんだいだいし)が「摩訶止観」(まかしかん)の中で、一念三千論として体系化して説いたものだ。
一念とは、私たちの瞬間瞬間の生命状態のことであり、この一念にすべての現象・働きを意味する三千の諸法が具わっていると説かれている。

そして、その一念三千論の始まりにあたるのが、先に述べた私たちの生命状態(分かりやすくは心の状態)としての十界(じゅっかい)だ。
十界とは、下の境涯(生命状態)から順に、1.地獄界、2.餓鬼界、3.畜生界、4.修羅界、5.人界、6.天界、7.声聞(しょうもん)界、8.縁覚(えんかく)界、9.菩薩(ぼさつ)界、10.仏(ぶっ)界を言う。

それら十界の生命が、それぞれ互いにそれぞれを持ち合わせ(十界互具:じゅっかいごぐ)、そして十如是(じゅうにょぜ)、三世間(さんせけん)へと展開されていくのだが、それらの詳細については勿体ないから教えてあげない。 (笑)



人間として生まれたからには、美しく生きたい。 <美>
でも、清らかで美しいからといって、いつもお腹をすかせていては仕方がない。 <利>
しかし、裕福でも、人様に後ろ指を指されるようなことをしていては自慢にならない。 <善> 
これらのバランスが、とっても大切だ。

世の人々から嫌われる自分の人生ではなく、かといってお人好しで損ばかりする人生でもなく、尚且つ美しく品のある清らかな人生。
善人であり、豊かであり、美しい人生…。
そんな素敵な人生を、私は物心両面にわたって日々豊かに、そして日々自身の成長を目指しつつ、あらゆる価値(たから)を生み出しながら、人生の喜びを無限に拡大し味わっていきたいと思っている。



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2015年10月13日

本当に愛するということ。


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助けに来ない人。
それは、初めから助ける気など全くない人。
助けるということを知らない人。
そんな人生など、生きてこなかった人。
考えたこともない人。
大切な人を助けない人。
それは、その人のことを実は全く愛してはいない人。
本当は、死ねばいいと思ってるくらいの人。
可愛そうな、惨めな人。
人を愛せない人。

そんな人は、つまり自分を愛してはいない人だ。
愛せない人だ。
何故なら、全ては自分に対することの投影だからだ。
自分を愛せない人は、人を愛せない。
また、自分を本当に愛している人は、人を愛さずにはいられない。
でも本当は、愛することは、人にしてもらうことではない。
何故なら、自分のことを正しく知っている人は、世界中に自分しかいないからだ。
正しく知ってる人しか、正しい傷の手当てはできないだろう。



人に愛が足りないと文句を言う人は、実は本当の自分の傷を隠しながら、一生懸命助けようとしてくれている人にいちゃもんをつけるようなものだ。
つまり、その人は自分の傷を治そうなどとは、思ってはいないということだ。
愛など、人からいくらでも、強引にでも奪い取っていいと思っているのだろう。
そんな人が、愛を注ぐ人に対して、感謝などするはずがない。
そもそも、自分の傷を治すつもりがないのだから。
自分に傷がある(壊れているところがある)などと、思ってもいないかもしれない。
自分を磨いたり、雑草取りや掃除などは、初めからするつもりがないのだ。

だから、不幸そうな、寂しそうな顔をしてるそんな人に、騙されてはいけない。
その人は、まるで蜘蛛の巣を張って優しい人(餌)を待っている恐ろしい毒蜘蛛のようだ。
獲物を狙っている、寂しい顔をしたニヒルな毒蜘蛛はいる。
エゴ(個我)のかたまりのような奴だ。
きちんとそいつの本性を見破らなくてはいけない。



自分で自分のことを救おうと思っている人以外、私は決して近寄らない。
不気味だからだ。
その人を信じられないからだ。
子供の頃、蜘蛛の巣にかかっている蜂を助けてあげようと手を伸ばしたことがあった。
そこには蜘蛛がいなかったのだが、蜘蛛が戻って来たら蜂が餌食になることは明らかだった。
それで、私は蜂を助けてあげようと思った。
私は、そおっと指でつまんで逃がしてあげようとした。

「そおっとしてなよ。 待ってなよ。 すぐ助けてあげるからね…」
私は蜂に指を伸ばした。
そして、その瞬間だった。
蜂は、私の指を、いきなり本当に私が死んでしまうくらいに、強烈に刺したのだ。
私は悲鳴をあげて、思わず大きく指を振り払ってしまった。
あまりにも強烈に痛かったからだ。
そしたら、蜂は私に思いっきり地面に叩きつけられて、無残にも粉々に即死してしまった。
蜂は、命の恩人であろうはずの私に牙をむいた。 
私はその痛さのあまりに、蜂にそうとう怒りを覚えた。
でもそこには、やりきれない私の心の痛みがあった。
「なんで助けようとしてる僕を刺すんだよ〜! 痛いんだよ、馬鹿野郎〜! (涙)」
蜘蛛も恐ろしいけれど、蜘蛛の巣にかかっている餌食なはずの蜂も、また同じくらいに恐ろしいのだ…。 (笑)



このように、正しく愛してあげても喜ばない人は多い。
何故なら、その人には、こう愛してほしい、こう愛されたいという、ナルシストな、勝手な思惑(おもわく=要求・イメージ)があるからだ。
でもそれは、その人が求めているのは、決して愛ではない。
まあ、その人はただオナニーが好きだということだ。 (単に例えですよ…)
その変態プレイの相手をしてくれる人を、ただ待っているだけだ。
そのプレイをしてくれない人は、必要ないということだ。

でも、そのプレイは、実はその人を愛する形ではないことが多い。
ただその人のエゴ(個我)を満たし、増殖させるにしかすぎない。
人を本当に愛するとは、その人の魂(命)にとって適切かどうかを知る人でなければ、実は全くできないことだ。
人の魂(命)がどういうものなのかを知らない人は、人を正しく愛することはできない。



自分を愛するということと、何かに餓えている、貪っているということは全く違う。
本当に自分を愛している人は、正しい愛というものを知っている。
だから、それを注いでくれる人には感謝する。
愛とは、「 自分の魂(命)を生かす道 」 (正しい軌道) なのだ…。
だが、ただ自分のエゴ(個我)で自分の欲しいもの・好きなものを貪っているだけの人は、正しい愛を注がれても、それらを奪い取ることはするだろうが、感謝することはないだろう。
まあ、大抵はドブに捨てられるだけだ。
何故なら、その人は、それを全く求めてはいないからだ。
自分に必要な本当の愛を、残念ながらその人は求めてはいないのだ。

玩具(おもちゃ)が欲しいだけの人は、決して自分を愛している人ではない。
私は、自分を愛することがどういうことなのか知らない人とは、つながらない。
でも、幸いなことに、サラはそれをよく分かっている人だ。
私はサラと出会えて本当に幸せだと思っている。
私たちは、互いに様々な愛を注ぎ合い、互いに様々に感謝し合い、互いの様々な成長の軌道を拡大していけるのだ。
私たちの関係は、なかなか普通の人たちには理解できないことだろう。
私たちは、普通の人たちよりも、相当前を行っているからだ。
でも、私たちからすれば、これが全く世界の当たり前なのだが。
だが、自分の魂(命)に手の届いている人は、なかなかいない…。



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2015年10月12日

人の選ぶこと。


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これらは、全く私のことではない。
全く他人のことだ。
これらは、私とは全く違う世界だ。
人が何を選択しているのかを、ただ私が客観的に列挙したにすぎない。

可愛そうな人よ。
でも、私は温情はかけない。
私は無条件の愛だからだ。
だから私は、人の選択を応援する。 (笑)



< 人の選ぶこと >


惨めであること。
自分が無価値であると絶望すること。
不幸であること。
自分が犠牲者だと信じること。
人も自分と同じように無念で不幸であってほしいと望むこと。


人に対する一方的な恨みの感情。
憎しみの感情。
復讐心。
人の不幸を願うこと。
人にも自分と同じように孤独であることを望むということ。


死にたいということ。
誰かを道連れにして死にたいということ。
自分が裸の王様であることを知っているということ。
自分が虚栄、虚像に生きてきたということ。
そのために、人を見下し、利用してきたということ。


人を何一つ敬わなかったということ。
自分のことを、何一つ敬わなかったということ。
自分のことを嫌っている、軽蔑しているということ。
自分は、「うじ虫」のようだときちんと知っているということ。
光のあたる世界では生きられないということ。


自分が世の中のゴミだと知っているということ。
最愛の人さえ馬鹿にし、騙し、利用し続けたということ。
自分は最低の人間であり、既に人間ではないということ。
自分は生きる価値がなく、生きていてはいけない人間だということ。
自分の存在は、抹殺するしか道がないということ。


もう遅すぎるということ。
これが自分の選んできた道だということ。



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命。(生と死)


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全てに絶望した人間がたどり着くところ、それが死だ。
そして、自分で選ぶ死は自殺だ。
だが自殺にも色々とある。
そして、現実逃避の命の傾向の強い人は、その自殺さえも何かを期待してするものだ。
何も期待できなくなった末に、最後に期待する世界、それが死という世界だ。
だが、死には何も期待はできない。
何故なら未来などないからだ。
未来は単に思考に過ぎない。


だから、死んでから極楽浄土に行こうなどと思っても、そんなところへはたどり着かない。
今を否定して、未来に、死に何かを期待しても、そこには実は何もないのだ。
何故なら、常に今しかないからだ。
幸せは、今にのみ起こるものだ。
今という存在を知らない限り、私たちが幸せになる場所などどこにもない。
今を否定し、死後に期待し、苦しみから逃避する人がたどり着く世界は、ただ後悔 (滑稽 : こっけい) という世界だ。
それは、またスタートに戻り、初めから今を生きなければならないということだ。
苦しくとも、現実を受け入れ、現実と格闘しながらでも、今に生きるしかない。
今を認め、肯定するときにのみ、幸せはやって来る。
実は、幸せとは、今に抵抗せず、今に波動がきちんと合っているときに感じる世界(実感)なのだ。


今を肯定するということは、自分の存在の美と善なることを認める(受け入れる)ということだ。
美なる命、善なる命は永遠に存在する。
そして、同じく幸せも永遠に存在する。
そして、幸せが永遠なら、今この時にもそれは間違いなくここにあるということだ。
今ある地獄を嫌う人は、成仏できない。
仏教では、当初、悪人や女人・二乗(にじょう=声聞・縁覚=インテリ)は成仏できないとされていた。
それは何故か?
それは、その時はまだ、「永遠の生命」(仏)というものが説き明かされてはいなかったからだ。


ずっと、今ある過去の業因(悪業)は、簡単には切れないとされていた。
だが、私たちは永遠の生命だ。
永遠とは、つまり常に今しかない、あるのは常に今だけであり、実は時間は幻想であり、本当は時間はないということだ。
死んでも生きるところは、常に今だ。
地獄に行こうと、極楽に行こうと、みな同じく今に生きるだけだ。
今に生きない人が、行くところなどどこにもない。
死んでも今に生きる、つまり今に帰ってくるだけだ。
死んで生きるのは、決して未来でもなく、死後の世界でもない。


私は、今幸せになる方法を色々と知っている人間だ。
だがそれは、魂で本気で求める人にしか教えない。
教えても無駄だからだ。
その人が更に生意気になるだけだからだ。
自分の、人の、宇宙の命を軽んじるだけだからだ。
だから、命の綺麗な人、心根の美しい人しか救われないというのは、全く本当に真実だ。
でも、私に心からつながる人は、その大切な命を必ず守り抜くことができるはずだ。
何故なら、私はそれだけの人間だからだ。



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私たちの望むものは。


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「 私たちの望むものは 決して私たちではなく 私でありつづけること 」

「 私たちの望むものは あなたと生きることではなく あなたを殺すこと 」

こんな詞を、他の誰が書けるだろうか…?


「 私たちの望むものは 」 by 岡林信康 with はっぴいえんど 
https://www.youtube.com/watch?v=kjAI9V1G6bA



【 私たちの望むものは 】 ( 詞・曲 岡林信康 1970年7月作 )


私たちの望むものは 生きる苦しみではなく
私たちの望むものは 生きる喜びなのだ
私たちの望むものは 社会のための私ではなく
私たちの望むものは 私たちのための社会なのだ
私たちの望むものは 与えられることではなく
私たちの望むものは 奪いとることなのだ 
私たちの望むものは あなたを殺すことではなく
私たちの望むものは あなたと生きることなのだ
今ある不幸せにとどまってはならない 
まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ


私たちの望むものは くりかえすことではなく
私たちの望むものは たえず変ってゆくことなのだ
私たちの望むものは 決して私たちではなく
私たちの望むものは 私でありつづけることなのだ
今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ


私たちの望むものは 生きる喜びではなく
私たちの望むものは 生きる苦しみなのだ
私たちの望むものは あなたと生きることではなく
私たちの望むものは あなたを殺すことなのだ
今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ


私たちの望むものは



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2015年10月11日

あいつが死んだ日。


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昔、けなしていた友人が死んだ。
そいつのことで、私は胸を痛めていた。
けなしていたということではなく、本当は私の悲痛な心の叫びだった。
奴を救いたかったからだ。
見捨てることはしたくなかったからだ。
そいつは、私のアパートに転がりこんでいた。
まだ私が学生の頃だ。
でも、私の部屋にいた2〜3ヶ月はまだよかった。
私はそいつに私の信仰を持たせ、そいつも必死になってそれをやっていた。
そして、私が必死になって祈ることといえば、いつもそいつの身の回りのことだった。



やがてそいつは、私の下(階下)の部屋に空きがでたので、その部屋を借りた。
半年から1年位そこにいただろうか。
奴はアルバイトはしていたのだが、でも結局家賃が払えなくなり、そこを出た。
どこに行ったかは知らない。
それっきり音信不通になった。
たまっていた家賃は、結局親が支払いに来た様子だった。
そいつは、色々な問題を抱えていた。
多重債務状態にもあり、サラ金がちょくちょく集金に来ていた。
多分、闇(ヤミ)金にも手を出していて、脅されてもいたのだろうと思う。
何をやっても上手くいかなくなっていた。
ていうか借金取りに追われていたからか…。
私にもよくわからん。
奴には陰(かげ・闇)があった。
結局私にも、奴を助けることはできなかった。



子供の頃からの幼なじみ(自宅は町営住宅の一軒おいて隣同士)だったそいつのことを、私はある意味背負っていた。
私が変わらなければならないのだ、私の宿命なのだと思い込んでいた。
私は全ての世界を背負ってしまう、馬鹿な奴だったのだ。
奴がアパートを出る前の1〜2ヶ月は、私も必死だった。
奴と生きるか死ぬかのところまでいった。
でも、結局私は奴を見捨てた。
私の方が怖くなったからだ。
奴が不気味だったからだ。
私は、自分が奴に見切りをつけたことが、ずっと心残りだった。
本当に仕方がなかったのだが。
奴はどこに行ったのかわからなくなり、突然私の前から姿を消した。
私は、奴に恨まれているだろうと怯えてもいた。
私が奴を見捨てたからだ。



そして、それから15年近くが過ぎたある日のことだ。
私は、朝起きて見た新聞のお悔やみ欄に、そいつの名前を見つけた。
珍しい名前だし、年齢が同じだった。
私は、半信半疑ではあったが、多分そうなのだろうと思った。
こんな所に住んでいたのか…。
私はその日、喪服を持って会社に出勤し、その夜は早めに仕事を切り上げて、月寒にあったそのお通夜の会場へと向かった。
しとしとと寂しい雨の降る夜だった。



私は、最寄りの地下鉄駅を出て、一人傘をさして歩いていた。
会場までは真っ暗で、結構の距離があった。
すると、後ろから一台の車が近づき私のすぐ横で止まった。
「 〇 〇 さんの葬儀ですか?」と聞かれた。
その人は葬儀会社の人だった。
そして、「会場ちょっと分かりずらいんですよね。乗って下さい」と言われた。
まるで映画のシーンのようでもあり、何かとても不思議な感じがした。
私は、「新聞で見て来たのですが、本人かどうかは分からないんです」と伝えた。
そして、会場に着いた。



そこには、私の顔見知りである奴の母と弟がいた。
残念ながら間違いではなかった…。
(奴の父は既に亡くなっていたので家族は2人だけだった)
その母に聞くと、アパートで一人亡くなり、しばらくたってから発見されたらしい。
勤めていた会社も体調が悪いとのことで退職していた様子だった。
同じアパートに住んでいた会社の同僚が発見したらしかった。
夜中でも、しばらくずっと部屋の電気がつきっぱなしだったから、とのことだったようだ。
刑事が入り自殺や他殺・病死など捜査もされたらしいが、はっきりとした結果は出なかったのではなかろうか。
奴の母は札幌ではなく、変わらずに地方(私の故郷)に住んでいた。
警察が戸籍を調べて、その母の元に連絡が入ったらしい。
でも、母も仕事があって、すぐには札幌に駆けつけられなかったと言った。
だから、奴が亡くなってからは、だいぶ日にちが経っていた。
私は、彼との対面を求めたが、「それができる状態ではない。私たちもしっかりとはできていない」と断られた。



私は、棺の前に立って奴に声をかけた。
「どうやらお前に呼ばれたようだな」
「まあいい。大丈夫だ。俺がついてる」
「胸を張って行ってこい」
「他の道を歩めたのならそうしただろうさ。だがそれが許されなかった。だからこうなった。他の道がなかったのだから仕方がない」
「お前は精一杯やったはずだ。少なくとも、俺はお前のために精一杯やった。だから、胸を張って行ってこい」
「俺がついてる。何かあったら俺の名前を告げろ。私は 〇 〇 の友人だと俺の名前を告げろ」
「大丈夫だ。俺がついてる。どこへでも胸を張って行ってこい!」
そう言って、私は心の中で旗を振りながら、万歳!を叫びながら、一人奴を送り出した。
奴にそうやって最期のお別れをしたんだ。



お通夜はひっそりとした寂しいものだった。
元会社の同僚らしき人たちが何人か連れ立って会場に姿を現しはしたが、奴の母に挨拶をしただけで参列もせずにすぐに帰っていった。
奴にはもう関わりたくないのだろうと、私には思えた。
だから、結局奴の母と弟、そして私の3人だけの静かなお通夜になった。
しばらくして、一人の僧侶が来て読経し、私たちも手を合わせ焼香した。
でも、奴の母は私が帰る間際にも、私に対して奴の悪口みたいなことを言っていた。
住んでいたアパートの整理も含め、死ぬ時まで奴が、みんなに迷惑をかけたということ。
そして、葬儀の費用は、ハローワークに勤めていたその弟が出したとも聞かされた。
奴は母親にも愛されてはいなかった。
その母もまた弱い人だった。



でも、私の中の何かが終わった。
私は傘をさして雨の中を一人歩いて帰った。
地下鉄からJRに乗り換え、帰宅するまで、私は色んなことを思い出していた。
でも、全てが終わった。
私は何故だかホッとした。
奴が死んで肩の荷が降りたのだ。
私は自由になった。
そして、奴も自由になったはずだ。
少なくとも奴は、死んで良かったのだと思う。
生きていても多分地獄だったからだ。
私にはそう感じた。
そして、奴は私に感謝した。
それが私には伝わっていた。



多分、奴と私が35(才)の時のことだったと思う。
(奴と私は同級生だ)
だがこれは、私の昔の世界の話だ。
今の私には、人のことなど全くどうでもいい。
私は私であり、人は人だからだ。
そんなセンチなワールドは、もう今の私は抱えてはいない。
今の私は、ただしっかりと自分の幸せを築き上げるだけだ。



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2015年10月10日

「はつらつとする」ということ。


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私は、元気のない、はつらつとしない、陰気な、つまり命のパワーのない人とは、つながれない。
パワーのない人とは、ある意味死にゆこうとしている人だ。
死にゆく人は、人にもパワーのないことを求めるものだ。
だが、私にはそれは無理だ。
私は死ぬために生きているわけではない。
死にゆく人と、私は友達ににはなれない。
波動が違うからだ。


灯り(照明)のついている華やかな明るい電車と、灯りの全くついていないまっ暗闇な電車。
根の暗い人とは、交流は持てない。
こちらの電車にどうぞと誘われても無理だ。
まっ暗闇の電車に、心地よさ・健全さを感じるわけがない。
友達になりたいと言われても、勿論断る。


根暗な人がそばにいるだけで波動が下がり、心地悪い。
清潔、整理整頓、規則正しいリズムや清々しい生活。
体操や運動、そして日光浴や森林浴…。
常に快適な、フレッシュな風(気・エネルギー)を浴びていない人は、体だけでなく心までがどんよりとしていて、それが不健全な、不健康な波動となって現れる。
その人は、それが心地よいのだろうが、じめじめとした、湿った、臭い、汚い環境が好きなら、人間に生まれる必要もなかったのではなかろうか。


まあ、私には全く関係のない話だ。
ただ、同じ空気は吸いたくものだ。
私に限らず、普通の人なら、近寄られても誰もが嫌がり逃げ出すだろう。
お陰で、自分の望む世界が更にリアルに明確に分かるというものだ。



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選択の自由。


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みな、自分を救えない。
だがどんな時も、私は自分を救ってきたし、今もそれは変わらない。
私は、自分を救うことのできる奴だ。
もしかしたらそれは、実は本当に珍しいことなのかもしれない。
みな、自分の無力を痛感しているし、みなその全てを諦め切っている。


自分を救えるということは、私は人を救うことができるということだ。
自分も人も全く同じ人間だからだ。
だが、私は人を強引に救うことなどしない。
そんなことは、できるはずがないからだ。
誰も人を支配することなどできないし、そんなことをしたところで、少なくとも私は何も心地良くない。


私の愛に肩を並べれる人など、どこにもいない。
ただ本当の愛だけが、自分を救い、人をも救う。
だが、みな自分を救えない。
つまり、本当にはみな、自分のことを愛してはいないということだ。
ただそれだけのことだ。
みな、真剣さが足りない。
自分を救う修行をしてきていない。
だが私は、いくらでも無限に、自分を愛するレベルを上げていける。


でも、全ての人は、そのままでいる権利、つまり変わらない権利を持っている。
それは、選択の自由ということであり、自分を救わない権利も持っているということだ。
それが、宇宙の無条件の愛だ。
だが、その思考は、私の選んでいる世界とは明確に違う。
だから、そんな人とは、私は嫌でも分離し、分離させられる。
それが、「波動の法則」(引き離しの法則)というものだ。



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2015年10月09日

境界線。


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愛ある人の行動がある。
そして、愛のない人の行動がある。
常に、その人の行動は、愛があってのことなのか?と考えてみたらいい。
自分だったらどうするだろうか?そうするだろうか?と考えたら、すぐにわかるものだ。
お人好しではいけない。
人を利用する人、感謝のできない人とは、しっかりと距離を置くべきだ。
人の本質を見抜く目がないと、善意や優しさが粗末にされ、踏みにじられる。
精神的に成熟していない、傲慢で幼稚な、自分勝手・自分本位な人には、明確な境界線を引かなくてはならない。

境界線とは、自分が誰の奴隷にもならないと示すものだ。
自分の人生には不要だと思うもの、それが自分の境界線になる。
人が境界線を越えようとしたときには、「支配や抑圧・操作は受けない」と即座に伝える。
そして、もしその境界線を無視し続ける人がいれば、その人は自分にとっては歓迎されない人であることを伝え、立ち去ることだ。
「境界線を作る」とは、自分を尊ぶことだ。



私には、譲れない道がある。
決して人を、自分の手段にはしない。
でも、自分を人の手段にも、決してさせない。
そして、絶対に人の不幸(犠牲)の上には、自分の幸せは築かない。
でも、自分の不幸(犠牲)の上にも、絶対に人の幸せは築かせない。

私は、人を利用するのも嫌だし、利用されるのも嫌だ。
また、利用されたと言うのも、利用されたと言われるのも嫌だ。
被害者になることも、加害者になることも、私は望んではいない。
だから、そんな意識(バランス)を持っていない人とは、私は絶対につながらない。



でも世の中には、そんなことを考えもしない、目覚めていない夢遊病者のような人たちが、まだいくらかいるだろうか?
今私の周りには、それらのものは何一つない。
今私の周りにあるのは、本当に不思議だが「愛」だけだ。
そして、今のサラは、これらのことを本当によく理解している。
真実を見る目ができたからだ。

これでいい。
これが当たり前の世界だ。
私が実現している世界には、私が必要としない「もの・こと・人」は入り込めない。
波動が全く違うからだ。
これが波動の法則であり、引き離しの法則だ。



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