サラの周りにいる(いた?)人たちは、私に感謝しなければならない。
何故なら、私はサラをずっと救ってきたからだ。
私の店にたどり着いた時、サラの心は深く傷ついていた。 (もう5年半以上前になる)
みんなが長いことずっと、サラのことを無関心に放置していたからだ。
サラはその寂しさに耐え切れず、倒れるようにして私の店にやって来た。
そしてサラは、私によって救われた。
サラの周りにいた人たちは、サラのことを平気で傷つけていた。
要らない荷物は、いつも必ずサラに押し付け、持たせていた。
サラをぼろ雑巾のように、ゴミ箱のように扱った。
人を踏みつけにしても、たとえその人が泣いていても、知らんぷりをする汚い奴らばかりだ。
サラが踏みつけにされるのを笑って見ていたそいつらのことを、私はきちんと知っている。
そいつらは、サラのことをいつも馬鹿呼ばわりした。
サラは自分を犠牲にして人のために尽くせる、愛情深い、本当に立派な人だ。
だから、いつもそうやってずっと人に尽くしてきた。
彼女は自分の優しさ (愛) が、必ず人のためになると思っていた。
だが、それが当たり前だとサラを利用してきた人たちは、もう少し自分たちの醜さを知る必要があると私は思う。
でももう遅い。
サラは、私がいただくからだ。
私はサラを救っている。
ただ私だけが、それをしていると思う。
私に言わせれば、サラを本当に愛している人など、サラの周りには誰一人いない。
私は、その全てをずっとクールに見てきた。
私の持っている不思議なアンテナで、全てを感じ取ってきた。
私に言わせれば、サラの周りにいる人たちは、サラに対する感謝が足りない。
だからサラを癒すこともできない。
本当に弱い、ズルい、卑怯な、醜い人たちばかりだ。
多分みな、サラを愛してはいるのだろう。
だがそのレベルは、全くお子ちゃまであり、笑える。
なぜなら、行動がないからだ。
行動がなければ何を言っても、結局は責任感がない、つまりは愛がない偽善者であり、卑怯者ということになる。
そいつらは、いつもこうやってサラに泥をかぶせ続けてきた。
サラが逃げられないことをいいことに。
人の弱みにつけ込む奴ら…。
勿論その先頭は、ゴミ屋敷の住人(王子様?)だ。
そして、そいつを隠れ蓑(みの)にして、のさばっている生意気な奴らが何人かいる。
だが、行動のない、勇気のない、愛のない奴らは永遠におとなしくしててもらうしかない。
その人たちには、私が何をしてるのかさえも、全く見えてはいないはずだ。
見るつもりがないからだ。
都合の悪いことには、いつもフタをする奴らだ。
人のこと、つまり自分のことを愛せないのだから、それも仕方がない。
そうやって、いつも格好つけて、気取って、そして泣いていればいい。
サラの言葉は、決してエゴ(個我)の言葉ではない。
サラにはエゴはないからだ。
サラの声は、宇宙の声であり、神の声だ。
だから、サラのことを癒すことのできない人たちは、自分を癒すこともできない。
神の声、つまり自分のハイヤーセルフに耳を傾けれない人たちは、永遠に救われない。
糸の切れた凧(たこ)のようなものだ。
どこに飛んでいくのかさえ、全く分からない。
虚栄を抱えている奴らは、その虚栄で自分の首を絞める。
臆病者は、いつも決して何もできない。
人を救うことも、自分を救うことも。
だが、私にはそんな言い訳は通じない。
何故なら、私は既にそれらの修行を、全て完璧に終えた身だからだ。
そんな奴らの抱えている世界 (虚栄や臆病) は、私にはちゃんちゃらおかしい。
場合によっては、そこにいる全ての奴らに、きちんと私は決着をつけるつもりだ。