田辺聖子は、素晴らしいと思うけれども苦手で、この作品もやはり苦手だった。
なぜか。
それは、読んでいて胸が苦しいからだ。通底する淋しさ。わかりあえなさ。登場人物の口から吐かれる関西弁の、生々しさ。つまり、胸が苦しくなるということは、結局田辺聖子への賞賛である。つらくて苦しくなるほど素晴らしい。
胸の苦しさは、描かれる場面場面の不安定さにあるような気がする。あえて、人並み、という言葉を使えば、人並みの愛情を受けることもなく、友達と話したり、出かけたりだとかいう、人並みの経験もないまま育ったジョゼ。ジョゼの一言一言は、どんなに刺を持っていて虚勢をはった高飛車な言葉でも、けなげで愛しい。しかし、その愛しさは、やはりジョゼの境遇の淋しさを背景に浮き立つものでもある。そして、そんなジョゼに、流されるように恋人になった恒夫。優しくても流されやすい彼だから、幼稚で高慢であることと隣り合わせのジョゼの態度に、耐えられるのか見ていてはらはらしてしまう。
二人は婚姻届も出していない。親戚に紹介することもない。同棲している二人について、淡々と語り手は
恒夫はあれからずうっと、ジョゼと共棲みしている。二人は結婚しているつもりでいるが、籍も入れていないし、式も披露もしていないし、恒夫の親許へも知らせていない。そして段ボールの箱にはいった祖母のお骨も、そのままになっている。
と、 説明する。二人は「結婚しているつもり」にすぎない。だれも、何も彼らを、一緒にいるようにと縛りつけてくれない。ジョゼと恒夫は、不安定で壊れ易い関係の上にいるのだ。
恋愛、という気持ちだけを二人が一緒にいる理由にする。思い返せば、これは悲しい恋愛小説の定石だったりする。江國香織だって、結婚や、付き合うという言葉に捕われないような男女の結びつきをよく描いている。そういえばカーペンターズにもこんな歌詞があった。
I used to say "No promises, let's keep it simple"
But freedom only helps you say goodbye*1
約束はしないでシンプルな関係でいようとするけれども、約束を持たないこと、縛り付けるものを持たないことは、結局別れを呼ぶことにしかならない。
なぜ、そんな壊れやすい関係の上にジョゼと恒夫はいられるのか。なんとなく、恒夫はこれが壊れやすいことにすら気付いていないんじゃないかという勝手な推測が筆者にはあるのだが。なぜ「恒夫はいつジョゼから去るか分からないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う」のか。それは、関係が脆ければ脆いほど、その関係を保たせている「恋愛」の感情は純粋になるからだ。幸福は純粋になるからだ。
恋愛小説はときに、純度が高いけれども、いつだっていつ終わっても仕方ないような、ぎりぎりの綱渡りをするような幸福を描いてみせる。それを読むのは、つらい。どんなに登場人物が満足していても、その先にある終わりを想像してしまう。ふとしたときの、ああ、いつ終わるかわからないな、とひとりで思う淋しさを、思い出してしまう。いつ終わるかわからないね、という思いは、恋人とは表立っては共有できないから。
作中で、恒夫との今を心底幸せだと思うことのできるジョゼは強い。そんな風に物語を運び、映画と違ってなんの終止符もうたずにいてしまえる田辺聖子もまた、強い。そんな、儚い恋に身をゆだねられることのできる二人の強さにあてられて、読んでいる筆者の心は痛い。だから、恋愛小説は、好きだけど苦手なのだ。ついつい、避けてしまう。
田辺聖子の短編集『ジョゼと虎と魚たち』。素晴らしいので、私には一日ひとつの短編がせいいっぱい。
*1:I Need To Be In Loveより