15年前、ソウル・鍾路警察署の「番記者」だった。2月末、警察署の壁に「水曜集会」の案内文が掲示されていた。三一節(3月1日の独立運動記念日)が水曜日で、その日にちょうど集会が400回を迎えると書かれていた。京畿道広州の「ナヌムの家」に行き、元従軍慰安婦のおばあさんたち9人に会い、三一節の朝の社会面トップ記事を書いた。
私はその時、おばあさんたちの話に憤慨し、社会面トップ記事を書くのに発奮した。憤慨する人が増えれば、難しい問題も早く解決するだろうと考えていた。記者の使命はできるだけ多くの人々を私と同じように憤慨させることにあり、そこまですれば任務は終わると簡単に思っていた。それは純粋だったからだろうか、それとも愚かだったからだろうか。
あの日お会いしたおばあさんたちの多くが亡くなった。
「がんで先に亡くなった方に『どうにももう生きられそうにないから、私の分まで頑張って』と言われた」と言っていた金順徳(キム・スンドク)さん(1921-2004年)。亡くなる前まで集会に参加し、11年前の夏に亡くなった。
「もっと年老いたら這ってでも集会に行く」と言っていたノ・チョンジャさん(1920-2004年)。金順徳さんが亡くなった2カ月後にこの世を去った。
「冬に集会に出るのが一番つらい」と言っていたパク・オクリョンさん(1919-2011年)。 2010年の冬は越したが、翌年の春に亡くなった。
「あとどれだけ記者に会い、胸をえぐるような昔の話を繰り返せば、謝罪が受けられるのか」と言っていたイ・ヨンニョさん(1926-2013年)。その言葉を言った後に涙をこぼしていたが、2年前の夏に亡くなった。
私は慰安婦問題がどれだけ解決の難しい問題であるかを分かっていなかった。分かっていないのに、「分かった」と思い込んでいた。そして、すぐにこの問題を忘れて次に行ってしまった。