安倍 晋三(あべ しんぞう)

基本データ

政党 自由民主党
議院 衆議院
選挙制度 小選挙区
選挙区 山口県
役職/委員会 -
当選回数 7回
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重点政策

外交

日本外交の基軸は日米関係であり、「世界とアジアのための日米同盟」が外交の要であることは言うまでもありません。
安倍内閣は「価値観外交」と「主張する外交」を掲げ、この基本路線で外交政策を実践しました。
「価値観外交」は自由、民主主義、基本的人権、法の支配という普遍的な価値観を共有する国の輪を世界、アジアに拡大して行くことを目指す外交戦略です。
私は総理大臣在任中にオースラリアを訪問し、日米に豪を加えて3カ国の協力拡大の重要性を強調しました。この日米豪にインドを加えた枠組み作り提唱したのは、日豪印の3カ国、つまり普遍的な価値観を共有する「アジアのデモクラティック3」と米国の協力を拡大することが、アジアの発展、平和に寄与すると確信しているからです。
また「主張する外交」は、単に日本の国益を声高に叫び、国益のみを追求するという意味ではありません。世界はどうあるべきか、アジアの将来をどう考えているか、その理想とビジョンを堂々と積極的に、そして明確に示すことが「主張する外交」です。もちろん国益にかかわる問題について主張するのは、当然のことですが、世界に対し我々の主張を発信し、同時に日本が国際貢献の役割を果たしていくことが重要となります。
一方、私は総理大臣に就任して初の訪問国として中国を選びました。「政冷」と言われていた日中関係の打開が目的でしたが、両国が経済、環境、エネルギー問題などでお互いの協力を必要としていることは明らかです。日中首脳会談で「戦略的互恵関係」を追及することで合意しました。この6月初旬に「日中閣僚級ハイレベル経済対話」が東京で開催されましたが、「戦略的互恵関係」という基本的な方針に基づいて様々な協議が行われたことで、新たな日中関係が定着したと考えています。
これまで日中関係は国内で「親中」「反中」といった色分けで見られがちでしたが、明確な外交方針のもと、冷静は判断で対応する戦略外交の始まりと言えます。
また、北朝鮮が5月25日に再び核実験を強行し、短距離ミサイルを日本海に向け発射しました。北朝鮮の度重なる暴挙を決して許してはなりません。北朝鮮はこれまでも、挑発的な行動を取ることによって米国、韓国などから譲歩を引き出してきましたが、我々は同じ過ちを繰り返してはなりません。
金正日体制に核兵器をはじめとする大量破壊兵器への野望を放棄させるため、「圧力と対話」の原則を貫いていくことが重要です。今後は「圧力」に重点を置いて厳しい対応で臨むべきです。
一方、拉致問題の解決が重要な課題であり、日本は拉致問題が解決しない限り、北朝鮮と国交正常化はしないという基本方針は堅持していきます。
私は当初から拉致問題に取り組んで来ましたが、今後も拉致被害者家族の皆様と協力して問題解決に向け、全力をあげる決意です。

経歴

1954年 安倍晋太郎、洋子夫妻の二男として生まれる
1977年 成蹊大学法学部政治学科卒業
1979年 株式会社神戸製鋼所入社
1982年 外務大臣秘書官
1993年 衆議院議員初当選
1999年 衆議院厚生委員会理事
自由民主党社会部会長
2000年 内閣官房副長官(第二次森内閣)
内閣官房副長官(第二次森改造内閣)
2001年 内閣官房副長官(第二次森改造内閣)
内閣官房副長官(第一次小泉内閣)
2002年 内閣官房副長官(第一次小泉改造内閣)
2003年 自由民主党幹事長
2004年 自由民主党幹事長代理・党改革推進本部長
2005年 内閣官房長官(第三次小泉改造内閣)
2006年 第90代内閣総理大臣
2007年 内閣総理大臣を辞任
2012年 自由民主党総裁
2012年 第96代内閣総理大臣

特徴・エピソード

趣味
読書、映画鑑賞、水泳
血液型
B型
好きな言葉
不動心、初心忘るべからず

安倍晋太郎元自民党幹事長を父に、岸元首相を祖父とする政治家名門の系譜。成蹊大学卒業後南カリフォルニア大学に留学、政治学を学び帰国後は神戸製鋼所に入社しサラリーマンの生活を経験。その後、総理、総裁を目前に亡くなった父晋太郎の後継者として、1993年初出馬でトップ当選。自由民主党社会部会長時代には、年金制度、社会保障制度について取り組む。

HISTORY

幼少~学生時代
元々、政治家家系の家に生まれていますので、「政治家」を職業としての選択肢に入れやすい環境であったと思っています。選挙に落選する父の姿も見ていたので、幼心に政治家の厳しさというものも感じていました。

政治家の道へ進んだきっかけ
1982年に、父が外務大臣に就任したことが事実上きっかけになったと思っています。就任直後に父に呼び出され、「お前が政治家になりたいのなら、俺を手伝え」と言われました。それから約9年間、父の秘書を務めました。

覚悟の瞬間
2007年、総理大臣を辞任する決断をした時は、やはり大きな覚悟を要しましたね。もともと持病として抱えていた病気が、あるきっかけで悪化をしてしまったことで仕事に支障を来すようになったのです。国民の皆さんには迷惑をかける形になってしまいましたが、この時の判断は間違っていなかったと思います。この決断が事実上政治生命を失うことになるとも、一方で感じていました。辞任を表明した後、地元に帰ると、本当に多くの方々から声援をいただきました。「諦めるなよ!」「やり遂げろよ!」というような力強い声に励まされ、残された使命のために全力を傾けていこうと、再度覚悟を決めた瞬間でもありましたね。

今後の目標
一人でも多くの有能な若い政治家の後押しをしていくことが私の目標です。また、政治家として私がまだやり残している使命もありますので、それに向かって精進していきたいですね。

日本のアカルイ未来のために
日本という国は、美しい自然、素晴らしい文化、長い伝統を持った国です。そして、まだ大いなる可能性が秘められていると思います。その可能性を引き出していくのは、若い皆さんだと思っています。自分や自分の国を卑下したり貶めることに情熱を注ぐのではなく、日本のために、共に汗を流していきましょう!

挨拶

「美しい国、日本」
日本は美しい自然に恵まれた、長い歴史と伝統、独自の文化をもつ国です。日本人であることを卑下するより、誇りに思い、未来を切り拓くために語り合おうではありませんか。

動画

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