........分量が多いので「其の一」の若干のインフォーメイションをします。
★ 赤字は書き下ろしです。 その他は他者の文章(詩)か、私の雑誌等で既に発表しているものです。
★ 「恋と革命に生きるのさ」「論争する気はありません」(外山恒一さん)
★ 幻のゲーム(詩)(横谷 究さん)
★ 世秋恭之介様へ・・・ 萬刷号外出来具合経過報告?(佳和服裕太郎)
★ インターネット(ホームページ)上での電脳新雑誌の構想について(佳和服裕太郎)
今日は、もう零時を過ぎたので、平成十一年の九月二十六日(日)になりましたねえ。「かわふくNEWS」で書きましたように、約七ヶ月ぶりに、こふしてホームページに手を加えることになりました。やっぱり「かわふくNEWS」でちらっと触れましたが、「小野田襄二さんへの手紙」のなかで、名古屋で、戦旗派の人と出会った話が出てきますが、それが縁で僕は、緒方哲生という人の「革命的実践の論理」というのと、高山亨という人の「新左翼運動の論点」というのを購入させていただきました。・・・・・購入させていただいてから、・・・・ああっ、この話は、また後で、うむ「其の二」で書かしてもらおうかな。
まず、それでは、お月様・・・・うむ、昨日は十五夜の満月でしたね、あれからすぐ寝まして、今午前十一時過ぎですが、朝早く生長の家の豊橋道場での少人数の集まり(四日会)がありまして、お月見の話題もでましたねえ。・・・・ええっ、月がいっしょにスクロールする表紙のページで「そいで、この「塩見さんへの手紙」がどういった性格?のものであるかの導入というか説明というか、うむ、ある種このサイトの作者に喧嘩を売るという意味合いもあるのですが、目次の「其の壱」であるサイトの一部をそのまま掲載させてもらうつもりです。」と予告されているとおり。まず「恋と革命に生きるのさ」という外山恒一さんホームページの一部を無断で勝手に掲載させていただきます。
もっと沢山無断で掲載させていただく予定でしたが、昨日、そのサイトをつなげたら「File
Not Found」になっていまして、試しについ最近超猿の友人から教えてももらった「だめ連」サイトのリンク集からアクセスしても同じでした。
それでは・・・・・
「恋と革命に生きるのさ」ーーー 外山恒一さんのホームページから
「論争する気はありません。」を掲載させていただきます。
論争する気がありません 1997年8月25日
先日、宮台真司とその周辺の「30代文化人」を批判する論文を書いたら、「ちっとも論文の態をなしていない」「おまえは物事をきちんと論じる
気がないんか」という批判をいただいた。どこからいただいたかというと、自分で出したのである。 自己批判に応じよう。 論じる気は、ない。
考えてもみよ。ぼくが宮台真司や浅羽通明や岡田斗司夫や宮崎哲弥や……といった30代論客たちに真正面から論争を挑んだとして、勝て
ると思うか? 勝てるわけがない。 ぼくの標榜する立場が間違っているから勝てないのではない。論争技術がないから勝てないのである。
それでは論争技術があれば勝てるのか? 勝てる。
ではなぜ技術を磨く努力をしないのか? 努力で技術が身につくわけではない。技術を身につけるために必要なのは「環境」である。
環境? しかり。こちらのレベルに見合ったほどよい論争相手が探せばいくらでも見つかるという環境が必要だ。今の30代論客たちも、そのような環境
で10年ぐらい鍛えることができたから、論争技術を身につけ得たのである。彼らの努力や才能がそれを可能にしたわけではない。努力や才能
も、それを要請する環境があって初めて成立するとも云える。
今はその「環境」がないということか? ない。20代以下の人間がそれぞれの問題意識を闘わせる環境は存在しない。
なぜ存在しないのか? まさに30代論客たちが、そういった環境の成立を邪魔しているからだ。今の30代論客たちがまだ若い頃、つまり今から10数年前に高揚した
サブカルチャー・ムーブメントは、よく云われるように彼ら「新人類」世代とその一回り上の全共闘世代との「世代間戦争」だった。全共闘世代が
押し付ける「闘争」に、彼らは「逃走」を対置して闘った。彼ら30代論客たちの青年期は、云わば「闘わないこと」が「闘い」であり得た特殊な、
稀有な時代だった。しかし彼らは、「世代間戦争」に勝利した後、自分たちの闘争の特殊性を忘却・隠蔽し、それを一般化・普遍化する誤りを犯
したのだ。反管理教育運動や反原発運動、ピースボート、秋の嵐、尾崎豊やブルーハーツやオウム真理教、神戸震災ボランティアや仏核実験
反対運動、薬害エイズ追及……次々と現れるポスト「新人類」世代の社会運動に対し、彼らは執拗な攻撃をくりかえしてきた。これらの新しい
青年運動を肯定的に評価する若者メディアは皆無に等しい。若者メディアを握っているのが、彼ら30代世代だからだ。自分たちの違和感や苛
立ちを「闘争」に昇華しようという努力などやめて、「終わりなき日常をまったりと生きろ」というわけだ。むしろ醜悪なプレ「新人類」世代の左翼メ
ディア──『週刊金曜日』だの『情況』だの──の方が、そうした青年運動に味方ヅラしてスリ寄ってくるねじれ現象まで起きている。ぼくらの
世代の運動は、「新人類」世代の圧倒的優位のもとで実は今も続けられている彼らと全共闘世代との「世代間戦争」に、いいように利用され、
翻弄されてきた。周りを見渡してみろ。本来は一体であるはずの若者のサブ運動は、「新人類」世代の口マネをするサブカルチャー運動と、全
共闘世代の口マネをするサブ政治運動とに、見事に分裂しているではないか。ぼくが目指しているのは、先行両世代の引力圏を脱した、新し
い段階でのこの分裂の解消だ。30代論客たちと不毛な論争をしている余裕はない。ただ、邪魔をするなと云いたいだけだ。
違和感や苛立ち、漠然とした不安や不全感を、運動の形成を通じて検証し、現実を変革する力に転化していこうとする試みを、まっこうから否
定する宮台言説や浅羽言説が、そもそも正しいはずはない。
わざわざ論争技術を磨いてみるまでもなく、勝敗は明らかだ。
(アンダーラインは引用者)
うむ、今、この外山さんの「論争する気はありません」の日付をみると1997年8月25日、約二年前まえですねえ。覚えてないけど、半年ぐらい前にこのサイトを見つけたのかなあ。といっても、インターネットはじめたのは何年まえかなあ。・・・・忘れたし、調べるの面倒だからやめますが、兎に角数年前にインターネットを初めてメールは毎日みますが、ホームページを見て歩くと言うことはあんまりしないですねえ。探し回ったのじゃなくてたまたま見つけた感じですが、・・・・この人のホームページを見て、随分元気ずけられたように想いますが、しかし、・・・・この外山さんのサイトを虱潰しに見てやろうとは想わなくて、早く自分のホームページを作らなくちゃあと想いました。外山さんなんかもの凄く頑張って居るなあとおもいますが、・・・・ええっ、光愛病院に入院しているとき、たしか高田さんが言ったと思います。革共同問題(中核と革マル)と連合赤軍問題という風におっしゃいました。それから僕としては三島由紀夫さんの自決のことも加えたいけど、この少なくとも三つの問題という錠を開ける鍵を手に入れない限り、出口を開けられないと想います。まあ、そういうわけで、面白いと想ったけど、あまり見ようとしなかったし、今見ようとしたら、「File Not Found」というわけで、今はどうなされているのでせう。
「30代文化人」という言葉が出てきますが、外山さんは20代の人ですか、・・・・・・「ゆうちゃん年3つ」って言ったら「俺、4つ」と言った人に、小野田さんの出版祝賀パーティーに参加する前日、頭を剃るために行った観音の湯で偶然出会いましたが、僕はなんか高校生ぐらいの気分も少しもっているけど、頭が禿げたせいで、自分が老人になったような気もしている40代文明人です。
ええっ、テレビもニュースぐらいしか見ないし、新聞も、週刊誌もちゃんと読んでないし、もちろん、というかそういう「文化人」の読むような本もほとんど読んでないので、宮台さんは、後のわたしの文章の中でも出てきますが、テレビで顔二回しか見たことないし、一年ぐらい前に知っただけかなあ、それから宮崎哲弥と言う人はこの数ヶ月前に、名前を覚えました。顔を見たのは、そうだなあ、小林よしのりさんが朝までテレビに出演された時初めて見たかもしれません。やっぱり二回ぐらいしか見たことない。
なんていうか、僕はどちらかというと、外山さんの立場に近いのか、この「闘わないこと」が「闘い」であり得た」「30代文化人」の立場に近いのかわかりませんか゛・・・・・・・・・いや、僕は一方では、連合赤軍事件も中核と革マルの内ゲバも日本が世界革命を領導する中心国なるために、引き受けなければならなかった十字架であると、その歴史的必然性を、・・・・・・なんか滅茶苦茶稚拙な文章ですけど、・・・・・・だからねえこれが解決できない問題なら、・・・こういう風にはわたしは言わないのですけど、・・・・・だからねえ、連合赤軍事件や内ゲバになっちゃって、もう日本で社会主義革命ができなくなってしまったのではなく、こういう一見解決不可能な十字架を日本民族が抱え込んだからこそ、本当に日本革命即世界革命になるような鍵鑰(けんやく)を手に入れることが出来るというわけなんです。なにを言っとるのかわからんようですけど、・・・・・・・・
ええと、馬鹿の一つ覚えで私はマルクスがこういう風に言っていることを知っています。ええと「問題そのものの中に解決があるとか、解決を見つけだす。」とか、また「歴史は人類に対して解決できる問題しか提起しない」とかいうようなこと。
ええっ、私は今、「馬鹿」と言う言葉がいわゆる差別用語で放送禁止用語になっていることを一応知っていてまあ、使わしてもらいました。その言い訳をどこかでしたいと想いますが、・・・・ちょっと、この問題について、雑誌「まぐま」の談話会でも提起?させていただきましたが、ホームページを見ていただいている人に対しても、同じ提起をしてみたいと想います。
以前、NHKの黒田あゆみアナウンサーが豊橋で講演をもたれたことがありまして、私は聞きに行きました。トヨタ生産方式の馬鹿ヨケという装置の話とのつながりから話されたことなんですが、彼女が言うには、「馬鹿」は放送禁止用語なのに「アホウ」はなんで放送禁止用語でないのかという話です。
「馬鹿」という言葉は、僕は何か中国の故事に、馬と鹿の区別の出来ないひとが居て・・・・・・云々から出来た言葉だと、なんか中学時代に聞いたように想っていたんですけど、広辞苑なんか引いても・・・・・・今引くと、そういう説は出てなくて、・・・・・・ばか【馬鹿・莫迦】
(梵語 moha (慕何)、すなわち痴の意、またはmahallaka
(摩訶羅)、すなわち無知の意からか。古くは僧侶の隠語。「馬鹿」は当て字)・・・というわけなんです。・・・・・それに漢字源で調べた限り中国語には「馬鹿」という熟語はないのですが、・・・・僕としては最初の「中国の故事に、馬と鹿の区別の出来ないひと」の説を採りたいのです。何でかと言います。そうでないと何で、「馬鹿」は差別用語であるのに「アホウ」は差別用語でないのかと説明がつかないからです。どういうことかと言いますと「アホウ」というのに当たる漢字を調べますと(広辞苑で調べた限りのことですが)「阿呆」とも書きますが「阿房」という漢字を使うようでして、【阿房死に】【阿房狂い】‥○阿房に付ける薬なし・・・とか言葉が並んでますが、しかしこの「阿」にも「房」にもそういう意味あいは出てこないような気がするんですね。‥そいで見ていたら、こういう言葉がありました【阿房宮】です。これは何かというと・・【阿房宮】秦の始皇帝が渭水(イスイ)の南に築いた宮殿。未完成。一万人を収容できたという。遺跡は西安市の西郊、阿房村にある。・・・ついでに秦の始皇帝を引いときました。
し‐こうてい【始皇帝】‥クワウ‥
秦の第一世皇帝。名は政。荘襄王の子。一説に実父は呂不韋。第三一代秦王。列国を滅ぼして、前二二一年中国史上最初の統一国家を築き、自ら始皇帝と称した。法治主義をとり諸制を一新、郡県制度を施行、匈奴を討って黄河以北に逐い、万里の長城を増築し、焚書坑儒を行い、阿房宮や驪山(リザン)の陵を築造。(在位
前247 前221・前221 前210)(前259 前210)
・・・なんか、だから僕はこの「阿房」と言う言葉はこの「阿房宮」から由来するのじゃないかとふと思ったんですが、どうなのでせうか。どなたか識者の方が僕のホームページを見られたらお教え願いたいです。
「中国史上最初の統一国家を築き」か、それが良いことか悪いことなのかわかりませんが、それに「万里の長城を増築し」たんですね。まあ仮に統一国家を築いたことが良いことだったとしても、人民にっていうか、とんでもない犠牲をしいたのはあきらかなことだろう。そういう犠牲の上に「阿房宮」という宮殿がつくられたわけで、中国の大部分の民衆にとっては阿房らしい話だということだと想います。
だから「馬鹿」 というのは弱者を否定する言葉だから差別用語になり、「阿房」は強者、悪い強者=悪い権力者を否定する言葉だから差別用語ではないというじゃないということじゃないかと想うのですが、・・・
まあ、それはさておき、僕としては宮台真司さんやら、宮崎哲弥さんやらと出来れば論争したいと思うけど、向こうはいっぱい本読んでいて知識いっぱいあって、僕には全然、正攻法では相手にならないと想うし、この外山さんなんかも勉強よくしていて、僕は負けると想います。
しかしながら、私の問題意識の一端でも、みなさまに知っていただきたいと想いまて、最近雑誌「まぐま」三号と超猿萬刷に掲載させていただいた二つの駄文をこのホームページ上でも発表させていただくことにしました。
しかし、その前に、小野田襄二さんの出版祝賀会で、小野田さんの塾の教え子だったひとが「幻のゲーム」という詩を発表(朗読)されて、ええっ、僕は上手く言えないですが、この詩は上手く言ってますねえ、「透明な存在の不透明な悪意」かそういう言葉(本)もありますけど、今の時代を上手く写しているとおもいまして、何か曲でもつければ売れるかなあなんても想ったりして、まずこれを、無断で掲載してしまいます。
幻のゲーム
..............................................................横谷 究
眼を瞑っても忘れられない昨日があるなら、
感じやすい夜の闇を また騒がしく、また鎮める眼差しが底なしの底を見る。
この世はゲーム、都会は素敵な玩具(おもちゃ)、
遊び疲れて、昨日を速く、ひとつひとつ俺が終わっている‥‥。
感じ続けていても、街の光は俺を忘れ、
違う誰かをまた照らし始めている。‥‥いつか夜明が掌をひろげるように
街をまた元通りに変えていく。
「いいも悪いもみなおなじ」この世じゃ意味がない。
「いいも悪いもみなおなじ」はじめからそんなものなかったように
振舞っている。
こころという幻も、いつか、カラクリがあるんだ‥‥
出遭い出遭わされ、その道に佇む者たちに教えられ、右へ左へ扱われ。
鎚るべきものも、素直な眼で見られるのも捨てて、
俺たちはこの世のゲームに小さな魂を賭けている。
ふざけきれないこころがなにを求めても、
冗談にできないこころが人眼を逃れて嘘をまた探しても。
どんなに理由を積み上げてもものにならない明日、
「いいも悪いもみなおなじ」この世じゃ意味がない。
「いいも悪いもみなおなじ」はじめからそんなものなかったように
振舞っている。
こころじゃ果たせない明日を見るなら、
世の中が捨てた玩具(おもちゃ)‥‥、たったひとりの道。
もう心じゃなにも見えないあなたに‥‥
この世はゲームという贈りものを授けてくれるのかも知れません。剥き出しのこころでは生きてゆけない世の中を渡っていくために、
いつか冗談にならないはずの冗談を覚えて。笑えないものを無理に笑って、
はじめ見たのとは違う幻を見る、鏡に映る無理に笑わされた人の顔を見る。
その場限りのことばで生きていく人生もあるのに、わざわざ理屈を積み重ねて
なにかを知らさなければならない人生。正しさと理屈、それを知らなければ
口を塞がれてしまう人生。ふざけた心を貼りあわせても、なぜか覗けてしまう無理が
なにかを強いて、サマにならないことばを無理に覚えて、いつか、
理屈で人間をオモチャにしている自分に酔っている。自分の哀しい習性から
逃れようと吠え、世の中が捨てたゲームを拾って自分に酔っている。
世の中のゲームから捨てられた、あなたへ‥‥
世秋恭之介様へ・・・ 萬刷号外出来具合経過報告?(佳和服裕太郎)
.............................................................................................................佳和服裕太郎
ええ、最初に、吉本隆明さんの「重層的な非決定へ」という本の中の「小林秀雄について」という論考から短く的確に抜き出す知恵を持たないので、しかたなく少し長く引用させていただきます。
言語が介在する人間活動のうち、幸運にも行為を示唆する 言語と、示唆される行為とが、うまく因果的に連結されてい ることがある。歩きたいという願望が言語的な概念を喚起さ れたとおもわれるやすぐに、歩くという行為に移った。抗弁 したいという願望がそのまま、言語に表出きれて抗弁を成立 させた。だが歩きたいという願望が、歩きたいという発語と
も、歩くという行為ともすぐに連結されず、遅延することが ありうる。また立ち消えて発語にも行為にもゆきつかないこ ともありうる。わたしたちはこういう遅延や立ち消え現象が、 意識の原因に内在するときそれを「自意識」と名づける。こ の「自意識」という遅延または立ち消えは、いずれにせよ行
為の表出にまつわる強い制止と意識の奔騰のあいだに、分裂 としてあらわれることは疑いない。この「自意識」という遅 延あるいは立ち消えにどんな時代的な必然(時代意識として の必燃)があるのか。あるいは単に人間的な不幸の表象にす ぎないのか。この問題が文学という言語表象の行為に外化さ れたとき、自己解剖を伴わない対象解剖も、自己批評を表象 しない対象批評もありえないことは、西欧の近代批評がまず 開示してみせたことである。
この「・・・論」が、行き詰まって書けなくなっています・・・ということから、この吉本隆明さんの小林秀雄小論の一部を引かしてもらっているということですが、今となっては十年も前ぐらいかもしれませんが、その時はもう少し短く引用させていただきましたが、これを引くことで、これを接着剤とすることでその後言葉が出てこなくなって(遅延や立ち消え)しまったのを息を吹き返すことが出来たことがありましたが、他ならぬこの世秋さんへの手紙(萬刷号外出来具合経過報告?)そのものがそういうこと(遅延や立ち消え)になってしまうのでないかと心配してしまいます。
最初は、普通のというか本当のというか私信ですか、ということでこれを書かしていただこうと思いましたが、露出症というのか、・・・うむ、これも作品?にしてしまいたいと考えを変えたわけです。次ぐらいの萬刷の原稿にさせてもらおうかと思います。
一応また、日付を入れさせてもらいますと、パソコンの時計で零時四十二分か、・・それでだいたい五月二十二日です。「だいたい」というのは、これ(世秋さんへの手紙)を今日書き始めたのではなく二、三日前から書き始めているからですね。それに日付をいれたのは大場さんの編集された最新の萬刷のことも触れてみたいと思ったからです。
今回、憲さんのに「コンピューターは人間を越えられるか」というのがありますが、AIBOだったかな、ソニーのロボット犬が発売されました。なんか驚異を感じます。このままでは機械、コンピューターに人間が征服されてしまいそうです。もちろん、コンピューターと人間は共存、調和していかなければならないわけですし、・・・憲さんの言葉を借りれば、コンピューターは次々に人間の仕事の肩代わりをしてくれるようになってくるとはいえ、あくまで「機能事物」であり本質的に「精神事物」たる人間を超(憲さんの使った「越」じゃなくて「超猿」の「超」を使った)えることはできないわけですが、とはいえ機能事物がどんどん肥大化してしまってそれに対する精神事物が全然追っついていないというのが現状でせう。
そこで、最近頭が坊主になったとはいえ私は大きな袈裟を着けれるような人間ではありませんが、大きな袈裟を着けたつもりでいうとすると、そうしたコンピューター現象なる機能事物の肥大化に見合った、いやそれを凌駕する精神的事物超大化運動の突破口を押し開こうというのがこの他ならぬ「・・・論」なのです。
ちょっとここで、こういうことは一種事務的なことだし、「節操のないひとでもそれなりの節操をもたなければならない」から、本当の私信に書くべきで、こうした公にすることを前提にした偽私信にかくべきことではないかもしれませんが、こうしたことが、「新時代」らしさ、「超猿」らしさ、「まぐま」らしさとはいかにというようなことを問うとの関係もありそうだし、「無根拠」ということでもないと思われますので、まあとにかく書きます。
うむ、もうじき午前四時になるなあ、・・・機械修理でもの凄く疲れてご飯食べて、七時ぐらいに寝て、零時
過ぎに起きたのであって、ずっと起きていたわけではないんですがね。前の萬刷さばくって、なんとなく前の記事を読みながら一時間ぐらいさがしたけど、世秋さんの萬刷購読料の支払い方法が書いてあるのみつかりませんでしたけど、たしか切手でもいいですよねえ。僕が頼んで随分前にお代を預かっているんですけど、この「出来具合経過報告?」といっしょにお願いしようと思って遅くなってしまったんですが、尾道の赤阪氏の購読よろしくお願いいたします。
尾道の赤阪君というのは広島県ですよということも云いたいわけです。つい最近、再確認しましたが生長の家現総裁谷口(荒地)清超(うむ「超猿」の「超」です)先生も広島の生まれです。中川敦子さんもそうか。
うむ、大蛇ーかあ。うむ、和歌山というのは和歌の山ということか、山は蛇ですねえ。菊地さんの顔は変わっていますよね。更紗のカカポタカヘさん大場さんらの集まりに、新顔の細川さんも連れだった祭文からのグループが以前合流しました。そのときの帰りのときに、ぼく菊地さんに云ったことでもあるけど、顔の作りじゃなくて表情というかですね。世間にないような顔だって。以前よく女性に間違えられたそうですが、男だか女だかわからん顔だって思いますね。なんか、この萬刷に載った写真を見ていたら、出口ナオのことふと思った。
それに、この鳥は、三本足のカラスだな。これはUFOのことだとも聞いていますね。
まぐまの広告が出ています。・・・・今、五時四十一分か・・・漸く見つかった。田中一生さんじゃなくて一生さんにも年賀状だしましたが、直接お会いしたことありませんが、超猿の田中春二さんに年賀状をだしたら「学と文芸」という自由投稿誌を送っていただいてそのお返しに「まぐま」をお送りし、それに付ける手紙(二号の「彼の手紙」がヒント)というのを三号に載せてもらう原稿にもしようと考えていますが、まだ全く書いてないので出来るかどうかわかりません。
ここれ辺までがだいたい前半で、いよいよ本題に入って行くという感じでせうか。まあもとより話の脈絡が飛んではっきりしてはいませんがねえ。
]
新時代二十四号の編集後記で田中さんはこう云っています。
うち(「新時代」)の方は個人がそれぞれ独立した基盤のもとで、あくまで〈作品〉を提出しようとしているのに対して、
『超猿』は共同体がまずあって、その基盤にどこかの部分で依存したいという〈ふんわりとした意識〉がなれあおうとしているからだ。
それからもと後の方では ・・・しかし
『超猿』は菊地慧之氏が抜けたことで、存立の精神を失ったんだ。
ということで、そういう意味で、超猿萬刷はあっても超猿は、そういう共同体はないのだろうけど、・・・ええっ、実際、定例会もなくなっているわけで。
まあ、しかし超猿がなくなりつつあるなかで、世秋さんが、超猿を「なれあいの場」でなく「論争の場」にということで(わたしがそれに答えて「プロレス作家」云々した)、超猿の新時代化が図られる一方、「『新時代』の足跡が続く」という「まぐま」はしかし、べつに共同体を作ろうというのじゃないけど、別に批判しているのじゃないし、いいことだと思うけど「パロディ松本神教え・・」にしても、広告の「笑ってなんぼじゃ」にしても、だらっとした感じで、なんとなく超猿化していると思いました。
文章の量がどうも随分膨れそうで、・・・ううむ、僕が自分の文章だけ会員数分刷って、僕のために郵送料が余分にかかるといけないから、10円切手会員数分送るという措置を取ったとしても、憲さん、菜の花畑さん、小倉さんとかならあんまり気を使わないけど、その他の編集担当者に、・・・それをお願いするというのはちょっと気が引けるので、これだけ文量が多いとね、まだどれだけ膨らむかわからないし、・・まずこれを萬刷号外として出さしてもらうことを世秋さんにお願いしようかなあ。
この「・・・論」が息詰まってしまっているわけだけど、今の段階で書きたいと思っているけど書けないんだよねえということ書いてみたいと思います。
ええっ、そうじゃないかもしれないけど、なんかみんな元気ないようにおもえるけど、私も元気ないんです。それでというか、別に「それで」じゃないかもしれませんが、新時代二十四号、関西気功協会の原さんという人に手紙といっしょにお送りしようとおもって手元に持ってきてあって、なんとなくまた読み直しました。まずまた自分のから読んで、世秋さんのも読んだ、読ましていただいたというかですけど、取りあえずは後にさせていただいて、小山昌宏さんの「戦後サブカルチャーの政治史 ― ゴジラからオウム真理教へ―」というのを改めて読ましていただきました話です。最近の引っ越しの知らせのお手紙には「ここ数年、勉強不足の日々に・・・」ですけど、「うむ、よく勉強しているなあ」というのが改めて読ませていただいたときのだいたい最初の感想だったと思います。前にはあんまりきちんと読まなかったです。なんでかということを考えますと、今もそうですが、僕は革命パラノイヤでして、しかもこの当時は、おそらくわりとハイな状態じゃなかったかと思うのです。共産主義革命の内容が問題ですが、・・共産主義革命なんていうとイメージが小さくなるから、うむ、小山さんも「夢みるユートピア」(萬刷)だそうですけど、ユートピア(共産主義社会)といった方がいいかもしれないけど、小山さんは「ユートピアとしての共産主義の可能性がないことも承知している」ということですけど、私は「承知していません。共産主義革命は可能であると思います」ということからです。
いや、私の考えているユートピア実現の方法を考える上で実に示唆的なので、その前から、一センテンス引用させていただこう。
だか私たちはもう既に永らく瑞穂の国を支配し呪縛しつづけ た「天皇制」に戻ることは出来ないし、ユートピアとしての 共産主義の可能性がないことも承知している。
それで、「共産主義の可能性」はもうないということから、小山さんは、宮台真司さんの『終わりなき日常』から引用して結んでおります。
ええっ、荻原さんが「まぐま」に教養について書かれて、今回萬刷で世秋さんが「「教養とはなにか」についての僕の答へ」を書いておられますが、わたしも教養という問題を取り上げざるえないわけですが・・・
それから、少し前に、田中さんの新時代と超猿の違いついて述べられているのを引用させていただきましたが、わたしは超猿の共同体的性格をとりもどさなければならないし、同時に新時代的に互いに切磋琢磨して個をみがくことをしなければならないとも考えています。そのためには「存立の精神」たる菊地慧之さんが定例会にきてもらえるようにしなければなりません。
なんでこういう偉そうなことが言えるかといいますと、この「・・・論」というのは世秋さん批判という要素もあるのですが、もともと・・・女史は菊地さんを通して超猿に関わったわけですし、彼女が歌を歌ったとき春男さんが怒ったそうです。そういうわけで、僕と、世秋さんの論争は、菊地さんと春男さんとの代理戦争という側面を持っているからです。
ああっ、この「僕と、世秋さんの論争は、菊地さんと春男さんとの代理戦争という側面を持っているからです。」というのは「・・・論」で書きたいと思っていたことのひとつです。
僕はまた「・・・論」で、マルクスが云っているギリシャ云々ということと小林秀雄のこととをどう展開しようかと困っていましたが、この小山さんが結びに引用した、宮台真司さんの引用文からもしかしたら突破口、出口ナオになるかもしれませんと思います。
宮台真司と言う人はおそらくこのときは名前も知らなかったかもしれませんが、その後一冊、「透明な存在の透明な悪意」というのを買いました。・・・いま、塩見さんのホームページ久しぶりに十分ぐらい見ました。なんか、東京都知事選、共産党の三上と言う人ですかねえ、にしようか石原慎太郎さんにしようか迷ったけど、石原さんが日米安保破棄を云っているので石原さんに入れたって書いてありました。僕が去年の夏ぐらいにホームページ本格的にちょっとつくりだしたときに・・・ずっと半年以上また今手つかずですが・・・塩見さんのホームページを発見しまして、・・・その中で塩見さんと宮台さんが公開討論したという記事があったんです。それでちょっと興味もって一冊だけ買いました。その本半分読んでまあいいやと思ってやめましたが、・・・
ああっ、そうだそうだ吉本隆明さんのことを云うのだった。吉本隆明さん、こんだ悪人正機説云々で、プレイボーイに登場していますねえ。
話がメチャ散漫しておりま〜す。
ええと、まず、先ほどの、小山さんの、サブカルチャー、ゴジラ、オウムのさいごの宮台さんの引用文をここで重引させてもらいます。
『終わらない日常』を生きるとは、スッキリしない世界を 生きることだ。私たちが今日生きているのは、すべてが条件 次第・文脈次第で評価されるしかないような複雑なシステム である。にもかかわらず、条件や文脈は不透明だから、何が 良いのか悪いのかが、よく分からなくなってくる。そういう 混濁した世界のなかで相対的に問題なく生きる知恵が、いま 必要とされているのではないか。
これとねえ、ええと、吉本隆明さんの「重層的な非決定へ」と言う本、一等最初が、埴谷雄高さんへの返信なる「政治なんてものはない」、二番目にこの本の題になっている、やっぱり、埴谷雄高さんの「苦言」への批判ということで「重層的な非決定へ」なわけですけど・・・この大和書房の本の裏の帯にかいてあるのを引用させてもらいます。
ええっ、世秋さんは上智大学の卒論は「小林秀雄論」だったそうですが、・・・ちなみに、わたしは極々初歩的な哲学の通史みたいなものを知りたいということもあって、小阪修平さんの「哲学通になる本」というのを買いました。そいでまあ一応読みました。一等最初の「「哲学」ということばはどこからきたのか」に上智大学の話がでてきました。「上智大学ってどういう意味か知ってますか?」ってことで、セント・ソフィアを直訳すると聖知大学になるそうですけどあまりに露骨というかで上智大学になったそうです。そいで最後はハイデッガーが出てきて二十一世紀初頭にかけての課題は「自己と倫理だ」というような結び方しています。
荻原さん「まぐま」三号も世秋さんと同じ「小林秀雄論」ですね。世秋さんのそれを公表してほしいとも思いますが、ぼくは今から少しだけ荻原さんの批判をしてみようかと思っているんです。批判かどうかわからないけど、まあ、やってみたいと思うのです。それから小林秀雄さんを突き抜けて、菊地さんの無根拠の旅までいきたいと考えているのですがね。
ああっ、引用するだった。あっ、いや、ここで云っときますねえ。僕の処女作というか超猿十八号に載った「「重層的非決定へ」から限りなくネオ・ファシズムに近いニュー・ファションニズムへ」というのありますでしょう。そんなこと気づいたひとがあるかどうかわかりませんけど、一応これは吉本隆明さん批判なんですよ。一応云っといて・・
「重層的な非決定」とはどういうことを意味するのでしょ う? 平たくいえば「現在」の多層的に重なった文化と観念 の様態にたいして、どこかに重心を置くことを拒否して、層 ごと同じ重量で、非決定 的に対応するということです。私 はしばしばそれを『資本論』と『窓際のトットちゃん』とを おなじ水準で、まったくおなじ文体と言語で論ずべきだとい 言い方で述べてきました。
僕は、これが先ほどの「『終わらない日常』を生きるとは・・・と同じこと云っているように思えたけど、そんなこと云ったら笑われるかねえ。
なんでこんなことこというかといったら、新時代二十五号の荻原さんの「小林秀雄とはだれか(一)」でまた引用が長くなるけど・・小林秀雄さん自身もそういっているということですけど小林秀雄さんは西欧キリスト教世界が分からないんだということをいろいろ云った後・・・
最後になるが、もう一度、次に示す小林の二つの文章を 見比べていただきたい。そして腹をかかえて笑っていただきたい。
ひとつ目は、
先入観を一切捨て、また、在来の心理学の方法で間に合わ ないなら、これもはっきり捨て、ただ、心理という生き物の 異様な生き方という事実に、忍耐強く堪えてみるということ は、だれにでもできることではなかったのである。フロイト は、それをやった人だ。患者の心を知るには、患者と直に付 き合うほか道はない。
そして、二つ目は、
無私と沈黙との領した注釈の仕事のうちで、伝説という見 知らぬ生き物と出会い、いつのまにか、相手と親しく言葉を 交わすような間柄になっていた。・・宣長が直に触れていた のは、言わば伝説という巨きな肉体であり、直に聞いていた のは、その発する言葉の、裸で重々しい音声であった。
いったい、この二つの文章のどこに違いがあるというのだ ろうか。「フロイト」を「本居宣長」に、「患者」を「伝説」 に置き換えてみればよい。まったく同じである。つまり小林 の論法ではフロイトも宣長も(呆れ果てたことに)同じにな ってしまうのである。(傍線は引用者)
ええと、偉そうに荻原さんを批判するとか言ってましたが、取りあえず引用するにとどめておきまして、話が「散漫」じゃなくて錯乱してきたと言ったほうがいい様相を呈してきそうです。なんかもう世秋さんへの手紙じゃないし、ヒッチャカメッチャカのデタラメになってきたけどとにかくこのまま突き進むことにします。
前、新時代か超猿で、喩体の方法という事柄をあつかったことがあって、世秋さんの「こども内閣」はさながら重層的喩體の方法で書いてある、なんてことも書いたことがある。そうした喩体の方法に対抗して、僕は「ゆいたい(言いたい)」の方法というのを発明したというはなしをした。・・・ほいで、もっと重装備の論理を、と言っても漫文だけどね、萬刷に載るわけだし、うむ・・・もう一回ゆう(言う)。もっと重装備の論理を構築したなかで、これを言いたかったんだけど、とにかくゆうだけゆうことにした。吉本隆明さんが「言語にとって美とはなにか」という本をだしておられるけど、言語にとって美とはねえ。本多延嘉さんの政治論文「レーニン主義の継承か、解体か」です。それでこれが何で「美」だとなかなか認められないかと言ったら、そうは見えないんだけど本当は喩体で書いてあって、それゆえ何がゆいたいのかなかなかわからんわけです。全然つうじんだろうけど言うだけ言っときました。
田中一生さんが、東大全共闘の山本義隆が敗北の責任をとって自決していれば、・・・・・・・
いや、今、新時代十八号を持ってきました。田中さんの「ふたたび、服部明氏へ」というのです。
一番カッコいいのは自決することでした。あの安田講堂に おける機動隊との抗争で最後に代表が腹を
切れば、私は学 校のその後はもう少し変わっただろうとまじめに考えている ものです。それに危機感を感じて警察に電話したのは三島由 紀夫でした。先を
越されてしまうと思ったのしょう。そし て結局、二枚目の役を三島はとってしまった。日本の左翼の 敗北がそこにありました。
そういうことからすると、まだ左翼は敗北してないですよねえ。マルクスの学位論文ですか「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」の最初の方で「しかし、英雄の死は落日に似ているのであって、膨れあがった蛙の破裂には似ていない。」というのがある。「蛙の死」でテブーしたのは夢枕獏さんですけど、カッコいい死に方じゃないように思うし、英雄の死でもないかもしれないけど、山本義隆さんよりもう少し偉い人だと思いますねえ。今引用させていただいた田中さんの文の上の段には「セクト化していき内ゲバ・・」というような文面もありますが、「黒田にはそれ相応の責任とってもらう」(七五年新年号「前進」)って、俺はこれだけ纏めたからって殺されるべくむりやり戦争しかけて、わしら赤ちゃんだから、まだ自分の尻拭いようでけん。あとは黒ちゃんお願いしやすよというわけでしょ。
五月三十日(日)。また日付入れてしまった。午前十時になるなあ。今しがた、まぐま二号にのった「日本的限界とはなにか」をもちろんというか、二号を手に入れたときにだいたい一等最初に読ませていただいたように思いましたが、なんとなくまたパーって飛ばし読みしました。それから、最近買ったを本を三冊の本のことちょっと言うかなあ。「謎のカタカナム文明」(阿基米得)「守護霊の不思議」(谷口雅宣)ハーモニー・メディテーション(ラエル)です。
ハーモニー・メディテーションは加藤さんという、・・・・うむ、日本ラエリアン・ムーブメントか、その会員である豊川の友人(生長の家が縁で知り合った)に買っておいてもらったのですけど、・・・・・・・
それで?本屋にいって、思ったことは、あらためて本って沢山あるなあと思ったことです。荻原さんが「まず内容以前に、充分調べてからものを書いていないというのが問題である。」と言う風に言っておられますが、正式にというかなんか物をいうにゃあ、ここに並んでいる本を買った端から(「片っ端から」書くつもりでいたがこの方がいいと思った)読んでいかんとならんわけでしょ。しかし、だいたいその棚に並んでいるのはまだその価値の真偽もさだまらぬ上、売らんかな今日的時代状況に応じた通俗的に書かれる要素を多分にもっているものですし、しかしそもそも古今東西の古典といわれるもののを読破した基本的?教養を前提としているし、もっと本質的?本源的?には・・・・正式にはねえ、翻訳したものじゃなくて原典を原語で読まなくては、・・・ということになってくるわけですけど、本当になんか言うにゃあ。・そういうことでは・・・もちろん新しい正しい世界観を自分の責任で作ろうというのならそういう手続きをふむことは全く当然のことでありますが・・・そういうことを前提にしないと物を言っちゃあだめだとすると私が生きている内にはなにも言えなくなります。
あっ、そうだ!人間ドックの帰りに、なんかいいことないか・・この「日本人の目玉」を買ってみようかなあと思って本屋に寄ったのでした。これはなくて上の二冊をなんとなく買いました。
あとで荻原さんを批判してみようと思うけど、荻原さんなんかと比べるつもりはないですけど、小山さんとか世秋さんと比べて・・・・うむこの後順番に新時代、まぐま、超猿の関係の名前をだしていくと・・うむ、・・・・とにかく基本的教養なんてないです。十五年ぐらい前かな、どうも僕についている霊が本を読ませないようにしているとしか思えないと思ったことがありました。であるがゆえにといえましょうか。いろんな活字を通じての裏付け無しに、いろいろ偉そうなことを言うかというと文章がノッて書けているときなんかこれは自分が書いているのじゃないなあという意識があります。代紋じゃなくてダイモン・・守護霊、指導霊?・・・・それが書かせていると感じているからです。だから私が責任とるんじゃないって無責任をきめこんでいるわけですよね。前に、新時代に、ハイデッガーの「存在と時間」ですか、それを僕、背表紙をみたことがあったけど・・・・ええっ、背表紙をみたことがあったというのはねえ・・・チュウ組織にいるとき、指導部の仲本君のアジトに連れていってもらったことがあって、そのアジトの本棚に、文庫本じゃなくて、豪華本じゃないああいう堅いカバーのついた大きめの本はなんていうの、その本の背表紙に「存在と時間」と書いてあって、うむこんな哲学の本があるじゃないかということで、なんか手にとって見ようとしたら、仲本君見んでもいいと言われて、それっきり、ええっ、たしか去年になって文庫本、上中下か、上下だったかなあ買うまでハイデッガーの「存在と時間」という本触ったことすらなかったのです。にもかかわらず、たしか新時代二十四号で「ハイデッガーが存在と言っているのは端的に言ったら神のことだ」とか言ったのは、インスピレーションというのかもしれないけど、そういう想念を僕に送った見えない存在がいるからなんですね。その後、日本人智学協会の高橋巌さんの講演録読んだら、ハイデッガーの存在というのは神のことだというように言っていて、やっぱり正しいんだと思いました。講演録を先に読んでいて本人(私)がそのことを忘れてしまっていて・・ということも考えられますが違うと思います。高橋巌さんも「私たちの神様」と言う言い方したことがありますが、別に僕に代紋いやダイモンがついているというのじゃなくて、日本人智学協会とか超猿とか新時代、まぐまとか関西気功協会とかだいたい同じ代紋なんなのじゃないかと思うのです。山口組じゃないと思いますが。
ええっ、ちょっとここで、今までにも増して、錯乱というのか、支離滅裂というのか・・・・まあ、混乱程度かもしれませんが、話かがアッチコッチ飛んで分かりづらいことと思いますが・・・「・・・論」で、シャガールの絵に託けて私の文体のこと言うと言って言ってないので、ここらで言って見ようかと思います。だいたい今日は6月の6日ですけど・・・今日三味線を習いに行って、師匠が今日6月6日というのは大変いい日だというんです。知りませんでしたけど、日本だけのことかどうかしりませんが、お稽古ごとは6歳の6月6日から始めるのが一番いいのだそうです。知っていましたか。それともある程度の常識なのですかねえ。僕よく見ますが昨日も、666の車番みましたけどねえ。今月の萬刷担当の木村さんに送った原稿のことでメールいただいて、木村さんのホームページを拝見したことから松本教の教祖というのは木村さんだということがわかりました。ああっ、シャガールの話なんですが、わたしの文章は老人芸ほどナンセンスじゃないように思うけど、老人芸があるから・・・もう気にすることない、恥ずかしがることはないと思ってなんとなく気が楽になりました。高知美術館でシャガール展を見る前にシャガールと言う人はシュールリアリズムみたいな絵を描く人でフランスの人ぐらいしか知らなかったし、シャガール展を見てからも、その前にもユダヤ人ということを知っていたとも思うけど、改めてその美術展でユダヤ人ということを確認したことぐらいで、そのあとなんの知識を得ようとしてないわけで、その美術展で見たシャガールから得た印象にすぎない、いや、シャガールの絵の印象ではないな、とにかくシャガールの絵を見て僕の文体についてこんなこと思ったんです。シャガールの絵というのはなんとなく子供の画くような絵だと思ったし、そこに展示してあった多くの絵が、フランスのおとぎ話の挿し絵としてかかれたものが多くあったということからそういう子供っぽい絵になっているとも思いますが、あっ、そうそう、その挿し絵の展示してあるところに、フランスのおとぎ話の挿し絵にシャガールの挿し絵をいれることについてフランスの民族主義者からクレームがついたという趣旨の解説がされていました。シャガールがユダヤ人だからということじゃなくて、その絵がユダヤ人的絵だからふさわしくない。シャガールがユダヤ人でもそれ、その挿し絵がフランス人的絵ならいいというようなニュアンスがあったようにおもう。
ええとねえ、・・・・あっ、見つかった新時代かと思ったら、まぐま創刊号でした。荻原さんが「日本的、あまりにに日本的――竹田青嗣感傷的批判」というの書いているでせう。二、三日前、萬刷に大場さんが紹介していた本、本屋さんに注文しにいった時、なんとなく買ってきました竹田青嗣さんのですけど、「「自分」を生きるための思想入門――人生は欲望ゲームの舞台である。」というの、・・・うむ、第五章「私」と世界・・ですけど、いまさっき「いかにも日本的な、ポスト・モダン」という小見出しのところ開いていました。その筋のひとの間ではというか、一定レベルの人たちの間では別に常識かもしれませんが、・・・ええっ、プロフィールを見ると、「「在日」の根拠」という本も書かれているようですが、この人って在日韓国(朝鮮)人なんですよね。あっ、そうそう小山さんなんか当然ご存じでしたかねえ。前田日明さんもあの人在日のひとでせう。よくしらんけど三島由紀夫さんや小林秀雄さんにいかれているらしいけど。
シャガールの絵に託けた僕の文体の話です。シャガールがそういう人だというのではない。さっき書いたようにシャガールの絵の実物を見た以外は新聞以下の知識しかないのだし、シャガールの本質なぞわからないけど・・・・シュールリアリズム的な絵そのものがある種の邪道なような気がしますが、色がついた完成された絵以外に・・・いや、完成された絵といってもシャガールの絵はなんか少し不慮っぽい少年が靴の後ろを踏んづけているようななんかそんな印象をもったけど・・・まだ色づけしていない、試しに書いたスケッチがたくさん展示してあったんです。画家の全体像を紹介、知ってもらうために、そういう舞台裏を展示するのは別に普通のことになっていますが、レストランのテーブルの席につくのに裏口から厨房を通っていくようなもので、なんかこれもある種の邪道ですよねえ。くどいですがわたしの文体の話です。うむ、シャガールを持ち出さなくても説明できたなあ。シャガールの絵は踏んづけた靴のようで完成されていないようにもおもうけど、この人にとってはこれで完成品なんだ。ああっ、わたしの文体の話です。新時代21号でラフファイターの「ラフ」と裸婦を掛けて「らふスケッチ」と言う言葉を使わせていただきましたが、・・・本来スケッチというのは完成された絵を描くためのいろいろの試し画きでありまた下描きなんだろうけど、画家のなかには一生、試し書き、下書きのスケッチだけ描いて終わってしまう人もいるだろうと思ったわけです。それが僕、裕ちゃんかなあと思ったわけです。
さっき、荻原さんの「日本的・・・」を飛ばし読みしていたら小林秀雄さんの「近代絵画」からの引用もありましたが、5年以上前に尾道・・・いや、その時には尾道に帰っていなかったなあ、まあとにかく尾道の友人赤阪君から、これ読みなさいということで、その「近代絵画」を戴いていますが、ほんのちょっとところどころ読んだ気がしますが未だに読んでいません。なんとなく・・・うむ、木村=松本さんも普段は常識的な新聞記者だけど、酒が入ると、なんか「謎の憑依現象に襲われ」るそうですけど、・・・うむ、なんとなく、さっきぐらい最初の「ボードレール」の一ページ目を読みました。冒頭から少し何となく引用させてもらいます。
近頃の絵は解らない、という言葉を実によく聞く、どうも 馬鈴薯らしいと思って、下の題名を見ると、ある男の顔と書 いてある。極端に言えば、まあそういう次第で、さて解らな いということになる。
それから飛ばして
そして、確かにレンブラントは、本物をいかにも本物らしく 描いていた。
あれは、レンブラントじゃないのかなあ。高橋巌さんの美術エッセイ集?「ヨーロッパの闇と光」に、その絵(肖像画)が確か載っていたのだけど、ちょっと老人ぽい人が鉄兜を被っているような肖像画。この絵を通じて、人間の自我というものを対象化しようとしているのだみたいな説明だったように思いますが、だいたいこの絵を見たぐらいの時に、僕はヨーロッパの文化って要するに自我の文化なんだというような理解をしたのじゃないかなあ。
しかし「ヨーロッパの闇と光」の本が見つからないので、それがレンブラントかどうかわからない。結局ほとんどの人がつかわないで宝の持ち腐れのようなものですが、昔、百科事典をどの家も揃えたようなことがありましたね。買ってもらった子供が親になって子供の部屋が狭いということで、私は3種類、全部で50冊ぐらいか、百科事典を貰ってきたんです。さっきそれでレンブラントのところを見ても、それは見つからなかったし、またシャガールもついでに見ているうちに、シャガールの本質はわからないといいながらも自分の直感を買いかぶって信頼して「シャガールの本質はこうだ」と了解していたものが、どうも違うように思えてきて、だんだんますます自信がなくなってきまして、なんか今からいうことが的が外れているように思えてきました。しかし、的をワザと外すとしたら老人芸になるわけですよね。あっ、それから昨日・・・うむ、今日は日付いれてないけどね。昨日、木村=松本(松本新教教祖)なんて書いてしまいましたが、今日メールいただきまして、木村さんと松本さんは別人でして、友人だそうです。
それから、荻原さんの文章を読みながら、なんとなくこれはそうじゃないじゃないかと思うことがあるわけですが、・・・「なんとなく」というのはだって知識がないんだから直感で思うしかないんだからね。そうして、自分の直感的判断をもう少し検証すべく、いろんな資料にあたってみるなんて学者じゃないからしませんでして、もう一度、読み返してみるということだけなんですが、そうすると、さっき思った「そうじゃないじゃないか」と言う判断がぐらついてきます。そいでおそらくさらに読み返すとますますぐらついてくるから、なんども熟読玩味するのはやめることにした。これは老人芸だから的が外れているのが本当、本物なんだから。
こういう風に言おうと思った。
しかし、もう午前一時過ぎたので寝ます。
自我を対象化・・うむ、普通、自我っていうのは対象化できないものだよねえ、象徴化?・・なんていうのかわからんけど、その老人ぽいひとが鉄兜を被った肖像画がレンブラントのものだとしたらレンブラントでもいいけど、レンブラントはわからないから、荻原さんが「小林秀雄とはだれか(一)」でアルブレヒト・デューラーの「メランコリア」をとりあげているから、・・・・うむ、またこのデューラーのメランコリアを探しているときにまたこの荻原さんの文章を読み返してしまうという失敗を犯してしまい、ますます、このまま突き進む自信がなくなってきた。・・・小林秀雄さんはベルグソンが好きなそうですが、ベルグソンに「笑い」という哲学論文あります。僕読んではないけど、岩波文庫だかで、ベルグソンのこの本だけ持っているんです。荻原さんの文章を読み返せば読み返すほど、批判するなんて到底出来ないこと益々感じて来ますが、この「笑い」という問題の一点だけというか、そこだけはなんとか言えそうな気がするんです。まあ、そいで、デューラーのこともわからないけど、世秋さんは「こども内閣」がルオーだと言っていますが、荻原さんの「小林秀雄とはだれか(一)」をデューラーの「メランコリア」にさせてもらって、対する僕は何かって言ったら、シャガールの完成された絵じゃなくて、シャガールの未完成のスケッチ(デッサン)です。この比喩が的を得ているかどうかわからないけど、的を得ていなかったら老人芸ということです。
まあ、そういうわけで、デューラーの「メランコリア」とシャガールの未完成のデッサンを比べてどっちが上手いと思うってみんなに聞いてみようと思ったわけです。
なんで、そんな無理なことをあえてするかと言ったら、荻原さんが可哀想だと思ったからです。
だって、おそらく世秋さんなんか、論語読みの論語知らずというのがありますが、荻原さんは小林秀雄のことがわからないと思っているだろうけど、・・この前あってどういう「難しい話」をしたかどうかしらないけど、木村さんには満刷購読お願いしたけど、荻原さんにはしなかったでせう。反論されれば荻原さん喜ぶだろうに、・・・世秋さんがしないから僕がするんです。僕は、小林秀雄さんのことわからないし、批判されても世秋さんみたいに傷つくことはないだろうからです。
僕は仕事の都合で、工場で昼は十一時にご飯食べます。何曜日が知らない(調べない)けど、NHKだけど、未来派なんとかと言う番組で、この前「全国猫だすけの会」の話をしていました。野良猫でも、家猫でもなく、地域猫という名前ができて、野良猫を餌付けして、地域で飼うということですけど、地域には猫好きも猫嫌いな人もいるけど、猫嫌な人にも、うけいれてもらうために、これ以上増やさないために去勢手術するというのは可哀想だと思うけど、猫の糞なども猫好きの人が当番で始末して、猫がすきだけど、家では飼えないひとが、猫を地域で共有するというような話ですけど、猫助けの話じゃなくて、人助けの話でした。猫に鈴を付けるのはだれの役目かということでもありますが、猫じゃなくて虎ですよね・・・虎に鈴をつけるのは鈴を付けられた猫の役目でせうか。
そこで、寅年は去年でしたが、ちょっと虎の話をする。・・・・今、隣の部屋の本棚から新潮カセット文庫「小林秀雄講演 本居宣長」を持ってきました。発行されてない超猿二十二号の「田中一生さんへ」で書きましたが、このカバーの斜め上向き加減のお顔はなんか春男さんと似ています。なんでこのカセットを買ったかというと、小林秀雄さんのこと凄い人だっていろんなとこで聞いたことがあったし、人智学協会でも言っていましたから、しかしどの本も難しくて簡単に読めないし、この人の神髄らしい、「本居宣長」は古文調の文体だから、古文漢文が全くわからなかった僕には歯がたたなかって、しかし、それでも、なんとか小林秀雄さんというのはどういう人なんだろうと思って、テープなら聞けるからって買ったわけです。このカセットは何年前にかったのかなあ。それ以来いくらも進歩してない僕が、小林秀雄さん自身の本でも何冊読まれているのかわかりませんが、荻原さんになんか言うなんてこと、なんかって批判するんだけど、老人芸にしかならないですよねえ。
しかしこのテープを聴いたとき、「な〜んだ」と思いました。なんか落語家が話しているみたいな感じ・・価値があるように思えなくて、「面白くない」思いました。このテープを買ったとき生長の家に入っていたのかなあ。この「面白くない」という思いは、荻原さんが「面白くない」と思った思いと内容がわりとちかいんじゃないかと勝手に思っているんです。プラトンの「パイドロス」の話をされるんだけど、聞いていてこの人プラトンのこと解るのかなあなんて思ってしまいました。僕は「パイドロス」もなにもプラトンは一冊も読んでいないのになんでこんな偉そうなこと思うかといったら、シュタイナーがプラトンだと勝手に思っているからです。
しかしながらですねえ・・・・・
主体の向きが逆なだけであって、「主体」は確立されているのだと僕は思うけど、・・・ええと、萬刷のキー・ワードを作ってくれていた、正に超猿のキー・ウーマンともいうべき浪崎一恵さんが超猿十八号の「ひとりごと」と題されたエッセイの中の「変だよなあ」というのがある。
変だよなぁ
ねえ昔話ってさ、よく考えてみると変だよね
だってさ
“花さかじいさん”は“花さかせじいさん”であるはずだし
“したきりすずめ”は“したきられすずめ”じゃない どう してなんだろ おかしいな
超猿二十一号の巻頭言で書かしていただいたことでもありますが、本当はというより本来はか「変だよなぁ」というほうが「変」で、「おかしい」と思う方が「おかしい」んだよね。
荻原さんも「変だよなぁ」と思う部類の人だろうと思いますね、・・その辺の説明を求めれば、まぐま創刊号の六十ページの辺の「近代」とか「主体」とかポスト構造主義とかなんやら書いてある辺ですが。「面白くない」というのは根本的にはこの逆の感じ、ギャグじゃなくて逆の感じが味わいが解らないからという感じがします。わたし、昔、茄子の糠漬けは食べれませんでしたが最近好きになりました。一応そういう歳になったからと言う説明はできますが、何で好きになったのかというのは根本的には説明できませんよね。
しかし、小林秀雄さんに・・・「同じことがまた行われたのではないだろうか。 それは疑うだけの価値のある問題だ。」とおっしゃられていますが、別に疑わなくてもはっきりしているように思います。何でかって言ったら、黒田節の二番はこんな歌詞がある。今から三味線の譜を探してきます。・・二番じゃなくて三番でした。
春のやよいの あけぼのに
四方の山辺を 見わたせば
もろこし人も こま人も
大和心に なりぬべし
「もろこし人」が今の中国で「こま人」が韓国の人をさすだろうと理解していましたが、間違うとこまるので、広辞苑引いたら、間違っているとはいえませんが少し違いました。
前、新時代の合評会の時、中村さんが、「わたしや能城さんの俳句なんか付け足しぐらいにしか思ってないのかしら」みたいなこと言ったけど、俳句か、俳句は和歌の一種といえるけど俳句は俳句だなあ。荻原さんも僕和歌和歌らないじゃないのかと思う。理屈は解っても味わいってものがさあ。和歌山の大蛇ーに行けばわかるようになるかもしれんよ。
ああ、虎の話をするのだった。
本居宣長のカセットに、こういうのなんて言うの、「しおり」っていうのかねえ。寅さん、車寅次郎じゃなくて小田村寅二郎さんの文章が半紙の表に載っていますが、寅の話って小田村寅二郎さんの話じゃありません。裏は「阿蘇の一夜」と言う題の文章で、まあ名前書くかねえ。夜久正雄という亜細亜大学の先生。このテープは阿蘇の地で行われた講演なんだ。聖徳太子様の話です。上智大学というのは本当は聖智大学でしたね。講演後の小林秀雄さんを囲んで出た話の内容です。
小林秀雄さんがこう言っているところがあります。
「聖徳太子は、日本最初の思想家だ。『義疏』(太子著『三経義疏』のこと)という本(書物)は、外圧をじっと耐えて爆発するように、日本人があらわれた、というものだ。太子を外国文化の影響に染まった人、という人たちがいるが、そんなものではない。あの人は本当の日本人だ。」まあ、ここまででいいんだけど、カギカッコの最後まで引用させてもらいます。「自分が犠牲になって歴史を作ったんです。だから日本人はみんな太子を崇めているんです。太子の苦しみが日本人にはわかるんです。それでなくしてどうしてあんなに皆んなが太子を憶いますか!」この後、小林さんは聖徳太子のことを自分は書きたいけどもう書けないので、どうか後のみなさんが書いてくださるように願っています。寅の話をするんだけどね。ああっ、いっしょに蛇の話と狐の話もします。
日本人とは何かということがそもそもですけど、聖徳太子って本当の日本人なのかなあと思うんです。お母さんは百済の人ってきいたことがありますが、わたしゃ高校の日本史程度の知識もないでして、5月の連休に体験したことを話したくてこういう話、・・・寅が出てきます。・・・をするんです。
わたしゃあ、いつも体の具合が悪いし、明らかにすることができない異常な体質なんです。簡単にいうと蛇が憑いちゃっているもんだから苦しいんです。蛇というのは唯物論の象徴だし、最終的にはルシュフェルかもしれません。憲さんなんか巳年でして正真正銘の蛇なんです。憲さんは霊と言う言葉がきらいです。シュタイナーも嫌い。憲さんなんか「霊は零でしょ。ゼロ、0、だから無いんですよ」なんて言います。父じゃなくて、おとうちゃんっていおう。おとうちゃんが5月の連休に、奈良に行きたいっていうんです。これはなんかあるなあと思ったんです。なんかあるっていうのは父が特別なことを考えているというような意味ではなくて、いつものようになんかこれは霊に呼ばれているのだなあと思ったわけです。まあ喚ばれていたわけです。
五月の連休は一日に日本人智学協会の催し物、オイリュトミー講演会、二日に生長の家の全国大会、帰ってきてすぐ三日に奈良に向かいました。オイリュトミー講演見ても、全然すっきりしないということもあって、あの新宿の駅前で、ニャンコのフクちゃんを連れて、ひとりでいろいろ大騒ぎしていました。「だんだん、だんだん動き出す」・・・新宿のカプセルで泊まって、翌日、生長の家の全国大会終わってもすっきりしなかったけど、大会が終わって、会場の出口を出るとすぐ、奈良県のプラカードを持った奈良県連の人たちが先を進んでいたので、「あした、奈良に行きますのでよろしく」とか声をかけながら・・うむ、奈良行きはもう最初から設定されているんだなあと思った。しかしながら帰っても全然寝れないし、体じゅうがいたくて奈良まで車運転していけるかどうかあやぶまれた。主に名阪バイパスを通って、多少の渋滞もあったが奈良にたどりついたものの、そして東大寺、興福寺、春日大社、法隆寺の見学それなりに有意義だったものの、・・歳をとっていてもいつも元気よく先だって行く母もなにかしんどいそうだし、・・僕も体がしんどいしなんか晴れ晴れしいきもちにはなれなかった。いや、信貴山に行くまでは・・です。このお山の千手院で泊めて貰ったら、そして朝のお勤めと護摩祈祷をしてもらったら、今ではまた元にもどっちゃっているけど、一旦は大変スッキリした気分になって、それが縁で家で毘沙門天をお祭りさせていただいています。信貴山は僕の宿泊させてもらった千手院以外に沢山の山寺があって、感動をつたえられないのだけど、異国にきたような、東大寺、興福寺、法隆寺などからうけるものと違った畏怖というか・・・・ええと、説明を省いて、言いたいことを書きます。
千手院で購入してきた「毘沙門信仰の手引き」にこの信貴山の言われとして「当山開創の聖徳太子も、物部守屋討伐の折、当山にて尊天に戦勝を御祈念され、その結果、太子はみごとに戦い勝たれ、この山は誠に信じて貴い山と仰せられ、堂宇を建立して尊天を自ら祀られたといわれています。」と書いてあって、毘沙門天が虎をお供に太子の前に現れたということですが、もちろんこのときの毘沙門天も虎も肉体存在ではないですが、虎はそもそも日本にいないし、学習院大学のシンポジウムで吉野裕子という女の学者さんから日本の神は蛇だと聞いていますから、・・ああっ、そうかそうか、・・女史の家に二回行ったとき私はどちらも食べなかったですし、最初は中華ソバで次が餃子、貰ったワニの縫いぐるみはメイドイン・チャイナで、彼女の描いた「狐の絵」を貰っているし、彼女は犬であるが狐はイヌ科なわけで、よく「おかあさんまた目がつり上がっちゃた」ってシンデレラ姫は帰ってきたわけだし、元芸者さんの私の三味線の大師匠は豊川稲荷の信者さんで、わたしが「荼吉尼天(だきにてん)というのはインドの神だってお稲荷さんに書いてあったよ」といっても「いや支那だ」っていって、ご本尊様、狐に載った観音様のようなものを見せていただいた。そういうわけで中国は狐なわけで、韓国、朝鮮というのが今回虎だということがわかったわけです。毘沙門天はそもそもインドの神でインドにも虎がいるじゃないかという屁理屈はうけあうわけにはいかないわけで、虎之助でもある加藤清正は虎=韓国、朝鮮退治したわけだし、聖徳太子は蛇=日本退治をしたわけですよね。なんでかっていったら、千手院でおみくじ引いたら、生まれて初めて凶が出て、最初の文言はこうである。
蛇(じゃ)虎(こ)正(まさに)―交(まじわり。)羅(つらなる)
・・・蛇も虎も人をがいするものなりこれにまじわりつらな.るはあやふきなり
家に毘沙門天をお祭りし、千手院で張り子の虎を買ってきたけど、ぼくの部屋には既に常陸出雲大社で買ってきた龍蛇神の軸がかけてあるわけで・・・これを解釈するに「おやふき」こと甚だしく、・・・日本と朝鮮(韓国)の「まじわり、つらなり」具合で世界の運命は「あやふき」ものであるし、小さくは地球じゃなく野球のはなしで、阪神、虎と中日、龍蛇がまじわりつらなっているという意味であらう。
ところで、憲さんに荻原さんから聞いたというのを聞いていたが、まぐま創刊号に「哲学者のいない国」という本が紹介されていて、最後の方で荻原さんは、ニーチェの研究者もしてきた電通大の西尾幹二さんが「神の死」などキリスト教の土壌に育ったわけではないので、そういう考えがわからないという告白していることに敬意を表するとしていますが、僕はこの前の西尾さんが会長を務める「新しい教科書をつくる会」の名古屋シンポジウムに参加してきました。
自分で進んで行ったわけではなく、日本世論の会の美人の女の人に頼まれたので、無節操に思われるかもしれませんがまあ行って来ました。日本世論の会は生長の家の人の紹介で入りましたが、ついでに言うと僕は昭和天皇崇敬会というのも入っていて、何で入ったかというと一つは、豊田自動車の豊田英二さんが理事もなされているので、仕事上入るのが得策だと思ったからです。日本世論の会は月一で会合があり、月刊誌に元左翼の女性が左翼の悪口を言っているような記事が載っていたものですから、なんとか挽回したいというような気持ちもあり、会合に参加したことがあります。その場合スパイのように思われては難だと思って、ある意味で私はスパイですが、・・・会合に参加する前にあらかじめ、「私は元チュウ組織の人間で、無理に反対意見を言うつもりはありませんが、むしろ会の趣旨と反対の意見を持っているがそれでも参加してよろしいか」云々したら「この会は開かれた会だからどなたがこられてもかまわない」と言われたので参加しました。ついでにいうと僕赤旗を購入するときも、やっぱり隠れてスパイ行為をしているとおもわれるのはいやなので、わたしの政治的、宗教的経歴をはなしました。面白いことに、日本世論の会の会合に参加したら九十歳だったかなあ元?社会党協会派の闘士がおってその老師が「許されればマルクス主義のはなしをさせてもらいたい」というような場面もありました。しかしながら、日本世論の会経由でいろんな右系の会合に参加することになるけど、そのいちいちの会合にたいして、わたしは元これこれで、むしろ反対の意見云々問いだしてから参加するというふうにはいかなくなります。
まあ、そういうようなことで、無節操にそういう会に参加していけば当然そういう事態は起こったわけでしょう。小林よしのりさんを主賓とするシンポジウムに参加したときに、もうそういうふうになっているというかその前日に生長の家豊橋道場の宿直になっていまして、ちょうど小林よしのりさんの「戦争論」をめぐる「朝までテレビ」やっていたんです。見るつもりなかったけど眠られずに結局朝までみちゃった。いままで「朝まで」ちょっと見たことはあっても朝までみたのは初めてです。濤川栄太というひとも初めて知りました。
そういう事態というのは、そのことを質疑応答の時間に最初に謝罪しましたが、小林よしのりさんと濤川栄太さんの講演中に話を遮って発言してしまいした。濤川栄太さんは、ええっ私は間違いとは言い切れないとも思いますが、マルクスが世界を全部壊した諸悪の根元だなんていうから、「全然反論できないけど、僕はマルクス主義だということを言っておく」と叫びました。
後の囲む会に申し込んでありましたが、みんなまだ集まらないうちに別の会場で始まるのを待ちながら、わざわざ冷やかしたり、ケチつけでいる必要ないなあ。帰いろうかなあと考えていると、私に話し掛けてくるひとがおりました。その人はある大学の経営学だかの教授でしたが、簡単にいうとその方は天皇は認めるけど崇拝しない民族主義者、天皇抜きの民族主義者だというような立場を言われました。それで小林よしのりさんが日本が天皇を中心にぬうっと自然にできたなんていうことを言ったのでたまらず発言したわけですが、わたしは間違ったことをしなかったと思い直し、大人しくしていましたが、最後までいて、小林よしのりさんに僕の名刺をお渡ししました。
だがしかしというか、そこでっていうか、「・・・論」がその問題で息詰まってしまったとも言えるようにおもいますが、 新時代二十四号の私の文の最後で引用し、また社会文化研究の谷先生の論文の最初に引用しているマルクスの「経済学批判序説」の内容
けれども困難は、ギリシアの芸術や叙事詩が特定の社会発展形態と結びついていることを理解する点にあるのではない。困難はそれらのものがわれわれにたいしてなお芸術的な愉しみをあたえ、しかもある点では規範として、到達できない模範として妥当するということを理解する点にある。
ということを言っていて、シュタイナーもまた「現代の教育の教育はどうあるべきか」の中で言っていることは同じ意見だとおもわれる。マルクスの言う「特定の社会発展形態と結びついている」と言う事柄に関連すると思いますが、シュタイナーはギリシャの芸術的教育方法は最高の理想、模範であるが、それは奴隷制の前提があって初めて出来うることだったし、またその他の要因から、そのギリシャの理想的、模範的教育というのは現在おこなうことは不可能なのだという趣旨のことを言っています。
そこで・・まあ、今日は寝ます。
六月二十一日(月)。昨日試験があって、この一週間消防法危険人物取扱者の試験のための勉強に集中していたので原稿には手がつけられなかったですけど、締め切りまで、一週間ぐらいしかないし、スケッチにしても喩えたシャガールに「なにしやがーる」と怒られる代物でしかないですけど、まぐまに載せて戴かないと私の人生そのものが息詰まってしまいそうなので、ええ、しかも二十ページになんとか納めなければならないから、箇条書きみたいになってもなんとかやっつけることにします。
まず、「荻原さんが可哀想だから」ということですが、僕は高卒だから大学の事情ってわからんけど、中沢新一さんが東京大学に残れなかったとか、西部邁さんも東大をやめたけど、そのへんのいきさつ事情についての記事も読んだことないので、全然わからないけどなんとなく理解しています。象牙の塔なんて言葉があるのか、田中一生さんの文章を読んで、その辺のこと少し理解しているのかもしれない。そういう事情?があるし、日本の思想界とでも言おうか、亜流であったり、もっと小ぶりであればそういう余地もあろうが、勢力配置が固まっちゃっていて荻原さんのような地殻変動を起こしかねないものを迎え入れる余地はどこにもないというわけで、別に進んでなったのでなくしかたなく高校の教師になって、新時代、まぐまの仲間に入れて貰っているのかもしれないと思った。
というのは?、相手がいないわけでせう。例えばまぐま創刊号に「日本的、あまりに日本的―竹田青嗣感傷的批判」というのを竹田青嗣さんは読んでいるのですかねえ。竹田青嗣さんに献本すれば読んでもらえるだろうけど、おそらくそういうことはしない、出来ない気がします。ええっ、それが日本的なのですかねえ。私もいろんなところに「僕のホームぺージ面白いですよ見て下さい」というようなメールを書いてみようかと思いましたが、なんか違うなあと思いましたし、木村さんにホームページのアドレスをお聞きしたときに是非見てくださいとか言われないで「興味がありましたら」でしたけど、韓国人だと「是非見てください」となることが多いかもしれんかなあ。まあだから直接本を送ることは出来ないけど、ほいじゃあ、なんかある人脈を通して間接的に竹田青嗣さんとかまた、たとえば新時代二十二号なんかでは井出洋一郎さんなんかを少し「批判」しているけど、人脈をとおしてこの井出さんなんかにも荻原さんの文章が目に触れられるなんて関係があるのでせうか。小山さんは「まぐま」をメジャーにすると言っていまして、そうなれば「なにをしているのかわからない」という不満にも少しは光が射してくるかもしれないけど、相手がいないわけでせう。であるからして田中さんなら「石を置っていってもせいぜい四つまで、十も二十も先に置かしてもらって、なんかそいで碁をやる、そんな子供と大人みたいな勝負馬鹿らしくてできるか」っていうのを、また憲さんなんか陰で悪口言って逃げているのを、まともに相手にされない、かまってくれないじゃああんまり荻原さんが可哀想だということで、私が猫だすけならぬ人助けを買って出たわけです。
ラエリアン・ムーブメントの豊川の加藤さんに、・・ええっ、わたしは日本(神話)のこともよく知らないけど、ギリシャ(神話)のことなんか全然しらない。だけど今から勉強するなんてできないんだけど・・・マルクスもシュタイナーもギリシャが理想だといっていて、・・しかし日本の今の支配的な神が別の神を封じ込めているという問題がって、模範にできないということがあるのかもしれないけど、ギリシャのことはしらないけど、そんなことどこだって同じだらあ。・・・・
それに対して、加藤さんはゼウスとかギリシャの神々というのはエロヒム(宇宙人)のことで、人間の女が美しいのを見て、そいでSEXしたんです。・・・というような答えが返ってきました。
エロヒムだかアヌナンキだか知らないけど、この神だか宇宙人が物質次元、遺伝子(工学)レベルでわれわれ地球人を造ったのじゃないかと僕も思います。今度加藤さんに、廣松さんの「事的世界観への前哨」の最後に載っている「人間論へのプロレゴーメナ」というののコピーを持っていってやろうと思うんだけど、・・廣松さんが輪廻転生というのを認めているのじゃなくて肯定も否定もせずにやっぱり共同主観とやらに話をもっていってしまうのですが、加藤さんがラエリアンが輪廻転生が絶対的に否定するもんですから、この「人間論へ」が説得力あるので加藤さんに見せようと思うんだけど、・・ええとねえ、生長の家からでているH・J・ジトコという人が書いている「新世界のビジョン」の本の中に、ルシュフェルというのは天使の中の労働者階級だなんて書いてありましてね。この前加藤さんに誘われたラエリアンのUFOのビデオを見る集まりの時に、だからそういうわけで?、確かにエロヒムとかアヌナンキというのは遺伝子(物質)レベルで人間に関わっているかもしれないけど、そういう神はいわば一番下の神で、別にというか共同でというか魂、霊的レベルで関わる神、宇宙人もいますという話をしたら、少し納得してくれました。
「デモとエビ」の冒頭でマルクスは「ギリシャ哲学には、すぐれた悲劇にはおこってはならないこと、すなわち生彩のない結末が、おこっているようにみえる。」と言っていますが、日本では出雲=大本=出口=菊地が表面的には封じ込められたように、西欧ではアリストテレス型のがアラビアでイオニア系に近いものに変容されるという回り道をしてデカルトの機械論的自然観として復活するけど、ギリシャの出雲=ユダヤともいうべきデモクリトスを親玉とするイオニオ学派は天孫族のプラトン系に封じ込められていたわけでせう。粗雑すぎるにもほどがある超粗雑過ぎますけど・・・日本の神道は道教の亜流のような見方がありますがさっきの「謎のカタカナム文明」によれば道教そのものが日本から中国に伝わったものだという。天皇陛下は朝鮮からきたのか中国からきたのかユダヤなのかどうかしらないけど・・・・・そいでまあ、西と東で結末のついてないことを日本でいっぺんに片づけちゃうということですよね。
しかしその場合、憲さんが言うには偉いからということでなくて、天皇というのを一旦は肯定しないかぎり、それを無くしてユートピアをつくれないということです。
紙面がないなあ、しかしなんとか裕太郎。
吉本さんの「重層的・・」と宮台さんの「終わりなき・・」が同じだというのはねえ。なんとなく和歌ってもらえるかもしれないけど、もう少し言うとさあ、宮台さんは廣松学徒なんですね。吉本さんも廣松さんも実践に深入りして殺人ゲームに巻き込まれなかったけど、其の負い目というのが反動として、吉本さんのオーム賛美、廣松さんの「大東亜共栄圏というのはそんなヒヨッコの」云々という死ぬ間際のむ過激発言になっている・・同じだなあ。
それから、「存在と時間」と「本居宣長」は同じだと思いました。
最後になりましたが、シュタイナーは聴講者に質問されるべくワザと間違えたそうですが、可笑しいから笑うというのは可笑しいと思います。本当は朝鮮人かもしれないけど日本人の元芸者の僕の三味線の大師匠が西欧のクラッシック音楽を聴いて端唄やら新内のことを引き合いに出して、的外れなことを言うことを笑う感覚とそれほど遠くない、同じだと思いました。
萬刷編集担当の小倉さん当てに添付した、それ自身にも誤植のあった走り書き
遅くなりましたが、よろしくお願いいたします。印刷しながら、ところどろろ読み返したら、誤植だらけだし、書き換えた方がよいと思われるところもいっぱいあった。一言でいえばデタラメだけど、マルクスと廣松渉とハイデガーと小林秀雄を滅茶苦茶くっつけたピカソのキュウビズムの絵と思えばいいさ。
インターネット(ホームページ)上での電脳新雑誌の構想について
.....................................佳和服裕太郎
まず、これらのことを巡る最近(この一、二ヶ月)の菜の花畑さんと僕との電子メールのやりとりの一部を再現させていただきます。一応お断りしておきますが、菜の花畑さんからのメールの内容を掲載することを彼に承諾を受けていません。わたしは今までもそんなこと一切お断りなしにわたし宛の私信など勝手に公開したりしていましたが、今日に限ってそんなことをなぜわざわざ断るのか、今のところうまく説明できませんが、まあ兎に角せういふことです。
最初村松さんから「お久しぶりです」という題で次のようなメールを戴いた。
超猿の村松です。(中略)
さて、本題。留守電にも入れましたが、以前河合さんが切 望されていた〈遠敷〉発行ですが、インターネットを利用し、 電子配布の形態でするのなら、河合さん主体で何かできそうです。
内容は、遠敷と言う意味からすると、「日本無名作家クラブ」的な新文芸追求をテーマにしたものなんかどうでしょう。 「日本無名作家クラブ」は関さんからやはり以前お話を受けたことがある企画です。過去には、文学の世界に新しい風を! ということで色々な文芸同人誌が発行され試行錯誤を通して鍛えられていった経緯がありますね。今回の「遠敷」にもそういう時代と切り結んで血で書く文学を思い描いたりしています。河合さんの現在の活動の都合も御座いましょうし、関さんの都合や考え方もあるでしょう。突進することは出来ませんが、多くの方の想いが感じられれば、私は電子物でぼちぼちと準備致しましょう。
真ん中に僕のメールが挟んでありますがこれも村松さんからのメールです。
佳和服裕太郎 さんは書きました:
> お手紙ありがとうございます。
> 憲さんと、僕と村松さんの話し合いでは、遠敷の編集長
> は村松さんだから村松さんがやっていけばいいわけです。
> だけど原稿ですよねえ。今書いているのを送らせていた
> だきます。(中略)
> それから、失礼ですけど、僕も載せていただくわけだか
> ら自分をも愚弄することですが、まぐまが本として紙の
> 雑誌として大部が、何千部という単位では売れる可能性
> ないですから、これも許可を得て遠敷に載させてもらえ
> たらいいなあと思います。
ご返事ありがとう御座います。
大きなことですので、お話や色々な状況を鑑みてしばらく検討したいと思います。
憲さんに「タカユキさんの深淵を覗こう」と言葉を添えられた、先号の萬刷の一面、菊地慧之さんの〈再び、リアリズム演技について〉を読んで、なんか一緒に載せてもらっている僕の「今日、七月七日、Canonのデジタルビデオカメラ「PV1」が届いていた」ってなんか自分で臭いなあと思いました。「クサいと感じる人がいったいどれ程居るか・・」わからないですけど。しかし、どういうシチュエーションか思い出せないですが、オバタリアンと言っていいかどうかわからないですが「臭い芝居ってのがいいのよねえ」というような科白を吐いた女性がいたことを思い出しました。せういふ意見もあるといふことですね。
発表を今か今かと待ち望まれている「・・・・論」(萬刷号外)、世秋さんにも若干手直しをしていただいたりして協力していただいていますが、あまりの壮大無比な内容ゆえにちょっくらちょいとは出来ませんでして、大きくはまぐま3号に掲載していただいている「・・・・論」の予備論とも云うべき「世秋恭之介様へ・・・萬刷号外出来具合経過報告?
」に引き続いて、前号の「・・七月七日・・」もある意味でそうですが、ここ萬刷紙上で「・・・・論」で展開したいと思っている問題意識など小出しにして発表させていただこうかと思いました。
まずはそうだねえ、こういった問題については今「・・・・論」で展開しはじめているのですが、し始めているところでもあるわけですから、こういった問題の「こういった」こと性格やら意味やらの内容も明らかになっていないわけですし、またさしあたってここでは、結果としてその性格づけなり意味づけなりが多少なりとも行われることになるやもしれませんが、さしあたっては意識的、目的意識的にはしないことにします。なんのことかって云いますと、例えばって言わせてもらいますと、例えば、前号の私の「・・七月七日・・」の決定的誤植の問題です。なんで決定的かといいますと、わたしは多少誤植があってもあんまり気にしないわけですが、このことは大袈裟でなく一個の思想問題だと思いますが、そういう私の考えについて快く思ってない人、誤っていると思っている人がいるとも思いますが、今回、そういった私のある種のいい加減さが決定的問題を引き起こしてしまったからです、というと大袈裟になりますが。客観的を「かつかんてき」と読むのか「きゃっかんてき」と読むのか話をしているときに「きゃっかんてき」と書くべきところを「きっかんてき」とか「きゃかんてき」と書いたら話にならんですよね。
ええっ、元より客観的に整理された書き方ができないので読者の方は読みづらいこともあると思いますが、しかし客観的なものは整理されてないもので整理するのは主観なのじゃないかという気がしないでもないです。したがって私の文章が整理されてなくて読みにくいのは主観的には出来るだけ客観的に書こうとしているからです。
これはやっぱり「ようようしゃ」って読むのかねえ、洋々社から荻原真さんの「小林秀雄とは誰か」が出版されました。いままで新時代、まぐまで書いていたものを少し手直ししているんだと思っていましたが、まあそうでもあるのでしょうが、・・・今しがた、なんとなく真ん中ぐらいを開いて、意味も理解しないままに10ページ程、飛ばし読みしたら、これは違うと思いました。少しじゃなくて全面的に手直ししているのかもしれませんが、なんか迫力が違うようにおもう。橋本治さん風にいえば「すげえ」なあと思って圧倒されました。少しぐらいクサしてやろうとも思いましたが、なんか非常に難しく思えました。しかし機会があれば力量もわきまえずなんか云ってやろうと思います。
荻原さんのことを今取り上げさせていただいたのは、私の文章のように誤字脱字がないのは、あまりに当然の以前的問題とはいえ、「独創的な試み」というのをどう理解したらいいのか、この「誰か」が客観的な書き方がされているのか主観的な書き方をされているのかということはわかりませんが、私の文章と比べてはなんですが超高度の哲学的思想的内容を整理尽くしてもの凄くわかりやすく書いてあるということが云いたかったからかなあ。
ええ、わたしと比べても全然面白くないだろうから、菊地さんが柄谷行人さんは凄いといっているから、まぐま創刊号で書きましたがその柄谷さんよりちょっと荻原さんのほうがちょっと優れている気がします。うむ腐すのは別の機会を見つけて、まず褒めておこう。なんでかって云ったら柄谷さんも凄いかもしれないけど、探求とか数冊持っているけど難しくて読みにくいのに対して、荻原さんのは読みやすいということです。
今113ページを開いていますが、書きましたがずっと読み進んだのではなくて、中程数十ページ意味も理解しないまま、・・・・うむ、28日、横須賀に赤阪君とダンスを見に行く途中、電車、バスの中で、あるいは9月5日のまぐまの合評会に行くとき高速バスのなかで読ましていただこうかな・・・・そういうわけで?たまたま見つけた?のですが、・・・取り上げたいのは括弧のついた「(やや難解な文章だが勘弁していただきたい)」という荻原さんの心遣いなんです。
そのところを含んだところを、まあ取りあえず引用させていただこう。
またハイデガーの高弟ガダマーも、フッサールとドイツ観念論者たちの近さ、とりわけ「主観的観念論」を説いたと言われるフィヒテやヘーゲルとの近さを説いている(やや難解 な文章だが勘弁していただきたい)。 (傍線は引用者)
〔フィヒテによれば〕理性の内的な生産によって、独断的な予断はすべて消し去られ、こうした先験的主 観の自己構成の結果、自己透明性の全体が見えてくる。驚くべきことだが、フィヒテやヘーゲルのこの要 求の何と近くに、フッサールの超越論的(先験的)現象学が立っている。
傍線を引かしていただきましたが、・・うむ、なんとか理解できた気がしますが、ハイデガーの高弟ガマダーの文章を引用するときにこういった断りをなされるのは、このことは前にも書かしていただいたけど荻原さんが自然にわかりやすい文章が書けてしまうのではなくて、もの凄く苦心努力して、読者にわかりやすい文章を書こうとなされていることのひとつの現れだと思います。ここまでの心遣い、それは力量の現れだと思いますが柄谷さんの文章にはないように思います。廣松渉さんにはそういう心遣いもあるように思いますが、「浅学菲才を愧じつつ」といいつつわざわざ超難しい漢字を使って超然とするようないやらしい心遣いもあるように思う。例えば「資本論の哲学」の序破章 端初的商品規定と価値実体 第一章 『資本論』の論理的出発点をめぐって ・・・・の最初はこうだ!
体系的な学問的叙述においては「端初」の設定が鍵鑰となる。(傍線は引用者)
「鍵鑰」は「けんやく」と読んで 「筒型のじょうまえ。(漢字源)鍵(カギ)と錠。錠前(ジヨウマエ)。(広辞苑)」ということだ、難しい漢字だからというわけでこれを単に「鍵」としたり「錠前」としたのでは、本質的には意味合いも違ってくるし、「漢語と独語の相互変容を活用して唯物史観哲学を論述していこう(山本哲士 ルイ・アルチュセールのプラチック論)」という廣松言語(哲学)であるからして、超然と格好つけるためにわざわざ難しい漢字を使っているとは言えないと思いますが、この辺の問題は、・・・・この辺の問題ってどの辺の問題かね、題はそういう話ですし、あとでインターネット(コンピューター)の話にも繋げていきたいと思っているんですよ。
まあだからこの「鍵鑰」というのはわざわざいやらしく難しい漢字を使っているわけではないとしてもいいだらうが、・・・42ページのここのところはどうであらう。問題の箇所に傍線を引かしてもらうが、なんとなくこの一段落を引用しちゃおう。
マルクスは、『初版』への序文のなかで「凡そ端初が六ヶ敷いということはどの学問の場合にも言えることである。第一章とりわけ商品の分析を含む節(つまり『再版』の章別で いえば「第一篇第一章」の部分)の理解は、それゆえ、最も六ヶ敷いことであろう。・・・・価値形態は甚だ無内容で単 純である。それにもかかわらず、人間精神は二千年以上も前 からそれを究明しようと努めて徒為に終わってきた・・・。 ブルジョア社会にとっては労働生産物の価値形態ないし商 品の価値形態こそが経済的細胞形態である。この分析は、教 養のない者には些細な詮索のようにみえる。実際、些細な詮 索には違いないが、しかし、それは顕微解剖がそうであるの と同断なのである。」と自ら書いている。
この「六ヶ敷い」はどうか、難しくて広辞苑にも出てないけどどんな教養からでてくるのだらう。恐らく「六ヶ敷い」=「難しい」だろうけど、なんのためにこんな六ヶ敷い字を使うのでせう。
またかたや、資本論の予備論?のようなものとして書かれた「経済学批判」の序言でマルクスは・・・・・・ええっ、
ざっと書き終えた一般的序説(経済学批判序説)を、わたくしはさしひかえることにする。というのは、よく考えてみ ると、これから証明していこうとする結論を先回りして述べ るようなことは何でも邪魔になるように思われるし、それに、いやしくもわたくしについてこようという読者は、個別的な ものから一般的なものへとよじのぼってゆく覚悟をきめなければならないからである。(傍線は引用者)
といい、最後にダンテの『神曲』を引用してこう結んでいる。
だが、科学(経済学)の入り口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。
ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ
臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ。
ぼくは、何年か前に資本論を読むことを富士山に登ることに喩えようとしました。今、車で五合目までは登れるのでしたか、それで、昔マルクスがこのように厳しくいったことを現在の偉い経済学者なんかが富士山麓オウム鳴くとオーム返しに言うとすると、なんていいますか、時代錯誤でナンセンスなことにも思えます。実際、未だ持ってわたしは地獄をよじ登?ろうという覚悟も計画も全く持ち合わしていませんからねえ。
荻原さんの文章の書き方というのはこういうマルクスの態度と違って、マルクスなら「本当の富士登山を満喫しようと思うなら、麓からだれの助けも借りずに自分の足で登っていかなければだめだ」というのに対して、「本来はそうかもしれないが、そうしたことは選ばれた少数の人にしかできないし、わたしはなるべく多くの人に富士山に登ってもらって同じ(ような)体験を共有させたいと思いまして、足があんまり丈夫でない(あんまり頭がよくない)人でも五合目までは車に載ってもらえますし、それからは自分の足で登らなければならないにしても私が登りやすいルートを案内してあげますよ」というような書き方に思える。
ううむ、今夜中の3時近くになりますけど、今日というか昨日(8月21日)というか、まぐま3号が届きました。小山さんありがとうございます。
早くインターネットの話に持っていきたいですけど、荻原さんの「小林秀雄とは誰か」から引用させてもらって内容と関連させて、わたしが「(ハイデガーの)「存在と時間」と(小林秀雄の)「本居宣長」は同じだ」と言ったことについて、まあ商品として同価値だと言いたかったんですけど、ちょっとだけ言ってみます。荻原さんみたいにこういった巨人を学問的に客観的に日本(文化)史、西欧(思想、哲学)史、世界思想史の中で位置づけるなんて到底出来ませんが、自分でもなんとなくは位置づけられるのじゃないかと思う。こういっても例によって滅茶苦茶な話で、ハイデガーの「存在と時間」は最初の20ページぐらい読んだだけだし、小林秀雄さんの「本居宣長」は下のうむ、108ページからか15ページくらい読んだだけで判断しているんですけどねえ。
あっ、そうそう、黒須克浩さんの「スタンリー・キューブリック監督追悼」を最初にもってきているのはいいなあと思いました。僕は「2001年宇宙の旅」を数年前にビデオでみたことがあるだけで、この監督の名前すら知りませんでしたが、格調高いっていうのかシビアーっていうのかちょっと言い方がわかりませんが非常にインパクトありました。
ええっ、またもどりますと?批判することはたやすいが、そうじゃなくて客観的に位置づけるだと言う風におっしゃっていますが、「小林秀雄とは誰か」を中程10ページほどぱらぱらとめくって、それからこんだの「ベルグソンと小林秀雄」というのを飛ばし読みした印象では、なんとなく荻原さん小林秀雄に対する評価が否定的なものから肯定的なものに少し変わってきているようにみえるけど、もしそうだとしてら、なんだって客観的なんてことは非常に難しいことということですねえ。
それでちょっと聞いてみたいですけど、たまたま開きました、岩波文庫の「存在と時間」(上)の20ページ、序説 存在の意味への問いの究明 第一章 存在の問いの必要、その問いの構造と優位 第一節 存在への問いを、はっきりと繰り返すことの必要 の「二」のところを開いていますが・・・・・
ええっ、さっきマルクスは「価値形態は甚だ無内容で単純である。それにもかかわらず、人間精神は二千年以上も前からそれを究明しようと努めて徒為に終わってきた・・・。」と言っていまして、「価値」じゃなくて「価値形態」というものをだいたい「意味」と同じような意味合いだと勝手に解釈すると、ハイデガーも存在するところのもの(商品?)ではなく「「存在」(そのもの)」の意味といっていいのかなあ、を問うことにあたって「「存在」は最も一般的な、同時に最も空しい概念である、といわれております。」と言っておりまして、・・・・本質的にそういった事情からして、「その根を古代の存在論自身のうちに」胚胎しているところの、改めて「存在するもの」ではないところの、まさに「存在」そのもの意味を問う必要なんかない蛇ないかという偏見をうち砕くために3つの論点で議論を進めていきたいといっていまして、「一」でええっ、ギリシャの発端のプラトンとかアリストテレスの存在論な系譜をヘーゲルが集大成的に「「最も普遍的な」概念である。」ところの「「存在」を「無規定的に直接なものと」正しく「規定」することによって、いわば、「存在」そのものの意味を問うことの意味の価値を否定しまった事?に対して、いわば殺してしまったことにたいして、それをなんとか生き返らそうとして?ということでの内要でせうか「二」のところをだいたいなんとなく引用させてもらおうと思うんですね。ひとつにはこの引用させてもらっているところの内容ってのは、「ちょっと聞いてみたい」ということなんですがね、さっき「誰か」から引用させてもらった、ええっ、ガダマーというのはハイデッガーの弟子だそうですが、ハイデッガーというのはフッサールの弟子なんですか、まあそういうことで?なんですか、今引用させてもらおうとおもっているところの内容ってのは、そのう、なんだあ・・・うむ、パソコンなら、マウスでドラッグして簡単にコピーできるからもう一回引用すると・・・
〔フィヒテによれば〕理性の内的な生産によって、独断的な予断はすべて消し去られ、こうした先験的主観の自己構成の結果、自己透明性の全体が見えてくる。驚くべきことだが、フィヒテやヘーゲルのこの要求の何と近くに、フッサールの超越論的(先験的)現象学が立っている。
というような内容とどういう関係にあるのかねえ。ということが聞きたいと思って引用させてもらうけど、もうひとつは・・・ああっ、引用してから言うことしやう。
二、「存在」という概念は、定義することができない。このことは、その概念の最高の普遍性から堆論されます。そして――定義は最も近い類と種差によつて作られるとすると――まさにそのとおりです。じっさい「存在」は、存在するものとしては捉えることができません。すなわち、〈存在には どんな性質も附け加えられない〉、存在には存在するものが 帰属する、というような仕方で、「存在」は規定されることはできません。定義を下そうとしても、存在は、もっと高い 槻念から導かれもしないし、またもっと低い概念でもって述べられもしません。しかしこのことから、「存在」がもはや どんな問題をも提供することができないとされるでしょうか。もってのほかです。帰するところはただ、「存在」は、存在するものといったようなものではない、ということです。 ですから或る限界内で承認されるところの存在するものの規 定づけの仕方――古代の存在論なかに成立の基礎をもっている伝統的論理学の「定義」――は、存在に通用できません。 存在が定義することができないということは、存在の意味への問いから免れているのではなくて.かえってこのような問いをまさに促しているのです。
だいたいここの内容からだけ、判断していおうしているから例によっておよそ学問的とか客観的とかからはかけ離れたトンデモな物言いになりますが、・・・ハイデッガーさんがいうところの「存在」が、「〈存在にはどんな性質も附け加えられない〉、存在には存在するものが帰属する、というような仕方で、「存在」は規定されることはできません。」 ・・・・・
うむ、僕は、今、意味を取り違えていたようだ、「存在」というものがどんな性質もないとしたら、存在じゃなくてむしろ「無」というべきじゃないかと思いましたが、「存在」にどんな性質もないといっているのではなくて「どんな性質も付け加えられない」といっているのですね。なんかこの場合「存在」というのを「事」という別の言葉に言い換えてよいような気がするし、その方がわかりやすい気がした。僕は数ヶ月前にこの「存在と時間」を初めて20ぺーじぐらいだけですけど、読ましていただいたときに、持った感想は、・・・・
「もの凄い明るい意識だなあ、これは光の性質についてああでもないこうでもないと言っている代物なんだなあ。日本の神さまはこんな明るい意識の光ではないなあ、ちょうど本居宣長や小林秀雄さんや「上古の人々」が「神に直に触れているという確かな感じ」を「心に抱いてい」るように、ハイデガーも西欧の光の神を直接みているんだなあ。ハイデガーというひとは体験のひとだという言われ方はしないだろうけど、やっぱりハイデガーだってそれを直接体験しているんであって、小林秀雄と同じだよ」なんて思ったわけです。
そして、このハイデガーの存在(=事)に対する思想というのは人類全体に通用するかと言ったら、そうじゃないと思います。むしろ存在=物というような見方のほうが通用している世界が多くあるし、日本人の意識は、西欧人みたいに純粋事的世界は味あえないし、物とか事とか考えずに、憲さんが精神を精神と言わず精神事物、物質を物質と言わず物質事物というように、物と事、事と物を切り離して考えるようなことをしないわけです。うむ、荻原さんなんか僕もそうだろうけど、それから新左翼的部類の人なんか日本人じゃないと思います。だいたいヨーロッパ人だったひとが生まれ変わっているのじゃないのかねえ、一つの理由としてだから、あんまり天皇陛下に親しみを感じないのだと思います。
ええっ、今のハイデガーの思想というものが必ずしも人類普遍の物言いとはならないということの関連と、木村秀章さんもビデオ映画をつくろうとされているようですけど、私もアメリカ映画に対抗して?なんかやりたいと思っているし、と言う関連と、それからなんかインターネットのこととも後で関連づけれるかもしれないと思って、なんか、なんとなく恣意的にいんようさせていただきます。
キューブリックは「ストリーのない映像」を創りたいとよく言っていたそうだが究極の映画とは正にそのようなものであろう。
(中略)人間存在ばかりでなく、自然の風景はそれと純粋に向き合えば向き合うほど(生活から切り離してみればみるほど)モノとして(あるいはコトとして)美しい。砂漠や海底の風景に何らかの人間的な「意味」を見出すのは困難である。 それはただあるものとしてそこにあり、シンプルに美しい。 こうした純粋性を表現するうえで、映画は格好の手段といえる。音楽、特に歌の場合どうしても言葉の制約から逃れられず、音階にしても長調・短調のとらえられかたは文化によって意味合いが違ってくる。例えばアフリカの原住民にとってモーツアルトのメロディーはノイズにすぎず、逆にアフリカ のパーカッツシブな部族音楽は現代の日本人にとつてどれも同じに聞こえる。映像こそがそうした意味で最も文化的な背 景を超え、より正確に作者の意図を伝えうるといえる。勿論、そこにも全く壁がないとはいえないが(アメリカの生活様式 をモデルとした現代社会において創られる映像には描ききれない、見落とされいる多くのものがある。インドや日本の映画に新たな発見をする欧米人が多いのだが)今現存するするメディアのなかでは映画が最も優れているのではないであろうか。
憲さんが僕の文章が割りと普通になってきたと言う風にいっていますが、今ちょっと気が付いたけど、日付入れたり時間いれたり、あんまりしないですむようになってきているみたいですね。このことにも関連するけど、また「こういった問題」とか、わたしが誤字脱字をあんまり気にしないという問題にも関わることちょっといってみよう。世秋がひとつひとつの言葉をもの凄く大切にすると言うことも、このこともコンピューターの問題と絡めて話したいわけですけど、さしあったってそういう立場?も非常にたいせつだということを私も理解しているということを取りあえず偉そうに言っとことにしますが、・・・・・なんていうか、一昔前だったら、・・・・いや、このワープロ、パソコンのおかげで文章が簡単に気軽にかけるようになったし、新時代、まぐま、超猿のような同人誌?も手軽に出来る、いや出来やすくなったのじゃないかと思います。いっぺんも編集したことがないから偉そうにいっちゃあいかんけど・・・・ああっ、「一昔前だったら」というのは、そういうわけで情報処理能力のようなものも格段に進化しているのかもしれないけど、情報そのものがまた凄く増えているわけでしょう。僕は若い子じゃないけど、若い子のデタラメ?なファションに照応しているのだと思うし、ええと、建物のそういうことにいつ頃気づいただったか忘れたし、なんかそれに関わるような話、それはどういう意味をもっているのだというような文章を読んだことはないんですけど、10年ぐらい前かねえ、そういうことに気が付いたのは、あっ、すいません「そういうこと」というのは、いろんなお店、歯医者さんなんかでもありましたが、いままでだったら、うむコンクリートの地肌をわざわさ見せるというのもあるなあ、・・・そうじゃなくていままでだったら絶対隠していたもの、建物の鉄骨を剥き出しにして、それをひとつの美として表すなんてことが、普通にあるようになっているじゃないですか、耳や鼻にあなをあけて、これは体の一部になっちゃてるなんていうけど、人間で言えば掌でもどこでもいいけど、そこの部分だけ、肉がなくてほねが剥き出しになっているとか、また、ホーラー映画を連想するけど、お腹をちょっと切り開いて、腸や胃が見える、それがファッションなんだ、まあそんなことは出来ないから、まあ、耳や鼻や唇に穴をあけてなんか付けて我慢するけど、文章というか、文体としてなら比喩的にはそういうことができる。私の誤字脱字なんて別にかまわないし、言葉の意味をなるべくいろんな理解をされないように正確な言葉の使い方を心がけるなんてのに全然エネルギーを傾けないというのはそんなところからきているのじゃないかなあ。うむ、「一昔前だったら」っていうのは僕だって、今のような時代に生まれなかったら、誤字脱字のないように極力きおつけただろうし、たとえば黒須さんのようなまともな文章書いていたと思う。「黒須さんもあなたと同じ時代に生きてもこういう文章がかけるのに、なぜあなたには出来ないの?」という疑問に対しては、取りあえず私の個別的事情があるんですと答えておこう。小山さんの編集後記の言葉をあえてお借りすればそれが「わたしの個性そのものなのだ」と言っておこう。
それから、もっと積極的にいわなくてならないのは、まあ、それは誤字脱字なんか気にしなくてもいいとか、わたしの文章みたいにラフなタッチの殴り書きのような書き方をしてもいいということではないですが、吉本さんが「重層的非決定」云々したり宮台さんが「終わりなき日常を生きる」なりしているように、氾濫する情報のなかで益々、正しい事を言うことがどんな能力がある人にとってもますます困難になりつつあるなかで、自分の守備範囲のことを間違いのないように完全な内容を発表することに努力するよりも、自分の解らないことでも、わからないなりに「なんとなく」自分の意見を述べるように努力して、解っている人にその部分を補って貰うことをできるような関係づくり、そういう共同主観とやらを創るように、・・・・教養というものも個人的なものと考えるのではなくて、やっぱりコンピューター社会に見合った、協同的なもの?・・・・そういう仲間はまた互いに敵であって仲間であるようなものでないと向上がないとも思いますが、・・・・・
インターネットの話をしようかな。僕、パソコン最初全面的に、菜の花畑さんに、まあ指導されたというか、・・・実際の話としては、別に僕が頼んだのではなく、反強制的に導入されたわけです。僕は別に逆らおうと思ったことはありませんし、最初から「佳和服さん、パソコンをやりなさい」「はい」と言う関係でして、一応ウィンドウスじゃなくてドスの段階から始まっています。今のパソコン神野さんに見習って自作なんですけど、「機械」の部分でいえば4代目かあ、ブラウン管は、ええっ、これは液晶じゃなくてブラウン管ですけど、前のデルのを使っています。前に2代目を買いたいって菜の花畑さんに相談したんですけど、原稿を書くだけなら、そして当時は全盛だった?ニフティのパソコン通信をやるだけならそれで間に合ったのですけど、どうしても、インターネットをやりたくなってしかし、インターネットやるのにはCPUが486なんとかいうやつかあ、それでは、それにいろいろなんかあんましよくないので、もっと新しいいいのを買いたいということで、日立のフローラというのを買いました。
そいで、肝腎なのはなんでインターネットをやりたくなったのかということですけど、しおりさんとの出会いなんです。しおりさんのこと書くとまた彼女に怒られるけど、もう彼女は萬刷購読してないというはなしですよね。
彼女、意識が宇宙大に広がってシリウスまで届いちゃうなんて、・・・・ああっ、俳句みたいなのに、そういうことよく書いていたですよねえ。ちょっと常識的には理解出来ないしシュタイナーの本なんかには人間が死ぬとそういう風に宇宙大に意識が広がるとか書いてあるようですが、わたしはそのまま真に受けて居るんです。それがインターネットとどう結びつくのかということですが、・・ちょっとこの本のいって、また小林秀雄さんのところにちょっと戻ろうと思います。つい最近、わたしはオカルトミーハーっていうのか「2013 シリウス革命」と言う本を三千二百円もするけど、題に惹かれてつい買ってしまいました。この著者の半田広宣というひとは僕と同い年、アウトサイダーが発表された年でもある1956年生まれですけど、・・・ええと、この本名前は「シリウス革命」になっているけど、シリウスじゃなくてオリオンのようなきがします。私はこの本で「トンデモ本」という言葉、概念を初めて知りまして、そして今日、まぐま3号の荻原さんの「ブックレヴュー」でその言葉に再び出会い、どうもこの言葉は一般に定着している言葉らしいし、もしかしたらわたしの文章などもそういう部類に入るものかもしれないと思ったしだいです。
そいで?、また吉本隆明さんの、「小林秀雄について」を通して間接的に得た知識なんですけど、吉本さんが小林秀雄さんのことを「いわば「自意識」という病を、深い必然として病んでいた」人だといわれて、、それから「かれがこの自意識という病をいちばん鮮明に暗喩しているのは、自意識の座である脳髄を、じぶんの身体の外に視覚的に視ているイメージによってであった。」と書かれて、あと小林さんの「一つの脳髄」というのから幾つか引用されているんですけど、・・・これは何年も前に考えたことなのですけど、このことから私の場合この今つかっているこのパソコンそのものがまた自分の脳であるという発想をしたわけなんです。私も菜の花畑さんもコンピュターというものを人間の道具だというな捉え方しないんです。電脳じゃなくて人脳も道具だというなら、それでもいいですけど、最初のパソコンをセッティングしてくれたあと、村松さんは「河合さんもこれで電脳化されました」なんていいかたしたよ。そして敷衍して、このインターネットで繋がったコンピューターは人類=地球の文字道理の脳(電脳)になって、最終的には本当にその全体が人類的自我の座となるんだという発想なんです。そしてそのことによって、物質の巨大な解放っていうか鉱物を初めとする物質のもの凄い進化を促すことになる・・・ということだけど、・・・・・・だけどねえ、それがさあ、ええっ、マイクロソフトのオフィース2000 新機能ガイドブックというの只だったからもらってきたけど、・・・うむ、一太郎のジャストシステムじゃ全然相手にならんくなってきたなあ、・・・ビル・ゲイツって個人資産をふたりの息子に数億円だけ残してあとは難病基金に寄付ってんでなかなか文句も少し言いにくくもなるけど、ビル・ゲイツ個人って言っても、昔ロックヘラーなんかやとったライバル企業をたたき潰すなんてやりかた、こんだビル・ゲイツに憑いてアメリカの11次元の神がやらせているんだとおもうけど、・・・このままインターネットもマイクロソフト=アメリカに独占されていいのか、・・・・日本国産のOS、TORNというのがある、この技術は知られてない、パソコン以外のいろんな電化製品のCPUなどに応用されているようだか、パソコン用のBTORNというのはいまのところ全くだめみたい。しかし、技術的なことは全然わからないけど、ええっ、漢字を使っている国が中国、台湾、ベトナム、韓国、日本かなあ、あって、同じ漢字でも、日本でも旧字体と新字体があるけど、ほとんど同じ字でも国によってほんの少しづつ違いがあるのですって、例えば尊敬の「尊」の字、日本では上のチョンチョンねえ日本では今は「A」だけどベトナムではたしか「ハ」って逆になるんだよね。昔は日本もベトナムと同じだったきがしますが、なんかアルファベットをベーシックにしたWindowsのようなOSだとなんか、そういう言葉の細かい違いを使い分けもるということが元々考えられてなくて、今のままwindowsの方向だと、中国なんか漢字を簡略化しちゃったけど、そんないくつかある漢字は、どれか一つにしてしまって、後は捨てちまいなさいと要求してくるわけです。ところがTORNの発想は、超分散化という思想もあるのだけど、設計段階から、そういう東洋の国ごとの漢字文化をそこなわないという観点から、その例えばこの漢字の国ごとの微妙な違いなんかも、全部扱えるようにかんがえられているだけではなく、バリアフリーなんて言葉が使われるようになって、障害者がパソコンを使えるようにマイクロソフトでもIBMでも、いろいろ考えているようだけど、TORNの場合、そもそもそういうことを福次的なことでなく、本質的な要素として発想されたということですが・・・・発想はすばらしいかもしれないけど、今のところ全然だめみたい。日本はアメリカの言いなりだけど、中国がマイクロソフトのなんていうか、世界戦略にそのまま飲み込まれちゃうということはないだろう。
8月7日、8日と両親と伊豆に旅行してきました。また帰ってきてすぐ、尾道、四国、九州島原への自動車大旅行をまた続けたのたけど、赤阪君が、カラオケ練習しておけっていうから、伊豆の雲見温泉に泊まったとき、「たまり」というスナック行ったんだよね。たつ家という民宿で、聞いたらフィリピンの人が居るってきいていったんだけと、一人は台湾、もう一人はシンガポールの中国人でした。あわび好きでしょうっていわれたけど、さざえ食べたからって断りましたが、・・・・そいで結論として中国だなあと思ったわけです。広島、尾道も中国ですけど、また旅を導いた空海もおじいさんは中国人だし、中国人から真言宗を教わったわけですよねえ。木村=松本さんの小説「阿波踊り」おもしろいですよねえ、ジャストシステムは四国=オーストラリアの徳島ですね。鎌田東二さんもそうだったなあ、それから新風の豊源太さんもそうか、ジャストシステムも中国語の教習ビデオ出しているねえ、買おうかなあ。一太郎10、花子10も買おうとおもうけど、ATOKだけなんとか優位をたもつているだけですよね、日本語のWORDだってだいたい日本人がてがけているのかもしれないけど、なんでかしらんけど裕太郎としては一太郎に頑張ってほしいわけだ、なんとか一太郎、TORN、加藤紘一、中国というのが繋がらんかなあ。
このインターネットとあの革命党、レーニン的組織論が結びつかないとだめだと思うけど、その場合、その組織論は、会議=SEXということが実現されていなければならず、精神的事物超大化運動がまきおこって、そのことによって、黒田寛一さんが「ヘーゲルとマルクス」のなかで提起している物質が意識へと転化されて解放されていくということ、宇宙的次元の闇が光に転化していくということだ。
佳和服カセットライブラリー?
今回、私は一つには私が、ユートピア=共産主義社会のイメージをどんな風に考えているのかということの理解に助けになるだろうということで、おそらく、この人に送っても、この内容は興味を持っていただけるだろうと僕が判断する人にたいして、VOICE系のイベントテープを回させてもらうことにしました。選ばれた人にたいしては萬刷を購読していないひともいますし改めてお手紙わさしあげようとおもいますが、この他に聞きたいと思う人がいれば、私のところに連絡下さい。
連絡先 〒442-0874愛知県豊川市松久町2-7-1 ├fax0533-84-8379 eメール fukuchan@pat.hi-ho.ne.jp
以下、テープの内容と対象者。 」
カセット録音テープ目録
1999/3/14 新しい次元に生きる ECTON&リチャード・ラビン テープ3本
1999/3/10 エクトン・レクチャー ECTON&リチャード・ラビン
テープ2本
1999/2/23 宇宙計画と魂の変化 スコット・マンデルカー
テープ2本
1994/9/1天河(神社)のプレアデス・コネクション リサ・ロイヤル
テープ1本
1994/8/28 ガイヤとつながる(ジャーメイン、マッコウ鯨他)
リサ・ロイヤル テープ4本
1993/8/24 ETと古代の日本 リサ・ロイヤル
テープ2本
1992/5/17 フューチャー・セックス・・・陰陽の統合 リサ・ロイヤル
テープ3本
1992/5/2 フューチャー・セックス・・・陰陽の統合 リサ・ロイヤル
テープ1本
送付者名簿 (略)