しかし、いかなる歴史観、いかなる解釈によろうとも、日本の責任が免除されるはずはない。韓半島の分断は、突き詰めれば日本の帝国主義侵略から始まったからだ。もし日本が韓半島を併合していなかったなら、韓国は「分断か否か」の岐路に立たされること自体なかった。日本の植民統治は類例のない厳しいものだった。35年間の植民支配を経る中で、統一された民族国家をつくる韓国の力は衰えていた。
日本に分断の直接的責任があるという史料は山ほど発掘されている。この問題を研究してきた 崔永浩(チェ・ヨンホ)ハワイ大学名誉教授は、米ソよりも日本の方に主な責任があると断言している。太平洋戦争末期、敗戦が目前に迫ったにもかかわらず、日本は天皇を守り韓半島の支配を継続するという妄想を抱いた。日本は、ソ連を仲裁者にして米国と講和しようとした。そのせいで光復(日本の植民地支配からの解放)が遅れ、ソ連の欺瞞(ぎまん)的「1週間参戦」につながったという。
既に敗色濃厚だった45年5月、日本の「最高戦争指導会議」は「(ソ連を動かし)戦争の終結に関し我(わが)方に有利なる仲介を為(な)さしむ」という決定を下した。戦争の勝利という目標は、既に随分前に放棄していた。日本の軍部内では、戦争に負けても天皇が君臨し続けられるようにする、いわゆる「国体護持」が最優先目標になっていた。さらにあきれるのは、決定文に「但し朝鮮は之(これ)を我方に留保する」ことという計画が明記されていた点だ。スターリンの支援を受けて天皇を守り、韓半島を「共栄圏」内にとどめておきたいというものだった。
これに、ソ連の利害が一致した。ソ連としては、時間を稼ぐ必要があった。ドイツと戦っていた戦力を極東に移動させるまで、日本の降伏をできる限り遅らせなければならなかった。スターリンは、日本の「仲裁者」提案を受託するふりをしつつ、時間を引き延ばした。そして、広島に原爆が投下された2日後、日本に宣戦を布告した。わずか1週間の戦争で、ソ連は北朝鮮地域を占領することができた。