明治から大正にかけ近代日本の礎を築いた2人の総理大臣松方正義と山本権兵衛。
この2人を先祖に持つ元アスリートがいます。
14歳の若さでフィギュアスケートに出場した八木沼純子さんです。
(2人)こんばんは。
現在は解説者キャスターとして活躍しています。
純子さんは著名な祖先を持ちながら家族の歴史について詳しく知りません。
番組では純子さんに代わり家族の歴史を追いました。
松方の…戦前エジプトを旅した外交官だった祖父。
立ち会った歴史的瞬間。
しかし…八木沼純子さんは初めて家族の歴史を知る事になります。
都内のホテル。
明治の宰相松方正義の子孫たちの親睦会が開かれました。
正義の91回目の命日に合わせての集まりです。
この会は正義の号「海東」にちなみ「海東会」と呼ばれています。
純子さんも幼い頃この会によく参加し親戚との交流を深めました。
松方正義には妻の他別の3人の女性との間に22人の子供がいました。
今では正義の子孫はおよそ600人にもなります。
まずは八木沼純子さんの母方の高祖父松方正義の人生からひもときます。
松方正義は1835年鹿児島の城下町に住む下級武士の四男として生まれました。
正義が生まれ育った屋敷跡は小さな公園として残されています。
正義は13歳の頃から藩校造士館に通い始めその秀才ぶりが評判になります。
しかしこのころ父が他界。
一家の生活は困窮します。
正義の幼少期について触れている一冊の書籍があります。
著者はハル・松方・ライシャワー。
八木沼純子さんの祖母米子のいとこでライシャワー元駐日アメリカ大使の妻です。
正義は周囲に支えられながら懸命に勉強を続けました。
正義18歳の夏浦賀沖にペリーが来航。
幕末の動乱が幕を開けます。
そんな中思わぬ事件が正義の大きな転機となります。
1862年薩摩藩主の父島津久光が江戸から京都の藩邸に帰る途中横浜生麦にさしかかります。
正義は駕籠脇として他の5人の藩士と共に護衛にあたっていました。
そこに馬に乗った4人のイギリス人が行列を割って進んできたのです。
藩士が斬りかかり1人を殺害してしまいます。
いわゆる…現在の松方家当主峰雄さん。
正義のひ孫に当たります。
生麦事件での正義の冷静な対応がその後の出世のきっかけになったといいます。
その後正義は長崎に派遣され軍艦や武器を買い付ける重要な任務に就きます。
正義が手に入れた武器は新政府軍の兵士たちに手渡され戊辰戦争の勝利に貢献したのです。
そして明治維新後。
正義は新政府の大蔵卿として財政面に手腕を発揮します。
日本銀行日銀の設立や金本位制の導入を実現しました。
そして明治24年と29年の二度内閣総理大臣に就任したのです。
昭和2年までここに正義の邸宅がありました。
当時東京で最も美しい屋敷の一つと言われ奇岩や池築山をめぐる小道が特徴でした。
正義は妻との間の11人の子供の他別の女性3人との間に生まれた11人の子供も引き取り一緒に育てました。
正義は全ての子供たちにできるかぎりの教育を受けさせます。
三男幸次郎は川崎造船所初代社長。
彼が世界各地で買い求めた美術品がいわゆる松方コレクション。
それを展示するために建設されたのが国立西洋美術館です。
四男正雄は大阪タイガース現在の阪神タイガース初代会長です。
そして末っ子の三郎はジャーナリストでもあり登山家。
昭和45年植村直己ら日本人によるエベレスト初登頂では登山隊の隊長を務めました。
更に正義は向学心に燃える優秀な若者を支援するため奨学金を設立しています。
正義が関わった奨学金の一つです。
鹿児島から上京してくる大学生に寮を提供し学費を援助しています。
去年ノーベル物理学賞を受賞した赤勇さんも奨学金をもらった一人です。
正義の七男乙彦。
八木沼純子さんの曽祖父です。
乙彦もまた最高の教育を受けています。
明治35年アメリカハーバード大学に留学。
後のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトと親交を結びます。
ルーズベルトは乙彦を親しみを込め「オト」と呼ぶ仲でした。
帰国後乙彦は日本石油常務次いで日本活動写真日活の社長に就任します。
そしてその乙彦が結婚した相手が松方家と同じ薩摩出身で海軍大臣を務めていた山本権兵衛の五女登美でした。
山本権兵衛は日露戦争勝利の立て役者として知られています。
東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜てきしたのも権兵衛でした。
その後大正2年と12年の二度内閣総理大臣に就任しています。
その二度目は関東大震災の翌日に就任。
復旧の陣頭指揮にあたりました。
乙彦は登美との間に4人の子供を授かりました。
その長女米子が八木沼純子さんの祖母です。
乙彦はアメリカから優秀な教師を呼び寄せ子供たちに英語を学ばせました。
米子はきょうだいの中でも特に語学の才能がありました。
やがて聖心女学院を卒業。
外交官に嫁ぐ事になります。
その相手こそ樺山資英。
当時28歳。
イギリス留学を経て外務省に入省したばかりでした。
資英に関しては多くの謎がありました。
鹿児島出身という事以外本籍地親戚がいるのかどうかも分かっていませんでした。
資英の長男英利さん。
八木沼純子さんの伯父です。
資英は一人息子で親戚づきあいがなかったため樺山家についての情報が途切れてしまいました。
戸籍を調べようにも資英が籍を置いていた品川区役所が昭和24年火災に遭い戸籍は消失していました。
そこで資英の父可也を調べる事にします。
実は可也は昭和初期鹿児島市長を務めていました。
手がかりを求めて鹿児島市役所に向かいます。
今も可也の写真が市長室に飾られているといいます。
可也は路面電車やバスなど交通網の整備に貢献したといいます。
しかし…。
ところがその後外務省で資英の人事記録が見つかりました。
それによって樺山家の本籍も分かったのです。
記録によると樺山家の本籍は鹿児島県薩摩郡藺牟田。
現在の…そこは山あいの小さな集落でした。
地元の人たちに樺山家について尋ねました。
役場の元職員で地域に詳しい人がいると聞き訪ねてみました。
(取材者)樺山可也って言います。
(取材者)えっあそうなんですか。
樺山家があった場所に案内してもらいました。
はいこちらですどうぞ。
そこは今ゲートボール場になっていました。
木陰に小さな石碑が建てられていました。
「誕生地西南の役軍医樺山健助小学校長武熊海軍少将元鹿児島市長可也」。
さまざまな取材から次第に樺山家の歴史が明らかになりました。
まずは純子さんの曽祖父樺山可也の人生を振り返ります。
樺山可也は明治9年医者の次男として生まれました。
ところが翌年父が西南戦争に西郷軍の軍医として出征。
戦死します。
可也は貧しい少年時代を送りました。
そんな暮らしの中で歯を食いしばって努力します。
「勉強すれば道は開ける」。
教科書を買う金がなかったため友達から借りて書き写し勉強しました。
可也は海軍兵学校を目指します。
授業料が免除され毎月手当も支給されるため競争率数十倍の難関でした。
その試験に見事合格。
その後大尉として迎えた日露戦争では巡洋艦に乗り込み日本海海戦を戦いました。
一人前の軍人になった可也。
妻を迎え一人息子資英を授かります。
後の純子さんの祖父です。
可也はその後戦艦「長門」の艦長連合艦隊参謀長などを歴任。
海軍少将にまで昇進しました。
そして昭和4年政界に転身。
鹿児島市長に就任したのです。
そんな父の下で育った資英も勉強熱心な子供でした。
おとなしい性格で体が小さかった事もあり軍人ではなく外交官になって国の役に立ちたいと考えます。
そのため東京帝国大学に進学。
資英の親友寺田一彦の娘…寺田一彦は国立防災科学技術センターの所長を務めました。
間もなく資英は松方米子とお見合いする事になります。
実は米子はそれまで何度も縁談を断っていました。
しかし資英のハンサムな顔だちと優しい雰囲気に一目でひかれます。
資英の長女東洋子さん。
昭和11年3月2人は結婚。
その翌月資英はロンドンの日本大使館勤務となります。
当時日本とイギリスの関係は極めて難しい局面にありました。
日本は満州事変をきっかけに英米との対立を強めていました。
一方でドイツイタリアいわゆる枢軸国と接近していきます。
大使は後の総理大臣吉田茂でした。
吉田の方針はイギリスとの関係を改善し戦争を回避する事でした。
外交史を研究する…当時の日本大使館が置かれた状況をこう分析します。
イギリスで重要な王室行事が行われます。
現在のエリザベス女王の父ジョージ6世の戴冠式です。
この時パレードの様子を日本向けにラジオで実況するという話が持ち上がります。
資英はその役に選ばれました。
当時の映像は残されていましたが残念ながら資英の音声は見つかりませんでした。
しかし新聞が資英の放送について伝えています。
昭和13年資英はローマの日本大使館勤務を命じられます。
イタリアは既にムッソリーニの独裁下にありました。
資英と米子はミケランジェロが設計したピア門から続くノメンターナ街道に面したアパートで暮らし始めます。
この年長男英利が生まれます。
資英が撮影した8ミリフィルムが残されていました。
撮影されたのは70年以上前。
長い年月を経てかなり傷んでいました。
フィルムの洗浄を試みます。
フィルムにはイギリスイタリアに滞在していたころの様子が収められていました。
資英は米子を同行して各地を回っています。
エジプトの映像もありました。
ピラミッドを登る資英が映っていました。
妊娠中か編み物をしたりおもちゃを試す米子。
そして生まれたばかりの英利を抱く2人。
このあと一家には波乱の日々が待ち構えていました。
昭和15年4月資英は帰国。
外務大臣松岡洋右の秘書官に抜てきされ日独伊三国軍事同盟締結のために働く事になりました。
今回の取材で資英の遺品の中からあるメモが見つかりました。
日付は昭和15年9月9日10日松岡大臣とドイツ公使の会談を記録したものです。
「極秘」のスタンプが押された文書は会談後にまとめられた正式な外務省の記録文書です。
「帝国は大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負う」。
松岡外交を研究する服部聡さん。
これらの文書について解説してもらいました。
昭和15年9月日独伊三国軍事同盟締結。
そして翌年太平洋戦争開戦。
資英はこの戦争の結末を予感していました。
当時駐日ドイツ大使館に勤務し資英と情報交換していた元ドイツ外交官エルヴィン・ヴィッケルトは著書の中で資英についてこう記しています。
終戦。
翌年かつての上司吉田茂が首相に就任。
資英は情報部報道課に配属されます。
家庭では長女東洋子も生まれ家族4人穏やかな生活を取り戻していました。
ところがその僅か1年後の事です。
腹部に激しい痛みを感じ診察を受けます。
告げられたのは末期の胃がんでした。
「残された時間を家族と過ごしたい」。
資英は自宅で闘病生活を始めます。
ベッドに横たわりながら当時8歳の英利と3歳の東洋子の姿に目を細めていました。
そして昭和22年3月39年の短い生涯を閉じたのです。
母米子は子供たちに悲しむ姿を見せなかったといいます。
米子は幼い2人の子供を育てていかなくてはなりません。
すぐに仕事を探します。
得意の英語を生かそうとファースト・ナショナル・シティバンク現在のシティバンクに就職します。
主にGHQの職員に支払われる小切手を現金に換金したり送金する業務を行っていました。
米子の18年後輩で仕事を教わりました。
米子の働きぶりは評判でした。
一家の大黒柱として働く米子。
東洋子さんは幼い頃のある大雪の日の出来事が忘れられません。
米子にはある願いがありました。
それは2人の子供に海外での生活を体験させる事。
昭和37年写真技師を目指す英利は「ドイツで働いてみないか」と誘われます。
しかし当時の月給は1万7,000円。
飛行機代すら払えませんでした。
その2年後デザインを学んでいた東洋子もイタリアへの留学を希望します。
この時米子はすぐに費用を用意し娘の留学を後押しします。
「子供たちを立派に育ててみせる」。
亡き夫資英との約束でした。
米子の友人。
やがて孫娘純子がフィギュアスケートを始めると米子は試合会場に駆けつけ声を枯らして応援しました。
昭和63年純子は14歳でカルガリーオリンピック代表に選ばれます。
そして本番。
米子はテレビに映る純子に精いっぱいの声援を送りました。
世界の大舞台で活躍する孫娘が誇らしくてなりませんでした。
もうう〜ん…。
八木沼純子さんの祖母米子さん。
外交官だった夫を亡くし女手一つで2人の子供を育て上げました。
銀行を退職したあともホテルのコンシェルジュとして69歳まで働き続けました。
そして孫娘純子さんのオリンピック出場を見届け平成7年82歳でこの世を去りました。
今回の取材中米子さんの遺品を整理していた英利さんが押し入れの奥から古い木箱を見つけました。
古い書類の下から出てきたのは母米子さんが英利さんと東洋子さんに宛てた手紙でした。
何これ?手紙には全く同じ内容が書かれていました。
それは父資英さんが幼い子供たちに残した言葉を母米子さんが書き残したものでした。
「二月二十八日亡くなられる二日前父上は祖母と母の居る病室にお前達二人を呼びよせられお前達二人の手をにぎって『お前達はあの写真のように仲よくして元気なよい子におなり』」。
「『これからはお前達の時代だから一生懸命働かなければいけない』と言われお前達二人の頭をかわるがわるなでられた。
年のいかないお前達のためやさしかった父上の最期の言葉をここに書いてお前達の為に残しておく」。
手紙には一枚の写真が添えられていました。
「父上最期の部屋にかけてあった」。
それは幼い東洋子さんを抱く英利さんの写真でした。
「お前達はあの写真のように仲よくして元気なよい子におなり」。
だけどまあ…八木沼純子さんの「ファミリーヒストリー」。
祖先から受け継いだ絆。
時代に翻弄されながらも強く生きてきた家族の姿がありました。
ありがとうございました。
エールを送られているようで…。
祖母からも祖先の皆さんからも「もっと頑張れ」っていうふうに。
2015/10/23(金) 14:05〜14:55
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「八木沼純子〜2人の総理大臣 激動の歳月〜」[字][再]
八木沼純子さんの先祖には、2人の総理大臣がいる。松方正義と山本権兵衛。さらに、祖父は戦時中、外交官として活躍した人物。吉田茂の部下だった。激動の歳月が明らかに。
詳細情報
番組内容
カルガリーオリンピック、フィギュアスケートに出場した八木沼純子さん。先祖に2人の総理大臣がいる。松方正義と山本権兵衛。明治から大正にかけ、近代日本の礎を築いた。そして祖父は、戦時中、外交官として活躍した。戦前の英国大使館勤務時代は、あの吉田茂の部下だった。さらに日独伊三国同盟など、歴史的瞬間にも立ち会っていた。しかし戦後、39歳の若さで亡くなる。激動の歴史に巻き込まれた家族の歳月が浮かび上がる。
出演者
【出演】八木沼純子,【語り】谷原章介
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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